第四巻 産業設計 第十五回 鉄道の提案
年の暮れの御前廷議の朝、修平は、いつもより早く目を覚ました。
まだ暗い詰所の窓の外で、雪が、降り始めていた。
修平は、灯をつけ、机の上に、一枚の紙を広げた。昨夜、遅くまでかかって、書いたものだった。書いては消し、消しては書いた。
紙の上には、ほとんど、何も書かれていなかった。
一番上に、「鉄の道」とだけ。その下に、短い箇条が、五つ。
修平は、その五つを、もう一度、読んだ。
自分が、この国で、自分から言い出すと決めていた技は、三つだけだった。電信と、鉄の道と、後ろから弾を込める銃。自分の世にあったことを知っていて、それが何の役に立ったかを、自分の言葉で言えるもの。
電信は、二年前に、言った。
今日は、それを、繰り返さなくていい。
修平は、紙を畳み、袖に入れた。
窓の外の雪が、少し、強くなっていた。
◇
「鉄の道、と申します」
殿の中で、修平は、言った。
皇帝の前に、宰相と、参政と、枢密使と、六部の尚書が並んでいた。その後ろに、工部の沈維新の下から、杜布林と、貝爾。求賢局から、同提挙の陸秉文と、もう一人。
もう一人は、四十前後の、背の高い、細い目の男だった。求賢局の記録には、二十世紀の、東の方の国で、道と橋を造っていた、とあった。名は、賀通遠。
「地に、二本の鋼の棒を、平行に、長く、敷きます。その上を、鉄の車輪の車が、走る。車を曳くのは、馬ではなく、蒸気の機械です」
修平は、殿の中を見渡した。
「私の世には、それが、国中に、網のように、ありました。国の端から端まで、馬で一月かかるところを、二日か三日で」
張文謹が、目を細めた。
「二日か、三日」
「はい」
修平は、頷いた。
「それが、ありました」
殿の中で、誰も、作れるのか、とは訊かなかった。
修平は、そのことに、胸の奥で、小さく息をついた。二年前の電信のとき、呉承烈は、作り方を知らぬものを朝廷に勧めるのか、と言った。今日、その呉承烈は、黙って、修平の次の言葉を待っていた。
◇
「臣が、この鉄の道を申し上げたいのは、二つのためでございます」
修平は、袖から、紙を取り出した。
「一つは、兵です」
枢密使の楊崇武が、顔を上げた。
「西の遠征では、兵を送るのに、一年半かかりました。報せが開封に届くのに、四月かかりました。——電信は、報せを速くします。けれど、兵と、糧と、矢と、火薬は、線の上を、走れません」
修平は、楊崇武を見た。
「北の辺りで、何かが起きたとき。今は、禁軍を、開封から北の辺りへ動かすのに、ひと月かかります。糧の荷車の列は、兵の列より、さらに遅い。——鉄の道があれば、兵を、数日で送れる。糧と矢と火薬を、兵と同じ速さで、送れる。国境に、多くの兵を、長く張り付けておかなくても、何かが起きてから、送ればよくなる」
楊崇武は、しばらく、修平を見ていた。
「……兵を、国の中で、自在に動かせる、ということか」
「はい」
「それが、そなたの世では、あったのだな」
「ありました」
修平は、言った。
「そして、それを持つ国と、持たぬ国とが戦えば、持つ国が、勝つことが多かったのです」
楊崇武は、目を閉じた。
◇
「もう一つは、物でございます」
修平は、言った。
「この二年、工部と、坑冶寺と、太府寺と、司農寺で、多くの青図が描かれてまいりました。縦の坑。鋼の炉。化学の地区。紡ぐ工場。蒸気の船。——どの青図にも、同じ言葉が、出てまいります」
修平は、殿の後ろに控えた、杜布林と貝爾の方を見た。
「重いものを、遠くへ、運ばねばならぬ」
杜布林が、小さく頷いた。
「石炭は、北の坑から。鉄の石は、別の山から。石灰は、また別の山から。塩は、浜から。綿は、南から。——河があるところは、河で運べる。邵鳴岐どのの船が、それを、決まった日に、運べるようにしてくれる。けれど、河のないところは、今は、荷車です」
修平は、少し、間を置いた。
「荷車で、石炭を百里運べば、石炭の値が、倍になります。倍になった石炭で、鋼を作れば、鋼が高くなる。高い鋼で、機械を作れば、機械が高くなる。——鉄の道は、その、重いものを運ぶ値を、何分の一にもします」
戸部尚書の葉正言が、口を開いた。
「そして、鉄の道を作るには、鋼が要る」
「はい」
修平は、頷いた。
「鋼の棒が、一里に、何百本。枕の木が、何千本。橋の鋼。石。——鉄の道は、鋼の炉ができたから作れるものであり、同時に、鋼の炉に、一番多くの注文を出す客でもあります」
修平は、紙を畳んだ。
「臣が申し上げられるのは、ここまででございます」
修平は、殿の後ろの、背の高い男の方を、手で示した。
「どこに、どう敷くか。どうすれば、敷けるか。——ここからは、賀通遠どのに、お願いしたく存じます」
◇
賀通遠は、一歩、前へ出た。
それから、殿の中の皇帝に、深く頭を下げた。
「賀通遠でございます」
言葉には、ほとんど訛りがなかった。修平が聞いた中で、一番、この国の言葉に近い話し方だった。
「林詳定の言われた鉄の道を、この国に、敷く。そのために、まず、申し上げねばならぬことがございます」
賀通遠は、懐から、一枚の紙を取り出した。紙の上に、二本の平行な線と、その断面の絵が描かれていた。
「二本の棒の、間の広さ」
賀通遠は、紙の上の、二本の線の間を、指で示した。
「これを、国中で、一つに決めます」
殿の中が、少し、ざわついた。
「当たり前のことに、聞こえましょう」
賀通遠は、言った。
「ですが、私の知る国々では、それが、当たり前ではありませんでした。ある地方は、この広さで敷き、隣の地方は、別の広さで敷いた。それぞれの地方が、それぞれの都合で、自分の道を、先に敷いたからです。——二つの道が、国境で、あるいは、同じ国の中の、二つの地方の境で出会ったとき、車は、そこから先へ、進めませんでした。荷を、全部、下ろして、隣の車に、積み替えねばならなかった」
賀通遠は、紙を、皇帝の方へ向けた。
「兵を送るのに、境ごとに、全ての兵と、糧と、荷を、積み替える。——その国々は、何十年もかけて、それを、直さねばなりませんでした。直すのに、最初に敷くよりも、多くの銭がかかりました」
皇帝が、紙に目を落とした。
「二本の間の広さだけではございません」
賀通遠は、紙の上に描かれた、棒の断面を指した。
「棒の形と、重さ。道の、上り下りの、きつさの限り。曲がりの、きつさの限り。橋が、どれだけの重さに、耐えねばならぬか。駅と駅の間を、どれだけ空けるか。蒸気の車が、水と石炭を、どこで入れるか。車と車が、ぶつからぬよう、どうやって、先の道が空いているかを、知らせるか。道が傷んだとき、誰が、どう直すか」
賀通遠は、指を折り終えて、手を下ろした。
「これを、全部、最初の一里を敷く前に、一つの決まりとして、定めます。どこの地方が、どこから敷いても、全て、同じ決まりで。——そうすれば、百年後に、国中の道が、繋がります」
殿の中が、静まった。
修平は、賀通遠の横顔を見ていた。
求賢局の記録には、この男の国のことは、ほとんど書かれていなかった。けれど、この男が、どこかで、繋がらない道を、見てきたのだということは、分かった。
◇
「最初は、どこに敷く」
皇帝が、問うた。
「都から、どこかへ、か」
「いいえ」
賀通遠は、首を振った。
「最初の道は、都を、通りません」
殿の中の何人かが、顔を見合わせた。
「陛下のおられる都と、大きな町を結ぶ道は、見栄えがいたします。ですが、運ぶものが、人と、手紙と、少しの荷だけでは、道を敷いた銭が、戻ってまいりません」
賀通遠は、沈維新の方を見た。
「工部の書庫に、杜布林どのと、貝爾どのが作られた、一枚の地図がございます。石炭の坑と、鉄の石の山と、石灰と、煉瓦の土。——その地図を、この二月、見させていただきました」
賀通遠は、懐から、もう一枚の紙を出した。
「最初の道は、石炭と、鉄と、工場を、結びます。毎日、重いものが、必ず、行き来する道。運ぶ荷の運賃で、道を敷いた銭が、年ごとに、戻ってくる道。——そういう道を、まず、一本。そこで、鉄の道を、どう敷き、どう走らせ、どう直すかを、学びます」
「兵の道は」
楊崇武が、問うた。
「その次でございます」
賀通遠は、楊崇武を見た。
「最初の道で学んだことを、兵の道に、使います。——最初の一本で失敗することは、許されましょう。兵の道で失敗することは、許されません」
楊崇武は、しばらく黙っていた。
それから、頷いた。
◇
「道の通るところには、田がある」
左丞相の李徳彰が、言った。
「墓がある。寺がある。水の路がある。——それを、どうする」
「それが、一番、難しゅうございます」
賀通遠は、言った。
「鉄の道は、曲がりのきつさに、限りがございます。田を、避けて、くねくねと曲がることは、できません。どうしても、誰かの田を、誰かの墓を、横切ることになる」
賀通遠は、少し、間を置いた。
「私の知る国では、それを、役人が、力ずくで、やりました。道が通る、明日から出ていけ、と。——その恨みは、道が敷かれた後も、何十年と、残りました。道の枕の木が、夜の間に、抜かれることも、ございました」
李徳彰は、黙って聞いていた。
「ですから、まず、この道は、国のためになる、ということを、朝廷が、道ごとに、定めていただきたい。それが定まった道だけ、土地を求める。——求めるときは、値の決め方を、先に決めておく。田は、何等の田なら、いくら。墓を移すなら、移す費えと、移す作法と、その家の、心の償い。寺なら、寺の者と、話す」
賀通遠は、修平の方を、ちらと見た。
「司農寺の許稼民どのが、秀州で田を束ねたときの、決まりを、見させていただきました。異議を申し立てる道。測り直す道。償いを、県ではなく、別の場で、決める道。——あれを、鉄の道にも、使わせていただきたい」
修平は、頷いた。
秀州の田の話が、ここへ繋がるとは、あのとき、思ってもいなかった。
◇
「銭は、いくらかかる」
葉正言が、問うた。
賀通遠は、首を振った。
「今は、申し上げられません。道を、測ってみなければ。山があるか、河があるか。橋が、何本要るか。——ただ、一つだけ、申し上げられます。国の銭だけで、国中の道を、一度に敷くことは、できません」
葉正言は、修平を見た。
修平は、口を開いた。
「国の証文で、国が持つ道を、敷くことが、できます」
修平は、言った。
「兵の道と、国中を貫く、背骨になる道。それは、国が持ちます。——地方の道は、その路の財で、敷くこともできる。民の商人が、銭を出し合って、道を敷き、運賃を取ることも、できる。坑と同じです。道ごとに、違うやり方があっていい」
「ただし」
賀通遠が、言った。
「誰が敷く道でも、二本の棒の間の広さと、橋の強さと、車を走らせる決まりは、国が、一つに定めます。民の道でも、兵を運べなければ、なりません。民の道でも、車がぶつかれば、人が死にます。——それは、国が、見張ります」
葉正言は、しばらく考えていた。
「……国の道と、路の道と、民の道。だが、決まりは、一つ」
「はい」
「銭の出し手が、違っても、道は、繋がる」
「はい」
葉正言は、頷いた。
「戸部として、どの道に、どの銭を充てるか、中央銀行と、議してみよう」
◇
「最後に、一つ」
賀通遠は、言った。
「鉄の道は、敷いて、終わりでは、ございません」
賀通遠は、殿の中を、見渡した。
「敷き終わった日から、毎日、車を走らせねばなりません。蒸気の車を焚き、動かす者。道が傷んでいないか、毎日、歩いて見て回る者。駅で、荷を受け、人を乗せる者。先の道が空いているかを、知らせる者。どの車を、いつ、どこから、どこへ走らせるかを、決める者」
賀通遠は、指を折った。
「その者たちは、今、この国に、一人も、おりません。——道を敷くより先に、その者たちを、育てる場所が、要ります。周学衡どのの大学とは、また別の、学びの場が」
「堤と、同じだな」
沈維新が、言った。
「堤は、築いて終わりではない。毎年、見て回り、毎年、直す。直す者がいなければ、十年で、崩れる」
「はい」
賀通遠は、沈維新を見て、少し、笑った。
「鉄の道は、毎日、動いている、長い、長い堤のようなものでございます」
◇
廷議が終わった後、工部の書庫に、何人かが残った。
沈維新。杜布林。貝爾。賀通遠。坑冶寺から、喬仲堅。それに、修平。
壁には、二年近く前に杜布林たちが作った、国の北半分の地図が、まだ、貼られていた。黒い丸。赤い丸。白い丸。茶色の丸。青い線。
この二年近くで、印は、ずいぶん増えていた。羅蘭徳の、化学の地区の候補が三つ。邵鳴岐の、石炭を積み足す河港の候補が、汴河と、運河と、長江の上に、いくつか。許稼民の、試しの田が四つ。
賀通遠は、地図の前に立ち、しばらく、黙って、それを見ていた。
それから、墨を含ませた筆を、取った。
「ここから」
賀通遠は、地図の上の、一つの黒い丸に、筆の先を置いた。
相州の、鶴壁の坑だった。喬仲堅が、この一年、縦の坑の測量を続けてきた坑。
喬仲堅が、息を呑んだ。
筆は、そこから、北へ、少し伸びた。磁州の、赤い丸。杜布林が、最初の鋼の炉を建てる候補として、印を付けた場所。
それから、筆は、向きを変え、南へ、長く伸びていった。平らな土地を、まっすぐに。川も、街道も、通っていない土地を。
やがて、筆は、一本の青い線に、ぶつかった。
衛州の、河の港だった。そこから先は、河を渡し、舟で、開封へ。——いずれは、邵鳴岐の、煙を吐く船で。
賀通遠は、筆を、地図から離した。
黒い丸と、赤い丸と、青い線とを結ぶ、一本の、細い墨の線が、地図の上に、残っていた。
それは、二年近く前、貝爾が、同じ地図の上に、指でなぞった、見えない線と、ほとんど、同じところを通っていた。
書庫の中は、しばらく、誰も、口を開かなかった。
「……まだ、一本の棒も、ございません」
賀通遠が、言った。
「棒を作る炉も、まだ、ございません。道を測る器も、今の物差しでは、精しさが、足りません。山を削る火薬も、今のものでは、足りません。車を曳く蒸気の機械は、まだ、工部の裏庭で、井戸の水を汲んでいるだけでございます」
賀通遠は、筆を置いた。
「ですが、線は、引けました」
修平は、その細い墨の線を、じっと見ていた。
七年前、この国に、中央銀行という名の役所は、なかった。四年前、この国の兵は、西の野で、敗れた。三年前、求賢局の最初の者たちが、開封に着いた。
今、地図の上に、一本の線が、引かれていた。
この線が、いつか、鋼の棒になる。その上を、煙を吐く車が、石炭と、鉄と、人とを載せて、走る。
そのためには、鶴壁の坑が、深くならねばならない。磁州の炉が、同じ鋼を、たくさん作れるようにならねばならない。羅蘭徳の酸が、杜布林の石を調べ、許稼民の田が、坑夫と炉の番と、道を敷く者たちの糧を作り、蘇玄機の歯車が、その全ての数を足し合わせる。
どれか一つが欠けても、この線は、線のままだ。
修平は、窓の外を見た。
雪は、いつの間にか、止んでいた。
書庫の窓の向こうで、工部の裏庭の小屋から、白い湯気が、細く、立ち昇っていた。貝爾の機械が、今日も、井戸の水を、汲み上げていた。




