第六巻 産業 第十回 電信の実現
雨の日には、針が嘘をついた。
中央銀行の本院の奥の一室だった。窓の脇の卓に細い針を載せた箱が一つ置かれていた。箱から伸びた線は、窓の外の柱へ、柱から会子務の旧庁舎の屋根を越えて戸部へ、戸部から工部へ。
この春、工部が開封の城の中に引いた四本の線の一つだった。工部と戸部と中央銀行と統計局。
針が振れた。
箱の前に座った若い吏員が、振れを紙に書き取っていく。短い。長い。短い。四つずつ区切り、数字に直し、電碼表を引く。
「戸部より中央銀行へ。本日、午の刻。——」
吏員はそこで手を止めた。
次の四つの数字を電碼表で引くと、出てきたのは「鶏」という字だった。
戸部から中央銀行への文に、鶏が出てくる理由はなかった。
吏員はもう一度、紙の上の短いと長いの並びを見直した。四つ目の印が長いのか短いのか。書き取ったときは長いと思った。けれど針の振れは途中で震えていた。
修平は吏員の後ろで窓の外を見た。
雨が柱の頭の白い陶の器を濡らしていた。
◇
「漏れておる」
白朗は工部の書庫で言った。
求賢局で電気の学を修めたと認められた二人のうち、年かさの方だった。痩せた、目の周りに皺の深い男。四年前の秋、御前廷議の殿で、作るには多くのものが要る、と言った男だった。
白朗は卓の上に陶の器を一つ置いた。景徳鎮で焼かせた、柱の頭に据える器。釣鐘を伏せたような形の小さな器だった。
「晴れた日は、器の表が乾いておる。電気は線を伝ってまっすぐ向こうへ行く」
白朗は器の表を指で撫でた。
「雨の日は、器の表が濡れる。水の膜を伝って、電気が線から器の表を這い、柱へ、柱から地へ逃げる。——一本の柱で逃げる電気は、ほんの少し。でも柱が百本あれば、百の少しが逃げる。向こうの端に着く頃には、針を振らせる力が残っておらぬ」
修平は器を見た。
「では、雨の日は読めない」
「今の器では」
白朗は器をひっくり返した。器の内側は空洞だった。
「器の下に裾を付けます。釣鐘の裾を二重に。——雨は上から降る。外の裾は濡れる。でも内の裾のさらに内側は濡れにくい。電気が柱へ逃げるには、濡れた表をずっと這っていかねばならぬ。這う道が長いほど逃げにくい」
白朗は卓の上の紙に裾の二重になった器の図を描いた。
「景徳鎮に焼き直しを頼みます。ひと月はかかる」
◇
漏れるのは器だけではなかった。
この一年、工部の書庫の卓には同じような書き付けが毎月積み上がっていった。白朗と、もう一人の若い方の転生者——柯林という無口な男——と工部の技官たちが、一つずつ試しては書いた。
線。
鉄の線は雨に濡れると錆びる。錆びた線は電気を通しにくい。細い線ほど通しにくい。——線を少し太くした。鉄の線を、溶けた亜鉛の槽にくぐらせた。表に亜鉛の薄い衣を着せる。衣が錆を遅らせた。少府監の工房でその槽を作るのに、半年かかった。
継ぎ目。
線と線を捻って継いだところが、錆びて緩む。緩むと、電気が流れたり流れなかったりする。——針が途中で震える。継ぎ目を捻ったうえで、錫で固めることにした。
壺。
電気を作る壺は、酸が少しずつ弱る。弱ると針の振れが小さくなる。朝と夕とで振れが違う。——壺の中の板と酸を、羅蘭徳と一緒に組み替えた。二つの液を素焼きの壁で分ける壺。振れが、ひと月揃うようになった。壺ごとに、替えた日を札に書いた。
地。
線は行きと帰りと、二本要る。——初めはそう思われていた。白朗が、ある日帰りの線を外し、両端の箱から太い銅の板を地の中へ埋めさせた。電気は地を通って帰ってきた。線が半分で済んだ。ただし、地の湿り方で帰り方が変わる。板を埋める場所を井戸のそばに決めた。
柱の間を何歩にするか。
線が柱の間でどれだけ垂れてよいか。
全部書き付けになった。書き付けの束が厚くなるにつれて、雨の日に針が嘘をつく回数が減っていった。
◇
秋の初め、章太厳が工部の書庫に一冊の本を持ってきた。
青い表紙の厚い本だった。
「電碼表の国の版でございます」
章太厳は本を卓の上に置いた。
去年の春、陳橋の駅の吏員が引いていた試しの版を改めたものだった。試しの線で、打ち違えや読み違えの多かった番号を洗い出した。似た形の字、似た音の字が隣り合った番号に並んでいたところを離した。よく使う字を、短い印で打てる番号に寄せた。
「字は七千と少し」
章太厳は言った。
「それで、邸報と戸部の帳面と州県の報せの、九割九分を書けます。——残りは名です」
章太厳は本の最後の方の頁を開いた。
四十ほどの簡単な形の印が並んでいた。字の頭の音と残りの音と、声の上げ下げ。
「人の名と土地の名と新しい言葉は、この印で音を送ります。ただし」
章太厳は頁の頭を指で叩いた。
「番号と音の印とを混ぜてはならぬ。受けた者が、四つの数字の並びを字の番号と読むか、音の印と読むか迷う。——ですから音の印を送る前に、決まった番号を一つ送る。音の印を終えたら、別の決まった番号を一つ送る。開く番号と閉じる番号。その間だけが音でございます」
修平は頁の開く番号と閉じる番号の、二つの並びを見ていた。
「この版をいくつ刷りますか」
「局の数だけ」
章太厳は言った。
「そしてどの局の本も、同じ日に同じ版に替えます。古い版は回収して焼く。——国に電碼表は一つです」
章太厳は本の表紙の隅を指した。
小さな字で書いてあった。第一版。
「番号の振り方はいずれ別のことにも効く、と四年前に申しました」
章太厳は言った。
「効いてまいりましたな」
修平は頷いた。
去年の春、枢密院の奥の一室で、楊崇武が陳橋の駅の文を読ませた。線の途中に登った職人が写し取った文だった。この表は誰でも引ける。秘密は表ではなく鍵に置く。——そのときそう決まった。
この青い表紙の本は秘密ではない。
秘密ではないから、国中の局に配れる。
◇
冬の初め、兵部尚書の呉承烈が工部の書庫に一人の老いた吏を連れてきた。
田守信。兵部の駅の文の出入りを、四十年見てきた吏だった。四年前の廷議で、呉承烈が駅の者を、決まりを作る席に呼んでくれ、と言った。その「駅の者」だった。
田守信は、四年前に定めた電信の文の決まりを一行ずつ読んでいった。
文頭にどこからどこへ、誰が、いつ送ったか。受けた側は、受けた、と送り返す。数字の長い文は、受けた側が繰り返して、送った側が確かめる。送った時と受けた時を帳面に残す。誤りがあればもう一度送る。
読み終えて、田守信はしばらく黙っていた。
「一つ、足りませぬ」
やがて田守信は言った。
「文の、数」
「数」
「駅の文にはどの駅でも、その日の何通目の文かを書きます。一通目、二通目。——受けた駅は、昨日の最後の文が何通目だったかを覚えておる。今日の最初の文がその次の数でなければ、どこかで一通落ちたと分かる」
田守信は机の上の電信の帳面を指した。
「この帳面には文ごとに時は書いてある。でも数がない。——一通まるごと線の上で消えても、誰も気づかぬ」
白朗が柯林と顔を見合わせた。
その日、決まりに一行が加えられた。
局ごとに、日ごとに、送る文に通しの数を振る。受けた局は数の抜けがあれば、すぐに問い返す。
田守信はもう一つ言った。
「人の名は数字と同じに繰り返させなされ」
「名も」
「駅で一番間違えるのは、名です」
田守信は言った。
「張と章。王と汪。——字を一つ間違えれば、別の者の手に文が行く。数字の間違いは帳面を見れば、気づく者がおる。名の間違いは、文が別の者の手に渡ってから気づく」
◇
年が明けて、開封の城の中の四本の線は七本になった。
工部と戸部と中央銀行と統計局に、太府寺と開封府と、東水門の外の紡ぐ場が加わった。それに、城の北へ延びる陳橋の駅までの試しの線。
各局に局の者が、二人から四人。昼と夜の交代。青い表紙の電碼表が一冊ずつ。帳面。壺の替えの板と酸。
城の中を線に沿って毎朝歩く者が置かれた。工部の線を見て回る組。柱が傾いていないか。器が割れていないか。線が木の枝に触れていないか。組の詰め所には、替えの線と替えの器と替えの柱が、いつも決まった数積まれていた。線が切れれば、どこで切れたかを両側の局から針の振れで確かめる。切れたところへ組が走る。
最初に切れたのは冬の終わりの夜だった。東水門の外への線の、城壁の外の柱が一本倒れていた。荷を積みすぎた荷車が、夜道で柱の根元に車輪をぶつけた。
紡ぐ場の局の針が振れなくなった。工部の局の針も振れなくなった。両方の局の吏員が、線の途中の別の局の針を確かめ、切れたのは城の東の二つの局の間だと割り出した。組の者が灯を持って、線に沿って走った。
替えの柱を立て、線を継ぎ、器を据え直し、針がまた振れるまで一刻半。
組の頭は翌朝、帳面に書いた。どこで、何が、なぜ切れたか。何を替え、何刻かかったか。——それから倒れた柱の根元に、石を三つ据えさせた。荷車の車輪が柱にじかに当たらないように。
春の半ばのある朝、修平は中央銀行の本院の奥の一室にいた。
鄭仲謙が隣に立っていた。
針が振れた。
吏員が書き取り、電碼表を引き、読み上げた。
「統計局より中央銀行へ。本日、巳の刻。第三通。——開封、城の七つの市場。本朝の米の値。上米、一斗」
吏員は数字を読み上げていった。七つの市場の米と麦と塩と薪の値。
読み終えると吏員は、受けた、と打ち返し、数字をもう一度打ち返した。しばらくして統計局の側から、確かめた、という印が返ってきた。
鄭仲謙が部屋の隅の漏刻の目盛りを見た。
「統計局の吏が朝、七つの市場に散って、値を取り、戻って数を揃えて線で送る。——ここに届くまで、朝の市が開いてから二刻」
「去年までは、同じ数がこの部屋に届くのは次の日の昼だった。吏が紙に書いて、走って持ってきた」
修平は吏員の書き取った紙を見ていた。
今朝の開封の米の値が、今朝のうちに中央銀行の机の上にある。
九年前、中央銀行を作ったとき、最初の会合で委員たちはひと月前の物の値の調べを見て、利を決めた。ひと月前の数しかなかった。
「杭州と成都と広州と大名府の支院に、線が繋がれば」
鄭仲謙が言った。
「国中の今朝の値が、今朝のうちにここへ来る」
「繋がるのは何年も先です」
修平は言った。
「開封から陳橋まで四十里。杭州まではその何十倍です」
「分かっておる」
鄭仲謙は笑った。
「それでも今朝の開封の値が、今朝分かる。——それだけで、この部屋の会合の開き方が変わる」
◇
春の終わりの御前廷議で、電信の線をどこへ延ばすかが議された。
沈維新が工部の案を述べた。
一つは北へ。陳橋からさらに北へ、黄河を越えて衛州の河の港へ。賀通遠が敷いている鉄の道の予定線に沿って、衛州から鶴壁の坑へ、磁州の鋼の場へ。——鉄の道には線が要る。車がどこを走っているかを駅と駅とが知らねば、車同士がぶつかる。
一つは東へ。汴河に沿って泗州へ。運河に沿って楚州、揚州へ。いずれは杭州の支院へ。
「北は兵にも要る」
枢密使の楊崇武が言った。
「大名府と真定府と北の辺りの軍鎮へ。——枢密院にも線を引いていただきたい」
殿の中が少し静まった。
修平は殿の末席で楊崇武の横顔を見ていた。
二年前、楊崇武は陳橋の文を写した紙を修平に読ませた。報せを速くする仕組みは、報せを守る仕組みを要する、と言った。
楊崇武はそれを忘れていなかった。
「枢密院の線を引くことはできます」
楊崇武の後ろから一人の女が前へ出た。
艾琳・哈特だった。色の薄い髪を短く切って一つに結っていた。
「ですが、今その線で軍の文を送ってはなりません」
哈特は言った。
「天機の機械はまだできておりません。蘇玄機どのが歯車を削っておられます。歯車は揃い始めた。でも機械が、雨と埃と揺れの中で狂わずに動くかは、まだ分からない」
哈特は殿の中を見渡した。
「機械ができるまで、軍の線で送るのは秘すべきでない文だけにしていただきたい。——兵の数と動く日と行く先は、線に載せない。どうしても急ぐときは、字験と出陣ごとの番号の表で。そして番号の表は、陣を引くときに焼く」
「それでは、線を引く甲斐が半分ではないか」
呉承烈が言った。
「半分でも、甲斐はあります」
哈特は言った。
「糧の荷車がどこまで来たか。馬がいくつ病んだか。雪で道が塞がったか。——その報せが今日のうちに届くだけで、枢密院の机は変わります。秘すべき文は機械ができてから。その順を逆にしてはなりません」
楊崇武はしばらく哈特を見ていた。
それから頷いた。
「軍の線は引く。——ただし天機の機械ができるまで、秘すべき文は載せぬ。枢密院で何が秘すべき文かの一覧を作る。董元礼に作らせる」
皇帝が修平の方を見た。
「林詳定。そなたはどう見る」
修平は頭を下げた。
「臣には線の技も、秘する技も分かりません」
修平は言った。
「ただ一つだけ申し上げます。——北の線と東の線と枢密院の線とで、電碼表は同じ一冊にしていただきたい。軍の文を秘するのは、表ではなく鍵で。表まで分ければ、いつか線が繋がったとき、読めなくなります」
章太厳が殿の後ろで小さく頷くのが見えた。
◇
夏、陳橋の駅から北へ、新しい柱が立ち始めた。
修平はある朝、陳橋の駅のあの小さな部屋をもう一度訪ねた。
おととしの春、若い吏員が試しの版の電碼表を引きながら、「線に異状なし」と読み上げた部屋だった。
部屋の中には箱が二つに増えていた。一つは開封へ。一つは北へ、まだ繋がっていない線の端。
あの日の若い吏員がまだそこに座っていた。二年で頬が少し痩せていた。
吏員は修平に気づいて立ち上がった。
「林詳定」
吏員は青い表紙の本を手で示した。
「国の版は試しの版より、ずっと引きやすうございます。——似た字が隣にない」
「北への線は」
「秋には黄河の岸まで届くそうです」
吏員は北の窓を見た。
「黄河は渡せません。線を河の底に沈めるか、渡し舟の両岸に局を置くか。——白朗どのがまだ決めておられぬと」
開封の方の箱の針が振れた。
吏員は座り直し、紙と筆を取った。
短い。長い。短い。短い。
「開封工部より陳橋駅へ。本日、辰の刻。第一通。——雨。線に異状なし」
修平は窓の外を見た。
細い雨が降っていた。
針は雨の中で嘘をついていなかった。




