第六巻 産業 第十四回 土に眠る雷
丘の岩は青く硬かった。
相州の西の太行の山の裾が、平らな野へ最後に張り出したところだった。賀通遠の細い墨の線がこの丘を横切っていた。鶴壁の坑から北の磁州へ向かう道。丘を避けて回れば、道は二十里長くなる。曲がりもきつくなる。
丘を削ることになった。
削り始めて三月が経っていた。
賀通遠は、丘の削りかけの切り通しの底に立って、岩の壁を見上げていた。壁には鑿の跡が無数に並んでいた。
坑夫たちが鉄の鑿を岩に当て、槌で叩く。一日叩いて、腕の長さほどの穴が一つ開く。穴に火薬を詰め、口を土で塞ぎ、火縄に火を付ける。
鈍い音がして、岩が少しだけ崩れる。
崩れた岩を籠で運び出す。
また叩く。
「一日に三尺」
賀通遠は言った。隣に喬仲堅が立っていた。鶴壁の坑から岩を砕く坑夫たちを貸していた。
「この丘を抜けるのに、今のままなら二年」
喬仲堅は黙って頷いた。
「鶴壁の新しい縦の坑も同じです」
喬仲堅は言った。
「五十丈の下の硬い岩の層に当たりました。石炭の層はその下です。——今の火薬では、坑夫がひと月叩いて、一丈」
賀通遠は、岩の壁の鑿の跡を指でなぞった。
「火薬は爆ぜる。でも、爆ぜ方が遅い」
賀通遠は言った。
「押す。岩を押し広げる。——硬い岩は押しても動かない。叩き割らねばならない」
◇
「叩き割る薬はあります」
羅蘭徳は言った。
開封の工部の書庫だった。卓の上に、楚州から運ばせたあの甕が置かれていた。石鹸の釜の底に残る甘い油。
「この甘い油を、鉛の部屋の一番濃い酸と硝石から作った酸とを合わせた中へ、少しずつ垂らす。——冷やしながら。熱くなれば、その場で爆ぜる」
羅蘭徳は甕の蓋に手を置いた。
「できるのは油です。黄色い、重い、とろりとした油。——その油が、火薬の何倍も速く、強く爆ぜる。岩を押すのではなく、叩く」
卓を囲んでいたのは沈維新と、賀通遠と、喬仲堅と、葛元亮。それに修平が末席にいた。
「その油を岩の穴に流し込むのか」
沈維新が問うた。
「流し込めば、岩は割れます」
羅蘭徳は言った。
「でも流し込む前に運ばねばならない。運ぶ途中で揺れる。落とす。——この油は、揺れても、落としても爆ぜる。温めても。冷えて固まったのを溶かしても」
羅蘭徳は、卓の上に白い土をひとつまみ置いた。
「だからそのまま使ってはならない。この油を何かに吸わせる。水が砂に染みるように。——吸わせた油は、揺れても、落としても爆ぜにくくなる。火縄では爆ぜない。別の小さな火の仕掛けで、叩いて初めて爆ぜる」
「何に吸わせる」
「それを探します」
羅蘭徳は言った。
「私の国では、ある湖の跡から出る白い、軽い土に吸わせた。——この国のどこにその土があるのかは知らない」
修平は卓の端で黙って聞いていた。
この話の中身に、自分が言えることは何もなかった。
ただ、賀通遠の丘の切り通しの帳面を見ていた。一日に三尺。二年。二年の間に切り通しに立つ坑夫の賃と、糧と、鑿と、火薬と。
それに切り通しが開くまで、鶴壁の石炭は牛に曳かれて、二日かけて磁州へ行く。
◇
試しは、楚州の工場の敷地から、一里離れた荒れ地の真ん中で始まった。
土を盛った塁で四方を囲んだ小さな小屋だった。
羅蘭徳と、葛元亮と、楚州の工場から選んだ化学の技官が二人。それに徒弟が一人。丁小乙という十九の若者だった。塩の浜の村の生まれで、鹼の工場で半年あまり甕を運んでいた。字が読め、手が器用だった。
羅蘭徳は最初の日、小屋の中の決まりを紙に書いて壁に貼った。
一度に作る油は盃に一杯まで。
混ぜるときは槽の氷で冷やし続ける。熱さの器の目盛りが決まった線を越えたら、すぐに全てを水の大きな桶に空ける。
油を入れた器は落とさない。叩かない。擦らない。
作った油は、その日のうちに吸わせる試しに使いきる。残さない。
ひと月、小屋の中で盃に一杯ずつの油が作られた。
羅蘭徳はそれをいろいろなものに吸わせてみた。木の粉。炭の粉。鋸の屑。紙を煮て潰したもの。煉瓦の粉。
吸わせたものを小屋の外の塁の陰で試した。高いところから落とす。鉄の槌で叩く。火にくべる。
木の粉に吸わせたものはよく吸ったが、叩くと爆ぜた。煉瓦の粉は吸いが悪かった。吸いきれなかった油が粉の塊の底から滲み出た。
羅蘭徳は一つずつ帳面に書いた。
葛元亮はそのひと月、小屋の中の羅蘭徳の手元を見ていた。
羅蘭徳の手はゆっくりだった。器を持ち上げるときも、置くときも。台の上の器と器の間をいつも広く空けていた。
「怖いですか」
ある晩、丁小乙が羅蘭徳に訊いた。
「怖い」
羅蘭徳は言った。
「怖いと思っているうちは、手がゆっくり動く。——怖くなくなったときが、一番危ない」
◇
ふた月目に入って、寒さが厳しくなった。
楚州の冬は、淮水の風が荒れ地の上を吹き抜けた。小屋の中の水の桶に、朝、薄い氷が張った。
ある朝、羅蘭徳は開封からの呼び出しで、楚州の城へ出かけていた。葛元亮は、工場の方で鉛の部屋の継ぎ目を見ていた。
小屋には技官の一人と丁小乙がいた。
前の日の夕方、技官は吸わせる試しに使いきれなかった油を盃に半分、小さな硝子の瓶に移し、小屋の棚に置いていた。決まりに背いていた。——翌朝すぐに使うつもりだった。
朝、瓶の中の油は白く固まっていた。
夜の寒さで凍っていた。
丁小乙は瓶を、小屋の隅の、手を温めるための小さな炭の火鉢のそばへ置いた。
溶かそうとした。
凍った油は温めれば、またとろりとした油に戻る。前にも、朝固まっていた水の桶の氷を、そうやって溶かしていた。
しばらくして、丁小乙は溶けかけた瓶の硝子の栓を抜こうとした。
栓は瓶の口に擦り合わせてあった。栓と口の擦り合わせの間に、油が薄く入り込んでいた。
栓を捻った。
◇
音は楚州の城まで聞こえたという。
葛元亮が荒れ地の小屋に駆けつけたとき、小屋の屋根はなかった。塁の内側の土が黒くえぐれていた。
技官は小屋の戸口の外にいて、塁の陰に吹き飛ばされていた。耳から血を流していたが、立ち上がることはできた。
丁小乙は小屋の中にいた。
左の手がなかった。
顔の半分と胸に、硝子の欠片が刺さっていた。
楚州の城から医官が来た。汴河の南の塔で作った一の等の雫の壺を、医官は抱えてきていた。傷を洗い、欠片を抜き、縫った。
丁小乙は三日、目を覚まさなかった。
四日目に目を覚ました。
◇
羅蘭徳はその日のうちに、小屋の試しを全て止めた。
楚州の工場の酸の部屋と、鹼の工場は動かし続けた。けれど荒れ地の小屋の跡には縄が張られ、誰も近づかせなかった。
開封から沈維新が来た。修平も来た。
楚州の知州の役所の奥の間に集まった。
工部の沈維新と員外郎。楚州の知州、柴文淵。羅蘭徳と、葛元亮と、吹き飛ばされた技官。それに開封から太医局の医官と、刑部の吏が一人ずつ。
「誰の咎か」
刑部の吏が言った。
奥の間が静まった。
吹き飛ばされた技官が口を開いた。
「私です」
技官は言った。耳にはまだ布が巻かれていた。
「使いきれなかった油を瓶に残して、棚に置いた。決まりに背いた。——丁小乙は、私が残した瓶を溶かそうとしただけです」
「私の咎でもあります」
羅蘭徳が言った。
「凍った油を溶かしてはならない。擦り合わせた栓の瓶に入れてはならない。——私はそれを知っていた。知っていて、壁の決まりに書かなかった。冬が来ることを考えていなかった」
沈維新が手を上げた。
「咎の話は、刑部と工部とで別にする」
沈維新は言った。
「今日、ここで決めたいのは何が起きたかだ」
沈維新は羅蘭徳を見た。
「一つずつ分けて言え」
◇
羅蘭徳と、葛元亮と、技官とがひと月かけて、何が起きたかを紙に書いた。
紙は五つの欄に分かれていた。
熱さ。——油は冷やしすぎると凍る。凍った油は溶けかけるとき、一番危うい。小屋の火鉢は手を温めるためのもので、油のそばに置くことを誰も禁じていなかった。
叩くこと、擦ること。——硝子の栓の擦り合わせの間に油が入り込んでいた。栓を捻れば擦れる。擦れれば爆ぜる。
量。——決まりは盃に一杯としていた。瓶の中には盃に半分。それだけで、小屋の屋根がなくなった。盃に一杯なら、塁がなくなっていた。
器。——油を入れる器を決めていなかった。硝子の瓶は割れれば、欠片が刺さる。
運ぶこと、残すこと。——使いきれなかった油をどうするかを決めていなかった。技官は翌朝使うつもりで残した。
五つの欄の下に、それぞれ何を変えるかが書かれた。
小屋の中に火を置かない。暖は塁の外の別の小屋で取る。小屋の中の熱さを朝と昼と夕に測り、帳面に書く。凍るほど冷えた日は試しをしない。
油を入れる器は、蝋を引いた紙の筒か、鉛の、蓋のない浅い皿。栓のある器は使わない。
作る量は盃に半分まで。
作った油はその日のうちに吸わせきる。吸わせきれなかった油は、決まった場所で、決まったやり方で捨てる。捨てたことを帳面に書く。
混ぜる台と試しをする者の間に、厚い土の壁を立てる。混ぜる槽の酸と油を垂らす口は、壁の向こうから、長い棒と細い管とで操る。
小屋に入る者は、名を塁の門の帳面に書く。入ってよい者の名は羅蘭徳が決める。
油と、吸わせたものと、火の仕掛けとをしまう蔵を、別に建てる。蔵に入れたもの、出したものを、一つずつ帳面に書く。蔵から切り通しや坑へ運ぶ道も決める。人の家のそばを通らない道を。
沈維新はその紙を開封へ持ち帰った。
ひと月後、紙は工部の中で写され、工部の危うい工場を持つ全ての組へ配られた。鶴壁の坑へ。磁州の鋼の場へ。汴河の南の塔へ。楚州の工場へ。軍器監の火薬の小屋へ。
紙の頭に沈維新の字で、一行書き加えられていた。
——事が起きたら、隠さずこの形で書き、工部へ上げよ。人が傷つかなくとも、上げよ。上げた者を、上げたことで罰しない。
◇
修平は開封へ戻る前に、楚州の医官の家に寝かされている丁小乙を訪ねた。
丁小乙は目を覚ましていた。顔の半分に布が巻かれていた。左の腕の手首から先に布が巻かれていた。
修平が名を名乗ると、丁小乙は身を起こそうとした。医官が止めた。
「……試しは止まりましたか」
丁小乙は言った。
「止まりました」
修平は言った。
「春になったら、また始まります。——小屋の中に火を置かない。栓のある瓶を使わない。凍った日は試しをしない。あなたの起きたことを、全部書いた決まりで」
丁小乙はしばらく天井を見ていた。
「私のしたことが決まりになるのですか」
「あなたのしたことではなく」
修平は言った。
「あなたに起きたことが」
丁小乙は目を閉じた。
修平はそれ以上何も言わなかった。
楚州から開封へ戻る舟の上で、修平は工部の沈維新に宛てて、短い書き付けを書いた。
——事の書き付けを工部の中に留めず、年に一度統計局で数えたい。どこのどんな工場で何が起きたか。傷ついた者、傷つかなかった者。坑と、炉と、酸と、爆ぜるものと。十年溜まれば、どこで何がどういうときに起きるかが、見えてくる。——鶴壁で貝爾どのが、坑冶寺に言われたことと同じです。
それからもう一行。
——丁小乙のこの先の暮らしのことを、工部で議していただきたい。今、それを定めた決まりはどこにもありません。
◇
春、楚州の荒れ地に新しい塁と、新しい小屋が建った。
試しがまた始まった。
今度は、羅蘭徳は吸わせる土を国中から集めさせていた。坑冶寺と各路の転運司とに文を回した。白く、軽く、水に浸けるとよく吸う土。湖や池の干上がった跡から出る土。
三十あまりの見本が楚州に届いた。
その中の一つが、京東東路の山あいの古い池の跡から出た土だった。
手のひらに載せると、ほとんど重さがなかった。指で潰すと、細かな白い粉になった。粉を盃の水に落とすと、粉はしばらく浮いてから、水を音もなく吸い込んで沈んだ。沈んだ粉を掬い上げて量ると、粉の重さの何倍もの水を抱えていた。
「……これです」
羅蘭徳は盃から目を離さずに言った。
その土に、盃に半分の油を吸わせた。
吸わせた土は湿った粘土のように手で捏ねられた。高いところから落としても爆ぜなかった。鉄の槌で叩いても爆ぜなかった。火にくべると、ぼうっと燃えただけだった。
小さな銅の筒に別の薬を詰めた火の仕掛けを差し込み、仕掛けに火縄で火を送った。
塁の向こうで、土の塊が雷のように鳴った。
◇
初夏、相州の西の丘の切り通しの底で、坑夫たちが岩の壁に穴を穿っていた。
穴は前よりずっと深かった。
穴に油紙で包んだ粘土の棒のようなものを詰めた。その棒の端に小さな銅の筒を差し込んだ。筒から長い火縄を引いた。
賀通遠が切り通しの底から人を全て上げさせた。
喬仲堅が切り通しの上の両端に赤い旗を立てた。丘の周りの村の道にも人を立たせた。
火縄に火が付けられた。
しばらくして、丘が鳴った。
切り通しの底から土煙が高く上がった。
土煙が晴れるのを半刻待った。坑の中と同じように、爆ぜた後の気が底に溜まる。——貝爾が鶴壁の坑で決めたのと同じ待ち方だった。
半刻後、賀通遠は切り通しの底へ降りた。
岩の壁が、人の背丈の倍ほどの高さにわたって崩れていた。
鑿と今までの火薬で、ひと月かけて崩していた量だった。
◇
その夏、切り通しはひと月に今までの十倍の速さで延びた。
鶴壁の新しい縦の坑は、硬い岩の層をふた月で抜けた。
粘土の棒は楚州の新しい蔵から、決まった道を通って、決まった数だけ運ばれた。一本ずつに番号が付いていた。坑と切り通しの蔵の番は、受け取った番号と、使った番号と、使わずに返した番号を帳面に書いた。
秋の初め、鶴壁の坑の蔵の帳面の番号が三本合わなかった。
喬仲堅は坑口の頭と、蔵の番と、入坑簿とを突き合わせた。三本はどこにもなかった。
喬仲堅は、そのことを坑冶寺と、工部と、相州の知州へ書き送った。
相州の知州から、開封府と刑部とへ書き付けが回った。
三本の粘土の棒は見つからないまま、秋が深まっていった。
修平は統計局の部屋でその書き付けの写しを読んでいた。
楚州の荒れ地の、あの屋根のない小屋。盃に半分の油。
三本の棒がどこかの誰かの手の中にある。
修平は書き付けの写しを、工部の事の書き付けの束とは別の束に綴じた。
束の表に字を書こうとして、筆が止まった。
この束をどこの役所に渡せばいいのか。
まだどこにもなかった。




