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第二巻 新法 第五回 学派の岐路

 葉正言の問いは、その晩、修平を長く眠らせなかった。


 そなたの国には、そういう学問が、一つしかないのか。


 一つではない、と修平は答えた。それは本当だった。けれど、そう答えた自分が、この二月、戸部の官たちの前で、まるで一つの正しい学問があるかのように話してきたことにも、気づいていた。


 元手、梃子の効き、時間のずれ、利の危うさ。


 どれも、嘘ではない。けれど、それを語るとき、修平は、自分の頭の中にある大学の教科書の、ある一冊の順序で語っていた。その一冊が、どういう考え方の上に立っているのかを、一度も説明したことがなかった。


 翌朝、修平が詰所に入ると、見慣れない男が一人、机の前に座っていた。


 三十代の半ば。痩せた顔に、細い目をしていた。官服の色は、修平と同じくらいの位を示していた。膝の上に、算木を収めた細長い箱を置いていた。


 男は立ち上がり、拝礼した。


「司天監の算学官、韋明遠と申します」


「司天監」


 修平は、少し驚いた。天文と暦を司る役所だった。


「葉尚書の依頼で、参りました。林詳定の話に出てくる数を、検算する者が要ると」


 韋明遠は、算木の箱に手を置いた。


「それに、私自身、伺いたいことがございました」


  ◇


 その日の詰所には、葉正言と鄭仲謙、蔣守拙、そして韋明遠が集まった。


 葉正言は、椅子に座るなり、言った。


「昨日の続きだ。そなたの言うことは、どの学問に拠っている」


 修平は、机の上に、紙を一枚広げた。


 しばらく、何も書かなかった。


 それから、紙の一番上に、横に長い線を一本引いた。


「これは、時の流れだと思ってください」


 線の左の端に、小さく印をつけた。


「私の国で、国の富や、物の値や、商いの仕組みを学問として考え始めた人々を、後の者は、古典派と呼んでいます。市場の値が、物の足りなさと余りを調整し、人々がそれぞれ自分の得を求めて動くことで、全体としてうまく回る。そういう考え方の土台を作った人たちです」


 修平は、線の上を、少しずつ右へ進みながら、印をつけていった。


「そこから、値がどうやって決まるかを、数を使って細かく詰めていった人々がいます。新古典派と呼ばれます」


「それから、ひどい不況がありました。私の国の歴史で、最も大きな不況の一つです。値が下がれば物は売れる、賃金が下がれば人は雇われる、と考えられていたのに、物は売れず、人は雇われず、何年も不況が続いた。そこで、ケインズという人が、そもそも国全体で物を買う力——需要が足りなければ、値が下がっても不況は終わらないことがある、と言いました」


 鄭仲謙が、身を乗り出した。


「需要が、足りない」


「はい。国が、需要を支えねばならない時がある。ケインズの考えを受け継いだ人々が、しばらく学問の中心になりました。その考えを受け継いだ人々は、のちにオールド・ケインジアンと呼ばれます。また、景気の浮き沈みはケインズの考えで、値と取り分の決まり方はそれまでの考えで、と組み合わせたものを、新古典派総合と呼びます」


 修平は、さらに右へ進んだ。


「ところが、今度は、物の値が上がり続けるのに、不況も終わらない、ということが起きました。国が需要を支え続けたことが、かえって値上がりを招いたのではないか。そう考えた人々が、国が、出回る貨幣の量を、毎年決まった割合で、ゆっくりと増やしていくことこそ大事だ、と言いました。マネタリズムと呼ばれます」


「それから、人々は、国が何をするかを、前もって読んで動く。だから、国が需要を支えようとしても、人々がそれを見越して動けば、効き目が消えてしまうことがある。そう考えた人々がいます。新しい古典派と呼ばれます」


 修平は、線の右の端近くに、印を一つつけた。少し大きく。


「そして、今、私の国で、国の政や中央の行の実務で、最もよく使われている考え方。ニューケインジアン、あるいは新しい総合、と呼ばれるものです」


  ◇


「ずいぶん、変わってきたのだな」


 葉正言が、紙の上の線を見ながら言った。


「はい」


 修平は、線の右の端に近い大きな印を指した。


「ニューケインジアンは、新しい古典派が作った、人々が先を読んで動くという数の枠組みを使います。その上に、ケインズの考えを載せます。商いは、自分の品の値を自分で決められる程度には、互いに競い合いきっていない。——物の値や賃金は、すぐには動かない。店は、値札を毎日書き換えたりしない。雇い主は、不況だからといって、翌日から賃金を半分にはできない。値がすぐには動かないから、需要が落ちると、値が下がる前に、まず売れる量が減り、雇われる人が減る。だから、需要を支える政に意味がある」


 韋明遠が、細い目をさらに細めた。


「値が、すぐには動かぬ」


「はい。それを、数の式の中に、はっきりと入れるのです。値が動く速さ、人々が先を読む仕方、中央の行が利を動かす仕方。それを、式にして、国の商いの数を当てはめ、どれくらいの強さで働くかを推し量る。そして、利を一分動かしたら、何がどう変わるかを、式の上で試してみる」


「式の上で、試す」


 韋明遠の声に、微かな熱がこもった。


「暦の計算と、同じだ。天の運行を式にし、過去の観測を当てはめ、その先を推す」


「近いと思います」


 修平は、頷いた。


「ただし、天の運行と違って、人は、式を知ると、動き方を変えることがあります。そこが、難しいところです」


  ◇


「では、その新しい総合とやらが、正しいのか」


 葉正言が、聞いた。


 修平は、少し間を置いた。


「私の国の中央の行は、それを主に使っています。それは確かです」


「使っている理由は」


「式にできるからです」


 修平は、言った。


「式にできれば、何を仮定したのかが、誰の目にも明らかになります。仮定を変えたら、答えがどう変わるかも試せる。国の商いの数を当てはめて、式の中の重みを推し量れる。中央の行が、利を上げるか下げるかを決めるとき、なぜそう決めたのかを、式と数で説明できる。——国の政の道具として、使いやすいのです」


「使いやすい、か」


「はい。そして、使いやすいことと、正しいことは、同じではありません」


 修平は、線の下に、もう一つの印を描いた。線からは少し離れた場所に。


「ポスト・ケインジアンと呼ばれる人々がいます。ケインズの考えを、別の方向へ受け継いだ人々です」


 修平は、その印の横に、言葉を書いた。


 先のことは、分からない。


「ニューケインジアンの式の中では、先のことは、確かさの度合いとして扱われます。明日、雨が降るのは三割、晴れるのは七割、というように。人々は、その度合いを知っていて、それに合わせて動く、と考えます」


「それで、何が悪い」


「ポスト・ケインジアンは、こう言います。明日、何が起きるかの一覧そのものが、分からないことがある、と。雨か晴れかではなく、雨とも晴れとも違う、誰も思いつかなかったことが起きるかもしれない。そういう時、人は、確かさの度合いを計算することさえできません」


 修平は、永豊櫃坊の記録を、机の端から引き寄せた。


「永豊に並んだ人々は、永豊が潰れる確かさを計算して並んだのではないと思います。分からなかったから、並んだ。分からない時、人は、手元に銭を置いておきたくなる。貸すのをやめ、買うのをやめ、銭を握りしめる。それが、国中で同時に起きると、商いが止まる」


 高元亨の番頭の顔を、修平は思い出していた。三日間、一睡もしなかったという主の話を。


「ポスト・ケインジアンは、そういうことを重く見ます。先が分からないこと。銭を手元に置きたがること。銀行が貸すことで預りが生まれるのだから、出回る貨幣の量は、国が上から決めるだけではなく、商いの中から生まれてくるということ。銀行の仕組みそのものが、好況の中で危うさを溜め込んでいくこと。——私が、殿試の答案に書いた、銀行が貸すと預りが生まれるという話も、この人々が特に大事にしてきた考えです」


 鄭仲謙が、腕を組んだ。


「なら、そちらの方が、正しいのではないか。永豊のことも、うまく言い当てている」


「そちらにも、弱みがあります」


 修平は、言った。


「先のことは分からない、と言うのは、正しいと思います。けれど、それを式にしにくい。式にしにくいと、利を一分動かしたら何がどう変わるかを、数で試すことが難しい。国の政の道具としては、使いにくいのです」


  ◇


「ほかにも、あります」


 修平は、紙の別の場所に、もう一つ印を描いた。


「マルクスという人の考えを受け継いだ人々です。物を作る者と、物を作るための道具や工場を持つ者との関係から、国の商いを見ます。儲けがどう生まれ、誰の手に渡り、それがどう積み上がって、やがてどう崩れるか。——これも、全く別の筋道で、商いの仕組みと、その危うさを説明しようとした学問です」


 修平は、紙全体を見渡した。


 古典派。新古典派。ケインズ。新古典派総合。マネタリズム。新しい古典派。ニューケインジアン。ポスト・ケインジアン。マルクス派。


 線の上に、線の下に、いくつもの印が散らばっていた。


「これで全部ではありません。私が覚えている、大きなものだけです。それに、私の説明は、分かりやすくするために、ずいぶん削っています。どの学派の人が聞いても、そんな単純ではない、と怒るでしょう」


 葉正言は、紙をじっと見ていた。


「林詳定」


「はい」


「そなたの国では、この学派の争いに、決着はついたのか」


「ついていません」


 修平は、即座に答えた。


「私が学んでいた時も、議論は続いていました。どの学派も、ある時には何かをうまく言い当て、別の時には何かを見落としました」


 修平は、線の右の端近くの、大きな印を指した。


「このニューケインジアンも、新しい総合も、今は主流です。しかし、主流になってまだ数十年です」


 修平は、線の左の端から右の端までを、指でなぞった。


「経済学の主流は、何度も変わりました。古典派が主流だった時代があり、ケインズが主流だった時代があり、マネタリズムが勢いを持った時代があった。今もっとも使われているというだけで、永遠に正しいとは言えません。私がいなくなった後、あちらの国で、また別の考え方が主流になっているかもしれない」


  ◇


「では、そなたは、どれを使うのだ」


 葉正言の声は、責めるようではなかった。確かめるような声だった。


「国の銀行の制を詳定する者として、どの考えに拠るのかを、決めておいてもらわねば困る。その時々で拠る学問が変われば、戸部は、何を信じて帳簿をつければよいのか分からぬ」


 修平は、しばらく黙っていた。


 それから、紙の上の二つの印を指した。


 一つは、線の上の、大きな印。ニューケインジアン。


 もう一つは、線の下の、ポスト・ケインジアン。


「平時は、こちらを、主な道具として使います」


 修平は、ニューケインジアンの印を指した。


「物の値の上がり方を見て、利を上げるか下げるかを決める。国の商いがどれくらい弱っているか、どれくらい過熱しているかを、数で推し量る。その仕事には、式にできる考え方がいちばん役に立ちます。中央の行が、なぜそう決めたのかを、後から誰もが確かめられるように」


 それから、ポスト・ケインジアンの印を指した。


「けれど、銀行の危うさ、取り付け、先の見えない時に人々が銭を握りしめること、銀行が貸すことで貨幣が生まれること。そういうことを考える時には、こちらの見方を手放しません」


 修平は、顔を上げた。


「使いやすい理論と、真理である理論は、同じ意味ではありません。数式にできるから使う。だが、数式にできないものが存在しないとは言えない」


 詰所の中が、静かになった。


 韋明遠が、算木の箱の上で、指を組み直した。


「式にできないものを、どう扱うのです」


「式の外に置いておきます」


 修平は、答えた。


「式が何かを言ったら、それを聞く。けれど、式が見ていないものがないか、いつも問う。式の答えと、現場の話と、帳簿の数字と、両替商の勘とを、並べて比べる。どれか一つだけを信じない」


 韋明遠は、しばらく修平の顔を見ていた。


「暦を作る時も、同じでございます」


 ゆっくりと、言った。


「式で推した日食の日と、実際に観測した日食の日が、ずれることがある。ずれた時、式を疑うか、観測を疑うか。司天監では、それで百年、揉めております」


 蔣守拙が、小さく笑った。


 葉正言は、笑わなかった。


 けれど、紙を手に取り、線の上の印を、左から右へ、ゆっくりと目で追った。


「一つの正しい学問を持ってきた男だと、思っていた」


 葉正言は、紙を机に戻した。


「そうでないと分かって、少し安心した」


 修平は、葉正言の顔を見た。


「一つの正しい学問を持ってきた男なら、その学問が外れた時、国ごと外れる。そうでない男なら、外れた時に、別の見方で確かめ直せる」


 葉正言は、立ち上がった。


「韋算学。明日から、ここに通え。林詳定の言う数を、片端から検算しろ。式というものの中身も、聞き出しておけ」


「承りました」


 韋明遠は、深く頭を下げた。


 葉正言は、戸口で振り返った。


「林詳定。そなたの国の中央の行は、そのニューなんとかという式を使って、実際に何を見ているのだ。次は、それを聞かせよ」


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