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第六巻 産業 第十三回 化学工業の炉

 鉛の部屋は、三つ目の月に泣き始めた。


 楚州の城の北の、淮水と運河の交わる岸から少し離れた荒れ地だった。三年前、羅蘭徳が工部の地図に三つの印を付けた。その一つ。塩の浜に近く、淮水の舟と運河の舟の、どちらも着ける。


 荒れ地の真ん中に、木の骨組みの建屋が三棟並んでいた。建屋の中はどれもがらんとした、一つの大きな部屋だった。壁も天井も床も、全て薄い鉛の板で張られていた。


 鉛の部屋。


 隣の炉で硫黄を焼く。焼いて出る鼻を刺す気を、硝石の気と一緒に鉛の部屋へ送り込む。部屋の中に湯気を吹き込む。気と湯気と硝石の気とが、部屋の中で混ざり合い、ゆっくりと雫になって床へ降りる。


 床に溜まった雫が硫の酸だった。


 三つ目の月のある朝、葛元亮が二つ目の部屋の外を回っていると、鉛の壁の継ぎ目の一つから、黒い筋が一本垂れていた。


 筋の下の地面の草が枯れていた。


 葛元亮は筋の出どころを辿った。壁の鉛の板と板を継いだところ。継ぎ目を、鉛を溶かして埋めてある。その埋めた鉛に、髪の毛ほどのひびが入っていた。


 ひびから酸が滲み出ていた。


  ◇


「小さな部屋では泣かなかった」


 羅蘭徳はひびを指で押さえずに、目だけで見ていた。


 工部の裏庭に、三年前、羅蘭徳は人が一人入れるほどの小さな鉛の部屋を作らせた。その部屋は一年泣かなかった。


「小さな部屋は壁が少ない。継ぎ目が少ない。——中の熱さもどこも、ほとんど同じだった」


 羅蘭徳は大きな部屋の壁を見上げた。


「この部屋は、炉に近い側と遠い側とで、熱さが違う。熱い側の鉛は伸びる。冷たい側の鉛は伸びない。伸びる鉛と伸びない鉛の、境の継ぎ目が引っ張られて割れる」


 羅蘭徳は葛元亮を見た。


「鉛の職人を呼んでください。——継ぎ目を溶かした鉛で埋めるのではなく、板と板とを火で溶かし合わせる。継ぎ目のない一枚の板のように」


「そういうことができる職人は」


「明州の船場にいるはずです」


 羅蘭徳は言った。


「邵鳴岐どのが船の底に鉛の板を張っている。——船の底は、泣けば沈む」


  ◇


 ふた月後、三つの部屋の継ぎ目は全て、明州から来た二人の職人の手で溶かし合わされた。


 部屋は泣かなくなった。


 床に溜まった酸を鉛の管で、外の鉛を張った槽へ流す。槽の酸を陶の甕に汲む。


 甕の酸はどれも同じではなかった。


 葛元亮は決まった大きさの硝子の小さな瓶を三本作らせた。瓶に酸を口まで満たし、秤に載せる。同じ大きさの瓶に満たした水と、重さを比べる。濃い酸ほど重い。


 一つ目の部屋の床の酸は、水の一倍と三分の一。


 二つ目の部屋の床の酸は、一倍と四分の一。


 三つ目の部屋は日によって違った。


 葛元亮は酸を濃さごとに等に分けた。


 一の等。濃い。薬の工房と周学衡の研究の所へ。


 二の等。中ほど。染め屋と、鋼の場の鋼の板の錆を落とす槽へ。電信の壺へ。


 三の等。薄い。塩と合わせて鹼を作る工場へ。


 甕ごとに札を付けた。等と、濃さと、どの部屋のいつの酸か。


 札の隅に朱で一つの印を描かせた。手のひらに滴が落ちる絵。


「字の読めぬ荷運びの者でも、この絵を見れば分かる」


 葛元亮は札を作る吏に言った。


「触れば焼ける」


  ◇


 鹼の工場は鉛の部屋の東隣に建てられた。


 塩を酸で焼く。焼いた塊を、石灰の石と骸炭と一緒に炉でまた焼く。焼いた黒い塊を水に浸すと、水に鹼が溶け出す。溶け出した水を煮詰めると、白い粉の鹼が残る。


 塩は浜から運河の舟で来た。


 その塩のことで、ひと月話が止まった。


 塩は官が売る。浜で作った塩は、全て官が買い上げ、官が決まった値で売る。値の中に塩の課が入っている。——鹼の工場が塩を官の値で買えば、鹼は高くなる。浜から課の入らない値で直に買えば、塩の課をくぐることになる。


 戸部の塩の課の官と工部と太府寺とが、三度集まった。


 決まったのはこういうことだった。


 鹼の工場に入れる塩は、課の入らない値で浜から直に買う。ただし、塩は浜で苦い土と黒い粉を混ぜてから、舟に積む。食べられない塩にしてから運ぶ。工場の門で官の者が、袋の数と混ぜたものを確かめる。工場は焼いた塩の量を帳面に書き、帳面を月に一度、塩の課の官が見る。


 葛元亮はその決まりの写しを読みながら、去年の秋、汴河の南の塔で孟季常が言ったことを思い出していた。


 飲む酒と飲まぬ酒とを、見て分かるように。


 今度は食べる塩と食べぬ塩だった。


  ◇


 白い粉は舟であちこちへ送られた。


 少府監の琉璃の工房へ。硝子を溶かすのに、これまで草を焼いた灰を使っていた。灰は焼くたびに中身が違った。白い粉は甕ごとに同じだった。


 開封の東水門の外の紡ぐ場へ。織り上げた布を灰汁で煮て洗う。灰汁を作るのに、薪の灰を三日水に浸していた。白い粉を溶かせば、半日で同じ強さの灰汁ができた。


 杭州と宣州の紙を漉く工房へ。


 それに、塔で捕まえた刺す気を溶かした水。羅蘭徳は、その水を石灰ともう一つの黒い石の粉とに合わせて、布を白くする粉を作ろうとしていた。今は布を白くするのに、陽に晒し、灰汁で煮て、また晒してひと月かかる。粉ができれば数日で済む。——まだ試しの壺の中の話だった。


  ◇


 鹼の工場が白い粉を出し始めてひと月後だった。


 葛元亮は楚州の知州に呼ばれた。


 知州の柴文淵は、五十がらみの細い目の痩せた男だった。知州の役所の奥の間に村の保正が三人座っていた。


 保正たちの前の卓に麦の葉が何本か置かれていた。


 葉の先が茶色く枯れていた。


「工場の北の三つの村の麦です」


 柴文淵は言った。


「春から風が北へ吹く日が続いた。風の吹いた次の日には、麦の葉の先がこうなる。——村の者は工場の煙のせいだと言う」


 保正の一人が口を開いた。六十近い日焼けした男だった。


「それだけではございませぬ」


 保正は言った。


「工場の南の溝の水が運河へ流れ込むところで、魚が浮いた。十日前に。——子供らがその溝で夏は水を浴びる」


 葛元亮は麦の葉を手に取った。


 鼻に近づけると、かすかにあの鼻を刺す匂いがした。


 鹼の工場の最初の炉。塩を酸で焼くとき出る気。刺す気。


 三年前、羅蘭徳は工部の書庫の黒い板に書いた。刺す気は塔で水に通して捕まえる。捕まえた水はまた別のものの原料になる。


 鹼の工場にも塔はあった。


 塔の大きさは、羅蘭徳が工部の裏庭の小さな炉を基に決めた。


  ◇


 その夜、葛元亮と羅蘭徳は鹼の工場の塔の下に立っていた。


 塔は煉瓦を積んだ背の高い筒だった。中に割った煉瓦の欠片がぎっしりと詰めてある。上から水を少しずつ落とす。下から炉の気を送り込む。気は濡れた欠片の間を昇りながら、水に溶ける。


 塔の天辺から白い煙が細く出ていた。


 羅蘭徳は塔の天辺から出る煙を、硝子の瓶に少し取らせた。瓶に水を入れ、振った。水に青い花の汁を一滴垂らした。


 汁は赤く変わった。


「捕まえきれていない」


 羅蘭徳は言った。


「炉を三つにしたとき、塔を太くしなかった。——私が忘れていました」


 羅蘭徳は塔の煉瓦に手を当てた。


「小さな炉ならこの塔で足りた。炉を三つにしたら、気は三倍。塔は同じ。——三つ目の月から、捕まえきれなかった分が風に乗って北の村へ」


 葛元亮は黙っていた。


「溝の魚は」


 やがて葛元亮が言った。


「鹼を溶かし出した後の黒い滓です」


 羅蘭徳は工場の南の滓の山を振り返った。


「雨が降ると、山から溝へ流れる。——滓の中に、腐った卵の臭いの悪いものが残っている。水に溶けて運河へ」


 羅蘭徳は長いこと滓の山を見ていた。


「私の国では、この工場の周りの村が何十年も同じことを言い続けました。麦が枯れる。魚が浮く。——工場の主たちは言い続けられているうちは、何もしなかった。何かをしたのは、国が決まりを作ってからでした」


  ◇


 半月あまり後、知州の役所の奥の間に、もう一度同じ者たちが集まった。


 今度は工部から沈維新の下の員外郎が、開封から駆けつけていた。


 葛元亮は工場の者として卓の端に座った。


 羅蘭徳が塔のことを話した。炉を三つにしたとき、塔を太くしなかった。捕まえきれない気が北へ流れた。滓の山から雨で溝へ、悪いものが流れた。


 話し終えて、羅蘭徳は保正たちに頭を下げた。


 保正たちは顔を見合わせた。


 工場の異国の者が自分たちに頭を下げるとは、思っていなかったようだった。


「塔を太くする」


 工部の員外郎が言った。


「今の倍に。ふた月かかる。——それまで炉は一つだけにする」


「滓の山は」


 柴文淵が問うた。


「山の周りに溝を掘り、溝の水を槽に集める」


 羅蘭徳が言った。


「槽の水に石灰を入れて、悪いものを沈める。沈めた上の水だけを運河へ流す。——流す前に、青い花の汁で確かめる。汁の色が変わる水は流さない」


「確かめるのは誰だ」


 保正の一人が言った。


「工場の者が自分で確かめて、変わらなかったと言うのか」


 奥の間が静まった。


 葛元亮は三年前の工部の書庫を思い出していた。羅蘭徳は煙と排水を誰が測るのか、と言った。工部ではない別の目で。——あのとき、修平がその書き付けを別の束に綴じた。


 その束はまだ、どこの役所の机の上にもなかった。


「知州の役所から一人出していただきたい」


 葛元亮は言った。


 奥の間の目が葛元亮に集まった。


「工場の者ではない者が、月に三度溝の水を確かめる。青い花の汁の使い方は私が教える。——確かめた日と、色と、確かめた者の名を帳面に書き、帳面は知州の役所に置く。工場ではなく」


 柴文淵はしばらく葛元亮を見ていた。


「知州の役所には、そういう役の者はおらぬ」


「おりません」


 葛元亮は言った。


「今は」


 柴文淵は目をさらに細めた。


「……県の、河の堤を見て回る吏がいる」


 柴文淵は言った。


「その者に兼ねさせよう。——そしてこの話を、工部と戸部と都堂とに上げる。一つの州の一つの工場の話では、済まぬだろうから」


  ◇


 その月の終わり、工部の員外郎は開封へ戻る前に、工場の者たちを集め、一枚の紙を読み上げた。


 工部から化学の工場の全てに下すことになる、決まりの案だった。


 工場の中。


 酸と鹼と刺す気を扱う場所では、身を守る衣と、手袋と、目を覆う面を着ける。


 酸を扱う場所の十歩のうちに水場を置く。酸を浴びたら、すぐに目と肌を水で洗い流す。


 刺す気の出る炉の周りには柵を立て、入る者を決める。


 炉と塔と、部屋と部屋の間に、風の抜ける道を開ける。


 酸と鹼と刺す気の出るものをしまう場所には、手のひらに滴の落ちる絵と、鼻を押さえる人の絵を掲げる。


 人が傷ついたとき、その場所の仕事を止める。止めたこととなぜ止めたかを帳面に書き、工部へ報せる。


 工場の外。


 煙突は決まった高さより低くしない。


 溝の水は槽で沈めてから流す。流す水は、工場ではない者が確かめる。


 村と工場の建屋の間には、決まった歩数の空き地を置く。


 員外郎は読み終えて紙を畳んだ。


「最後に一つ議に上げることがある」


 員外郎は言った。


「工場の中を見て回る者。——工部の者で工場の主に雇われておらぬ者。見て回って、危ういと思えば、その場で仕事を止めさせる力を持つ者。——それを置くかどうか」


 工場の者たちの間にざわめきが起きた。


「仕事を止めさせる力、とは」


 鹼の工場の組の頭が言った。


「その者が止めろと言えば、炉を落とすのか」


「そうだ」


 員外郎は言った。


「まだ案だ。沈尚書は置くべきだと言われた。——だがどこまでの力を持たせるか。誤って止めたら、誰が止まった日の損を負うか。それを決めるまで、時がかかる」


  ◇


 秋、楚州の工場の門の脇に新しい小屋が建った。


 小屋の中に棚が並んでいた。棚には小さな硝子の瓶が何十本も並んでいた。


 鉛の部屋の酸。鹼の工場の白い粉。それに、この夏から鹼の工場の隣で煮始めた、石鹸の工場の脂と鹼を煮た塊。


 瓶の一本一本に札が付いていた。どの工場のどの日のどの甕の何か。


 月に一度、葛元亮はこの棚から瓶を十本選んで、箱に詰めた。


 箱は運河と汴河を上る舟で、開封へ送られた。国子監の東の周学衡の研究の所へ。


 研究の所では、若い学生たちが瓶の中身をもう一度量った。濃さ。混ざりもの。等の札のとおりか。


 返ってきた書き付けにはときどき、札と合わない瓶のことが書いてあった。


 二の等の札の酸の濃さが、三の等ほどしかない。——その月、二つ目の部屋の硝石の気を送る管が、半分詰まっていた。


 石鹸の塊に鹼が多すぎる。手が荒れる。——その月、石鹸の釜の番をした者が脂の量を量り違えていた。


 工場の中だけで量っていたら、気づかなかった。


  ◇


 冬の初め、石鹸の工場の番の者が、葛元亮のところへ甕を一つ持ってきた。


 石鹸を煮た後の釜の底に残る、茶色い甘い匂いの水だった。


「捨てておりますが」


 番の者は言った。


「甘いのです。舐めると」


 葛元亮は甕の中の水を指に少し付けた。


 舐めようとして止めた。塔の一番上の雫を舐めてはならぬ、と知った舌だった。


 葛元亮は甕を羅蘭徳のところへ運んだ。


 羅蘭徳は甕の中身を塔にかけてみるまでもなく、匂いを嗅いだだけで、長いこと黙っていた。


「……甘い油です」


 羅蘭徳は言った。


「捨ててはいけない」


「何に使えるのです」


 羅蘭徳はすぐには答えなかった。


 甕の口に蓋をし、蓋に札を付けさせた。石鹸の釜の底。甘い油。


「賀通遠どのが、鉄の道の山を削るのに火薬が足りないと言っておられた」


 やがて羅蘭徳は言った。


「今の火薬では、硬い岩は砕けない。砕くのに何か月もかかる」


 羅蘭徳は甕を見下ろした。


「この甘い油と、鉛の部屋の一の等の酸と、硝石の酸とを合わせると。——この国のどの火薬よりも、強いものができます」


 葛元亮は羅蘭徳の顔を見た。


 羅蘭徳は笑っていなかった。


「そして、どの火薬よりも危ういものが」


 窓の外で、鉛の部屋の建屋の三本の煙突から、薄い煙が冬の空へ上っていた。


 太くした塔の天辺から出る煙は、青い花の汁をもう赤く変えなかった。

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