第五巻 軍産業設計 第一回 暗号の提案
針が振れた。
陳橋の駅に置かれた小さな箱の中で、細い針が右へ、左へ、また右へと震えるように動いた。箱の前に座った若い吏員が、針の振れを一つずつ紙に書き取っていった。短い。長い。短い。短い。書き取った印を四つずつ区切り、区切った印を数字に直す。
数字の列ができると、吏員は傍らに置いた分厚い帳面を開いた。
電碼表の試しの版だった。章太厳が一年かけて字を選び、番号を振ったものだ。国中の局に配る本の版はまだない。この試しの線で、打ち違えや読み違えの多い番号を洗い出し、改めてから作る。
吏員は四つの数字を引き、字を一つ書いた。また四つを引き、また一字。
「開封、工部より陳橋駅へ。——本日、午の刻。雨。線に異状なし」
吏員が読み上げた。
修平は吏員の後ろでそれを聞いていた。
二年あまり前の初冬、工部の裏庭に柱が三本立った。翌年の春に壺に酸が満たされ、針が初めて振れた。それから線はどこで針が振れなくなるかを測るために、一里、二里と継ぎ足された。雨の日には読めなくなり、陶の器を替え、線の継ぎ目を替え、壺の数を増やした。そして今、線は開封の城壁を越え、北へ四十里あまり、この陳橋の駅まで延びていた。
開封から陳橋へ馬を走らせれば、半日かかる。
今の文は、送られてからここで字になるまで湯が沸くほどの間もかからなかった。
「林詳定」
後ろから声がした。
振り向くと、駅の戸口に枢密院の董元礼が立っていた。西の遠征に副使として出た男だった。国境の平原から、テオドリアの城壁の下まで歩いてきた男。
「枢密使がお呼びです。すぐに開封へ戻っていただきたい」
「何かありましたか」
董元礼は少し言い淀んだ。
「……今の文と同じ文を、枢密使も読まれました」
修平は眉を寄せた。
「枢密院には、まだ線は引かれておりませんが」
「はい」
董元礼は頷いた。
「ですからお呼びなのです」
◇
枢密院の奥の一室は窓が小さく、昼でも薄暗かった。
楊崇武は机の前に座っていた。六十になった枢密使の髪は、夜対の晩に比べてずいぶん白くなっていた。
机の上に紙が一枚置かれていた。
「読んでみなさい」
修平は紙を手に取った。
開封工部より陳橋駅へ。本日午の刻。雨。線に異状なし。
陳橋の駅で吏員が書き取ったものと、一字も違わなかった。
「これはどこで」
「開封と陳橋のちょうど半ばあたりだ」
楊崇武は言った。
「線が道の脇の柱を渡っている。その柱の一本に、軍器監の職人を一人登らせた。工部から借りた針の箱と、細い線を持たせてな。元の線に細い線をそっと巻き付けさせた。——それだけだ」
修平は紙を見つめた。
「職人は電碼表を持っておりましたか」
「持っていない」
楊崇武は首を振った。
「電碼表の写しは、工部と少府監と陳橋の駅に一冊ずつ。職人が持っていたのは、長い短いを書き取る紙だけだ。書き取った印を、董元礼が枢密院へ持ち帰った。——それから工部へ使いをやって、電碼表を一日借りた」
楊崇武は紙を指で軽く叩いた。
「借りられた、ということだ」
修平は黙った。
楊崇武は窓の方へ目をやった。
「林詳定。二年半前の廷議で、そなたは西の遠征の報せの日付を読み上げた。四月。——あの日から、私はこの線が北の辺りまで届く日を待っていた。一日で届く軍令。それがあれば、テオドリアであれほどの兵を失わずに済んだ」
「はい」
「だがこの半月、陳橋の線を見ていて、別のことが気になり始めた」
楊崇武は修平に目を戻した。
「電信は速い。だが線を傍受されれば、軍令そのものが敵に読まれる」
部屋の中が静かになった。
「騎馬の使いが一人、途中で討たれれば、文は一通奪われる。だが線の上を流れる文は、線のどこかに一人、手を掛ける者がおれば、全て読まれる。送った者も、受けた者も、読まれたことに気づかぬ」
楊崇武は言葉を切った。
「速さが、敵に報せを渡す速さにもなりかねぬ」
◇
董元礼が、机の上に枢密院の文書の束をいくつか並べた。
「この半月、枢密院で今、軍令をどう伝えているかを洗い出しました」
董元礼は束を一つずつ指した。
「騎馬の伝令。宿駅で馬を換え、昼夜走り継ぐ。遅いが、文を運ぶ者は枢密院が選んだ者です。途中で討たれれば文は奪われますが、奪われたことは、少なくとも使いが戻らぬことで知れる」
次の束。
「旗と烽火。速いが、送れることが限られております。敵が来た。敵が多い。——それ以上は送れない。そして烽火は敵にも見えます」
次の束。
「書面の封印。印を押し、紐で縛り、封泥をする。開ければ分かる」
最後の束の上に、董元礼は古い一冊の冊子を置いた。
「それから字験です」
修平は冊子を見た。表紙には何も書かれていなかった。
「枢密院と辺りの将との間で、前もって四十の事柄を決めておきます。兵が欲しい。糧が欲しい。敵が退いた。——その四十の事柄に、ある古い詩の四十の字を、一字ずつ当てる。どの詩を使うかは、出陣の前に将と枢密院の間だけで決める。将はその詩の中の一字を、何気ない文の中に紛れさせて送る。受けた側は詩を知っておれば、その一字が何を意味するか分かる」
修平は冊子を開いた。細かい字で、事柄と字の当て方が書き込まれていた。
この国は、とうの昔にそれを持っていた。
「字験は四十の事柄しか送れません」
董元礼は言った。
「決まった事柄の外のことは送れない。そして同じ詩を何度も使えば、いずれ見抜かれる」
「もう一つあります」
楊崇武が言った。
楊崇武は陳橋の線の、半月分の帳面の写しを机の上に広げた。日ごとに、送られた文の数が書き込まれていた。
「読まれずとも分かることがある。——この日と、この日。文が他の日の三倍流れている。工部で酸の壺を入れ替えた日だ。線を見張っていた職人は中身を読まずとも、この二日、工部で何かが起きた、と言い当てた」
楊崇武は帳面を閉じた。
「北の辺りの線で、ある日急に文が増える。ある駅から急に文が出るようになる。——それだけで、兵が動く兆しを敵は読む」
修平は帳面を見つめていた。
自分が二年半前の廷議で語った電信には、この話は入っていなかった。速さのことしか語らなかった。
楊崇武は修平の顔を見て、少し声を和らげた。
「そなたを責めるために呼んだのではない」
「……はい」
「そなたの世では、この話にも答えがあったか」
「あった、はずです」
修平は言った。
「ありました。私の世の戦では、線の上の文は必ず別の形に変えて送られました。敵に読まれても分からぬように。——ですが、どう変えたのか。その仕組みを、私はほとんど知りません。電信の作り方以上に知りません」
楊崇武は頷いた。
「では、知る者を呼ぼう」
楊崇武は董元礼を見た。董元礼は一礼して、部屋を出ていった。
◇
董元礼が連れてきたのは、女だった。
四十前後に見えた。背はこの国の女としては高い。色の薄い髪を短く切って、後ろで一つに結っていた。目は灰色がかっていた。着ているのは、求賢局が用意した、官の者が内で着る地味な袍だった。
女は部屋に入ると、楊崇武に深く頭を下げた。この国の礼を覚えた者の頭の下げ方だった。
「艾琳・哈特でございます」
訛りはあった。けれど言葉は正確だった。
修平はその名を、求賢局の記録で見たことがあった。去年の春、登州の海辺の村で見つかった。自分の世では二十世紀の半ば、大きな戦の間、敵の暗号を読む仕事をしていた、とあった。求賢局で認められてからこの一年、章太厳の下で電碼表の試しの版の改めと、番号の見直しを手伝っていた。
楊崇武が、陳橋の線の話を短く伝えた。軍器監の職人が柱に登り、線を読んだこと。
哈特は黙って聞いていた。
聞き終えると言った。
「驚きません」
楊崇武が眉を上げた。
「電碼表は、暗号ではございません」
哈特は机の上の電碼表の写しを見た。
「電碼表は字を数に置き換える表です。誰が引いても、同じ字は同じ数になる。そう作らねば、国中で同じ文が読めません。——ですから表が一冊、敵の手に渡れば、あるいは敵が時間をかけて自分で同じ表を作り直せば、線の上の数は全て読まれます」
「自分で作り直せるものか」
「できます」
哈特は頷いた。
「『之』という字は、どの文にも多く出ます。『不』も、『以』も。多く出る数を数えていけば、それがどの字か分かってまいります。数を十分に溜めれば。——私は自分の世で、それを仕事にしておりました」
部屋の中の誰も口を開かなかった。
「章太厳先生は、それをご存じです」
哈特は続けた。
「電碼表を作るとき、先生はよく使う字を、近い番号に固めぬよう気をつけておられました。似た形の字を近い番号に置けば、打ち違えたときに別の字になりにくい。けれど番号の並びに意味を持たせすぎれば、読む者に手がかりを与える。——先生はその二つの間で、一年迷われたと伺いました」
修平は二年半前の廷議の後、廊下で章太厳が言った言葉を思い出した。
電碼表の番号の振り方は、いずれ別のことにも効いてまいります。
「では、どうする」
楊崇武が問うた。
哈特は修平の方を一度見た。それから楊崇武に向き直った。
「字を数にするところまでは、今のまま誰でも読める表でやります。——その後に、もう一段足します」
◇
哈特は紙を一枚もらい、筆を取った。
筆の持ち方は、この国の者のようにはまだ慣れていなかった。それでも書かれた線は迷いがなかった。
紙の上に四つの段が、上から下へ書かれていった。
字。
電碼。四つの数字。——誰でも引ける表。
もう一度、別の数に変えた数字。——鍵を知る者だけが戻せる。
線の上の、長い短い。
受ける側はその四つの段を、下から上へ逆にたどる。長い短いを数字に。数字を鍵で元の電碼に。電碼を表で字に。
線の上の、長い短い。
「字を数にするのは表です。表は国に一つ。誰でも持てる」
哈特は三つ目の段を、筆の尻で叩いた。
「ここで数をもう一度変えます。変え方は鍵で決まる。鍵を持たぬ者には、元の数に戻せない。——線を読まれても、読んだ者の手に残るのは、意味のない数の列です」
「鍵とは何だ」
「決まりです。その日、その線で数をどう変えるかの決まり。——私の世では、それを機械にやらせました」
哈特は紙の端に、小さな円をいくつか描いた。円の縁に細かい刻みを入れた。
「歯車です。歯車をいくつか重ねる。一つの数を入れるたびに、歯車が一つ回る。回った歯車の位置によって、同じ数を入れても、出てくる数が変わる。——どの歯車をどの順に重ね、最初にどの位置に合わせておくか。それが鍵です。鍵を替えれば、同じ機械でも全く別の変え方になる」
修平は紙の上の歯車を見た。
「……漢字をそのまま機械に入れることは、できない。でも」
「はい」
哈特は修平を見て、頷いた。
「数千の字を機械に入れる口は作れません。けれど零から九までの十の数なら、十の歯なら、作れる。——林詳定が二年半前に、字を数にすると決めてくださったから、この機械が作れるのです」
修平は少し息を詰めた。
自分は送り間違いを減らすためだけに、字を数にしようと言った。それがこの女の手で、別のことに繋がろうとしていた。
「その機械を作れる者は」
楊崇武が問うた。
「私には作れません」
哈特ははっきりと言った。
「私は機械を読む側でした。作る側ではありません。——ですが、工部に杭州から来られた時計の職人がおられる、と聞いております。十二桁の数を足す機械を作っておられる方が」
「蘇玄機か」
修平が言った。
「その方に歯車のことをお願いしたい。数を足す機械の歯車と、数を変える機械の歯車は、兄弟のようなものです」
哈特は紙の上の歯車の図の横に、字を二つ書いた。
天機一号。
「仮の名です。天機の二字は、章太厳先生が付けてくださいました。一号は最初の一台ゆえ。——二台目からは、もっとよくいたします」
楊崇武はその二字をしばらく眺めていた。
「天の機の一号、か。……大きく出たものだ」
「名だけは、先に大きく」
哈特は少しだけ笑った。
「中身はこれからです」
◇
「一つ訊きたい」
楊崇武が言った。
「電碼表を、軍だけの別の表にすればよいのではないか。民の文には国の表。軍の文には枢密院だけが持つ別の表。番号の振り方を変えておけば」
哈特は首を振った。
「それも考えました」
「駄目か」
「駄目ではございません。ですが、弱い」
哈特は電碼表の写しを手で押さえた。
「表は本です。本は写されます。盗まれます。陣が落ちれば、陣の中の本は敵の手に渡ります。表を覚えている通信の兵が捕らえられることもある。——そして一度、表が漏れれば、表を作り直すのにまた一年かかる。その一年、軍の文は全て読まれます」
哈特は手を離した。
「秘密は表に置いてはなりません。すぐに替えられるものに置かねばならない。——鍵は紙一枚です。歯車の順と、最初の位置。それだけなら、十日ごとにでも替えられる。漏れたと分かれば、その日のうちに替えられる」
楊崇武はしばらく黙っていた。
「秘密を重いものに置くな。軽いものに置け、と」
「はい」
楊崇武は頷いた。
「それから」
部屋の隅でずっと黙っていた董元礼が、口を開いた。
「人の名や土地の名は、どうなりますか。電碼表にない名は、章太厳先生の音の印で送ると聞いておりますが」
「それも弱いところです」
哈特は言った。
「音の印は四十ほどしかありません。音の印の並びは、電碼の数の並びとは形が違う。線を読む者には、ここに名がある、と分かってしまう。——そして名は、一番知られたくないものです。将の名。町の名。明日、兵が向かう谷の名」
哈特は紙の上の三つ目の段を、もう一度指した。
「音の印も数に直して、同じ機械を通します。章太厳先生とその番号の振り方を、今詰めております。——それとは別に、軍の文では、名を前もって番号で呼ぶことにしたい。この将は何番。この谷は何番。番号の表は出陣ごとに作り、陣を引くときに焼く」
董元礼がゆっくりと頷いた。
「字験と同じ形ですね」
「はい」
哈特は董元礼を見た。
「この国の字験はよくできております。私の世にも、よく似たものがございました。——それを機械の上に載せ直すだけです」
◇
日が傾き、窓の外が赤くなり始めていた。
楊崇武は一度、茶を運ばせた。それから哈特に問うた。
「機械ができれば、軍の文は守れるか」
「いいえ」
哈特は即座に答えた。
楊崇武が茶碗を持つ手を止めた。
「機械は半分でございます」
哈特は茶碗に手を付けず、言った。
「残りの半分は人です。——鍵を誰が作るか。誰が運ぶか。誰がどこにしまっておくか。いつ替えるか。失くしたとき、盗まれたとき、誰がどうやって全ての者に、その鍵をもう使うなと報せるか」
哈特は指を一本ずつ折っていった。
「私の世で強い機械が破られたのは、機械が弱かったからではありません。ほとんどは人の方からです。——ある陣では、毎朝同じ時刻に同じ書き出しで、その日の天気を送っておりました。読む側は、その書き出しが何という言葉かを知っていた。知っている言葉と、機械が吐き出した数とを並べれば、その日の鍵が割り出せる」
修平は息を止めた。
「ある通信の兵は、鍵を替えるのが面倒で、同じ鍵をひと月使い続けました。ある兵は鍵を決めるとき、自分の恋人の名の頭の字を並べました。ある陣は急ぎの時、機械を通さず、そのままの字で送りました。一度だけ。——その一度で足りました」
部屋の中は静かだった。
「ですから、機械と同じだけ決まりが要ります」
哈特は紙を一枚新しく取った。
書かれていったのは、字の短い箇条だった。
鍵を作る者。枢密院の中に一つの房を置く。鍵を作る者は、軍令の中身を知らない。
鍵を預かる者。各軍に鍵の保管の官を置く。鍵は封をした箱に入れ、保管の官ともう一人が立ち会って開ける。
機械を扱う者。電信の局の通信の兵。通信の兵は鍵を作らない。軍令を決めない。
「一人の者に全てを握らせぬことです」
哈特は筆を置いた。
「文の中身を知る者と、鍵を知る者と、機械を動かす者を分ける。一人が捕らえられても、一人が買われても、全ては漏れぬように」
楊崇武は紙を手に取った。
読みながら、楊崇武は一度眉を寄せた。
「通信の兵、か」
「はい」
「電信の局の兵は、誰の兵になる。——駅と急脚の者は今、兵部が預かっている。線の上の文も文を運ぶことに変わりはないゆえ、兵部の駅の者の務めだと、呉承烈は言うであろう。だが軍令を扱う兵は、枢密院のものだ」
楊崇武は紙を机に戻した。
「この紙一枚に、兵部と枢密院の両方の印が要ることになる」
董元礼が小さく息をついた。
「……枢密院の兵籍の房と、兵部の駅の房に、同じ照会の文を二通出すことになりましょう」
「出しなさい」
楊崇武は言った。
「今は、そういう仕組みだ」
修平はその短い言葉を、黙って聞いていた。
この国では、兵のことは兵部と枢密院の二つの役所が見ている。二つの役所が、互いの務めに重なって手を伸ばしている。それは、兵を一人の手に握らせないための、この国の古い知恵だった。
けれど、線の上を一日で軍令が走るようになれば、二通の照会の文は、その一日の間に行って戻ってこられるのだろうか。
修平はそのことを口には出さなかった。
◇
「最後に、もう一つ」
哈特が言った。
「定まった書き方は敵に鍵を渡します。けれど定まった書き方がなければ、文は誤ります」
楊崇武が哈特を見た。
「二年半前、林詳定と兵部の呉尚書が決められた、文の書き方の決まりを見させていただきました。頭に誰から誰へ、いつ、を書く。受けた側は、受けた、と返す。数字は繰り返す」
哈特は頷いた。
「民の文にはよい決まりです。——軍の文では、その頭の書き方が毎回同じなら、読む者の手がかりになる」
「ではどうする」
「頭の書き方の決まりを、いくつか持っておきます。どれを使うかも鍵のうちに入れる。——よく使う言い回しは、あらかじめ番号にしておく。『異状なし』を毎日同じ四字で送らない。鍵は決まった日に必ず替える。替えたかどうかを、保管の官が帳面に付ける。急ぎの時も、機械を通さずに送ってよい場合を、前もって決めておく。決めておかぬことは、急いでいても、しない」
哈特は少し間を置いた。
「そして陣を引くとき、陣が落ちそうなとき、鍵の紙と番号の表と機械の歯車を、誰がどの順に焼き壊すか。——それも先に決めておきます」
「機械を壊すのか」
「機械は、また作れます」
哈特は言った。
「読まれた文は、戻りません」
◇
話が終わったとき、窓の外は暗くなっていた。
楊崇武は董元礼に灯を入れさせた。それから机の上の紙を一枚ずつ揃えていった。陳橋の線から読み取った文。軍令の伝え方の洗い出し。哈特の四つの段の図。歯車の絵。鍵の箇条。
「林詳定」
楊崇武が言った。
「そなたが二年半前に言い出したのは、報せを速くする仕組みだった」
「はい」
「今日、わかったことがある」
楊崇武は揃えた紙の束の上に、手を置いた。
「報せを速くする仕組みは、そのまま報せを守る仕組みを要する。——速さと守りは、同じ時に作らねばならぬ。片方だけ先にできれば、先にできた方が、敵に贈り物をする」
楊崇武は哈特を見た。
「哈特どの。天機の機械を蘇玄機と作る。鍵の決まりを枢密院の中に作る。——それを枢密院から都堂へ上げる。兵器を作るより、先に」
「兵器より先に、ですか」
修平が言った。
「そうだ」
楊崇武は頷いた。
「銃も砲も、作るには何年もかかる。だが作っている間に、何を、どれだけ、どこで作っているかが線の上から漏れれば、作る前に負ける」
楊崇武は紙の束を董元礼に渡した。
「情報を守る技も、兵器の一つだ。——いや、兵器の一つ手前にあるものだ」
◇
枢密院を出たとき、夜風はまだ冷たかった。
修平は宮城の外の道を、詰所の方へ歩いていった。道の脇に、工部から陳橋へ向かう線の最初の柱が立っていた。暗い中で、柱の頭の白い陶の器だけが、ぼんやりと見えた。
その下を細い鉄の線が、北へ延びていた。
今この時も、あの線の上を何かの文が走っているのかもしれない。天気の報せか、壺の入れ替えの報せか。誰が送り、誰が受けたのか。
そして、線の途中のどこかの柱の下に、誰かが立っているのかもしれなかった。
修平は柱の下でしばらく立ち止まっていた。
それから、また歩き出した。




