第六巻 産業 第十二回 蒸留の塔
大きな甑は、三日目に焦げた。
汴河の南の岸に、工部が建てた新しい建屋だった。城南の酒坊の甑の二十倍の大きさの、銅の釜。釜の上に銅の兜。兜から伸びる太い銅の管。管は、水を張った長い槽の中を蛇のように何度も折れ曲がりながら、くぐり抜け、槽の端から受けの甕へ雫を落とす。
羅蘭徳が図を描いた。少府監の銅の職人が半年かけて打ち出した。
最初の日、雫はよく落ちた。
二日目、雫が細くなった。槽の水が温かくなっていた。管の中の湯気が冷えきらずに、槽の端から白く漏れ出た。
三日目、釜の底が焦げた。
葛元亮は釜の火を落とさせ、冷めるのを待って、釜の中を覗き込んだ。釜の底の真ん中の火の真上のところに、黒い焦げた醪がこびりついていた。釜の縁の近くの醪はまだぬるかった。
「酒坊の甑なら焦げない」
葛元亮は羅蘭徳に言った。
「甑は小さいから」
「小さいから」
羅蘭徳は頷いた。
「小さい釜は、火が釜の全体に回る。——大きい釜は、火の真上だけが熱い。縁はぬるい。真上は焦げる。縁は湯気にならない」
羅蘭徳は槽の水に手を入れた。
「冷やす方も同じです。小さい管は、槽の水がすぐに冷やす。大きい管は、槽の水の方が先に温まる」
羅蘭徳は濡れた手を布で拭いた。
「四年前、私はあなたに言いました。大きくしても、同じようにうまくいくとは限らない、と」
「覚えております」
葛元亮は言った。
「私の帳面の最初の方に書いてあります」
◇
羅蘭徳は甑を三つに分けた。
一つは湯気を作る釜。醪を直に火にかけない。別の釜で水を沸かし、その湯気を管で醪の槽の底へ吹き込む。醪は火ではなく、湯気で温まる。焦げない。温まり方が槽の中で揃う。
一つは分ける塔。醪から立った湯気を、まっすぐ冷やしに行かせない。背の高い銅の筒の中を昇らせる。筒の中に穴を開けた棚を何段も重ねる。湯気は棚の穴をくぐりながら昇る。昇るうちに、重い湯気は棚の上で冷えて、雫になって下へ落ちる。軽い湯気だけが上まで昇りきる。
一つは冷やす槽。塔の天辺から出た湯気を管で槽に通す。槽の水は止めておかない。汴河から水を引き、槽の一方から入れて、もう一方から流し出す。水はいつも冷たい。
「一つの甑でやっていたことを、三つに分けます」
羅蘭徳は言った。
「温めること。分けること。冷やすこと。——分ければ、それぞれを別々に大きくできる」
塔は建屋の屋根を突き抜けた。高さは四丈あまり。汴河の南の岸から、遠くからでも、銅の筒が陽を返すのが見えた。
近くの者たちはそれを酒の塔、と呼んだ。
◇
塔の棚の段ごとに、小さな口が付いていた。口からその段に溜まった雫を少しだけ取り出せる。
口の脇に熱さの器が一本ずつ挿してあった。少府監の琉璃の工房が、この二年で、ようやく同じ目盛りのものを何十本も揃えられるようになった硝子の管。
葛元亮は段ごとの口から雫を取らせ、熱さの器の目盛りと、雫の重さと、燃やしたときの火の色とを帳面に書かせた。
書かせたのは方二郎だった。
城南の酒坊のあの若い職人だった。親方に五年目と言われていた若者。今は九年目になっていた。三年前、羅蘭徳に頼まれて、酒坊の甑の樋に熱さの器を挿し、親方の舌と器の目盛りとを毎日並べて書いた。
その方二郎を、葛元亮は酒坊の親方に頭を下げて、塔へ借りてきた。
「下の段の雫は水っぽい」
方二郎は帳面を見ながら言った。
「上へ行くほど強くなる。——一番上の段の口の雫は、酒坊の甑の真ん中の一番いいところより、ずっと強い」
「どれだけ強い」
方二郎は一番上の段の口から、雫を小さな杯に受けた。
舐めようとして止めた。
「……これは、舐めてはいけません」
方二郎は杯を灯の近くに寄せた。杯の中の雫が灯の火をふわりと吸い上げた。青い、ほとんど見えない火が、杯の上で揺れた。
「飲む酒ではない」
◇
太医局の医官が塔を訪ねてきたのは、秋の初めだった。
五十がらみの痩せた男だった。手に陶の小さな壺を抱えていた。
「傷を洗うのに使いたい」
医官は言った。
「今は酒坊の強い酒で傷を洗うております。洗った傷は膿みにくい。——ですが酒坊の酒は、壺ごとに強さが違う。強い壺の酒で洗った傷は膿まない。弱い壺の酒で洗った傷は膿む。どの壺が強いのか、飲んでみねば分からぬ」
医官は陶の壺を卓に置いた。
「それに羅蘭徳どのが、薬の草から効くものをこの酒で溶かし出せると言われた。——溶かし出すにも、強さが揃うておらねば、薬の効きが揃わぬ」
羅蘭徳は塔の一番上の段の口を指した。
「強さを決めましょう」
羅蘭徳は言った。
「熱さの器と雫の重さで強さを測る。強さごとに等を三つに分ける。——一の等は傷を洗う。二の等は薬を溶かし出す。三の等は漆や油を溶かす工房の用に。壺ごとに、等と作った日と、塔のどの段のどの刻の雫かを、札に書く」
医官はしばらく塔を見上げていた。
「傷を洗う酒に札が付くのか」
「付けます」
羅蘭徳は言った。
「傷が膿んだら、その酒の札を見てください。どの日のどの段の酒か。——札があれば、塔の帳面を辿れます」
◇
戸部の員外郎、孟季常が塔に来たのは、それからひと月後だった。
孟季常は四十の半ばを越えていた。中央銀行ができた頃から、戸部と中央銀行の間の連絡の役をずっと務めてきた男だった。
この日は別の用で来ていた。
「酒の課の話です」
孟季常は言った。
「酒を造り売るには、官の許しが要る。許しを受けた酒坊は、造った酒の量に応じて課を納める。——この塔は工部の建屋です。官の許しを受けた酒坊ではない」
羅蘭徳は黙っていた。
「この塔から出る雫は、酒か酒でないか」
孟季常は言った。
「酒なら課を納めていただく。酒でないなら、この雫が城南の市で飲む酒として売られては困る。——課を納めた酒坊の酒より、安く強い酒が市に出回る。酒坊が潰れる。酒の課も減る」
葛元亮が口を開いた。
「塔の雫は太医局と工部の工房へ送るものです。市には出しません」
「今は」
孟季常は言った。
「今はそうでしょう。だが塔が二つ、三つと増えたら。民の商人が同じ塔を建てたいと言い出したら」
孟季常は塔の一番上の段の口を見た。
「私が戸部の者として申し上げたいのは、一つです。——飲む酒と飲まぬ酒とを、見て分かるようにしていただきたい」
羅蘭徳はしばらく考えていた。
「……三の等の雫に」
羅蘭徳は言った。
「苦いものを混ぜます。飲めば吐くほど苦いもの。色も付ける。——漆や油を溶かすのには、苦くても、色が付いていても構わない。飲めばすぐに分かる」
「一の等と二の等は」
「太医局と薬の工房にしか出しません。出した壺の数と受け取った壺の数を、両方の帳面に書く。——戸部の方にその帳面を見ていただく」
孟季常は頷いた。
それから少し笑った。
「中央銀行の開業の頃、林詳定と、民の行の帳面を何度も突き合わせました。——酒の塔の帳面を突き合わせることになるとは、思いませんでした」
◇
塔の建屋の奥のもう一つの部屋では、軍器監から頼まれた仕事が始まっていた。
硝石だった。
北のある地方の古い土から掻き出した硝石は、土と塩とほかの苦いものが混じっていた。軍器監の火薬の小屋では、それを釜で煮て、上澄みを取り、冷まして底に出た粒を集めていた。何度やっても、粒の白さが釜ごとに違った。
羅蘭徳はその仕事を五つに分けた。
溶かす。——決まった量の水に決まった量の硝石を入れ、決まった熱さまで温める。
漉す。——温めたまま、布と砂を重ねた槽とで、土と溶けないものを漉し取る。
沈める。——漉した水を槽に決まった刻、置く。底に沈んだ泥を捨てる。
粒にする。——上の水を浅い広い槽に移し、ゆっくり冷ます。硝石の粒が槽の底と壁に白く育つ。育ち方が速すぎると、粒の中に苦いものが閉じ込められる。だから冷ます速さを熱さの器で見る。
乾かす。——粒を網の棚に広げ、決まった熱さの部屋で決まった日数。
五つの段ごとに一枚の票を付けた。入れた量。出た量。熱さ。刻。——それに段ごとにひとつまみを取り、方二郎が白さと、水に溶かしたときの濁りと、火にくべたときの燃え方とを書いた。
段ごとの票を並べると、硝石がどの段で一番減っているかが見えた。漉す段で布に硝石が多く残っていた。布を温めた水でもう一度洗って、その水を次の釜に戻すことにした。
粒の白さが釜ごとに揃い始めた。
ひと月目の終わり、軍器監の洪克勤が塔を見に来た。
洪克勤は乾かした硝石の粒をひとつまみ手のひらに載せ、黙って灯に透かしていた。
「軍器監の釜のどの粒より白い」
やがて洪克勤は言った。
「それにどの釜の粒も同じ白さだ。——火薬の燃える速さが揃う」
洪克勤は壁に貼られた五枚の票を、一枚ずつ読んでいった。
「この票を写させていただきたい。軍器監の火薬の小屋でも、同じ段に分けたい」
「どうぞ」
羅蘭徳は言った。
「薬を知っていることと、同じ薬を同じ白さで毎日作れることは、別の仕事です。——票はその二つ目の仕事の道具です」
◇
冬、塔の隣にもう一つ建屋が建った。
中に煉瓦の長い窯が三つ並んでいた。
一つ目の窯は木を焼いた。薪を窯に詰め、封をして外から焼く。窯の天辺から出た煙を、管で冷やす槽に通す。
槽の先の受けの甕に、茶色い、酸っぱい匂いの水が溜まった。その底に黒い、粘る油が沈んだ。
窯を開けると炭が残っていた。
「木の酢と木の油と炭」
羅蘭徳は甕の中の茶色い水を柄杓ですくった。
「木の酢は染め屋が欲しがる。色を布に留めるのに使える。——木の油は船の木に塗れば、水を弾く」
二つ目と三つ目の窯は石炭を焼いた。
四年前、羅蘭徳が工部の裏庭の小さな壺で見せたことの、何百倍だった。
石炭の窯からは、骸炭と、黒い臭い油と、管の先で燃える気が出た。
骸炭は磁州の鋼の場が、自分の窯でもう焼いていた。けれど鋼の場の窯は骸炭だけを取って、油と気は煙突から空へ捨てていた。
葛元亮は鋼の場の骸炭の窯の帳面を取り寄せた。
石炭百斤から、骸炭およそ六十斤。
残りの四十斤のうち、何斤が油で、何斤が気で、何斤が水だったのか。鋼の場の帳面には書いてなかった。空へ捨てていたから。
塔の隣の窯では、それを全部量った。
石炭の油は甕に溜まった。
羅蘭徳はその油をもう一度塔にかけてみた。
塔の段ごとの口から、色の違う、臭いの違う雫が出てきた。下の段は黒くどろりとしていた。上の段は薄い黄色で鼻を刺した。
羅蘭徳は上の段の雫を小さな硝子の瓶に取り、灯にかざした。
長いこと黙っていた。
「……これは、いつか色になります」
羅蘭徳は言った。
「私の国のもっと後の時代には、この油から赤も、青も、紫も作った。草の根や虫や貝から取るより、ずっと安く。——私は作り方を知らない。知っているのは、この油の中にそれがある、ということだけです」
羅蘭徳は瓶に札を付けさせた。
石炭の油。塔の何段目。何日。
それから札の下にもう一行書き足させた。
——国子監の周学衡どのの研究の所へ。
◇
石炭の窯から出た気は、管を通って建屋の中の灯に繋がれた。
冬の夜、建屋の中に明るい黄色い火が、十いくつ並んで燃えた。菜種の油の灯よりずっと明るかった。
明るい火の下で、葛元亮は窯の番の者たちに決まりを読み聞かせていた。
塔と窯の建屋の中では、裸の火を使わない。灯は網の灯か、壁の外から硝子越しに照らす灯。——鶴壁の坑で貝爾が作った網の灯を、ここでも使う。
塔の雫の一番上の段の口の周りには、立ち入る者を決める。
建屋の屋根と壁の上の方に、風の抜ける口を開ける。重い湯気は床に溜まる。床の近くにも口を開ける。
冷やす槽の水が止まったら、すぐに窯と釜の火を落とす。水が止まれば、冷えない湯気が建屋の中に溢れる。
窯の管と塔の継ぎ目は、毎朝石鹸の水を塗って、泡が立たないかを見る。泡が立てばそこから漏れている。
窯の封が中の気に押されて破れないように、封の一か所に薄い板を嵌めておく。気が強くなりすぎたら、その板が先に割れる。
「気の灯を町へ引けば、夜の町が明るくなる」
窯の番の者の一人が言った。
「羅蘭徳どのが四年前に言われたと」
「言われた」
葛元亮は言った。
「そのときは、管の先で火が一つ燃えただけだった」
葛元亮は建屋の中の十いくつの黄色い火を見上げた。
「町へ引くには、町中に管を埋めねばならぬ。管が漏れれば、町の家の中にこの気が溜まる。——網の灯を坑の者に使わせるのに、貝爾どのは一年近くかけた。町中の者に気の灯を使わせるには、何年かかるか」
◇
年の暮れ、葛元亮は塔と窯の一年の帳面を清書していた。
帳面の最後の頁に、羅蘭徳が一枚の表を綴じ込ませていた。
塔と窯から出たものの行く先の表だった。
一の等の雫。太医局。
二の等の雫。太医局と、城東の薬種商の薬を溶かし出す工房。
三の等の雫。苦く、色の付いたもの。少府監の漆の工房。工部の機械の油を溶かして洗う組。
木の酢。城南の染め屋、三軒。
木の油。明州の船場。邵鳴岐が試しに船底に塗る。
炭。この建屋の釜の火。
骸炭。磁州の鋼の場へ、試しに。
石炭の油の下の段。工部の柱の根元に塗る。電信の柱が腐らないように。
石炭の油の上の段。周学衡の研究の所。
石炭の気。この建屋の灯。
葛元亮は表の左の列と右の列とを見比べた。
左の列は全部この一つの建屋から出ていた。
右の列は、太医局と薬種商と少府監と工部と、染め屋と船場と鋼の場と電信の柱と研究の所に、散らばっていた。
一つの建屋の捨てるはずのものが、九つの場所の原料になっていた。
葛元亮は清書の筆を止め、帳面の一番最初の頁を開いた。
四年半前、城南の酒坊で書いた一行。
十年やって分かる者もいれば、分からない者もいる。
その横に自分の字で書き足した行が、二つ。器があれば何年で分かるか。一年。ただし器が舌を育てたのか、舌が器に慣れたのか分からず。
葛元亮はその下に三行目を書き足した。
——舌は、塔の一番上の雫を舐めてはならぬと知った。舐めずに分かることが、十増えた。
建屋の外で、汴河の水が冷やす槽を抜けてまた河へ戻っていく音がしていた。




