第六巻 産業 第十五回 度量衡の壁
軸は、軸の受けに入らなかった。
衛州の河の港の脇の、鉄の道の車を直す工場だった。組み上げかけの蒸気の車が一台、太い木の台の上に載せられていた。車の腹の下に大きな鉄の車輪が二組。車輪と車輪を繋ぐ太い鋼の軸。
軸は、開封の工部の工房で、韋金森の子の台で削られたものだった。
軸を受ける真鍮の受けは、磁州の汪徳潤の工場で削られたものだった。
工場の職人が軸の端を受けの穴に差し込もうとした。
入らなかった。
ほんの少しだった。軸の端が受けの穴の縁に引っかかる。槌で軽く叩けば、入りそうに見えた。
「叩くな」
賀通遠が言った。
職人の手が止まった。
「叩いて入れた軸は回らない。回っても熱を持つ。熱を持てば焼ける。——焼けるのはこの工場の中ではない。走っている道の上だ」
賀通遠は、軸の端と受けの穴とを、それぞれ蘇玄機の器で測らせた。
ねじひと巻きで、髪の毛の何分の一かだけ進む細い器。盤の縁の百の刻み。
軸の端は、図の太さより、盤の刻み三つ分太かった。
受けの穴は、図の太さより、盤の刻み四つ分細かった。
二つとも図と違っていた。
二つとも、それぞれの工場の通る型と通らぬ型は、くぐっていた。
◇
「どちらの工場も法の尺を使っております」
太府寺の丞、范汝舟は言った。
開封の工部の書庫だった。卓の上に、衛州から運ばせた軸と受けとが並べられていた。
卓を囲んでいたのは賀通遠と、韋金森と、沈維新と、范汝舟。それに太府寺から、范汝舟が連れてきた老いた吏が一人。符懐清。太府寺の尺と升と権衡を預かる蔵の番を、三十年務めてきた男だった。
修平は卓の端に座っていた。
「工部の工房の基準の尺は、太府寺の蔵の法の尺から写したもの」
范汝舟は言った。
「磁州の工場の尺は、磁州の州の役所の尺から写したもの。磁州の州の尺も元は、太府寺の蔵の法の尺から写したものです。——どちらも法の尺です。国の尺は一つです」
韋金森が卓の上の軸を指で叩いた。
「一つの尺から写した二つの尺で測った。——それなのに合わない」
「写したのはいつだ」
沈維新が問うた。
符懐清が口を開いた。
「工部の工房の尺は去年。韋金森どのが母の機械を作られるときに、太府寺の蔵で写させました」
「磁州の州の尺は」
符懐清は少し口ごもった。
「……蔵の帳面を見ねば分かりませぬ。三十年前か、五十年前か」
◇
賀通遠はその日のうちに、磁州の州の役所から尺を取り寄せさせた。
十日後、尺が届いた。
銅の細長い板だった。表に十の寸の刻みと、寸ごとの十の分の刻み。裏に写した年と、写した者の名が刻まれていた。
五十二年前だった。
表の刻みは、ところどころ擦り減って薄くなっていた。尺の両端の角も丸くなっていた。五十二年、磁州の役所で布と、材木と、土地の境を測ってきた尺だった。
賀通遠はその尺を、工部の工房の基準の尺と並べた。
それから太府寺の蔵へ行った。
◇
太府寺の蔵は、城の中の太府寺の庁舎の奥にあった。
厚い土の壁の、窓の小さな蔵だった。中は夏でもひんやりしていた。
符懐清が奥の棚から、漆塗りの細長い箱を、両手で捧げるように取り出した。
箱を開けると、黄色い絹に包まれた一本の銅の尺があった。
法の尺。国の尺の元。
尺の脇に、同じ箱の中に、升と権衡の元の器が収められていた。
「この尺を写すときは」
符懐清は言った。
「蔵の中で写します。蔵の外へは出しませぬ。——写す銅の板をこの尺の横に並べ、刻みを一つずつ合わせて刻む」
「写した尺は何本ある」
賀通遠が問うた。
符懐清は蔵の帳面を開いた。
「国の全ての州と、県と、市の役所に一本ずつ。——ただし、この蔵の尺からじかに写したのは、路の役所の尺だけです。州の尺は路の尺から写す。県と市の尺は州の尺から写す」
賀通遠は黙って帳面を見ていた。
「磁州の州の尺は、河北西路の路の尺から写した」
「はい」
「その、路の尺は」
「路の役所にございます。——写したのは帳面によれば、七十年ほど前」
賀通遠は帳面から目を上げた。
「写した尺から、写した尺。その尺から、また写した尺」
賀通遠はゆっくりと言った。
「一度写すごとに、ほんの少しずれる。写す者の目。刻む鑿の幅。——そして写した尺は、使うたびに擦り減る。五十年、使えば」
「……ずれましょうな」
符懐清は言った。
「ずれるのは存じております。布や材木なら、それで構わぬほどのずれでございます」
「布なら構わない」
賀通遠は言った。
「軸と軸の受けは、構う」
◇
工部の書庫に戻って、賀通遠は黒い板に三つの丸を描いた。
「軸と受けが合わなかった。——なぜか。三つに分けます」
一つ目の丸に字を書いた。
元の尺と写した尺とのずれ。
「太府寺の法の尺と、磁州の州の尺と。間に何度写しが入ったか。写すたびに、どれだけずれたか」
二つ目の丸。
測る道具の減り。
「磁州の尺は、五十年使われて、端が丸くなっている。刻みが薄くなっている。——工場の通る型と通らぬ型も、毎日何百の部品に当てられて、少しずつ減る。減った型は少し太い軸を通してしまう」
三つ目の丸。
測るときのありさま。
「これが、一番見えにくい」
賀通遠は韋金森を見た。
「韋金森どの。夏の暑い日に削った軸と冬の寒い日に削った軸は、同じ物差しで測っても違う、と。——前に工房で言っておられた」
「言いました」
韋金森は頷いた。
「鉄は暑いと伸びる。寒いと縮む。軸も物差しも伸びたり、縮んだりする。軸と物差しとで伸び方が違う」
賀通遠は衛州の車を直す工場の帳面を、卓の上に開いた。
「軸は、開封の工房で冬の朝に測られた。受けは、磁州の工場で夏の昼に測られた。磁州の工場は鋼の場の隣です。夏の昼は屋根の下がひどく暑い」
賀通遠は黒い板の三つ目の丸の下に書き足した。
熱さ。支え方。当てる力。
「物差しを軸にどれだけの力で押し当てるか。物差しを台の上に寝かせて測るか、手で立てて持つか。——同じ軸を同じ物差しで測っても、測る者によって少しずつ違う」
沈維新が腕を組んだ。
「つまり、地方の者が勝手な尺を使っておる、という話ではないのだな」
「違います」
賀通遠は言った。
「磁州の工場も開封の工房も、正しく法の尺を使っている。——同じ尺を使っていても、測った数にはずれが出る。それ自体がこの国の仕組みの問題です」
◇
「ではどうする」
沈維新が言った。
「法の尺を国中に何千本写し直すのか」
「写し直すだけでは足りません」
賀通遠は黒い板を消した。
それから、上から下へ一本の段の付いた線を描いた。
一番上に、太府寺の蔵の法の尺。
その下に二本。一本は太府寺に。一本は工部に。——法の尺から、じかに、蔵の中で写した尺。これを一の等の尺とする。
その下に路と、大きな州と、工場の集まる町とに一本ずつ。——一の等の尺から写した尺。これを二の等の尺とする。
一番下に、工場の中の物差しと型。——二の等の尺から写し、二の等の尺と比べるもの。
「上から下へ写す。——ここまでは今と同じです」
賀通遠は、段の一つ一つの脇に小さな字を書き足していった。
「違うのはここからです。どの尺にも番号を刻む。そしてどの尺にも一冊の帳面を付ける」
帳面に書くこと。
いつ、どの上の尺と比べたか。
比べたとき、どれだけずれていたか。
比べたときの蔵の中の熱さ。
比べた者の名。
次に、いつ比べるか。
「工場の一本の型を手に取る。——その型の帳面を見れば、どの二の等の尺と、いつ比べたかが分かる。その二の等の尺の帳面を見れば、どの一の等の尺と、いつ比べたかが分かる。一の等の尺の帳面を見れば、法の尺といつ比べたかが分かる」
賀通遠は段の線を下から上へ、指で辿った。
「工場の一本の型から太府寺の蔵の法の尺まで、糸を手繰るように遡れる」
賀通遠は指を黒い板から離した。
「正しい物差しを配る仕組みではありません。——この物差しがなぜ正しいと言えるのかを、辿れる仕組みです」
書庫の中がしばらく静かだった。
符懐清が小さく息をついた。
「蔵の帳面に写した年と、写した者の名はございます」
符懐清は言った。
「ですが写した後に、元の尺ともう一度比べたことはございませぬ。——写した尺は、写した日からずっと正しいものとして使われてまいりました」
◇
「熱さは」
韋金森が言った。
「比べるときの熱さを書くだけでは足りません。何度の熱さのときの長さを、国の長さとするかを決めねばならない」
賀通遠は頷いた。
「太府寺の蔵は、夏も冬も熱さがあまり変わらない。——蔵の中の春と秋のならした熱さを、国の長さの熱さとする。羅蘭徳どのの熱さの器で、その熱さの目盛りを決める。比べるときは、尺も測るものも、その熱さの部屋に一晩置いてから」
「工場の中の型は」
「工場の中で測るときの熱さを帳面に書く。熱さが決めた幅を越える日は、精しい部品は測らない。——あるいは熱さの違いの分を、表で足し引きする。その表は韋明遠どのに作っていただく」
韋金森は少し笑った。
「工場に熱さの器が要りますね」
「工場の測る部屋にだけ」
賀通遠は言った。
「全部の工場の全部の台の脇に、熱さの器を置けとは言いません」
◇
「一つ訊かねばならない」
沈維新が言った。
「全ての部品を同じ精しさで作らねばならぬのか。——鉄の道の橋の桁も。蘇玄機の計算の機械の歯車も。貝爾の機械の軸の受けも」
「いいえ」
賀通遠は首を振った。
「全部を髪の毛の何分の一の精しさで作れば、費えが何十倍にもなる。台も、型も、測る者も足りなくなる」
賀通遠は黒い板の端に表を一つ描いた。
縦に部品の名。横に、どこまでのずれなら許すか。
「橋の桁。——ずれは指の幅の何分の一か。計算の機械の歯車。——蘇玄機どのの器の盤の刻み一つか二つ。蒸気の車の軸と軸の受け。——盤の刻み二つ」
賀通遠は表の横に等を書き込んだ。一の等、二の等、三の等、四の等。
「部品ごとにどの等かを図に書く。等ごとに許すずれの幅を決める。——図を見れば、どれだけ精しく作ればよいかが分かる。精しすぎる必要はない。粗すぎてはいけない」
「今の軸と受けは」
「軸は刻み三つ太かった。受けは刻み四つ細かった。——どちらも一つだけ見れば、許せる幅の端の方です」
賀通遠は卓の上の軸と受けを見下ろした。
「軸の許す幅と受けの許す幅とを、別々に決めていた。軸が太い方の端で、受けが細い方の端のとき、合わなくなる。——二つの幅を一緒に決めねばならなかった。合わせるものは、合わせたときにどうなるかで決める」
◇
「市の布の尺は」
范汝舟が言った。
「大工の尺は。米の升は。——あれも全部、この段の線に入れるのか」
范汝舟の声は少し硬かった。
「市の布の尺は、布の商いの何百年の慣いでございます。大工の尺も土地ごとに少しずつ違う。それで困ったことはない。——それを全部、工場の軸と同じに改めよと言えば、市が混乱いたします」
「改めません」
賀通遠はすぐに言った。
「布の尺も、大工の尺も、米の升も今のまま使っていただく。慣いは慣いのまま。——ただ、官が買うもの。鉄の道。機械。船。坑。兵の道具。そういう別の場所で作ったものを、組み合わせねばならぬものだけ。それを作る工場には、段の線に繋がった物差しを使い、帳面を付けることを求めます」
范汝舟はしばらく黙っていた。
それから頷いた。
「太府寺で、その段の線の一番上を預かりましょう」
范汝舟は言った。
「法の尺は太府寺の蔵にございます。——国の尺はそれ一つで、国中同じでございます。この春、工部の一室で、私は林詳定にそう申し上げた」
范汝舟は修平の方をちらと見た。
「今日分かりました。一つであることと、国中で同じであることは、別のことでございますな」
修平はこの春のあの部屋を思い出していた。元の型は何と比べて正しいのですか。——あのとき、自分はそれ以上は訊かなかった。
訊いても、答えを持っていなかった。
◇
話が終わる前に、修平が一つだけ口を開いた。
「尺とねじの寸法とを分けていただきたい」
皆が修平を見た。
「尺は、長さを測るための共通の言葉です。——ねじの太さをどの寸法の組にするか。鉄の道の棒の形をどうするか。軸の太さを何種類にするか。それは、何を作るかの決まりです」
修平は言った。
「尺を揃えることと作るものの形を揃えることを、一つの話にすれば、どちらも決まらなくなります。尺は、太府寺と工部とで。作るものの形は、使う役所と作る工場とで。——別の卓で決めてください」
賀通遠が頷いた。
「言葉と文とは、別に決める」
賀通遠は言った。
「同じ言葉を使わねば、文は通じない。でも同じ言葉を使えば、同じ文になる、というわけではない」
◇
秋の初め、衛州の車を直す工場に蘇玄機の器と、熱さの器と、番号を刻んだ二の等の尺が届いた。
尺の帳面の最初の頁には、太府寺の蔵で一の等の尺と比べた日と、ずれと、蔵の熱さと、比べた者の名——符懐清——が書かれていた。
工場の測る部屋で、軸と軸の受けとがもう一度測られた。
軸は、新しい決まりの許す幅の中に収まるように、開封の工房で削り直された。受けも磁州で削り直された。
削り直した軸が受けの穴に差し込まれた。
軸は叩かずに、すうっと入った。
職人が軸の端を手で回した。
軸は受けの中で滑らかに回った。
賀通遠はそれを見ていた。
「鉄の道の二本の棒の間の広さも、同じです」
賀通遠は隣の修平に言った。
「鶴壁で測った広さと、衛州で測った広さが、一寸の何十分の一か違えば。——その継ぎ目で車輪が跳ねる」
賀通遠は工場の外の試しの道の方を見た。
「この道がいつか開封へ伸び、北の大名府へ伸び、もっと北へ伸びたとき。国の端と端とで同じ広さで敷かれていなければ、道は繋がらない」
修平は頷いた。
四年前の暮れの廷議で、賀通遠は最初に、二本の棒の間の広さを国中で一つに決める、と言った。——あのときは、それが一枚の紙の上の一つの数だった。
今、その数を国中で同じに測るための、段の線ができようとしていた。
◇
開封へ戻る道で、賀通遠はふと言った。
「太府寺の蔵の、あの法の尺も」
修平は賀通遠を見た。
「銅の板です。——いつか減る。いつか曲がる。蔵が火事になれば溶ける」
賀通遠は秋の空を見上げた。
「私の世では、国の長さをどこかの蔵の一本の尺ではなく、どこででも、何度でも同じに測れるもので決め直そうとしていました。——何を使ったのかは私の学んだことの外です。光か、何かの揺れの速さか」
「この国でも、いつか」
「いつか」
賀通遠は言った。
「周学衡どのの研究の所の若い者たちが。——今はまだ、蔵の尺を大事にしまっておくしかありません」
馬の蹄の音が乾いた道に響いていた。
道の脇に電信の柱が一定の間を空けて、北へ並んでいた。




