第七巻 資本市場 第三回 社債
舟の上の板に決まりが墨で書いてあった。
——喫水の線より下に荷を積まぬこと。
——浮く木の輪は舳先と艫に、各十。
——乗る者は名と行き先を帳面に記すこと。
——釜の前の柵の内に入らぬこと。
修平は艫の近くの屋根のある席に座って、その板を見ていた。
正月の半ばだった。楚州から揚州へ向かう通済の舟の上だった。
運河の水は、冬でも深さを変えない。両岸の柳は葉を落としていた。舟の両脇で外輪が規則正しく水を掻いていた。煙突の煙が低い空へ斜めに流れていった。
客の席は三つに分かれていた。修平の座る屋根と板の壁のある席。その前の屋根だけの席。舳先の荷の脇の屋根のない席。屋根のない席には、綿入れを着込んだ行商人や、籠を背負った女たちが肩を寄せ合っていた。
修平の隣に戸部の孟季常が座っていた。
「揚州から楚州まで帆と櫓の舟で、三日」
孟季常は言った。
「この舟で一日半。——塩の課の吏員が驚いておりました。塩の荷が倍の速さで楚州の倉に入る。帳面の付け方を変えねばならぬ、と」
孟季常は窓の外の柳の並びを見た。
「戸部が揚州の舟の組の話に口を出すのは、それがあるからです。この舟は塩を運ぶ」
◇
揚州の運河の東岸の塩の商人の家の広間だった。
邱承緒は五十を過ぎた、痩せた男だった。揚州で三代続く塩の商人の家の主。通済の舟を持つ、揚州の米と塩の商人の組の長だった。
広間には組の七つの家の主が揃っていた。それに、揚州の民の行の主。明州から舟の場の邵鳴岐が呼ばれて来ていた。
「舟をあと四隻」
邱承緒は言った。
「一隻、一万二千貫。四隻で、四万八千貫。——組の七つの家の蔵を開けて、出せるのは八千貫です」
「残りの四万貫を」
修平が言った。
「揚州の行に、また長く借りるつもりでおりました」
邱承緒は行の主の方を見た。
行の主は首を振った。冬に、開封の中央銀行の広間で隅の席に座り、竇守義の話に黙って頷いていた男だった。
「最初の二隻に、もう一万二千貫、貸しております。八年で返す約束で」
行の主は言った。
「その上に、四万貫。——うちの行の長い貸付の三つに一つが、通済の舟になります。舟が一隻、長江の口で沈めば、うちの行が揺れる」
広間が静かになった。
邱承緒は修平を見た。
「それで、開封の林詳定にお越しいただいた。——都では、行でも国でもない銭の集め方を議しておられると、聞きました」
◇
修平は卓の上に紙を一枚置いた。
国の証文の写しだった。孟季常が戸部から持ってきたものだった。
額面、百貫。利、年に五分。満期、十年。利を払う日、毎年、正月と七月の朔日。満期の日に、元の百貫を戸部が返す。
「国の証文です」
修平は言った。
「国は民からこの紙一枚で百貫を借ります。十年の間、年に二度、二貫五百文ずつ利を払い、十年目に百貫を返す。——揚州にも、この紙を持っている家があるでしょう」
「うちにもございます」
組の一人が言った。
「同じ形の紙を組が出します」
修平は言った。
「国ではなく、通済の舟の組が。——組の名で百貫の証文を四百枚刷る。揚州の塩の商人、米の商人、寺、質庫、蓄えのある家。四百人が百貫ずつ組に貸す。四万貫」
広間がざわめいた。
「国の証文と同じように、額面と利と満期と利を払う日と返し方を、紙の表にはっきり書きます」
修平は紙の余白に項目を書き出した。
——額面。一枚、百貫。
——利。年に何分。
——満期。何年目の何月何日。
——利を払う日。年に二度。
——返し方。満期の日に、額面の百貫を一度に。
——紙の持ち主の名。組の帳面に書き留める。
「揚州の行が四万貫を一つの蔵から貸すのと、何が違う」
行の主が言った。
「危うさが四百に割れます」
修平は言った。
「舟が一隻沈んでも、一つの行が揺れるのではない。四百の家が少しずつ揺れる。——そして、四百の家はそれぞれ自分の蔵の中の百貫だけを、この紙に替えている。家の蔵の全部ではない」
「利は」
邱承緒が言った。
「国の証文は五分。——組の証文も五分でよいのか」
「五分では誰も買いません」
孟季常が言った。
邱承緒が孟季常を見た。
「国は税を取ります」
孟季常は言った。
「国の証文の利は、国中の民の税から払われる。——国が利を払えなくなるのは、国中から税が取れなくなるときです。そうなることはめったにない。だから、五分で買う者がいる」
孟季常は窓の外の運河の方を手で示した。
「組の証文の利は、舟の稼ぎから払われます。舟が稼がなければ、利を払う銭がない。——同じ百貫を貸すなら、国に貸すより、組に貸す方が危うい。危うい方に貸す者は、その分多くの利を求めます」
修平は頷いた。
「どちらも借りの証文です。貸した者はどちらも利と元とを受け取る。——違うのは、利を払う銭がどこから来るか、です。国の証文は、国が取る税から。組の証文は、組の舟の明日の稼ぎから」
修平は紙に二つの丸を描いた。一つに「税」、もう一つに「舟の稼ぎ」と書いた。
「七分」
揚州の行の主が言った。
「行が舟に長く貸すときの利が七分です。——それより低ければ、行に預けておく方がいい。高すぎれば組が払いきれない」
◇
組の中の一番若い主が口を開いた。
三十の半ばの、米の商人の家の主だった。父の代から組に入っていた。
「四隻では足りぬ」
若い主は言った。
「揚州から楚州まで二隻で二日に一度では、客が乗りきれていない。去年の秋のふた月の帳面を見てください。屋根のない席に人が溢れている。——長江を上って江州まで行かせたい。四隻ではなく、八隻。八隻の分を全部証文で集めれば、組の蔵は一文も減らない」
「八隻なら、証文は九百六十枚」
修平は言った。
「九万六千貫を借りる。利は七分なら、年に六千貫を越えます」
若い主は頷いた。
「八隻が走れば、そのくらい稼ぐ」
「稼ぐかもしれません」
修平は言った。
「邵どの。去年の秋、高郵で舟が止まりましたね」
邵鳴岐が頷いた。
「軸の受けが焼けた。二日止まった」
「二日で済みました」
修平は言った。
「替えの品が揚州の倉にあったからです。——では、長江を上る舟が、夏の大水に当たって、ひと月動けなかったら。釜が冬の間にひびを入れて、三隻がふた月止まったら」
若い主は黙った。
「舟は沈んでいない。組の商いもしくじっていない。客はまた戻ってくる」
修平は言った。
「けれど、七月の朔日は来ます。利を払う日は、舟が止まっていようと、来る。——その日に、組の蔵に半年分の三千貫あまりがなければ」
修平は紙の上の「利を払う日」の項目に指を置いた。
「組は約束を破ります。証文を持つ者たちが組の門の前に並ぶ。組の舟を差し押さえに、刑部へ訴えに行く。——舟を差し押さえられれば、舟はもう稼げない。稼げなければ、次の利も払えない」
広間が静まり返った。
「商いがしくじったのではありません」
修平は言った。
「銭の巡りがひと月詰まっただけで、倒れる。——稼ぎが年ごとに大きく揺れる商いほど、借りを重くしてはなりません」
若い主は膝の上で拳を握っていた。
邱承緒が若い主の肩に手を置いた。
「……四隻にしよう」
邱承緒は言った。
「足りない分は次の年に。四隻が一年稼いでから、考える」
若い主は長いこと黙っていた。
それから小さく頷いた。
◇
話はそれから三日続いた。
満期を何年にするかで、一日が潰れた。
組の主たちは十年と言った。長ければ長いほど、元を返す日が遠くなる。その間に舟が稼げる。
邵鳴岐が首を振った。
「舟の腹の板は五年で張り替える」
邵鳴岐は言った。
「釜も五年で中の管を替える。——十年目の舟は、もう建てたときの舟ではない。建てたときの舟を形に取った証文が、十年目に何の形を取っておるのか、誰にも分からぬ」
修平は頷いた。
「形に取る物の命より長い借りにしない」
修平は言った。
「五年にしましょう。——五年目に元を返す銭は、四隻の五年分の稼ぎの中から、少しずつ積み立てておく。積み立ての額も、証文の表に書いておく」
組の主たちは渋い顔をした。けれど、邵鳴岐の船造り三十年の言葉には、誰も逆らわなかった。
揚州の行の主が問うた。
「最初の二隻には、うちの行の一万二千貫の貸しがある。舟そのものがその貸しの形になっておる。——組がしくじったとき、二隻の舟を売って、行が先に取る約束だ。新しい証文を買った者は、その二隻に手を出せるのか」
「出せません」
修平は言った。
「先に、行と約束があります。——新しい証文は、新しい四隻を形に取ります。組がしくじれば、四隻を売って、証文を持つ者たちに先に返す。四隻の舟の帳面の頭に、そのことを書いておく」
「形のない証文は出せぬのか」
邱承緒が言った。
「出せます」
修平は言った。
「組の舟でも倉でもなく、組そのものの稼ぐ力だけを当てにした証文。——ただ、しくじったとき、その証文を持つ者は、形を取った者たちが取り終えた後の残りしか取れません。だから、利をもっと高くしなければ、誰も買わない」
修平は紙に順を書いた。
——一、揚州の行(最初の二隻を形に取る)。
——二、新しい証文(新しい四隻を形に取る)。
——三、形のない証文(組の稼ぐ力だけ)。
——四、組の七つの家(出し合った者。最後に残った分だけ)。
「組が倒れたとき、誰から先に返すか」
修平は言った。
「それを、証文を刷る前に決めて、紙の表に書いておく。——後から決めようとすれば、争いになります」
孟季常がその紙を自分の帳面に写していた。
この順を刑部に持ち帰れば、賈知節が何と言うか。修平は少しそれが気になった。
◇
証文の紙は、揚州の会子の刷り場の古い職人に頼んだ。
中央銀行ができてから、会子の刷りは開封の本院に集められ、揚州の刷り場は、民の証文や商人の手形を刷る場になっていた。透かしの入った紙。多色の版。組の印と、邱承緒の印と、揚州の行の印。
証文の表には、額面と利と満期と利を払う日と、返し方と、形に取る四隻の舟の名とが刷られていた。裏には、組が倒れたときに誰から先に返すかの順が。
春の初め、四百枚の証文が組の門の前の机に積まれた。
利、年七分。満期、五年。
修平は開封へ戻る前の日、その机の脇に立っていた。
最初に来たのは、揚州の大きな寺の会計の僧だった。寺の田の小作の上がりを蔵に積んでいた。十枚。
次に、塩の商人の寡婦。夫の残した蔵の銭をどうしてよいか分からなかった、と言った。三枚。
寡婦は三枚の紙を受け取ると、机の脇に立つ修平に目を留めた。都の官の服だった。
「お役人さま」
寡婦は紙の裏を修平の方へ向けた。
「この裏の順というのは」
「組が立ち行かなくなったときに、誰から先に銭を返すかの順です」
修平は言った。
「あなたの紙は二番目です。新しい四隻の舟を売った銭から先に返してもらえます。——組の七つの家は、四番目。奥さまが返してもらった後に、残った分だけを受け取ります」
寡婦は紙の裏を長いこと見ていた。
「夫は組の七つの家の一つに入りたがっておりました」
寡婦は言った。
「入れば、舟の儲けが分けてもらえる、と。——入れてもらえぬまま、去年の冬に亡くなりました」
寡婦は三枚の紙を胸の前で重ねた。
「七つの家に入っていれば、儲けも大きい。けれど、組が倒れたら四番目。——この紙は、儲けは七分。けれど、倒れても二番目」
「はい」
「夫が生きていたら、四番目を選んだでしょう」
寡婦は少し笑った。
「私は二番目でよろしゅうございます。子がまだ小さいので」
寡婦は紙を懐へしまった。家の位牌の脇の箱に入れておく、と言って帰っていった。
修平はその背中をしばらく見ていた。
順を読んで自分で選んだ者が、少なくとも一人はいた。
運河の岸の茶館の主。一枚。
通済の屋根のない席に毎月乗っている、布の行商人。——百貫はとても出せない、と言って帰っていった。
修平は行商人の背中を見送った。
百貫の紙は、百貫を持つ者にしか買えない。
証文は十日で、四百枚全部が名を書き留められた。
◇
開封へ戻る舟の上で、孟季常が写した帳面を閉じた。
「林どの」
孟季常は言った。
「国の証文は国の証文と呼んでおります。——組の証文は何と呼べばよいでしょう。戸部の帳面に書くのに名が要ります」
修平は少し考えた。
「私の国では」
修平は言った。
「こういう商いの組を、会社、と呼びました。人が会して社を結ぶ。——その会社が出す借りの証文を、社債、と」
「会社。社債」
孟季常はその字を帳面の余白に書いた。
「村の社の祭りの社ですか」
「はい。同じ字です」
孟季常は字をしばらく見ていた。
「揚州の組は、七つの家が会して舟を持つ。——たしかに会社ですな」
孟季常は帳面を閉じた。
「ただ、まだ法の上では、組は七つの家の寄り合いにすぎません。組が倒れれば、七つの家の蔵まで刑部が見に行く。——会社という名を法の中に置かねば」
「はい」
修平は言った。
「それも春のうちに」
舟の外で、外輪が水を掻いていた。
◇
開封に戻った翌日、刑部の賈知節が詳定官の詰所に来た。
孟季常の写した順の紙を、賈知節は卓の上に置いて、長いこと読んでいた。
「形を取った者が先。形のない証文が次。出し合った者が最後」
賈知節は言った。
「刑部に来る訴えは、たいていこの順がどこにも書いておらぬから起きる。——貸した者が、それぞれ自分が先だと言い張る。書き付けの日付を比べ、証人を呼び、半年かけて、ようやく順を決める。その半年の間に、差し押さえた舟は河岸で腐る」
賈知節は紙を指で叩いた。
「刷る前に決めて、紙の裏に書く。——これは刑部の仕事を減らす」
「減りますか」
「減る。そのかわり」
賈知節は紙の四番目の行を指で押さえた。
「七つの家の、最後の残った分だけ。——残った分がなかったら。いや、四隻を売っても、証文を持つ者に返しきれなかったら。そのとき、七つの家はどこまで負う」
修平は、年の暮れにこの詰所の壁に貼った紙の一番下の行を思い出した。
——潰れて借りを返しきれぬとき、出し合った者はどこまで負うか。(未定。刑部と議す)
「その日を決めましょう」
修平は言った。
「春の終わりまでに」
賈知節は頷いて、紙を孟季常の帳面に戻した。
揚州の組の門の前の机の上で、四百枚の紙が四百の家の蔵の中へ散っていった。それぞれの紙の裏に、組が倒れたときの順が刷ってあった。
その裏を読んだ者が、四百人のうち何人いるか、修平には分からなかった。




