第六巻 産業 第九回 工場という機械
汪徳潤は修平を、工場の門の前で待っていた。
磁州の鋼の場の東隣だった。鋼の場の塀と、ひと続きに見える新しい塀。塀の内側に、屋根の高い建屋が二つ並んでいた。煉瓦の小屋から、細い煙が一本上っていた。
「林詳定。遠いところを」
汪徳潤は拝礼した。四十に届くか届かないかの、背の高い、よく日に焼けた男だった。磁州で祖父の代から、鉄の鍋と鍬と釘を扱ってきた問屋の跡取りだった。
この工場は工部と、磁州と相州の鉄の商人たちとが、銭を出し合ってこの春から建て始め、夏の終わりに動かし始めたものだった。鋼の場の鋼で、機械の部品を作る。紡ぐ機械の歯車。攪車の鉄の軸。貝爾の機械の弁と、軸の受け。韋金森の子の台の刃と、ねじ。
汪徳潤は商人たちの中から選ばれて、この工場の長になった。
「来ていただいたのは、帳面のことです」
汪徳潤は門をくぐりながら、言った。
「この工場は儲かっているのか、損をしているのか。——長の私が分からぬのです」
◇
建屋の中は、韋金森の工房に似ていた。
天井の下に長い軸。軸から革の帯。帯の下に子の台が十五台。物を回して削る台、穴を穿つ台、歯を刻む台、平らな面を削る台。
違うのは、台と台の間に置かれているものだった。
どの台の脇にも、木の箱が二つあった。一つは、前の台から来た削りかけの部品を入れる箱。一つは、この台で削り終えた部品を入れて次の台へ回す箱。
それに、台の上に、見慣れない鉄の枠が据えてあった。
「治具と、韋金森どのは呼んでおられます」
汪徳潤は歯車を削る台の上の枠を、指で叩いた。
「削る前の歯車の塊を、この枠に嵌める。嵌めれば、塊はいつも同じ場所に、同じ向きで止まる。——腕の良い職人なら、枠がなくても、塊を正しく据えられる。でも、この工場の台の前に立つ者の半分は、去年まで鍬を打っていた鍛冶か、畑におった者です」
汪徳潤は枠に嵌まった塊を、手で揺すってみせた。塊はびくとも動かなかった。
「枠が、腕の代わりに塊を据える。——この枠を作ったのは、この工場で一番腕の良い職人です。その者は今は台の前に立たずに、枠を作り、枠を直し、若い者に枠の使い方を教えております」
修平は枠を見ていた。
腕の良い職人の腕が、鉄の枠になって、十五台の台の上に据えられている。
「職人は嫌がりませんでしたか」
「最初は」
汪徳潤は少し笑った。
「自分の腕を盗まれると。——でも、今はこの工場で一番給金を取っております。枠を一つ作れば、十人の若い者がその日から、自分と同じ据え方で削れるゆえ」
◇
台と台の間の箱の脇に、もう一つ小さな板が掛けてあった。
通る型と、通らぬ型。
削り終えた部品は、次の台へ回す前に、必ずこの二つの型に当てる。通る型に通り、通らぬ型に通らなければ、次の箱へ。どちらかに外れたら、別の、赤く塗った箱へ。
「赤い箱に入った部品は、直しません」
汪徳潤は言った。
「初めのうちは直していました。少し太い軸を、次の台の者が鑢で細くする。少し浅い歯を、次の台の者が削り足す。——そうすると、次の台の者の仕事が倍になる。次の台が遅れる。遅れた分、前の台の箱が溢れる」
汪徳潤は赤い箱を覗き込んだ。軸が三本入っていた。
「それに、直した部品は、どこかでまた狂う。どこで狂うたのかも、分からなくなる」
赤い箱の脇に、帳面が下がっていた。
どの台で、何日に、何がいくつ、赤い箱に入ったか。
「この帳面を、十日ごとに並べます」
汪徳潤は帳面をめくってみせた。
「すると、赤い箱がどこで多いかが見える。——先月は、歯を刻む台の二番が多かった。台の送りのねじがすり減っていた。ねじを替えたら、減った」
「職人の腕ではなく」
「台のねじでした」
汪徳潤は言った。
「初めは、二番の台の前に立っていた若い者を叱りつけていました。——帳面を並べたら、その者が休みの日にも、二番の台の赤い箱は多かった」
◇
建屋の奥に、狭い部屋があった。
壁に紙が何枚も貼られていた。工場の中の人の並び。
長。——汪徳潤。
その下に、工程を見る者が三人。削る工程、組む工程、検める工程。
技の者が二人。工部から来た技官と、韋金森の工房で三年、台を作ってきた職人。
帳面の者が二人。
倉の者が二人。
検める者が四人。
機械を焚く者が二人。貝爾の学びの場で、札を得た者。
それから、台の前に立つ者たちが六十人あまり。
「利国監の炉にも、鋼の場にも、こういう並びはございませんでした」
汪徳潤は紙を見上げて言った。
「親方がいて、弟子がいる。それだけでした。——この工場では、親方が一人では足りぬのです。削ることを知っておる者と、組むことを知っておる者と、帳面を知っておる者と、機械の釜を知っておる者は、別の者でなければ回らない」
汪徳潤は紙の下の端を指で示した。
賃の書き方が、三つ並んでいた。
日ごとの賃。——検める者、倉の者、機械を焚く者。
削った数に応じた賃。——台の前に立つ者の半分。
日ごとの賃に、腕の手当を足すもの。——治具を作る者、台を直す者、若い者を教える者。
「削った数で賃を払うと、赤い箱が増えます」
汪徳潤は言った。
「急いで削るから。——だから、赤い箱に入った分は、数から引く。引くと、今度は赤い箱に入れるはずの部品を、こっそり良い箱に入れる者が出る」
「検める者が、それを止める」
「はい。検める者の賃は、日ごとです。削った数とは関わりがない。——そうしておかねば、検める者まで急ぎます」
◇
「それで、帳面のことです」
汪徳潤は狭い部屋の卓に、厚い帳面を何冊も積み上げた。
「銭の、出と入り。——出は、鋼の場から買う鋼。鶴壁の石炭。賃。油と、帯の革と、替えのねじ。入りは工部と、紡ぐ場と、坑冶寺と、民の工場とに売った部品の代金」
汪徳潤は帳面の年の締めの頁を開いた。
「夏の終わりから、この冬の初めまでの出と入りを、並べました。——入りの方が、少し多い」
「では、儲かっている」
「と、思うていました」
汪徳潤は首を振った。
「ところが、鄭どのに帳面を見ていただいたら、そうとは言えぬ、と」
鄭どの。中央銀行の同知院事、鄭仲謙のことだった。この工場を建てるのに、磁州の民の行が長い期間の貸し付けを出した。その貸し付けの半分を、中央銀行が民の行に低い利で回している。鄭仲謙はその貸し付けの様子を見に、この秋、一度磁州に来た。
修平が磁州に呼ばれたのは、その鄭仲謙が開封に戻って、修平に一言言ったからだった。
——あの工場の長は、良い商人だ。だが鍋と鍬の帳面で、機械の工場をつけておる。
◇
「この帳面には、台がありません」
修平は言った。
汪徳潤は眉を寄せた。
「台はこの夏に買いました。工部の工房から、十五台。その代金は、夏の出の欄に」
「夏に、一度だけ」
「はい」
「その十五台は、いつまで使えますか」
汪徳潤は少し考えた。
「……韋金森どのは、骨組みは、二十年。ねじと軸の受けは、三年か四年で替えが要る、と」
「では、今日この工場で歯車を一つ削るたびに、台は少しずつ減っています」
修平は帳面の年の締めの頁の余白に、一本の線を引いた。
「台を買った銭を、台が使える年数で割る。一年分ずつ、出の欄に入れる。——この月の歯車は、この月の分の台の減りを使って作られた。そう、帳面に書くのです」
汪徳潤はしばらく黙っていた。
「……銭は、出ておらぬのに、出に書く」
「銭は、夏にもう出ています」
修平は言った。
「夏に全部を出に書けば、夏のひと月は大損に見えて、あとの月は大儲けに見える。どちらも本当ではありません。——鍋や鍬の問屋なら、それでよかった。鍋は仕入れて売れば、終わりです。けれど、台は仕入れて、二十年働く」
汪徳潤は帳面の余白の修平の線を見ていた。
「建屋も」
「建屋も。貝爾どのの機械も。煉瓦の小屋も」
汪徳潤は指を折って、何かを数え始めた。
しばらくして、指が止まった。
「……少し多い入りが、なくなります」
汪徳潤は言った。
「なくなって、少し足りない」
◇
それから三日、修平は汪徳潤と工場の帳面の者二人と、狭い部屋に籠もった。
出の欄を分けた。
歯車を一つ作るのに、鋼を何斤使ったか。その鋼はいくらだったか。
石炭を何斤。——機械の釜が一日に食う石炭を、その日に削った部品の数で割る。
賃をいくら。——台の前に立つ者の削った数に応じた賃。それに検める者、倉の者、機械を焚く者の日ごとの賃を、その月に作った部品の数で割って足す。
台と、建屋と、機械の減りをいくら。
四つを足した。
歯車一つ。攪車の軸一本。弁一つ。子の台の刃一枚。——部品ごとに、一つ作るのにいくらかかったか。
出てきた数を、売った値と並べた。
歯車と攪車の軸は、売った値の方が高かった。
弁は、ほとんど同じだった。
子の台の刃は、売った値の方が安かった。
「刃が」
汪徳潤は呟いた。
「刃が、一番売れているのに」
「刃は、杜布林どのの別の壺の鋼を使っています」
修平は言った。
「その鋼は、普通の鋼の三倍の値です。それに、刃は削るのに時がかかる。検める者の否も多い」
汪徳潤は帳面を長いこと見ていた。
それから顔を上げた。
「刃の値を上げます。——工部の工房と、話をします」
「工部が嫌がったら」
「嫌がったら、この数を見せます」
汪徳潤は帳面を手のひらで叩いた。
「この数があれば、値を上げるのが欲ではないと、言えます。——鍋の問屋の頃は、値を上げるときはいつも勘と口でした」
◇
四日目、汪徳潤は修平を工場の倉へ連れていった。
倉は三つに分かれていた。
鋼の場から来た鋼の棒と板。——削る前のもの。
削りかけの部品。——工程と工程の間の箱から溢れたもの。
削り終えて、検め終えて、売る前の部品。
「倉の帳面と、倉の中身とを、月に一度突き合わせます」
汪徳潤は言った。
「初めの月は、合わなかった。帳面では、歯車が三百あるはずが、二百七十しかない」
「盗まれた」
「盗まれたのも、あったでしょう。——けれど、ほとんどは、赤い箱に入った歯車を帳面から引いておらなんだ。それに、削りかけの歯車を、倉の者が削り終えたものの棚に、間違えて置いていた」
汪徳潤は削り終えた部品の棚を見上げた。
歯車が箱にぎっしりと詰まっていた。
「突き合わせてみて、もう一つ分かったことがございます」
汪徳潤は言った。
「この棚の歯車は、紡ぐ場が半年先まで使う分です。——削る台が空いておる日に、先に削っておいた」
「半年分の鋼と、石炭と、賃が、ここで寝ている」
修平が言った。
汪徳潤は頷いた。
「民の行に利を払って借りた銭で、半年先の歯車を作って、寝かせております。——鍋なら、蔵に積んでおいても、錆びるだけ。でもこの歯車は、錆びぬうちに、紡ぐ場の機械の形が変わるかもしれぬ。韋金森どのが、来年は歯の数を変える、と言うておられた」
汪徳潤は棚から歯車を一つ取り出した。
「来月から、紡ぐ場からいつ、いくつ要るかを、先に聞いてから削ります」
◇
五日目の朝、修平は工場の門の外に出た。
門の前の道は、朝の人の列で埋まっていた。
工場の者、七十人あまり。鋼の場の者、二百人あまり。鋼の場の東の骸炭の窯の者。石炭の荷車の者。
道の脇に、小屋が並んでいた。去年まではなかった小屋だった。粥を売る小屋。餅を売る小屋。炭の火で湯を沸かして売る小屋。
汪徳潤が修平の隣に立った。
「困っていることがございます」
汪徳潤は言った。
「工場の者の半分は、磁州の城の外の村から通っております。朝、暗いうちに家を出て一刻歩いて、ここに来る。夜、暗くなってから一刻歩いて、帰る。——冬は道が凍る。この月の初め、二人が夜道で足を折りました」
汪徳潤は道の脇の粥の小屋を見た。
「工場の中で、昼に食う場所がない。台の脇で握り飯を食う。台の油が握り飯に付く。——飲み水は、鋼の場と同じ井戸。夏には、井戸の水が足りなくなる。便所は、塀の脇に穴が一つ。七十人に、穴が一つ」
汪徳潤は少し黙った。
「それに、火です。鋼の場の脇で、この工場の建屋は木の骨組みです。油の染みた木の屑が、台の下に溜まる。——先月、一度、台の下で火が出ました。すぐ消えた。でも、あれが夜中だったら」
修平は道の人の列を見ていた。
この工場の帳面の中には、台の減りまで入れた。鋼も、石炭も、賃も、倉の中身も入れた。
けれど工場の門の外で、朝、一刻歩いてくる者たちの足は、どの帳面にも入っていなかった。
「工場の近くに、宿を建てるのですか」
修平が問うた。
「建てたい。——でも宿を建てる銭は、どの帳面のどの欄に入れればよいのか。宿は、歯車を作らぬ」
汪徳潤は苦く笑った。
「宿がなければ、足を折る者が出る。足を折った者の分、台が止まる。台が止まれば、歯車の値が上がる。——宿は、歯車を作らぬが、歯車の値を決めておる」
修平は頷いた。
「その話を磁州の知州と、工部とに持っていきます」
修平は言った。
「宿と、道と、井戸と、便所と、火を消す者。——工場の塀の内側だけでは、決められないことです。この工場だけでもありません。鋼の場も窯も、同じでしょう」
◇
開封へ戻る前の晩、修平は汪徳潤と狭い部屋で卓を挟んだ。
卓の上に、この五日で作った帳面が並んでいた。
部品ごとの、一つ作るのにかかった銭。台と、建屋と、機械の減りの表。赤い箱の台ごとの数。倉の月ごとの突き合わせ。人の並びと、賃の書き方。それに、修平が最後に書き加えた一枚。工場の門の外の宿、道、井戸、便所、火。
「林詳定」
汪徳潤が言った。
「私はこの工場を建てるとき、工場とは大きな建屋に台をたくさん並べることだと、思うていました」
汪徳潤は帳面の山を見下ろした。
「違いましたな」
修平は黙って、次の言葉を待った。
「鋼が鋼の場から、決まった日に決まった量、来る。台が決まった刻に決まった数、削る。削った部品が、箱から箱へ止まらずに流れる。賃が決まった日に決まった書き方で出る。銭が民の行から決まった利で借りられる。紡ぐ場がいつ、いくつ要るかを先に知らせてくる。帳面が十日ごとに、どこが遅れて、どこが狂うたかを教える」
汪徳潤は指を折っていった手を止めた。
「物と、人と、銭と、報せと。——その全部を同じ拍子で動かす。どれか一つの拍子が狂えば、全部が止まる。台が止まる。歯車の値が上がる」
汪徳潤は窓の外の建屋の黒い影を見た。
「工場というのは、建屋ではございませんな。——物と、人と、銭と、報せとを同じ拍子で動かす仕組みでございます」
修平は窓の外を見た。
鋼の場の高い炉の火が、夜空に細く昇っていた。その手前で、工場の建屋は暗く静まっていた。明日の朝、暗いうちに村から一刻歩いてくる者たちを待っていた。
「その仕組みの、半分は」
修平は言った。
「塀の外に、あるのかもしれません」
汪徳潤はしばらく何も言わなかった。
それから卓の上の最後の一枚——宿、道、井戸、便所、火——を、帳面の山の一番上に載せ直した。




