第二巻 新法 第四回 銀行の自己資本
葉正言が問うたのは、たった一つのことだった。
今日の銭が足りない銀行と、財産が足りない銀行を、どう分けるのか。
修平は、その問いに答えるために、三日かけて一枚の紙を作った。
四日目の朝、詰所に集まったのは、葉正言、鄭仲謙、蔣守拙、そして前回と同じ戸部の員外郎だった。高元亨は、店の帳場を空けられないと言って、代わりに自分の店の番頭を一人寄越していた。三十代の、目の鋭い男だった。
修平は、机の上に紙を広げた。
真ん中に縦の線。左に「持ち物」、右に「負い目」。前回と同じ形だった。
ただ、右の欄の下に、線がもう一本引かれ、その下に、見慣れない言葉が書かれていた。
元手。
◇
「ある銀行があるとします」
修平は、左の欄を指した。
「持ち物は、全部で千貫。倉庫の貸付、船の貸付、商人への貸付、蔵の銭、手形。全部合わせて千貫」
次に、右の欄を指した。
「負い目は、九百五十貫。預りが、ほとんどです」
最後に、右の欄の、線の下を指した。
「持ち物千貫から、負い目九百五十貫を引くと、五十貫が残ります。これが、この銀行の元手です。銀行を開いた者たちが、自分で出した銭。あるいは、これまでの儲けを、配らずに残してきた銭」
番頭が、身を乗り出した。
「うちの店でいう、主の出資と積立でございますな」
「そうです」
修平は、頷いた。
「では、この銀行が貸していた船が沈み、倉庫の商人が潰れて、貸付のうち六十貫が返ってこなくなったとします」
修平は、左の欄の「千貫」を線で消し、その横に「九百四十貫」と書いた。
「持ち物は、九百四十貫になりました。負い目は、九百五十貫のままです。預りは、船が沈んでも減りませんから」
修平は、右の欄の「元手 五十貫」を指した。
「元手は、いくらになりますか」
員外郎が、指を折った。
「九百四十から、九百五十を引いて——」
員外郎の指が、止まった。
「足りない。十貫、足りない」
「そうです」
修平は、元手の欄を線で消し、「負の十貫」と書いた。
「この銀行は、持ち物を全部売っても、預りを全部返すことができません。十貫、足りない」
葉正言が、紙を見つめたまま、低く言った。
「これが、財産の足りぬ銀行か」
「はい」
修平は、頷いた。
「前回お話しした永豊櫃坊は、はじめは、こうではありませんでした。持ち物は、負い目より多かった。元手はあった。足りなかったのは、今日の銭だけでした。——けれど、この銀行は違います。今日の銭をいくら貸しても、持ち物が負い目より少ないことは、変わりません。貸した銭は、返ってきません」
「では、中央の行は、この銀行には貸さぬ」
「貸しません。貸せば、中央の行が損をかぶるだけです」
◇
「元手というのは」
修平は、右の欄の、線の下を指で叩いた。
「銀行が好きに使える、余った銭のことではありません」
番頭が、少し意外そうな顔をした。
「うちの主は、元手が多いと、余裕がある、と申しますが」
「余裕、というのは正しいと思います。ただ、その余裕が何のためにあるのか、です」
修平は、先ほどの紙を指した。
「貸付の六十貫が返ってこなかったとき、その損を、まず誰がかぶるか。預りを持つ者ではありません。預りは、預けた額を返す約束です。損がどれだけ出ても、約束の額は変わらない。損を最初にかぶるのは、元手です。銀行を開いた者たちが出した銭が、まず削られる」
修平は、元手の欄を、指で囲った。
「元手は、損を受け止める、最初の壁です。損が元手の内に収まれば、預けた者は一文も失わない。元手を超えれば、預けた者が損をかぶる」
蔣守拙が、小さく頷いた。
「では、元手が五十貫ではなく、百貫あったなら」
「六十貫の損を出しても、四十貫残ります。銀行は、潰れません」
「二十貫しかなかったら」
「三十貫の損で、潰れます」
鄭仲謙が、腕を組んだ。
「なら、話は簡単だ。元手を多く持たせればよい」
「そうなのですが」
修平は、少し言葉を探した。
「元手を多く持つと、銀行は、儲けにくくなります」
◇
修平は、紙の余白に、二つの小さな表を描いた。
「二つの銀行があるとします。どちらも、持ち物は千貫。貸付の利で、年に三十貫儲けるとします」
一つ目の表の元手の欄に、「五十貫」と書いた。
二つ目の表の元手の欄に、「二百貫」と書いた。
「一つ目の銀行の主は、五十貫の元手で、三十貫を儲けました。自分の出した銭の、六割に当たります」
「二つ目の銀行の主は、二百貫の元手で、同じ三十貫を儲けました。自分の出した銭の、一割五分です」
番頭が、息を呑んだ。
「六割と、一割五分」
「はい。同じ千貫の持ち物で、同じ三十貫を儲けても、元手が薄いほうが、主にとっては、ずっと儲かっているように見えます」
修平は、一つ目の表を指した。
「では、損が出たときはどうか。六十貫の損が出れば、一つ目の銀行は潰れます。元手が五十貫しかないのですから。二つ目の銀行は、二百貫の元手から六十貫を失って、百四十貫が残ります。潰れません」
修平は、二つの表を並べた。
「元手が薄いほど、儲かる年には大きく儲かり、損が出た年には、あっという間に潰れる。元手が厚いほど、儲けは小さいが、損に耐えられる。これを、私の国では、梃子の効き、と呼んでいました」
番頭は、しばらく二つの表を見比べていた。
「……うちの主は、元手を厚くしております」
ぽつりと、言った。
「同業の者には、欲がない、儲け下手だと笑われております。ですが、十二年前、永豊が潰れた時、うちの店だけは、三日間、並んだ者全員に銭を返せました」
修平は、頷いた。
「高主人の店は、蔵に銭も多かった。元手も厚かった。だから、あの三日間を耐えられたのだと思います」
◇
「では、決まりだな」
鄭仲謙が、言った。
「銀行には、元手を、持ち物の二割でも三割でも持たせる。そうすれば、潰れん」
「それも、行き過ぎれば、別の問題が出ます」
修平は、首を振った。
「元手を持ち物の三割持てと言えば、銀行を開くには、それだけの銭を持つ者が要ります。そういう者は、少ない。銀行の数が減ります。それに、同じ元手で貸せる額が、小さくなります。倉庫を建てたい商人、船を造りたい船主、田を広げたい農家に、貸せる銭が減る。国の商いに回る銭が、細くなります」
「安全にしすぎれば、貸さなくなる、ということか」
葉正言が、言った。
「はい。安全さだけを最も大きくしようとすれば、銀行は、何もしないのがいちばん安全です。けれど、それでは、銀行を置く意味がありません。潰れにくさと、貸す力と。その両方を、ほどほどに保たねばなりません」
葉正言は、しばらく黙っていた。
それから、修平の方を向いた。
「そのほどほどを、誰が決める」
「国が、決めねばなりません」
修平は、紙の新しい頁を開いた。
「銀行として認める者には、持ち物に対して、少なくともこれだけの元手を持て、という下限を定める。貸付が返ってこなくなりそうなときには、その分をあらかじめ損として見積もり、元手から差し引いておけ、と定める。そして、定期的に、国の役人が銀行の帳簿を調べ、貸付の中身を確かめる。どの貸付が確かで、どの貸付が危ういか。帳簿の数字が、本当に持ち物の値打ちを表しているか」
「帳簿の数字が、嘘をついていないか、ということだな」
「嘘をついていなくても、甘いことはあります」
修平は、言った。
「返ってこないかもしれない貸付を、返ってくるものとして帳簿に載せていれば、元手は実際より厚く見えます。そういう甘さを、外の目で見る。——そうして初めて、先日お話しした中央の行が、どの銀行に今日の銭を貸してよいかが分かるのです」
修平は、紙の上に、二つの丸を描いた。
一つ目の丸の中に、「今日の銭が足りない」と書いた。その下に、「中央の行が貸す」。
二つ目の丸の中に、「財産が足りない」と書いた。その下に、「元手の下限、損の見積もり、帳簿の検め。足りなければ、整理」。
「現金が足りない銀行と、財産が足りない銀行を、同じ方法で救ってはなりません」
修平は、二つの丸を指した。
「前者には、中央の行が時間を貸す。後者には、そもそもそうならないよう、平時から元手を持たせ、帳簿を検める。それでもそうなってしまったら、銀行を立て直すか、畳むか、を決める」
◇
葉正言は、紙を手に取り、しばらく眺めていた。
それから、紙を机に戻した。
「一つ、分からぬことがある」
「はい」
「前回、そなたは、永豊は財産があったのに、今日の銭がなかったから潰れた、と言った。今日は、財産が足りぬ銀行の話をした。では、財産は足りているのに、今日の銭が足りなくなるのを、そもそも防ぐことはできぬのか。中央の行に頼る前に」
修平は、少し間を置いた。
良い問いだった。
「できます。完全にではありませんが」
修平は、新しい紙を出した。
今度は、縦の線を引いたあと、左右の欄をさらに横の線で何段かに区切った。
「持ち物を、いつ銭になるかで分けます」
左の欄の一番上の段に、「今日」と書いた。「蔵の銭。中央の行に置いた準備」。
二段目に、「一月のうちに」と書いた。「すぐ売れる品の預り証。一月で返ってくる手形」。
三段目に、「一年のうちに」。
四段目に、「一年より先」。「倉庫の貸付。船の貸付。十年の証文」。
「負い目も、同じように分けます」
右の欄の一番上の段に、「今日」と書いた。「いつでも引き出せる預り」。
二段目に、「一月のうちに」。「一月後に返す約束の預り」。
以下、同じように。
「それぞれの段で、持ち物と負い目を比べます」
修平は、一番上の段を指した。
「今日返さねばならないかもしれない負い目に対して、今日銭になる持ち物が、どれだけあるか。一月のうちに返さねばならない負い目に対して、一月のうちに銭になる持ち物が、どれだけあるか。この差が大きすぎれば、財産は足りていても、ある日突然、今日の銭が足りなくなる」
番頭が、身を乗り出した。
「これは、うちの主が、毎月末に自分でやっていることと、似ております。帳場の者には、見せませぬが」
「高主人は、ご自分で、それをやっておられたのですね」
修平は、微笑んだ。
「それを、全部の銀行に、帳簿として出させるのです。持ち物と負い目を、いつ銭になるか、いつ返さねばならないかで分けて。時間のずれが、どの段で、どれだけあるかを、国が見られるようにする」
◇
「もう一つ、見ておくべきことがあります」
修平は、四段目、「一年より先」の欄を指した。
「倉庫の貸付や、十年の証文には、利がついています。年に三分なら三分、と、貸したときに決まっている」
「決まっておるな」
「では、その後、世の中の利が上がって、年に六分になったとします」
修平は、右の欄の一番上の段、「いつでも引き出せる預り」を指した。
「預けた者は、よその銀行が六分の利をつけるなら、そちらへ移したくなります。この銀行も、預りを引き留めるために、預りの利を上げねばならない。けれど、持ち物の側の十年の貸付は、三分のまま、変わりません。十年間、三分しか入ってこない」
鄭仲謙の顔色が、少し変わった。
「入る利は変わらず、払う利だけが上がる」
「はい。それに、その十年の証文を今売ろうとすれば、どうなるか。世の中では六分の利がつく証文が買えるのに、三分の証文を、元の値で買う者はいません。値を下げて売るしかない」
「財産の値打ちが、下がる」
「はい。船も沈んでいない、商人も潰れていないのに、世の中の利が動いただけで、持ち物の値打ちが下がり、儲けが減るのです」
修平は、紙の四段目の横に、小さく書いた。
利の動きによる損。
「これは、貸付が返ってくるかどうかとは、別の危うさです。元手とは別に、見張っておく必要があります。銀行が、長い証文や長い貸付をどれだけ持っているか。世の中の利が一分上がったら、その値打ちがどれだけ下がるか」
葉正言は、紙を見つめたまま、黙っていた。
長い沈黙だった。
やがて、葉正言は、口を開いた。
「そなたの国の銀行は、これを全部、やっていたのか」
「全部を、最初からやっていたわけではありません」
修平は、首を振った。
「一つずつ、潰れるたびに、足していったのです。永豊のようなことが起きて、今日の銭の仕組みを作った。財産の足りない銀行が潰れて、元手の下限を作った。利が急に動いて銀行が次々に損を出して、利の危うさを見張るようになった。——それでも、潰れる銀行は、なくなりませんでした。仕組みを作るたびに、仕組みの隙間を見つけて、そこで無理をする者が出ました」
修平は、紙を揃えた。
「私の国の人々が、何十年、何百年かけて、失敗しながら足していったものを、私は、今、失敗する前に並べているだけです。それが、この国の帳簿の上で本当に役に立つかどうかは、まだ分かりません」
葉正言は、修平の顔を見た。
それから、紙の束を、自分の手元に引き寄せた。
「これは、私が預かる」
「はい」
「戸部の中で、これを読める者に読ませる。高元亨にも見せる。それから、成都と杭州の両替商にも写しを送り、意見を聞く。そなたの国の帳簿の上で役に立ったかどうかは、どうでもよい。この国の帳場で、使えるかどうかだ」
葉正言は、立ち上がった。
戸口で、一度だけ振り返った。
「林詳定。今日の話で、中央の行が何をすべきかは、少し見えた。だが、そなたの話を聞いていると、一つ気になることがある」
「何でしょう」
「そなたは、利が上がる、下がる、と言う。まるで、利が勝手に動くもののように。——利は、誰が動かすのだ。それに、そなたの言うことは、どの学問に拠っている。そなたの国には、そういう学問が、一つしかないのか」
修平は、少し驚いて、葉正言を見た。
「……一つでは、ありません」
「そうだろうと思った」
葉正言は、それだけ言って、出ていった。




