第七巻 資本市場 第二回 借金と出資
紙は黄ばんでいた。
修平は詳定官の詰所の奥の棚の一番下の箱から、それを出した。十一年前の夏にこの詰所で書いた表だった。墨の線が二本。左に「持ち物」、右に「負い目」と「元手」。
持ち物、千貫。負い目、九百五十貫。元手、五十貫。
右の欄の元手の五十貫を線で消して、「負の十貫」と書いた跡も残っていた。
「……これは」
戸部の員外郎、孟季常が紙を覗き込んで言った。
「覚えています。私はあの日、この卓のそちらの端に座っていた。——まだ三十代の終わりでした」
孟季常は自分の座っていた場所を指で示した。今、そこには太府寺丞の范汝舟が座っていた。
「銀行の元手は損を受け止める最初の壁」
孟季常は言った。
「元手が薄ければ、儲かる年には大きく儲かり、損が出た年にはあっという間に潰れる。——梃子の効き、と林どのは言われた」
「はい」
修平は言った。
「今日は、同じ表を銀行ではなく、工場について書きます」
年の暮れだった。
詰所には孟季常と、范汝舟と、中央銀行の鄭仲謙と、工部の員外郎が一人。それに、刑部から郎中の賈知節が来ていた。四十代の後半。刑部で二十年、商人同士の銭の争いの訴えを裁いてきた男だった。
卓の端に、汪徳潤が磁州から持ってきた帳面の束を置いていた。
◇
「磁州の機械の工場の今年の暮れの帳面です」
汪徳潤が言った。
「建てたのは今年の春。台が動き始めたのは夏の終わり。——まだ半年も経っておりません」
修平は新しい紙に二本の線を引いた。左に「持ち物」、右に「負い目」と「元手」。
汪徳潤が帳面を読み上げた。修平が書いた。
持ち物。
建屋と塀と井戸。六万貫。
台。子の台が十五台。蒸気の機械が一台。五万貫。
倉の鉄と鋼と刃。三万貫。
納めたのにまだ受け取っていない代銀。工部の工房へ。衛州の車を直す工場へ。二万貫。
手元の銭と民の行の預り。一万貫。
合わせて十七万貫。
負い目。
民の行からの借り。竇守義の行から三年で返す約束で。四万貫。
鉄の問屋へのまだ払っていない代銀。一万貫。
合わせて五万貫。
修平は筆を止めた。
「持ち物、十七万貫から、負い目、五万貫を引く」
「十二万貫」
鄭仲謙が言った。
「これがこの工場の元手です」
修平は右の欄の一番下に「元手、十二万貫」と書いた。
「汪どの。この工場を建てるとき、誰が銭を出しましたか」
「工部が五万貫」
汪徳潤は言った。
「磁州と相州の鉄の商人が十一の家で、七万貫。——私の家もその一つです」
「合わせて十二万貫」
「はい」
汪徳潤は頷いた。
「半年では、まだ儲けはほとんど残っておりません。刃で損をしていた頃のこともございますし」
汪徳潤は少し苦い顔をした。刃の値を、帳面の書き方を変えて見直したのは、この冬の初めだった。
修平は紙の右の欄を指で二つに区切った。
「この工場には、銭が二つの道から入ってきています」
修平は言った。
「一つは、借りた銭。竇守義の行の四万貫。——これは負い目の欄に載ります。もう一つは、出し合った銭。工部と十一の家の十二万貫。——これは元手の欄に載ります」
◇
范汝舟が丸い顔を傾けた。
「どちらも工場が銭を受け取った」
范汝舟は言った。
「竇どのの行から四万貫が入った。工部と商人たちから十二万貫が入った。——入った銭で台を買い、鉄を買った。工場の蔵から見れば、同じ銭ではないか。どちらの欄に書くかは、帳面の書き方の違いだけでは」
「帳面の書き方の違いです」
修平は言った。
「けれど、その書き方の違いが、困ったときに全部違ってきます」
修平は紙の脇に、もう一枚紙を置いた。
「来年、この工場が悪い年に当たったとします」
修平は言った。
「軍器監の注文が止まる。衛州の車を直す工場が、別の工場から軸を買い始める。——工場の稼ぎが半分になる」
汪徳潤が少し眉を寄せた。
修平は続けた。
「竇どのの行の四万貫。これには利が付いています」
「年に七分」
汪徳潤が言った。
「年に二千八百貫です。——それに、三年で元を返す」
「悪い年でも、その二千八百貫は払わねばなりませんか」
「払わねばなりません」
汪徳潤は言った。
「約束です。竇どのの行は、稼ぎが半分でも、利は半分にしてくれない」
「では工部と十一の家は」
修平は言った。
「悪い年に、工場は工部と十一の家に何を払わねばなりませんか」
汪徳潤は少し考えた。
「……何も」
汪徳潤は言った。
「儲けが出なければ、分ける儲けがない。分けなくても、誰も訴えはしません。——私の家も分けてもらえないだけです」
「そこが一つ目の違いです」
修平は紙に書いた。
——借りた銭には、返す約束がある。稼ぎが悪くても、利を払い、元を返す。
——出し合った銭には、返す約束がない。稼ぎが悪ければ、分けない。分けなくても、約束を破ったことにはならない。
「二つ目の違いがあります」
修平は言った。
「もっと悪い年です。——この工場が立ち行かなくなったとします」
◇
詰所の中が少し静かになった。
汪徳潤の前でその工場が潰れる話をするのは、気持ちのいいことではなかった。汪徳潤はしかし、黙って頷いた。続けてくれ、という顔だった。
「工場を畳みます」
修平は言った。
「建屋と台と倉の鉄を売る。——けれど、潰れた工場の台は、建てたときの値では売れません。子の台は磁州の他の工場が買うかもしれない。けれど、半値かもしれない。建屋はこの工場のために建てたものです。他に買い手がいないかもしれない」
修平は持ち物の欄の十七万貫を線で消した。
「売って手に入ったのが、七万貫だったとします」
「七万」
鄭仲謙が言った。
「その七万貫を誰に渡しますか」
修平は問うた。
賈知節が口を開いた。
「刑部の決まりで言えば」
賈知節は言った。
「まず借りた者に返す。——竇どのの行に四万貫。鉄の問屋に一万貫。借りの証文と代銀の書き付けがある者が、先に取る」
「残りは」
「二万貫」
賈知節は言った。
「それを出し合った者たちで、出した割合に従って分ける。——工部と十一の家とで」
「工部と十一の家が出したのは十二万貫でした」
修平は言った。
「戻ってくるのは二万貫。十万貫を失います」
修平は元手の欄の十二万貫の脇に「二万」と書いた。
「竇どのの行は」
「四万貫、全部戻る」
鄭仲謙が言った。
「そうです」
修平は言った。
「工場が悪くなったとき、損を最初にかぶるのは出し合った者です。——元手が損を受け止める最初の壁。十一年前に銀行について申し上げたことと同じです。借りた者に返しきった後に、残った分だけを出し合った者が受け取る」
修平は紙に書いた。
——借りた銭は、先に返してもらえる。
——出し合った銭は、最後に残った分だけを受け取る。損を最初にかぶる。
范汝舟は紙を長いこと見ていた。
「……では、出し合う者は損ばかりではないか」
范汝舟は言った。
「借りた者は、悪い年にも利を取り、潰れても先に取る。出し合った者は、悪い年には何も取らず、潰れれば最初に失う」
「その代わりに」
修平は言った。
「よい年を考えてみてください」
◇
修平は三枚目の紙を置いた。
「三年後。磁州から北へ鉄の道が延びる。道の車を直す軸も、鋼の場の壺の部品も、軍器監の筒を削る刃も、みんなこの工場が作る。——稼ぎが今の三倍になった、とします」
汪徳潤が少し笑った。
「そうあってほしいものです」
「竇どのの行は何を受け取りますか」
「……年に二千八百貫」
汪徳潤は言った。
「稼ぎが三倍になっても、利は七分のまま。——約束の額だけです」
「出し合った者たちは」
「儲けの全部」
汪徳潤は言った。
「借りた銭の利を払い、職人の賃を払い、鉄の代銀を払い、台の減りを見込んで、なお残った分は、全部出し合った者たちのものです」
修平は頷いた。
「借りた者は、よい年にも、悪い年にも、約束の額を受け取ります。出し合った者は、悪い年には何も受け取らず、よい年には残った全部を受け取る」
修平は三枚の紙を並べた。
「どちらが得か、という話ではありません。——危うさを誰がどれだけ負うか。その引き受け方が違うのです」
孟季常が紙を指でなぞった。
「国の証文を買う者と同じだな」
孟季常は言った。
「国の証文を買った者は、国がどれだけ税を取ろうと、利しか受け取らない。——その代わり、国がどれだけ困っても、利は受け取る」
「はい」
修平は言った。
「国には元手の欄がありません。国を出し合って持つ者はいませんから。——けれど、工場や鉄の道にはあります」
鄭仲謙が腕を組んだまま、口を開いた。
「行の側から一つ言うておく」
鄭仲謙は言った。
「竇どのがこの工場に四万貫を貸したとき、何を見て貸したと思う。——台の数でも、汪どのの腕でもない。元手の十二万貫だ」
鄭仲謙は紙の右の欄の一番下を指で叩いた。
「工場が潰れても、十二万貫の元手が先に削られる。削られきるまで、行の四万貫には手が届かぬ。だから、竇どのは安心して貸せた。——もしこの工場が、元手二万貫、借り十四万貫で建っておったら、竇どのは貸さなんだ。貸すとしても、利を倍は取った」
「元手が厚いほど借りやすい」
孟季常が言った。
「そうだ。そして、借りを増やせば増やすほど、元手は持ち物に比べて薄くなる。——薄くなれば、よい年には出し合った者の取り分が大きく膨らむ。悪い年には、あっという間に元手が消える」
鄭仲謙は修平を見た。
「梃子の効き、だったな」
「はい」
修平は言った。
「銀行でも工場でも鉄の道でも、同じです。——借りと出し合いの割合を、誰かが見ていなければなりません」
范汝舟が自分の帳面に何かを書きつけた。太府寺の市の帳面を二十年付けてきた男の細い字だった。
——元手と借りの割合。誰が見るか。
◇
賈知節が帳面の束を手元へ引き寄せた。
「一つ、刑部として聞いておきたい」
賈知節は言った。
「今の話で、工場が潰れて売っても七万貫にしかならなかった。借りた者に五万貫を返した。——では、七万貫ではなく三万貫にしかならなかったら、どうなる」
修平は賈知節を見た。
「借りた者に五万貫を返しきれません」
「そうだ」
賈知節は言った。
「今の刑部の扱いでは、そのときは出し合った十一の家の、家の蔵へ行く。——工場の借りは、出し合った者たちの借りでもある。家の田を売り、店を売ってでも、竇どのの行に返させる。刑部に来る訴えの半分は、そういう話だ」
汪徳潤の顔が少し固くなった。
「工部もですか」
工部の員外郎が言った。
「工部の出した五万貫の分は、工部の蔵へ行くのですか」
賈知節は首を振った。
「官の出し合いは前例が少ない。——だから、今聞いておる」
修平は少し黙った。
これは今日の話ではなかった。けれど、今日の話からまっすぐに続いている話だった。
「そこは別の日に議させてください」
修平は言った。
「出し合った者がどこまで負うのか。——鉄の道に、国中の民から十貫ずつ銭を集めるなら、そこを決めずには、一貫も集まりません」
賈知節は頷いた。
「刑部は待つ」
賈知節は言った。
「ただ、刑部に来る訴えは待ってはくれぬ」
◇
日が傾いて、官たちが詰所を出ていった後、汪徳潤が一人残った。
汪徳潤は自分の帳面を束ね直していた。
「父は」
汪徳潤は紐を結びながら言った。
「私が十五のときに、店を傾けかけました」
修平は黙って聞いた。
「磁州の北の河が溢れた年です。鉄の山からの石がひと夏来なかった。店の蔵は空になった。——そこへ父に銭を貸していた相州の両替の店が、返してくれと言うてきた。水の年だからこそ、あちらも銭が要ったのでしょう」
汪徳潤は紐をきつく結んだ。
「父は母の嫁入りの道具と家の裏の畑を売って、返しました。——店は残りました。けれど、翌年の春、石がまた来るようになっても、石を買う銭がなかった」
汪徳潤は帳面を胸に抱えた。
「借りた銭は、水の年にも返せと言うてくる。——今日の林どのの表を見て、あの年のことを思い出しました」
「出し合った銭なら」
「返せとは言わない」
汪徳潤は言った。
「その代わり、出し合った者は工場の行く先に口を出します。——十一の家のうち三つの家が、もうこの秋から私の台の選び方に意見を寄越しております」
汪徳潤は少し笑った。
「口を出す権利があると思っているのでしょう。出したのだから」
「あります」
修平は言った。
「出し合った者は工場の持ち主の一部です。——借りた者は工場の持ち主ではありません。竇どのの行は、利と元さえ返ってくれば、汪どのがどの台を買おうと、口を出さない」
汪徳潤はしばらく修平を見ていた。
「持ち主」
汪徳潤はその言葉を口の中で転がすように言った。
「工部と十一の家がこの工場の持ち主」
「はい」
「私は」
「汪どのは持ち主の一人で、工場の長です」
修平は言った。
「——その二つが同じ人でなくなる日が、いつか来ます。鉄の道に国中の民から十貫ずつ集めれば、持ち主は何万人にもなる。何万人が台の選び方に口を出すわけにはいかない」
汪徳潤は胸の帳面を少し強く抱えた。
何も言わずに頭を下げて、詰所を出ていった。
◇
その晩、修平は詰所の壁に紙を一枚貼った。
真ん中に縦の線を一本。
左に「借りる」。
——返す約束がある。
——悪い年にも利を払う。
——潰れれば先に返してもらえる。
——よい年にも約束の額しか受け取らない。
——持ち主ではない。口を出さない。
右に「出し合う」。
——返す約束がない。
——悪い年には分けなくてよい。
——潰れれば最後に残った分だけ。損を最初にかぶる。
——よい年には残った全部を受け取る。
——持ち主の一部。口を出す。
右の欄の下に、少し空けて一行書いた。
——潰れて借りを返しきれぬとき、出し合った者はどこまで負うか。(未定。刑部と議す)
修平は紙を少し離れて見た。
十一年前、この詰所で銀行の表を書いた。あの日、孟季常は三十代の終わりだった。竇守義は主の名代として身を乗り出していた。
同じ表が今夜、工場の表になった。明日は鉄の道の表になる。
——表は同じだ。
修平は思った。
違うのは、右の欄に名を書き込む者の数だった。十一の家から何万の民へ。
その何万の民の一人ひとりが、この壁の右の欄の意味を知っているとは限らない。




