第二巻 新法 第六回 DSGEモデル
「先に、一つだけ申し上げておきます」
翌朝、詰所に集まった面々の前で、修平は、まずそう言った。
「私の国の中央の行は、一つの式だけを見て、利を決めているわけではありません」
葉正言が、眉を上げた。
「昨日、そなたは、式にできるものを主な道具に使うと言った」
「主な道具の一つです。一つだけではありません」
修平は、机の上に、紙を三枚並べた。
一枚目には、「数」と書いた。
「物の値。賃金。雇われている人の数。作られた物の量。売れた物の量。商人が新しく倉庫や船にかけた銭。銀行が貸した額。外の国との商い。そういう数を、毎月、毎季、集めます。何百という数です」
二枚目には、「模型」と書いた。
「その数を使って、国の商いの模型をいくつも作ります。一つではなく、いくつも。それぞれが、違う仮定の上に立っている。同じ数を入れても、模型によって、違う答えが出ることがあります」
三枚目には、「人」と書いた。
「最後に、中央の行の中で、利を決める役目の者たちが集まって、数と、いくつもの模型の答えとを並べて見て、話し合って決めます。模型が答えを出すのではなく、人が、模型の答えを材料にして決めるのです」
韋明遠が、三枚の紙を見比べた。
「では、式は、材料の一つにすぎぬと」
「はい。けれど、材料の中では、かなり大きなものです。今日は、その中でも、よく使われる模型の一つをお話しします」
◇
修平は、新しい紙に、四つの字を書いた。
動学的。確率的。一般。均衡。
「私の国の言葉では、この四つを一続きにして呼ぶ模型があります。頭の文字を取って、DSGE、と。あちらの国の、外の国の言葉の頭文字です」
「長い名だ」
鄭仲謙が、苦笑した。
「長いので、一つずつ分けてお話しします」
修平は、最初の三字、「動学的」を指した。
「今日の決めごとが、明日以降に響く、ということです」
「当たり前ではないか」
「当たり前です。けれど、式にするとなると、その当たり前を、きちんと書き込まねばなりません」
修平は、蔣守拙の方を見た。
「たとえば、江南西路のある農家が、秋に籾を刈り入れたとします。その籾を、今、全部売って銭にし、布や塩や農具を買うこともできる。売らずに蔵に置いておいて、春に売ることもできる。春の方が、籾の値は高い。けれど、春までに、家の者が食べる分も要る。それに、来年の種も残しておかねばならない」
修平は、呉守田の帳面を思い出していた。籾は余っているのに、銭は足りない。毎年そうだ。
「その農家は、今年の秋に何をするか決めるとき、来年の春のこと、来年の秋のことを考えています。今日の決めごとが、明日に響く。明日の見込みが、今日の決めごとに響く。それを、式の中に書き込むのが、動学的、ということです」
蔣守拙が、ゆっくりと頷いた。
「次に、確率的」
修平は、次の三字を指した。
「思いもよらないことが、起こる、ということです」
「凶作か」
葉正言が、言った。
「凶作。北の戦。川の氾濫。疫病。銀行の取り付け。どれも、いつ起きるかは分かりません。けれど、起きることはある、と分かっている。それを、式の中に、揺さぶりとして入れておきます。ある年、凶作という揺さぶりが来たら、それが農家に、商人に、銀行に、国に、どう伝わっていくか」
修平は、少し言い淀んだ。
「昨日、ポスト・ケインジアンの話をしました。先のことの一覧そのものが分からない、という考えでした。この模型は、その逆の立場です。揺さぶりがどんな種類で、どれくらいの確かさで来るかは、ある程度分かっていると考える。そこが、この模型の強みであり、弱みでもあります」
韋明遠が、紙に何かを書き留めた。
「そして、一般均衡」
修平は、残りの四字を指した。
「国の中の、いろいろな者の決めごとを、ばらばらに考えず、互いにつながったものとして考える、ということです」
修平は、紙の上に、いくつかの丸を描いた。
家。商い。銀行。国。中央の行。
丸と丸を、線でつないだ。
「家は、銭をどれだけ使い、どれだけ貯めるかを決めます。商いは、物の値をいくらにし、人を何人雇い、倉庫や船にいくらかけるかを決めます。銀行は、誰にどれだけ貸すかを決めます。国は、税をどれだけ取り、何にどれだけ使うかを決めます。中央の行は、利をどれだけにするかを決めます」
修平は、線を指でなぞった。
「どれか一つの決めごとが変われば、他の全部が、少しずつ変わります。中央の行が利を上げれば、銀行は貸す利を上げ、商いは倉庫を建てるのを控え、そこで働くはずだった人が雇われず、その人の家は銭を使わなくなり、物が売れなくなって、商いは値を下げるかもしれない。一つの市だけを見ていても、分かりません。全部を、一度に見る」
◇
「全部を一度に見る、など、できるのか」
葉正言が、低く言った。
「できません」
修平は、あっさりと答えた。
「本当の国の全部を見ることは、誰にもできません。ですから、模型にするのです。本当の国の、ずっと単純な姿を、式で作る。家は一種類しかいないことにする。商いも、一種類しかいないことにする。人は皆、同じように先を読むことにする。そうやって、うんと削って、ようやく式が解けるようになる」
「削りすぎては、国ではなくなる」
「その通りです」
修平は、頷いた。
「ですから、この模型は、未来を当てるための機械ではありません」
修平は、紙の上の丸と線を指した。
「この模型でできることは、こういうことです。——もし、国がこういう形をしていると仮定したら、中央の行が利を一分上げたとき、家の使う銭は、商いの倉庫は、雇われる人は、物の値は、どの道筋を通って、どれくらい、どの順番で変わるか。それを、矛盾なく、筋道立てて考える」
修平は、少し間を置いた。
「DSGEは未来を当てる機械ではありません。『こういう経済だと仮定したら、この政策はどこを通って効くのか』を、矛盾なく考えるための地図です」
韋明遠が、顔を上げた。
「地図」
「はい。地図は、本当の土地ではありません。川の曲がりも、山の高さも、削って描かれています。けれど、地図がなければ、どの道を通れば目的の町に着くかが分からない。地図が間違っていれば、道に迷います。だから、地図を描いた者が、何を削り、何を残したのかを知っておかねばならない」
「何を削ったのかを、知っておく」
「はい。この模型は、たくさんの仮定を置きます。国の商いが、いつかは落ち着く先があること。人々が、先のことをどう読むか。揺さぶりが、どんな形で来るか。商いが、値をどれくらいの速さで変えるか。その仮定の一つでも間違っていれば、答えも間違います。式が精密だからといって、現実そのものになるわけではありません」
◇
「では、ほかには、何を使う」
鄭仲謙が、聞いた。
修平は、最初に並べた三枚の紙の、二枚目、「模型」を指した。
「今お話ししたのは、国の仕組みを、筋道から組み立てる模型です。これとは別に、筋道を立てずに、過去の数の並びだけから、先を推す模型もあります」
修平は、韋明遠を見た。
「司天監で、暦を作るとき、天の運行の仕組みから計算することもあれば、過去の観測を並べて、その周期から次を推すこともある、と伺いました」
「ございます。両方を使います」
「同じです。過去の物の値や、雇われた人の数や、利の動きを並べて、それらが互いにどう引きずり合って動いてきたかを、数の上で見る。仕組みの筋道は問わない。ただ、過去にこう動いたから、次もこう動くだろう、と推す。私の国では、それもよく使います」
「それから」
修平は、指を折った。
「今月の数を、今月のうちに、大まかに推す仕組み。数がまとまるのを待っていては遅いので、早く手に入るものから、先に見当をつける。両替商や大きな商人に、景気はどうかと直接聞いて回る仕組み。銀行に、貸す相手の様子を聞く仕組み。それに、もし、ひどい凶作と取り付けが同時に来たら、銀行はどれだけ持ちこたえられるか、と、悪い筋書きを前もって試しておく仕組み」
修平は、三枚目の紙、「人」を指した。
「それら全部の答えを、並べて比べます。模型同士の答えが違えば、なぜ違うのかを問う。模型の答えと、両替商の話が違えば、どちらが何を見落としているのかを問う」
修平は、少し笑った。
「中央の行は、一枚の地図だけで国を歩きません。別の地図とも照らし合わせ、現場の報告も見て、それでも最後は人間が判断します」
◇
葉正言は、しばらく黙っていた。
それから、韋明遠の方を向いた。
「韋算学。今の話の、その模型とやらを、この国で作れるか」
韋明遠は、すぐには答えなかった。
算木の箱を開け、中から数本の算木を取り出し、机の上に並べた。並べ直し、また並べ直した。
「林詳定」
韋明遠は、算木から目を上げずに言った。
「その模型は、式がいくつございます」
「私の国で実際に使われているものは、何十から、百を超えるものもあります」
「それを、一度に解くのでございますか」
「あちらの国には、計算をする機械がありました。人が何か月かかっても終わらない計算を、一瞬で終わらせる機械です」
韋明遠は、算木を並べる手を止めた。
「この国には、それがない」
「ありません」
韋明遠は、しばらく算木を見つめていた。
「百の式を、算木で一度に解くことは、できませぬ」
ゆっくりと、言った。
「司天監の者を全員集めても、一つの答えを出すのに、何か月もかかるでしょう。答えが出た頃には、国の商いの形が変わっております」
「そうだと思います」
修平は、頷いた。
「ですから、あちらの国と同じものを作ろうとは思いません。まずは、うんと単純なものから始めます」
修平は、新しい紙に、表を描いた。
縦に、家、商い、銀行、国、中央の行。横に、利、物の値、雇われる人、作られる物。
「式を百並べるのではなく、まず、この表を作ります。利が上がったら、家はどう動くか。上か、下か、変わらないか。商いはどう動くか。それを、一つずつ、矢印で書き込んでいく。それから、いくつかの筋書きを作ります。もし凶作が来たら。もし北で大きな戦があったら。もし利を一分上げたら。筋書きごとに、表の矢印を辿って、何がどちらへ動くかを見る」
「数ではなく、向きを見る」
「はじめは、向きです。向きが分かったら、次に、大きさを推します。過去の帳簿から、利が上がった年に、商人の借りる額がどれだけ減ったか。凶作の年に、籾の値がどれだけ上がったか。そういう数を、一つずつ集めて、矢印に重みをつけていく」
韋明遠は、表をじっと見た。
「それなら、算木でも、できます」
韋明遠の声に、また、あの微かな熱がこもっていた。
「時間は、かかります。けれど、一つの筋書きを、一月で辿れるようにはできましょう」
◇
話が一段落したところで、鄭仲謙が、腕を組んだまま言った。
「林詳定。今日の話は、分かったような、分からんような話だった」
「申し訳ありません」
「いや、そなたが悪いのではない。地図の話はよく分かった。何でも見ようとすれば、全部を一度に見る模型が要る。それは分かる。だが——」
鄭仲謙は、表を指した。
「で、結局、中央の行は、この表のどこを見て、利を上げたり下げたりするのだ。家も商いも銀行も国も、と言われると、どこを見ればよいのか分からなくなる」
葉正言も、頷いた。
「私も、同じことを思った。大きな器の話は、分かった。だが、その器の中で、中央の行が実際に手を動かすのは、どこだ」
修平は、表を見下ろした。
確かに、そうだった。DSGEという器は、大きすぎる。全部がつながっている、と言われても、中央の行が何を見て、何をするのかという筋は、かえって見えにくくなる。
「その器から、中央の行が利を決めるのに要る骨だけを、抜き出してみます」
修平は、表の中の、三つの欄に丸をつけた。
物を買う力。物の値。中央の行の利。
「三本の骨だけで、骨格はつかめます」
韋明遠が、その三つの丸を、自分の紙に写した。
「三本」
「はい。——ただ、三本で世界ができているわけではありません。それは、先に申し上げておきます」
葉正言が、ふっと息を吐いた。
笑ったのかもしれなかった。




