第六巻 産業 第十六回 蒸気、川を上る
最初の舟は沈みかけた。
明州の船場の、河口の試しの水面だった。長さ十丈あまりの平底の木の舟。舟の真ん中に、貝爾の工場の束の機械をそのまま据えた。釜と、筒と、筒の外で湯気を縮める箱と、重い輪。舟の両脇に水車のような大きな外輪が一つずつ。
機械を据えた日、舟は真ん中で沈み込んだ。舳先と艫が反り上がった。舟の腹がぎしぎしと鳴った。
邵鳴岐は岸からそれを見ていた。
船造り、三十年。舟がどこでどう鳴けば、どこが折れかけているのかは分かった。
「降ろせ」
邵鳴岐は言った。
「機械を降ろせ。——舟が折れる」
◇
「工場の機械は重くていいのです」
その晩、船場の詰め所で貝爾は言った。
「地面の上に据えるのだから。地面はどれだけ重くても沈まない」
貝爾は卓の上に舟の束の図を広げた。工部の書庫でこの半年、少しずつ厚くしてきた束だった。
「舟の機械は、同じ力で半分の重さにしなければならない。——筒の外で縮める箱は、冷やす水がたくさん要る。舟なら河の水がいくらでもある。でも箱が重い。釜の湯気をもう少し強くすれば、筒が細くて済む。釜も小さくて済む」
「湯気を強くする」
邵鳴岐は言った。
「釜が裂ける」
「裂けないようにします」
貝爾は図の上の釜の板を指で叩いた。
「杜布林どのの鋼の場の板で。鋲は、韋金森どのの台で穴を穿った板に。——それに湯気の強さを読む器と、弁と、封と、焚く者の許しの札と」
邵鳴岐は図を長いこと見ていた。
「舟の方も変えねばならぬな」
やがて邵鳴岐は言った。
「機械の重さを舟の腹の一か所に載せるから、折れる。——舟の底に太い梁を、舳先から艫まで通す。機械の重さを、梁で舟の全体に散らす。石炭は機械の前と後ろに分けて積む。舟がどちらにも傾かぬように」
貝爾は頷いた。
「舟のことは邵どのに」
「機械のことは貝爾どのに」
邵鳴岐は少し笑った。
「——三年半前、都水監の官と、泉州と潭州の親方たちとこの話をしたときも、同じことを言うた。舟は舟の者が、機械は機械の者が」
◇
二隻目の舟が明州の河口の水面を自分で動いたのは、春の終わりだった。
外輪が水を掻いた。
舟はゆっくりと潮の流れに逆らって進んだ。
岸で見ていた船場の職人たちが声を上げた。帆を張っていなかった。櫓を漕ぐ者もいなかった。舟は煙突から黒い煙を吐きながら、流れに逆らって進んでいった。
邵鳴岐は舟の上にいた。
舵を握っていた。
舵は重かった。外輪が水を掻くたびに、舟が左右にわずかに揺れた。左右の外輪の水を掻く深さが、少し違っていた。
邵鳴岐は舵を握ったまま、艫の機械の前に立つ火夫に叫んだ。
「右の輪が深い」
火夫が何か叫び返した。機械の音で聞こえなかった。
邵鳴岐は舵を艫の職人に預け、機械の前まで歩いていった。
火夫は若い男だった。邵鳴岐はその顔に見覚えがあった。
三年半前の秋。開封の東水門の外の、河岸の石段の下。汴河の糧船の列を、肩に綱を掛けて曳いていた男たち。休みの合図で綱を外し、河の水で顔を洗っていた、若い男。
「……そなた」
「覚えておいでで」
火夫は額の汗を袖で拭った。
「曳き手でした。——去年、工部の裏庭で貝爾どのが機械を焚く者をひと月ずつ教えておられると、河岸で聞きました。曳き手の頭が行けと言うた。お前は若いから、と」
火夫は機械の湯気の強さを読む器を指した。針は赤い印の手前にあった。
「焚いてよいという札のようなものは、まだございません。——貝爾どのはいずれ要るようになる、と言うておられました」
邵鳴岐はしばらく何も言えなかった。
三年半前、邵鳴岐は自分の帳面の最後に、一行書いた。曳き手、一艘に二十。この者たちの行く先も、いずれ議すべし。
議したのは朝廷ではなかった。曳き手の頭とこの若い男だった。
◇
舟は一つの形では足りなかった。
邵鳴岐は夏の間、都水監の官と、国中の河の水の深さの帳面を広げた。
運河。——揚州から楚州までは、深さが一年中ほとんど変わらない。流れもゆるい。
長江の下流。——深い。広い。ただ夏の大水のとき、流れが速くなる。
汴河。——泗州から開封までは、夏は深いが、冬は浅くなる。底に黄河の泥が溜まる。浅瀬で糧船が止まる。
贛江。北江。——瀬が続く。岩がある。冬はひどく浅い。
「全部の河を一つの舟で走ることはできぬ」
邵鳴岐は言った。
「運河と長江には、今の舟を少し大きくしたもの。汴河には、底をもっと平らに、浅くしたもの。機械も小さく。——贛江や北江には、今は無理だ」
都水監の官が頷いた。
「都水監で河ごとに、水の深さの竿を立てさせよう」
都水監の官は言った。
「汴河の泗州から開封までの間に、十里ごとに。竿の水の深さを朝と夕に読ませる。読んだ数を、電信の線が通っておれば、線で開封へ。——舟を出すか出さぬかを、その数で決められる」
邵鳴岐は都水監の官の顔を見た。
都水監は河の堤と、水門と、舟の通り道とを預かる役所だった。水の深さを十里ごとに読ませる役所ではなかった。
今、そうなろうとしていた。
◇
秋の初め、運河の揚州から楚州までの間に、最初の決まった日に走る舟が出た。
舟の名は通済、と付けられた。
汴河の古い名から取った。邵鳴岐が付けた。
通済を持つのは、揚州の米の商人と塩の商人たちとが、銭を出し合って作った船の組だった。明州の船場が舟を造り、組が買った。買う銭の半分は、揚州の民の行が長い期間で貸した。——貸すに当たって、民の行は鄭仲謙に一度相談したという。
通済は揚州を四日に一度、朝に出て、楚州に翌日の昼に着いた。楚州を次の朝に出て、揚州にその次の日の昼に戻った。
風が吹いても、吹かなくても。
逆らう流れでも。
通済の後ろに、綱で繋がれた荷の舟が四艘、五艘。
◇
通済が揚州の岸を離れる前の朝、邵鳴岐は艫の機械の前に立っていた。
若い火夫——曳き手だった男——が、機関士の脇で帳面を読み上げていた。
「釜の水、目盛りのここ。湯気の強さの針、零から上がり始め。弁の封、切れておらず。弁の腕、動く。軸の受けの油、差した。外輪の軸、ひびなし。石炭、船の前、三百斤。後ろ、三百斤。替えの蓋の革、二組。替えの弁、一つ」
機関士が一つずつ、自分の目で確かめた。
確かめ終えて、帳面に名を書いた。
それから舟の長——船長——に、帳面を渡した。船長も帳面を読み、名を書いた。
船長は揚州の米の舟の古い舟頭だった。帆と櫓の舟を三十年、運河で走らせてきた。
機械のことは知らなかった。
ただ、運河のどこが浅く、どこで筏が急に出てくるか。どこの岸に子供がよく泳いでいるか。それは誰よりも知っていた。
「船長と、機関士と、火夫と、舟の上の者と」
邵鳴岐は出る前の船の組の者たちに言った。
「四つの役は別の者に。——船長は、舟をどこへどう行かせるかを決める。機関士は、機械をどう動かすかを決める。船長が急げと言っても、機関士が、釜が危ういと言えば、船長は急がせてはならない」
船の組の頭が眉をひそめた。
「船長の言うことを、機関士が聞かぬのか」
「釜のことだけは」
邵鳴岐は言った。
「釜のことだけは、機関士が決める。——舟が遅れても、沈むよりはいい」
◇
通済が走り始めて半月で、揚州と楚州の港に決まりが要るようになった。
運河には帆の舟も、櫓の舟も、筏も、漁の舟もいた。通済はそれらより速かった。追い越すとき、外輪の起こす波が小さな舟を揺らした。
ある夕方、楚州の港の手前で、通済が漁の小舟を追い越した。波で小舟が傾いた。漁師が一人、水に落ちた。
通済の舟の上の者が綱を投げた。漁師は綱に掴まって上がってきた。
漁師はずぶ濡れのまま、通済の船長を罵った。
船長は黙って聞いていた。
その夜、楚州の港の役人と、通済の船長と、邵鳴岐とが港の詰め所で紙を書いた。
港の決まった範囲に入ったら、機械の舟は速さを落とす。外輪の回りを決めた数より上げない。
港に入る順と出る順を、港の役人が旗で決める。
機械の舟は港に近づいたら、笛を鳴らす。——湯気で鳴らす太い笛。貝爾が釜の脇に付けた。
夜は舳先に白い灯。右の舷に緑の灯。左の舷に赤の灯。
機械の舟を繋ぐ場所は帆の舟と分ける。
楚州の工場の酸と、火薬と、粘土の棒は人の乗る舟に載せない。載せる舟は旗を揚げる。
「灯の色は」
港の役人が言った。
「なぜ右が緑で、左が赤なのだ」
「どちらでもいいのです」
邵鳴岐は言った。
「どちらかに決めることが大事なのです。——夜、向こうから来る舟の赤い灯が見えたら、その舟の左の舷がこちらを向いている。そう、どの港のどの舟の者も同じに読めるように」
◇
通済が運河の途中で止まったのは、走り始めてひと月目のことだった。
揚州と楚州のちょうど真ん中あたり、高郵の湖の東の岸に沿った長い堤の脇だった。外輪の軸を受ける真鍮の受けが焼けた。油を差す管が揺れで外れていた。
機関士はすぐに火を落とした。
舟は流れのない運河の上で止まった。後ろに繋いだ荷の舟が四艘、ゆっくりと通済の艫に寄ってきた。
替えの軸の受けは舟に積んでいなかった。明州の船場か、揚州の港の船の組の倉にしかなかった。
船長が岸へ人を走らせた。揚州まで歩いて一日半。
通済は二日、堤の脇に止まっていた。荷の舟の米の商人たちが、堤の上を行ったり来たりしていた。
三日目に、揚州から帆の舟で、替えの受けと直す職人が着いた。
揚州に戻った通済の船長と、邵鳴岐と、船の組の頭は、港の詰め所で紙を書いた。
舟にいつも積んでおく替えの品。軸の受け、二組。蓋の革、三組。弁、一つ。管の継ぎ手。油。
揚州と、楚州と、その真ん中の高郵の三つの港に、石炭と澄んだ水と替えの品の倉を置く。高郵には直す職人を一人住まわせる。
舟が途中で止まったら、次に通る機械の舟が、綱で曳いて近い港まで連れていく。曳いた舟の船の組は、曳かれた舟の組から決まった費えを受け取る。
「舟一隻ではないのだな」
船の組の頭が紙を読み終えて言った。
「一隻の舟を走らせるつもりでおった。——走らせてみたら、港と倉と、直す者と、曳いてくれる次の舟とが要った」
「河の道です」
邵鳴岐は言った。
「舟はその上を走る一台の車にすぎませぬ」
◇
秋の半ば、通済の二隻目が運河を走り始めた。
通済には人も乗るようになった。
揚州の商人。楚州の工場へ行く工部の技官。塩の浜の村へ帰る者。
人を乗せるにはまた別の決まりが要った。
一隻に何人まで。——舟の腹のどこまで水に沈んでよいかの線を、舳先と艫と、舷の真ん中に描いた。人と荷とでその線が水に隠れたら、それ以上は乗せない。
舟の上に浮く木の輪を、乗る者の数の半分だけ積む。
機械の前の釜の周りには客を入れない。
石炭を積む場所と客の座る場所の間に、板の壁を立てる。
乗る者の名を、乗る前に帳面に書く。字の書けぬ者は、船の組の者が書く。——舟に何かあったとき、誰が乗っていたのかが分かるように。
運賃は三つに分けた。屋根の下の板の間。屋根の下の筵の上。甲板の上。
甲板の上の運賃は、揚州から楚州まで歩いて行くときの宿二晩の代より、安かった。
◇
秋の終わり、邵鳴岐は揚州の船の組のふた月分の帳面を読ませてもらった。
石炭が、帳面の出の欄の一番大きな行だった。
揚州の港で積む石炭と楚州の港で積む石炭とで、値が違った。楚州の方が安い。楚州には淮水を下って、北の坑の石炭が舟で来る。揚州にはその石炭が、楚州からさらに運河を下って来る。
船の組は石炭を楚州で多めに積むようにした。
石炭の値が運賃を決めていた。
石炭の値を決めているのは、鶴壁の五十丈の底と、そこから石炭を運ぶ牛の荷車と、舟と港だった。
邵鳴岐は帳面の入りの欄も見た。
荷の運賃と人の運賃。それに一つ、新しい行があった。
文。——揚州と楚州の間の商人たちの文を、通済が決まった日に運ぶ。一通、いくら。
帆の舟の頃は、文はついでの舟に頼んで運んでもらっていた。いつ着くかは風しだいだった。
揚州の米の商人の一人が邵鳴岐に言った。
「楚州の蔵の米を揚州で売る約束を、通済の着く日に合わせて結べるようになった」
商人は笑った。
「前は、米がいつ着くか分からぬから、蔵にふた月分の米を寝かせておいた。今はひと月分で足りる。——ひと月分の米の銭が浮いた」
邵鳴岐はその話を帳面の余白に書き付けた。
去年の春、開封の東水門の外の紡ぐ場で、許稼民が綿の梱の札の待った日の行に朱で線を引いたと、聞いていた。
いつか、煙を吐く舟が決まった日に来るようになれば。
運河の上では、その日が来ていた。
◇
その月のうちに、邵鳴岐は工部の書庫に呼ばれた。
壁の、国の北半分の地図の前に賀通遠が立っていた。
賀通遠は地図の上の、衛州の河の港を指で示した。細い墨の線がそこで、青い線にぶつかっていた。
「鉄の道の駅と河の港とを繋ぎたい」
賀通遠は言った。
「冬の初めに、鶴壁からこの港まで道を開きます。開いた日から、石炭が毎日ここへ着く」
「鉄の道で鶴壁から運んだ石炭を、駅で下ろし、荷車で港まで運び、舟に積む。——今の図では、駅と港の間が半里ある。半里を荷車で運べば、その分、石炭の値が上がる」
賀通遠は邵鳴岐を見た。
「港のどこに舟を着ければ、鉄の道を港の岸まで引き込めるか。石炭を車からそのまま舟へ落とす台を、どこに置けるか。——舟の者に訊きたかった」
邵鳴岐は地図を見上げた。
衛州の港の岸のどこが深く、どこに泥が溜まるか。冬にどこまで水が引くか。
衛州の港には行ったことがあった。四年前の蒸気の舟の話の後に、都水監の官と河の港をいくつも回った。
「岸の東の端」
邵鳴岐は言った。
「あそこは冬でも深い。——ただし今は、塩の蔵が建っておる」
「塩の蔵は動かせる」
賀通遠は言った。
「河の深さは動かせない」
二人は地図の前で、しばらく黙って並んで立っていた。
地図の上の細い墨の線は、四年前の暮れに引かれたままだった。
その線の衛州の端に、邵鳴岐は小さな四角い印を一つ描き足した。
舟と車とが出会うところ。




