第二巻 新法 第三回 取り付けの恐怖
永豊櫃坊は、開封の東角子門の近く、汴河の荷揚げ場から歩いて百歩ほどのところにあった。
開封府の記録によれば、店を開いたのは、潰れる二十年前。はじめは、荷揚げ場の商人たちから銭を預かり、預り証を渡すだけの、小さな櫃坊だった。預かった銭は、店の奥の蔵に納め、預り証を持ってくれば、いつでも同じ額の銭を返した。
十年ほど経つうちに、預かる銭が増えた。
永豊櫃坊の主は、蔵に眠っている銭の一部を、貸し始めた。荷揚げ場で倉庫を建てたい商人に。汴河を上り下りする船を新しく造りたい船主に。預けた者たちが一度に全部を引き出しに来ることはない。蔵の銭の三割も残しておけば、日々の引き出しには十分に足りた。
貸した銭には、利がついた。永豊櫃坊は、大きくなった。
潰れたのは、ある年の秋だった。
記録には、その日のことが、開封府の吏員の筆で、淡々と記されていた。
永豊櫃坊が金を貸していた船主の船が一艘、淮河で沈んだ。その噂が、荷揚げ場に広まった。噂は、翌日には「永豊櫃坊が貸していた船が、全部沈んだ」になり、翌々日には「永豊櫃坊が潰れるらしい」になった。
三日目の朝、永豊櫃坊の店先に、預り証を握った人々が並んだ。
修平は、そこで記録から目を上げた。
◇
「私は、その列を見ておりました」
高元亨は、茶碗を両手で包んだまま、言った。
開封の両替商の主人だった。六十に近い。李徳彰が殿試の答案について意見を聞いた四人の一人で、自分の帳場ではこれに近いことを毎日やっていると言った男だった。
修平の詰所に、その日は五人が集まっていた。修平、鄭仲謙、蔣守拙、戸部の員外郎が一人。そして高元亨。葉正言は、昼過ぎに顔を出すと言っていた。
「私の店は、永豊の三軒先でございました」
高元亨は、茶を一口飲んだ。
「朝から、列が伸びていきました。昼には、角を曲がって、荷揚げ場まで届いておりました。永豊の主は、店先に出てきて、大声で言いました。うちには、金はある。倉庫にも、船にも、貸してある。沈んだのは一艘だけだ。皆が慌てることはない、と」
「それは、本当だったのですか」
修平は、聞いた。
「本当でございました」
高元亨は、頷いた。
「沈んだのは一艘だけ。永豊の貸付は、倉庫にも、船にも、荷揚げ場の商人にも、あちこちに分けてございました。一艘沈んだくらいで潰れる櫃坊ではございませんでした」
「では、なぜ」
「蔵に、銭がなかったのでございます」
高元亨は、茶碗を置いた。
「永豊の蔵には、預かった銭の三割ほどしか残っておりませんでした。残りの七割は、倉庫と船に化けておりました。倉庫は、荷揚げ場に建っております。船は、汴河を上り下りしております。どちらも、値打ちはございます。けれど、今日、店先に並んだ者に渡せるのは、蔵の中の銭だけでございます」
高元亨は、指を三本立てた。
「三割の銭で、十割の預り証を返すことは、できません」
◇
「永豊の主は、どうしたのですか」
「倉庫と船を、売ろうといたしました」
高元亨は、苦笑した。
「倉庫を建てた商人たちに、貸した銭を今すぐ返せと迫りました。返せなければ、倉庫を差し押さえると。船主にも、同じことを。けれど、商人たちも、船主も、手元に銭はございません。倉庫を建てるために借りたのですから。建てた倉庫を売らねば、返せません」
「売れたのですか」
「売れました。半値で」
高元亨の声が、少し低くなった。
「永豊が潰れそうだという噂は、開封中に広まっておりました。永豊が倉庫と船を売りに出していることも。買う側は、足元を見ます。今日売らねば潰れる者から買うのですから、安く買えるだけ安く買う。それに、同じ時期に、永豊と取引のあった他の櫃坊も、慌てて貸付を引き上げ始めておりました。荷揚げ場の倉庫が、一度に何軒も売りに出されました。買い手は、少ない。売り手は、多い。値は、崩れました」
鄭仲謙が、腕を組んだ。
「それで、永豊は」
「倉庫と船を半値で売って、それでも預り証の半分も返せませんでした」
高元亨は、静かに言った。
「はじめは、値打ちのある倉庫と船を持っていた。潰れるような櫃坊ではなかった。それが、慌てて半値で売ったために、本当に、預かった銭を返せない櫃坊になってしまったのでございます。——永豊の主は、その年の冬に、首を括りました」
詰所の中が、静まり返った。
蔣守拙が、小さく念仏のようなものを唱えた。
「それだけでは、ございません」
高元亨は、続けた。
「永豊が潰れた翌日、同じ荷揚げ場の、別の櫃坊の前にも、列ができました。その櫃坊には、何の噂もございませんでした。けれど、永豊が潰れたのを見た者たちが、自分の預けた櫃坊も危ないのではないかと思ったのでございます。その櫃坊も、三日持ちませんでした」
「その次は」
「その次は、私の店でございました」
高元亨は、微笑んだ。
「私の店は、両替が主で、貸付は少のうございました。蔵に、銭がございました。三日間、並んだ者全員に、銭を返しました。四日目には、列は消えました。——ですが、あの三日間、私は、一睡もいたしませんでした」
◇
修平は、机の上に、紙を一枚置いた。
「永豊櫃坊の帳簿を、書いてみます」
修平は、紙の真ん中に縦の線を引いた。左に「持ち物」、右に「負い目」と書いた。
「永豊櫃坊が、荷揚げ場の商人に、倉庫を建てる銭として百貫を貸したとします」
左の欄に、「倉庫貸付 百貫」と書いた。
「その百貫は、どうやって貸したか。もし、商人がそのまま永豊に口を持っていて、永豊の帳簿の上で、商人の預りを百貫増やしたなら」
右の欄に、「商人の預り 百貫」と書いた。
「永豊は、蔵の銭を一枚も動かさずに、百貫を貸したことになります。商人は、この預り百貫を使って、大工に払い、材木屋に払う。大工や材木屋が同じ永豊に口を持っていれば、永豊の帳簿の上で、預りの持ち主が変わるだけです」
鄭仲謙が、頷いた。
「それは、答案にもあった話だな」
「ただ、大工が、永豊ではなく隣の櫃坊に口を持っていたら、どうなるか」
修平は、紙の横に、もう一つ小さな枠を描いた。
「商人が大工に払う百貫は、永豊の帳簿の中だけでは済みません。永豊は、隣の櫃坊へ、本物の銭を送らねばならない。蔵の銭が、そこで減ります。——ですから、行は、帳簿に書くだけで、いくらでも貸せるわけではありません。蔵の銭がどれだけあるか。損を受け止める元手がどれだけあるか。そもそも、借りたいと言う者がどれだけいるか。それが、貸せる額の枷になります」
高元亨が、首を傾げた。
「永豊は、預りを帳簿で作って貸していたのではございません。蔵に預かった銭を、そのまま倉庫の商人に渡しておりました」
「はい。帳簿の形は、少し違います。けれど、預かった銭を長く貸した、という形は同じです。預りを帳簿で作って貸しても、預かった銭を又貸ししても、今日返さねばならない負い目と、何年もかけて返ってくる持ち物との、時間のずれは同じように生まれます」
「ここまでは、平時の話です」
修平は、紙の左の欄を指した。
「ここで大事なのは、永豊は、何もないところから富を作ったわけではない、ということです。永豊の持ち物の側には、倉庫貸付百貫が立っています。商人には、それを返す義務があります。そして、その百貫で、荷揚げ場に倉庫が一つ建ちました。倉庫は、実際にそこにあります」
「倉庫は、商人の持ち物だがな」
「その通りです」
修平は、紙の横に、もう一つ小さな表を描いた。商人の帳簿だった。
「商人の側には、倉庫という、長く使える持ち物が立ちます。けれど、永豊の側に立っているのは、倉庫そのものではありません。倉庫を建てた商人が、何年もかけて返すはずの、百貫の貸付です。倉庫にも値打ちがある。貸付にも値打ちがある。けれど、どちらも、今日、銭に換えられるものではありません」
修平は、右の欄の「商人の預り」を指で叩いた。
「一方、こちらはどうか。預りは、持ち主が求めれば、今日、返さねばならないものです」
修平は、紙の上で、左と右を交互に指した。
「持ち物の側には、何年もかけて返ってくる貸付が並んでいる。負い目の側には、今日返せと言われれば今日返さねばならない預りが並んでいる。この、時間のずれ。それが、櫃坊や銀行というものの、いちばん奥にある形です」
◇
「銀行は、時間を変換します」
修平は、言った。
「今日集めた、いつ引き出されるか分からない短い銭を、倉庫や船のように、五年、十年と使われる長い銭へ変える。だから、倉庫が建ち、船が造られる。この国の商いが大きくなる。平時なら、それで何も問題はありません。預けた者が全員、同じ日に引き出しに来ることはないのですから」
修平は、高元亨の方を見た。
「ですが、噂が立ち、皆が同じ日に店先へ並んだら」
「永豊の、あの日でございますな」
「はい」
修平は、紙の右の欄と左の欄を、交互に指した。
「銀行に資産がないのではありません。あるのです。倉庫の貸付も、船の貸付も。ただし、今日返せと言われても、今日現金にはできない」
修平は、永豊の記録を持ち上げた。
「工房はあります。倉庫も船もあります。銀行にはその貸付の証文がある。ですが預けた者が欲しいのは、五年後の返済ではなく今日の現金です」
詰所の中の誰も、何も言わなかった。
しばらくして、戸部の員外郎が、口を開いた。
「ならば、倉庫や船を売らせればよいのでは。値打ちがあるのなら」
「永豊の主は、そうしました」
修平は、高元亨を見た。
「半値でしか、売れませんでした」
「一軒の櫃坊が売るなら、まだよいのでございます」
高元亨が、言葉を継いだ。
「けれど、噂が立っている時には、他の櫃坊も同時に売りに出します。皆が同じ日に、同じものを売ろうとすれば、買い手がおりません。値が崩れます」
「投げ売り、と私の国では呼んでいました」
修平は、言った。
「火事場で、焼け残った品を叩き売るようなものです。本当は値打ちのあるものを、急いで現金にするために、安値で手放す。そして、その安値が、他の銀行が持っている同じような資産の値打ちまで引き下げる。はじめは、今日の銭が足りないだけだった銀行が、叩き売ったせいで、本当に、預りを返せないほど財産を失ってしまう」
「永豊が、まさにそれでございました」
高元亨が、静かに言った。
「そして、一軒が倒れれば、隣の銀行の前にも人が並びます」
修平は、続けた。
「隣の銀行は、何の問題もないかもしれない。けれど、預けた者は、隣の銀行の帳簿の中身を知りません。知らない以上、並ぶしかない。並ばなかった者だけが損をするかもしれないのですから。そうして、取り付けは、銀行から銀行へ、連なっていきます」
「そうなると、どうなる」
鄭仲謙が、聞いた。
「銀行は、身を守るために、新しく貸すのをやめます。貸していた銭も、取り立て始めます。すると、銀行から銭を借りて商いをしていた商人が、困ります。倉庫の工事が止まり、船の造りかけが放り出され、そこで働いていた大工や人足が、仕事を失います。仕事を失った者は、物を買わなくなります。物が売れなければ、別の商人が困ります」
修平は、紙の余白に、小さく円を描いた。矢印を、円く並べた。
「銀行の中の話が、銀行の外の、国中の商いの話になるのです」
◇
鄭仲謙が、腕を組んだまま、しばらく考えていた。
「林詳定。先日、私が口にした案を、もう一度言ってもよいか」
「どうぞ」
「預りは、全額、蔵に銭で置いておかせればよい」
鄭仲謙は、紙の右の欄を指した。
「預り百貫なら、蔵に銭百貫。貸すのは、預りとは別の、銀行自身の銭か、長く預けてもよいと約束した者の銭だけにする。そうすれば、皆が同じ日に並んでも、全員に返せる。取り付けは、起きようがない」
「その通りです」
修平は、頷いた。
先日、鄭仲謙がこの案を口にしたとき、修平は、その場では答えを保留した。考えるべきことがあったからだ。
「預りを全額、銭で蔵に置いておけば、この形の取り付けには強くなります。それは、認めねばなりません」
「では、なぜ、そうせぬ」
「そうしてもよいのです。ただ、そうすると、別の問題が出てきます」
修平は、紙の左の欄を指した。
「倉庫や船に貸す銭を、誰かがどこかで出さねばなりません。鄭郎中の案では、それは、長く預けてもよいと約束した者の銭になる。それなら、その者たちは、五年、十年、銭を引き出せないことを承知で預けることになります。そういう者が、十分にいればよい。けれど、足りなければ、倉庫も船も建たなくなる」
鄭仲謙が、眉を寄せた。
「それに、長く預けると約束した者も、いざとなれば、約束を破ってでも引き出したくなります。あるいは、その約束の証文を、誰かに売って銭に換えたくなる。その証文を買い取る者が現れれば、その者のところに、また同じ時間のずれが生まれます」
「ずれは、消えぬということか」
「消えません。場所が、移るだけです」
修平は、言った。
「短い銭を長い銭に変えるという仕事は、誰かがやらねばならない。それをやる限り、時間のずれは、どこかに残ります。預りを全額銭で置いておく銀行を作っても、その仕事は、別の櫃坊か、別の商人か、別の証文の市場へ移るだけです」
◇
葉正言が詰所に入ってきたのは、そのときだった。
尚書が戸口に立つと、員外郎が慌てて立ち上がった。葉正言は、手でそれを制し、空いている椅子に座った。机の上の紙を、一瞥した。
「続けよ」
修平は、頷いた。
「では、取り付けが起こり得るから、銀行を禁じるべきか」
修平は、紙の上の円を、指でなぞった。
「私は、そうは考えません。銀行が危険なのは、銀行が長い銭を生み出せるのと、同じ仕組みから来ています。危険だけを取り除こうとして、仕組みそのものを禁じれば、倉庫も船も建たなくなります」
「では、どうする」
葉正言が、聞いた。
「永豊の帳簿を、もう一度見てください」
修平は、開封府の記録を開いた。
「永豊は、潰れるような櫃坊ではなかった。高主人がそう仰いました。貸付は健全だった。倉庫も船も、値打ちがあった。足りなかったのは、今日の銭だけです」
「そうだ」
「では、あの日、もし誰かが、永豊の倉庫の貸付の証文を担保に取って、今日の銭を貸してくれていたら」
高元亨が、顔を上げた。
「永豊は、並んだ者全員に銭を返せたでしょう。倉庫を半値で叩き売る必要もなかった。並んだ者たちは、銭が返ってくるのを見て、安心して帰ったでしょう。隣の櫃坊の前に列ができることも、なかったかもしれません」
修平は、紙の真ん中に、あの丸を描いた。一月前、自分の詰所で描いたのと同じ丸だった。
「銀行を束ねる銀行が、それをするのです」
葉正言は、何も言わなかった。
「健全な銀行が、一時的に今日の銭に窮したとき。その銀行が持っている確かな資産——値打ちの確かな貸付の証文や、確かな商人の手形——を担保に取って、必要なだけ、今日の銭を貸す。ただし、利は、平時よりも高くする」
「なぜ、高くする」
「安い利で貸せば、銀行は、平時から蔵の銭を減らし、困ったら束ねる銀行から借りればよいと考えるようになるからです。高い利を払ってでも借りたい、という時にだけ、借りに来るようにする。そして、担保を取るのは、束ねる銀行自身が損をしないためです」
「潰れるべき銀行も、それで救うのか」
葉正言の声が、少し鋭くなった。
「救いません」
修平は、はっきりと言った。
「ここが、いちばん大事なところです。今日の銭が足りない銀行と、そもそも財産が足りない銀行は、違います。永豊は、財産はあった。銭がなかった。そういう銀行には、時間を貸せば、立ち直る。けれど、貸付の多くが返ってこない、倉庫も船も値打ちがない、預りを返すだけの財産そのものがない。そういう銀行に銭を貸しても、それは時間を貸したことにはなりません。穴を埋めているだけです。束ねる銀行は、そういう銀行を救ってはならない」
「見分けられるのか」
「見分ける仕組みを作らねばなりません。帳簿を調べ、資産の値打ちを確かめる。それが、次に考えなければならないことです」
修平は、紙の丸の横に、短く書いた。
「ですから見るべきは、金がないのか、価値がないのかです。前者なら中央の行が時間を貸せる。後者なら救済ではなく整理が必要です」
◇
話が終わったのは、日が傾いてからだった。
高元亨は、帰り際に、修平の前で足を止めた。
「林詳定」
「はい」
「あの三日間、私の店の前に並んだ者たちの中に、永豊に預けていた者の親類がおりました。その者は、私の店で銭を受け取ったとき、泣いておりました。返ってきて、よかった、と。永豊の方は、返ってこなかった、と」
高元亨は、少し間を置いた。
「あの時、誰かが永豊に時間を貸してくれていたら。私は、十二年、そう思ってまいりました。けれど、誰に頼めばよかったのか、分かりませんでした。開封府に頼んでも、官は櫃坊の帳簿など見たことがない。他の櫃坊に頼んでも、自分の店の前にも列ができるかもしれないのに、貸す者はおりません」
高元亨は、修平の机の上の紙の、丸を見た。
「それを、国がやる。——そういうことでございますな」
「そういうことです」
修平は、頷いた。
「ただ、国が何でも救うのではありません。救うべきものと、救ってはならないものを分ける。その線を引くのが、いちばん難しい」
高元亨は、深く頭を下げて、帰っていった。
葉正言は、最後まで詰所に残っていた。
机の上の紙を、しばらく黙って見ていた。
「永豊の主が首を括ったのは、あの年の冬だった」
葉正言は、ぽつりと言った。
「私は、その時、開封府の判官だった。あの記録を書かせたのは、私だ」
修平は、葉正言の顔を見た。
「あの時、私は、櫃坊の主が欲をかいて預かった銭を貸しすぎたから潰れたのだと考えた。そう記録にも書いた。——半分は、正しかったのだろう。だが、半分は、違ったのかもしれぬ」
葉正言は、立ち上がった。
「今日の銭が足りない銀行と、財産が足りない銀行を分けると言ったな。どうやって分ける。そこを聞かねば、私は、そなたの丸を認めるわけにはいかぬ」
「はい」
修平は、立ち上がり、頭を下げた。
「次に、それを申し上げます」




