第二巻 新法 第七回 ニューケインジアン・モデル
夏の盛りだった。
戸部の中庭の槐は、枝いっぱいに葉を茂らせ、詰所の小さな窓の半分を、緑の影で塞いでいた。部屋の中は蒸し暑く、机の上の紙が、汗ばんだ手に貼りついた。
修平は、その紙の上に、三本の横線を引いた。
「今日は、中央の行が利を決めるときの、三本の骨をお話しします」
詰所には、いつもの顔ぶれがいた。葉正言、鄭仲謙、蔣守拙、韋明遠。それに今日は、高元亨が、自ら足を運んでいた。これまでの話を番頭から聞いて、自分で聞きたくなったのだという。
「ニューケインジアンの模型の、いちばん削った形です。私の国の中央の行で働く者が、最初に教わる形でもあります」
修平は、一本目の線の左に、「買う力」と書いた。
二本目の線の左に、「値」と書いた。
三本目の線の左に、「利の決め方」と書いた。
「難しい式は、後回しにします。まず、それぞれが何を言っているのかを」
◇
「一本目。国中の者が、物を買う力です」
修平は、高元亨の方を向いた。
「高主人。商人が、倉庫を新しく建てようと考えているとします。銀行から銭を借りて建てる。借りる利が、年に三分なら、建てますか」
「建て得なら、建てますな」
「では、年に十分なら」
高元亨は、笑った。
「もう一年、待ちます。いや、三年待つかもしれませぬ」
「なぜ」
「十分の利を払ってまで今建てるより、手元の銭を貯めて、自分の銭で建てた方が得でございましょう。あるいは、利が下がるのを待つか」
「それです」
修平は、一本目の線に、矢印を書き込んだ。
「利が高いと、今使うより、貯める方が得になる。倉庫を建てるのを先に延ばす。農具を新しく買い替えるのを先に延ばす。利が低いと、先に延ばしていた買い物を、今に持ってくる。国中の者がそうするので、国全体の買う力が、利に合わせて、伸びたり縮んだりする」
「それだけか」
葉正言が、言った。
「それだけなら、昔から分かっていることだ」
「もう一つあります」
修平は、矢印の横に、小さく書き足した。
先の見込み。
「今日、物を買うかどうかは、今日の利だけでは決まりません。来年、自分の稼ぎがどうなりそうか。来年の利がどうなりそうか。それも見て決めます。来年、稼ぎが増えそうだと思えば、今年少し多めに使う。来年も、再来年も、利が高いままだと見込めば、今年の借り入れも買い物も控える。——だから、中央の行が、今日の利を動かすだけでなく、これから利をどうするつもりかを、人々にどう見込ませるかも、買う力を動かすのです」
高元亨が、腕を組んだ。
「先の見込みまで、中央の行が動かすと」
「動かそうとします。うまくいくかどうかは、別ですが」
◇
「二本目。物の値です」
修平は、二本目の線を指した。
「買う力が、作れる量を上回る状態が続くと、どうなりますか」
「値が上がる」
鄭仲謙が、すぐに答えた。
「買いたい者が多ければ、売る者は値を上げる」
「その通りです。逆に、買う力が弱く、作った物が売れ残れば、値は上がりにくくなる。下がることもある」
「それも、昔から分かっている」
「はい。ここからが、ニューケインジアンの肝です」
修平は、二本目の線の上に、いくつかの小さな縦棒を、ばらばらの間隔で書き込んだ。
「値は、一斉には変わりません」
修平は、縦棒を一本ずつ指した。
「米屋は、毎日、値札を書き換えます。けれど、布屋は、季節ごとにしか書き換えないかもしれない。鍛冶屋は、年に一度かもしれない。人を雇う賃金は、一度決めたら、何年も変えないこともある。値を変えるのには、手間がかかります。客に説明せねばならない。値を上げれば、客が離れるかもしれない。値を下げても、また上げるときに客が怒るかもしれない」
高元亨が、頷いた。
「両替の手数料も、そうそう変えませぬな。変えるたびに、客に言い訳をせねばならん」
「買う力が急に弱まったとします」
修平は、二本目の線を指でなぞった。
「すべての値が、その日のうちに、ちょうど釣り合うだけ下がるなら、物は売れ続け、人は雇われ続けるかもしれない。けれど、値はすぐには下がらない。値が下がる前に、何が起こるか」
韋明遠が、細い目を上げた。
「売れる量が、減る」
「はい。売れる量が減れば、作る量を減らす。作る量を減らせば、雇う人を減らす。値がすぐには動かないから、買う力の揺れが、値だけでなく、作る量と、雇われる人の数にまで響くのです」
修平は、もう一つ付け加えた。
「それに、商人も、来年の値がどうなりそうかを見込んで、今年の値を決めます。来年、世の中の値が一割上がりそうだと思えば、今年のうちに少し上げておく。値が上がるという見込みそのものが、今の値を押し上げる」
◇
「三本目。中央の行の、利の決め方です」
修平は、三本目の線を指した。
「中央の行は、二つのことを見ます。一つ目は、物の値の上がり方が、目指している上がり方から、どれだけ離れているか。二つ目は、国の商いが、無理なく回せる大きさから、どれだけ離れているか」
「値の上がり方を、目指す」
葉正言が、眉を寄せた。
「値を上げたいのか」
「その話は、後日、別にお話しします。今は、目指す上がり方があるとだけ思ってください」
修平は、三本目の線に書き込んだ。
「値の上がり方が、目指すより高すぎる、あるいは商いが過熱していれば、利を上げる。逆なら、下げる。——私の国には、それを一本の式にまとめた、ある学者の名を取った目安があります。値の上がり方がこれだけ離れていたら、利をこれだけ動かす、と」
「その式に従えばよいのか」
「目安です。従わねばならないものではありません。中央の行が、その目安とどれだけ違うことをしたかを見て、なぜ違うことをしたのかを説明させる。そのための物差しです」
修平は、三本目の線の横に、小さく「一より大きく」と書いた。
「この目安には、一つ、大事な考えが含まれています」
修平は、韋明遠の方を見た。
「値の上がり方が、目指すより一分高くなったとします。中央の行は、利をどれだけ上げるべきか」
韋明遠は、少し考えた。
「一分」
「一分では、足りないかもしれないのです」
修平は、紙の余白に、小さな計算を書いた。
「人々が、来年も値が一分余計に上がると見込んだとします。商人が倉庫を建てるために借りるとき、気にするのは、利から、値の上がり方を引いたものです。十年後に返す銭は、値が上がった分だけ、値打ちが軽くなっているのですから」
高元亨が、あ、と小さく声を上げた。
「値が一分余計に上がると見込まれているのに、利を一分しか上げなければ、利から値の上がり方を引いたものは、変わりません。借りる者にとっては、何も変わっていない。買う力は、弱まらない。値の上がりは、止まらない」
修平は、「一より大きく」の字を丸で囲んだ。
「だから、値の上がり方が一分離れたら、利は一分より大きく動かさねばならない、という考えです。ただ、人々の見込みが、実際の値の上がり方とぴったり同じに動くとは限りません。それに、凶作で米の値だけが上がっているようなときに、同じように利を上げてよいかは、また別の話です。——これも、目安の一つにすぎません」
◇
修平は、三本の線を、上から下へ、矢印でつないだ。
「三本をつなぐと、こうなります」
矢印を、指で辿った。
「中央の行が、利を動かす。借りる利と、先の見込みが変わる。家の使う銭と、商いの倉庫や船にかける銭が変わる。国全体の買う力が変わり、作る量と雇われる人が変わる。それを見て、商人が値のつけ方を変え、物の値の上がり方が変わる」
修平は、矢印の最後から、最初へ、もう一本の矢印を引いた。
「それを見て、中央の行が、また利を動かす」
詰所の中が、しばらく静かだった。
窓の外で、蝉が鳴いていた。
「一つ、分からぬ」
葉正言が、言った。
「値が、すぐには動かぬと言ったな。値がすぐに動かぬから、利を動かすと、作る量や雇われる人が動く、と」
「はい」
「では、値がすぐに動く国なら、どうなる」
修平は、少し感心して、葉正言を見た。
「値も賃金も、その日のうちに、ちょうど釣り合うだけ動く国なら」
修平は、ゆっくりと言った。
「中央の行が利を動かしても、その分、値が動くだけで、作る量や雇われる人は、ほとんど動かないでしょう。利を下げて買う力を強めても、値がすぐに上がって、それで終わる。中央の行が、国の商いの大きさに手を出せる余地は、小さくなります」
「では、値がすぐには動かぬというのは、中央の行にとって、都合のよいことなのか」
「都合がよい、というより」
修平は、言葉を選んだ。
「値や賃金が、すぐには動かない。だからこそ、中央の行が利を動かすと、しばらくのあいだ、作る量や雇われる人の数に効く。値が動かないことが、利の効き目の源なのです。そして、同じ理由で、買う力が落ちたとき、人が職を失うのです」
◇
「賃金の話を、もう少ししておきます」
修平は、二本目の線の上の、縦棒の一つを指した。
「賃金は、物の値よりも、さらに下がりにくい」
「それは、そうだろう」
鄭仲謙が、頷いた。
「俸給を下げると言われたら、誰でも怒る」
「はい。雇い主も、それを知っています。買う力が落ちて、物が売れなくなったとき、雇い主は、十人全員の賃金を二割下げるより、二人を辞めさせて、残りの八人の賃金はそのままにする方を選ぶことが多い。賃金を下げれば、十人全員が怒り、働かなくなるかもしれない。二人を辞めさせれば、怒るのは二人だけです」
蔣守拙が、目を伏せた。
「……会子の値が崩れた年、会子務でも、そういうことがございました」
「その二人は、職を失います」
修平は、言った。
「値が下がる、というのは、ただ物が安くなるということではありません。値が下がらなければならないほど買う力が弱っているとき、その重みは、職を失う者の上に、真っ先にかかるのです。私の国で、物の値が下がり続けることを恐れるのは、そのためです」
高元亨が、茶碗を置いた。
「物が安くなるのは、民にとってよいことだと、思っておりました」
「よいこともあります。作る技が上がって、安く作れるようになったのなら。けれど、買う力が落ちて、売れないから安くなるのなら、話は違います。その違いの見分け方も、いずれ、お話しせねばなりません」
◇
「では、林詳定」
鄭仲謙が、三本の線を見下ろしながら言った。
「この三本の式だけで、利を決めればよいのか。それなら、話は簡単だ」
「いいえ」
修平は、首を振った。
「式が三本だから世界が三本の式でできているわけではありません。これは複雑な天下から、政策に必要な骨だけを抜き出した模型です」
修平は、三本の線の外側を、指でぐるりと囲った。
「この三本の外には、たくさんのことがあります。銀行の取り付け。凶作で米だけが足りなくなること。北の戦。国の制度が変わること。先の見えない不安。どれも、この三本の中には、うまく入っていません。そういうことが起きたときには、この三本は、見当違いのことを言うかもしれない」
修平は、紙の余白に、一列に言葉を並べた。
「私の国の中央の行は、この三本の外で、こういうものを見ています」
物の値。そのうち、凶作や天候で大きく揺れるものを除いた値。さらに、外の国から入る物の値など、揺れやすいものを除いた値。人々が、先の値の上がり方をどう見込んでいるか。
作られた物の量。使われた銭。商いが倉庫や船にかけた銭。雇われている人の数。職を探している人の数。賃金。
利。銀行が貸す利。銀行が貸した額。預りの額。国の証文の利。倉庫や土地の値。
外の国との商い。銀の値。
両替商や商人への聞き取り。各地からの報告。先の短い見込み。悪い筋書きの試し。
「中央の行が見ているのは、利一つではありません」
修平は、並べた言葉を、指でなぞった。
「物の値、賃金、雇われる人、信用、見込み。それらがどうつながっているかを見るのです」
高元亨が、紙を覗き込み、しばらく黙って読んでいた。
「……今、この国で、このうちのいくつが、数として取れておりますかな」
修平は、苦笑した。
「ほとんど、取れていません」
詰所の中に、小さな笑いが起きた。
葉正言だけが、笑わなかった。
「では、まずは、それを取れるようにせねばならんな」
葉正言は、紙を手に取った。
「だが、その前に、一つ聞きたい。そなたは今日、利を上げる、下げる、と何度も言った。——利が、高いか低いかは、何で決めるのだ。年に三分は、高いのか、低いのか。十分は」
修平は、少し考えた。
「それが、次にお話しすべきことです」




