第七巻 資本市場 第一回 誰の金で鉄道を造る
束は卓の上で二つに分かれていた。
工部の書庫の長い卓だった。左の束はひと月前までに届いた申し出。右の束はこの半月に届いた申し出。右の束の方が厚かった。
「四十七通」
沈維新が言った。
「衛州の港で車が動いた日から、ひと月と少し。——鉄の道が十九。鉄の山と炉が九つ。石炭の坑が八つ。舟の場が五つ。機械の工場が六つ」
沈維新は五十八になろうとしていた。工部の尚書の椅子に座って十年を越えていた。
修平は右の束の一番上の一通を手に取った。
相州の石炭の商人たちの連名だった。鶴壁の東の別の坑から衛州の道へ枝の道を引きたい。二十里。費えの見込み、二十六万貫。そのうち商人たちが出せるのは五万貫。一本目の道と同じく、費えの四つに三つを国の証文をもってお出しいただきたい。残りの一万五千貫あまりは、相州の民の行に借りる。
二通目は揚州の米と塩の商人の組だった。運河の定期の舟、通済がこの秋から揚州と楚州の間を走っている。二隻で二日に一度。舟をあと四隻造りたい。舟の場の見込みで一隻、一万二千貫。
三通目は京東東路の鉄の山のある県の知県の名だった。県の商人たちと炉を建てたい。磁州の鋼の場と同じ形の壺を。
修平は紙を卓に戻した。
「これを全部足し上げると」
「統計局の機械で足させた」
沈維新は束の脇の一枚の紙を修平の方へ押しやった。鍾九思の細い字だった。
四十七通の費えの見込みの合計。二千三百万貫あまり。
そのうち申し出た者たちが自分で出せると書いた銭。三百四十万貫あまり。
残りは二千万貫近く。
「国の一年の税の入りの五つに一つを越える」
沈維新は言った。
「しかもこれはひと月で届いた分だ。——春になればもっと来る」
修平は紙の数をしばらく見ていた。
どの申し出もでたらめではなかった。鉄の道の申し出には、道の長さと駅の数と運ぶ荷の見込みが書いてあった。舟の申し出には、通済のこの秋のふた月の客と荷の数が添えてあった。炉の申し出には、坑冶寺の鉱質の台帳のその山の石の番号まで。
一本目の道が走った。それを国中の者が見ていた。
見ていたから、真面目に数を揃えて申し出てきていた。
「工部としては」
沈維新は言った。
「どれも敷きたい。どれも建てたい。——だが、工部は銭を刷る役所ではない」
◇
戸部の葉正言の部屋は、冬の初めから炭を少し多めに入れるようになっていた。
葉正言は六十二になろうとしていた。
「国の証文で四つに三つ」
葉正言は沈維新の紙を卓に置いて言った。
「一本目の道はそれでよかった。道が崩れれば国が償う。車が人を轢けば国が償う。陛下が衛州の港でそう申された。——それは、国が負うと決めた一本の道だからだ」
葉正言は紙の二千万貫という数を指で叩いた。
「これを全部国が負えば、どうなるか。孟君」
戸部の員外郎、孟季常が脇の卓から帳面を持ってきた。孟季常は五十に手が届こうとしていた。中央銀行ができた頃から、戸部と中央銀行の間を行き来してきた男だった。
「国の証文の今の残り」
孟季常は帳面を開いた。
「これに二千万貫を足せば、残りは今の一倍半を越えます。利払いは年に百万貫あまり増えます。——これは一年きりの話ではございません。証文が満期になるまで、毎年払い続けます」
「道が稼げば利は払える」
沈維新が言った。
「稼げば」
葉正言は言った。
「稼がぬ道も出る。四十七通のうちいくつが稼ぐか、工部には分かるか」
沈維新は黙った。
「戸部にも分からぬ」
葉正言は言った。
「分からぬものを全部国が負う。——国は、国中の鉄の道と炉と坑と舟と工場の主になる。そのすべての帳面が戸部に来る。そのすべてのしくじりの償いが、国の証文の利払いとして国中の民の税から出ていく」
葉正言は修平を見た。
「十一年前からそなたが言うてきたことだ。国の証文は一度きりの大きな事業には使ってよい。堤や港や道のように、後の世の者も恩恵を受けるものには。——だが、国の商いのすべてを国の証文で賄うものではない」
「はい」
修平は言った。
「国が負うべき道と、国が負わなくてよい道とがあります」
「その負わなくてよい道を誰が負う」
修平はすぐには答えなかった。
◇
中央銀行の本院の奥の広間に民の行の主たちが集まっていた。
同知院事の鄭仲謙が呼んだのだった。開封の行が三つ、杭州の行が一つ、揚州の行が一つ。それに成都と広州から文で意見を寄せた行が二つ。
修平は広間の隅の席に座った。
開封の行の主の一人は竇守義という男だった。四十の半ば。十一年前、両替の店の番頭として帳場を空けられない主の高元亨の名代に、一人で詳定官の詰所へ来て身を乗り出して修平の表を見ていた男だった。高元亨は七十近くなって、店を竇守義に譲っていた。店は中央銀行ができた翌年に公認の行になっていた。
「鶴壁の道にうちの行も長く貸しております」
竇守義は言った。
「十年で返す約束で。——一本なら貸せます」
竇守義は指を一本立てた。
「二本目も三本目も同じように貸せと言われれば、うちの行の貸付の半分が鉄の道になる。一本の道がしくじれば、うちの行が傾きます」
杭州の行の主が頷いた。
「うちも同じだ。——それにうちの預りは短い。三月、半年、一年。預けた者はいつでも返せと言える。その預りで十年、二十年の道に貸す」
杭州の行の主は言った。
「預けた者たちが一度に返せと言うてきたら、どうなるか。——道の棒を剥がして売るわけにもいかぬ」
広間が少し静かになった。
竇守義が修平の方をちらりと見た。
「永豊櫃坊」
竇守義は言った。
「主はあの冬に死にました。——持ち物は負い目より多かった。足りなかったのは今日の銭だけだった。林どのが十一年前にそう言われた」
竇守義は自分の膝を見た。
「うちの主はあの三日間、一睡もしなかった。私は脇で銭を数えておりました。——民の行が鉄の道に長く深く貸すのは、あの三日間を自分から呼び込むことです」
鄭仲謙が修平を見た。
修平は頷いた。
反対ではなかった。行の主たちは誰も鉄の道に反対してはいなかった。貸せる量には限りがある、と言っているのだった。短い預りで長い道を支え続けることはできない、と。
◇
その日の夕方、戸部の東の廊の突き当たりの詳定官の詰所に客が二人来た。
一人は汪徳潤だった。磁州の機械の工場の長。四十になっていた。
もう一人は白い髭の背の高い老人だった。
「閻守業と申します」
老人は言った。
「磁州で鉄の問屋を四十年。——汪の家の先代とは同じ年に店を継ぎました」
閻守業は懐から一枚の地図を出した。
磁州の鋼の場から北へ。邯鄲。洺州。邢州。細い墨の線が河北西路の平らな野をまっすぐに北へ延びていた。
「百六十里」
閻守業は言った。
「邢州の北には鉄の山と石炭の坑があります。今は荷車で磁州の鋼の場まで五日。——この道があれば一日です。鋼の場の壺の数を増やせる。邢州の麦と綿も衛州の港へ下ろせる」
修平は地図を見下ろした。
この夏、工部に最初に届いた申し出の中にも、磁州から北へ、という紙があった。葉正言の部屋で束の厚さを手で測るようにして、葉正言が読み上げた一通だった。
「費えは」
「百八十万貫」
汪徳潤が言った。
「駅が七つ。橋が五つ。車と、車を直す場と、学びの場。賀どのの組に見積もりをお願いしました」
「出せるのは」
閻守業が少し黙った。
「磁州と相州と邢州の、鉄と石炭と米と綿の商人。——四十二の家が集まりました。家の蔵を全部開けて、田と店を質に入れる覚悟で、三十万貫」
閻守業は言った。
「それが限りです。三十万貫を出した家は、次の年の商いの銭がなくなる」
百八十万貫のうちの三十万貫。
六つに一つ。
「残りを」
修平が言いかけた。
「国の証文で、とは申しませぬ」
閻守業は言った。
「葉尚書が申し出を渋っておられることは、衛州の商人から聞いております。民の行が長く貸すのを嫌がっておることも。——それで林どのの所へ来ました」
閻守業は修平をまっすぐに見た。
「一本目の道が開く前に、林どのは葉尚書に、開通の後に改めて申し上げる、と言われたそうですな。——衛州の港の者から聞きました」
修平は少し驚いた。
あの言葉は、葉正言の部屋の中で鄭仲謙しか聞いていなかったはずだった。
話はどこかで漏れる。漏れて磁州の鉄の問屋の耳にまで届く。——この国の商人たちは、それほどまでに次の銭の出し方を待っていた。
「……はい」
修平は言った。
「申し上げます。——ただ、先に陛下に」
◇
御前廷議は冬の半ばの雪の朝だった。
皇帝は四十七になろうとしていた。座の左右に李徳彰と張文謹。張文謹は七十の手前で、座に着くとき脇の宦者の腕を借りた。
葉正言が四十七通の申し出と国の証文の残りの話を述べた。鄭仲謙が民の行の主たちの話を述べた。沈維新が、工部はどれも敷きたいのだ、と短く言った。
皇帝は黙って聞いていた。
「林詳定」
皇帝が言った。
修平は前へ出て拝礼した。
「今の話を一言で申せば、どうなる」
「銭がないのではございません」
修平は言った。
座の脇で葉正言が少し眉を動かした。
「国中には銭があります。——統計局にこの冬数えさせました」
修平は鍾九思の紙を手に取った。
「民の行の預りの総額。国中の公認の行の分だけで四千万貫を越えます。それに、行に預けられず、家の壺や床下や質庫の蔵に寝ている銭。これは数えられません。——ですが、十年あまり前に銭荒を調べたとき、国中の銅銭の少なからぬ分が退蔵されていると、戸部の帳面は見ておりました」
「ひと家、ひと家の蓄えは小さい。十貫。五十貫。百貫。——けれど、それを国中で足せば、鉄の道の二本や三本ではありません」
皇帝は頷かなかった。続けよ、という顔だった。
「足りないのは、その無数の小さな蓄えを一つの長い事業へ束ねる仕組みです」
修平は言った。
「国の証文は国が民から借りる仕組みです。民の行の預りは、行が民から預かって商人に貸す仕組みです。——どちらも今、限りに近づいています。国が借りすぎれば、税が利払いに消える。行が長く貸しすぎれば、行が預けた者の今日の払いに応えられなくなる」
「では三つ目は」
李徳彰が言った。
「事業そのものが民から銭を集める仕組みです」
修平は言った。
「国でもなく、行でもなく、鉄の道が自分で。——そのやり方が二つあります」
修平は紙を二枚広げた。
一枚目の上に「借りる」と書いてあった。
「一つは、事業が自分の名で証文を出す。——国の証文と同じ形です。額面、利、満期。道が民から直に借りる。百貫の証文を千枚出せば、十万貫。千人の民が百貫ずつ道に貸す」
二枚目の上に「持つ」と書いてあった。
「もう一つは、事業そのものを細かく切り分けて渡す。——道を十万に切り分ける。一つを十貫で買ってもらう。買った者は道に貸したのではない。道の十万分の一を持つ。道が稼げば、稼ぎの十万分の一を受け取る。道が稼がなければ、何も受け取らない」
座の間がざわついた。
「銭を返さぬのか」
呉承烈が言った。兵部尚書は六十八になろうとしていた。
「返しません」
修平は言った。
「借りたのではないからです。——道を持ったのです。田を買った者に、田の売り手が銭を返さないのと同じです」
呉承烈は腕を組んだ。
皇帝が言った。
「その二つは、同じ民の銭を束ねる、と申すのか」
「束ねます。ただ、束ね方が違います」
修平は二枚の紙を並べた。
「一つ目は、道が約束を負います。稼いでも稼がなくても、利を払い、満期に元を返す。二つ目は、道は何も約束しません。その代わり、持った者が道と一緒に儲かり、道と一緒に損をする」
修平は少し言葉を切った。
「国は一本目の道で四つに三つを負いました。——二本目からは、道のしくじりと儲けとを、国ではなく、道を選んだ民の一人ひとりが、自分で選んだ分だけ負う」
座が静かになった。
張文謹がゆっくりと口を開いた。
「民に損を負わせるのか」
「損をするかもしれない、と知ったうえで、それでもこの道は稼ぐ、と信じた者の銭だけを集めます」
修平は言った。
「そのために知らせることが要ります。道の帳面。稼ぎ。借り。——知らずに損をさせてはなりません」
張文謹は長いこと修平を見ていた。
それから皇帝の方へ顔を向けた。
皇帝は紙の「借りる」と「持つ」の二つの字を見ていた。
「林詳定」
皇帝は言った。
「朕は衛州の港で、この道の最後の責めは朕にある、と申した」
「はい」
「二本目の道の最後の責めは誰にある」
修平は少し考えた。
「道を持つ者たちに。——ただし、持つ者たちが互いに騙し合わず、道を預かる者が持つ者を騙さないための決まりの最後の責めは陛下に」
皇帝は少し笑った。
「決まりを作れ、ということか」
「はい」
皇帝は座の者たちを見渡した。
「戸部。太府寺。中央銀行。刑部。それに、工部」
皇帝は言った。
「林詳定と共に、この二つのやり方を詳しく定めよ。春のうちに形を持って来い。——急がずともよい。だが、止まるな」
皇帝は立ち上がりかけて、もう一度修平を見た。
「そなたの問いを一行で書いておけ。朕は覚えておく」
修平は拝礼した。
◇
廷議が終わって、宮城の廊下を戸部へ戻る道で、修平は葉正言と並んで歩いた。
雪が廊下の屋根から落ちていた。
「そなたはあの晩、言わなかった」
葉正言が言った。
「衛州の開通のふた月ほど前の晩だ。国の銭でも、行の銭でも、商人の蔵の銭でもない銭が要る、と。——それだけで止めた」
「はい」
「なぜ止めた」
修平はしばらく歩いた。
「私の国でこの仕組みは国を豊かにしました」
修平は言った。
「鉄の道も船も炉も、この仕組みで敷かれ、建てられました。——それと同じ仕組みが、何度も熱に浮かされて崩れました。崩れるたびに、預けた者も、持った者も、持たなかった者まで、職と蓄えを失いました」
葉正言は黙って歩いていた。
「どう形にすれば崩れにくいのか。それを考えていました」
「考えはまとまったか」
「まとまっていません」
修平は言った。
「ただ、陛下が、止まるな、と言われました」
葉正言は少し笑った。
「会子を刷りすぎた祖父も、同じことを言われたのかもしれぬ」
葉正言は廊下の角で足を止めた。
「——だから、戸部はそなたの隣に座る。刷りすぎた家の孫として」
◇
その晩、修平は詳定官の詰所の灯の下で、一枚の紙に筆を置いた。
皇帝に一行で書いておけ、と言われた。
何度か書きかけて消した。
鉄の道の費え。四十七通。二千三百万貫。国中の壺の底の寝ている銭。竇守義の三日間。閻守業の四十二の家の蔵の底。
鉄の道は今日、銭を食う。稼ぐのは明日だ。十年先、二十年先まで稼ぎ続ける。
明日の稼ぎを、今日の枕の木と鉄の棒と橋の鋼に変える。
修平は書いた。
——事業は、明日の稼ぎを今日の元手へどう変えるのか。
書いてから、しばらくその一行を見ていた。
自分の世では、答えはもう書かれていた。社債。株式。会社。取引所。——その答えの一つ一つに、この国の言葉を当てていかねばならない。当てるたびに、この国の誰かの銭が、その言葉の中へ入っていく。
詰所の窓の外で雪が降り続いていた。
廊下の先の戸部の帳場に、まだ灯がついていた。孟季常が国の証文の残りの帳面を閉じずにいるのだろう、と修平は思った。




