第四巻 産業設計 第十三回 化学工業の青図
葛元亮の机の上には、この半年で、書き付けが、二十通を超えて溜まっていた。
どれも、羅蘭徳に宛てたものだった。工部の、羅蘭徳の下に回されてくる。羅蘭徳の書き役である葛元亮が、まず目を通す。
杜布林から。——鉄の石の中に、燐と硫が、どれだけ入っているかを調べたい。石を溶かす強い酸が、要る。今、手に入るものでは、弱すぎる。量も、足りない。
綾錦院の陶大年から。——平の絹を、機械で織るようになれば、生の絹の黄ばみを抜き、白くする工程が、今の何十倍も要る。今は、灰の汁で煮て、日に晒している。晒し場が、足りなくなる。
城東の紙漉き場から。——紙の原料を煮る灰の汁が、年々、値上がりしている。
石鹸を作る工房から。同じく、灰の汁の話。
少府監の琉璃の工房から。——羅蘭徳どのの、熱さを測る管を、試しに引いている。だが、同じ太さの、透き通った管を引くには、琉璃の原料が、足りない。溶かすための、灰の類が、良いものが、揃わない。
それから、軍器監から、一通。——硝石を、もっと純く、もっと多く、作る法を、知りたい。
葛元亮は、二十通を、机の上で、並べ直してみた。
鉄。絹。紙。石鹸。琉璃。火薬。
どれも、別の役所の、別の工房からの、別の頼みだった。
けれど、並べてみると、似たことを言っていた。
酸が要る。灰の汁が要る。今のやり方では、量が足りない。質が揃わない。
◇
「どこの工房も、自分で、作っているのです」
羅蘭徳は、葛元亮が並べた書き付けを、一通ずつ、手に取りながら言った。
「染め屋は、染め屋の甕で、自分の灰の汁を作る。紙漉きは、紙漉きの釜で。石鹸屋は、石鹸屋の鍋で。——少しずつ。自分の分だけ。それぞれの、親方のやり方で」
「それで、今までは、足りておりました」
「今までは」
羅蘭徳は、陶大年の書き付けを、机に置いた。
「機械で、布を、何千反も織るようになれば。鉄の道を作るために、鉄の石を、何千と調べるようになれば。——一つ一つの工房が、自分の鍋で作るやり方では、追いつかない」
羅蘭徳は、立ち上がり、部屋の壁の黒い板の前に行った。
「国のどこかに、酸と、灰の汁を、大きな釜で、たくさん作る工場が、要ります。そこで作ったものを、染め屋にも、紙漉きにも、石鹸屋にも、鉄の者にも、配る」
羅蘭徳は、黒い板の真ん中に、大きな字を、一つ書いた。
——酸。
「まず、これです」
◇
その月の終わり、工部の一室に、関わる者たちが集められた。
沈維新。杜布林。綾錦院の陶大年。少府監の琉璃工房の親方。紙漉きの組頭。藍の染め屋の親方。丹薬の道士が一人。解州の塩の課から一人。求賢局で化学を認められた者が二人。軍器監の丞。太府寺の范汝舟。それに、修平。
羅蘭徳は、黒い板の前に立った。
「硫の酸、と私は呼びます」
羅蘭徳は、言った。
「この国にも、あります。丹薬の工房で、緑礬を焼くと、重い、油のような汁が、滴る。私の国でも、昔は、そうやって作っていました。——でも、それでは、一日に、ほんの少ししか、取れない」
羅蘭徳は、黒い板に、四角い部屋の絵を描いた。
「硫黄を燃やします。燃やした煙を、大きな部屋に、閉じ込める。部屋の中で、煙が、水と、別の気と出会って、酸になって、床に溜まる。——部屋の壁は、鉛で、覆います。酸は、鉄も、銅も、食うけれど、鉛は、食いにくい」
「鉛の部屋」
沈維新が、呟いた。
「そうです。家ほどの大きさの、鉛の部屋」
羅蘭徳は、四角い部屋の絵から、四方へ、線を引いていった。
「この酸で、杜布林どのは、鉄の石を溶かして、中身を調べられる。鉄の板の錆を、落とせる。染め屋は、ある色を、染め付けられる。この酸と、硝石から、もう一つの、強い酸が作れる。この酸と、骨や石を合わせれば、田の肥にもなる。許稼民どのが、いずれ、欲しがるでしょう」
羅蘭徳は、線の先に、字を書き込んでいった。鉄。染め。硝の酸。肥。
「化学の工場の、母のようなものです。この酸が、たくさん、同じ濃さで、作れなければ、その先は、何も、たくさんは作れない」
◇
「次に、灰の汁」
羅蘭徳は、黒い板の、酸の字の隣に、もう一つの字を書いた。
——鹼。
「今は、草や木を焼いた灰を、水に溶かして、その汁を使っている。北では、土から吹き出す、白い鹼を、掻き集めている」
紙漉きの組頭が、頷いた。
「灰は、年々、高うなります。薪が、高うなりましたから」
「そうでしょう」
羅蘭徳は、言った。
「琉璃にも、石鹸にも、紙にも、布を洗うのにも、この鹼が、要る。——灰から取るのでは、国中の薪を燃やしても、足りなくなる」
羅蘭徳は、黒い板に、塩の字を書いた。
「塩から、作ります」
部屋の中が、少しざわついた。
「塩に、硫の酸を掛ける。それを、石灰の石と、石炭と一緒に、焼く。焼いたものを、水に溶かして、煮詰める。——鹼が、取れます。私の国では、そうやって、灰ではなく、塩から、鹼を、山のように作りました」
太府寺の范汝舟が、身を乗り出した。
「塩は、国の専売でございます。塩を、そのような工場に回すとなれば、塩の課の者と、話をせねばなりませぬ」
「それも、課題です」
羅蘭徳は、頷いた。
それから、少し、顔を曇らせた。
「ただ、塩に酸を掛けると、強い、刺す気が出ます。私の国では、最初、その気を、そのまま、煙突から、空へ出していました」
羅蘭徳は、言葉を切った。
「工場の、風下の畑が、枯れました。木が、枯れました。村の者が、咳をして、目を傷めました。——何年も、それが、続きました」
部屋の中が、静かになった。
「その気は、水に通せば、捕まえられます。捕まえれば、それも、また、別の酸になる。捨てずに、使える。——でも、私の国の工場の主たちは、最初、それを、しなかった。しなくても、誰にも、咎められなかったから」
◇
「布を、白くする話も、あります」
羅蘭徳は、陶大年を見た。
「日に晒すのでは、機械の布の量には、追いつかない。私の国では、塩から作った、ある気で、布を白くしました。ずっと、速い」
「その気は」
陶大年が、問うた。
「毒です」
羅蘭徳は、はっきりと言った。
「吸えば、胸が焼ける。多く吸えば、死ぬ。——工場で漏れた気に倒れた者を、私は、見ました」
陶大年の顔が、強張った。
「ですから、使うなら、閉じた器の中だけで、使う。漏れたときに、すぐに分かるように、する。漏れたら、どこへ逃げるかを、決めておく。——使うかどうかは、それを全部、先に決めてから、です」
羅蘭徳は、黒い板に、鹼の字の下に、「白くする気」と書き、その横に、太い線で、枠を囲った。
「今は、候補として、置いておくだけに、します」
◇
「軍器監から、一つ、申し上げたい」
軍器監の丞が、口を開いた。
三十代の、角張った顔の男だった。この三年で、軍器監の中でも、西の遠征の後始末を、一番多く担ってきた男だと、葛元亮は聞いていた。
「硝石を、純く、多く。——それと、今、羅蘭徳どのが言われた、硝の酸。火薬を、今より強く、多く作る道が、そこにあるのではないかと」
部屋の中の目が、羅蘭徳に集まった。
羅蘭徳は、しばらく、何も言わなかった。
「……あります」
やがて、羅蘭徳は、言った。
「硝の酸と、硫の酸を使えば、今の火薬よりも、強いものの手がかりも、あります。——私の国の、私の時代に、それが、見つかり始めていました」
軍器監の丞の目が、光った。
羅蘭徳は、その目を、まっすぐ見返した。
「でも、それは、工部の、この工場で、やることでは、ありません」
沈維新が、羅蘭徳を見た。
「なぜだ」
「この工場は、染め屋と、紙漉きと、石鹸屋と、琉璃の者のための工場です。そこで、爆ぜるものを、一緒に作れば、工場ごと、吹き飛ぶ。——それに、爆ぜるものの工場は、誰が、何のために、どれだけ作っているかを、別の目で、見張らねばならない」
羅蘭徳は、軍器監の丞に、向き直った。
「軍器監には、軍器監の、別の工場を。——ただ、そこで使う、硫の酸も、硝の酸も、純く作る法も、温度を守る法も、この工場で、先に、育てておきます。民の工場で、酸を安全に、同じ濃さで作れるようになっていなければ、軍の工場でも、作れません」
軍器監の丞は、しばらく黙っていた。
それから、頷いた。
「別の系統で、ということですな」
「別の系統で。でも、同じ根から」
沈維新が、書き役に、何かを書き付けさせた。——民の化学の工場と、軍の爆ぜるものの工場とを、役所の上で、分けること。
◇
「一つの工場では、ありません」
羅蘭徳は、黒い板を、全て消した。
それから、真ん中に、大きな丸を一つ描いた。
「一つの、地区です」
羅蘭徳は、丸の中に、いくつもの小さな四角を描いていった。
硫黄を燃やして、硫の酸を作る、鉛の部屋。
塩と、硫の酸で、鹼を作る炉。その炉から出る、刺す気を、水に通して捕まえる塔。
石炭を蒸し焼きにして、骸炭と、油と、気を取る壺。——骸炭は、杜布林の鉄の炉へ。気は、地区の灯と、釜の火へ。油は、倉へ、いずれ、使い道ができるまで。
硝石を、精める釜。
そして、四角と四角の間を、矢印で繋いでいった。
「一つの工場の、要らないものが、隣の工場の、原料になる。一つの炉の熱で、隣の釜を、温める。——何が入って、何が出て、どこへ行くのかを、全部、数で追いかけます。酸が、どれだけ入って、どれだけ出て、どれだけ、どこへ消えたか。消えた分は、どこかへ、漏れている」
羅蘭徳は、丸の外側に、何本かの矢印を描いた。外へ出ていく矢印だった。
「外へ出るものは、三つだけに、したい。売るもの。捕まえきれなかった煙。捕まえきれなかった汚れた水。——後の二つを、どれだけ少なくできるかが、この地区の、腕の見せどころです」
◇
「どこに、置く」
范汝舟が、問うた。
羅蘭徳は、葛元亮に、目で合図をした。
葛元亮は、壁に、この二月、太府寺と坑冶寺の書庫をひっくり返して作った、一枚の地図を貼った。
黄色の丸は、硫黄の採れるところ。白い四角は、塩の池と、塩を煮る浜。赤い三角は、硝石の採れるところ。灰色の丸は、石灰の石。黒い丸は、石炭。——前の年に、杜布林たちが作った地図と、同じ描き方だった。
「硫黄は、山から来る。塩は、浜と、池から来る。石炭は、北の坑から来る」
羅蘭徳は、地図の上を、指でなぞった。
「全部が、近くにあるところは、ありません。どれかを、運ぶ。重いものを、遠くへ運べば、それだけ、高くなる」
羅蘭徳は、地図の上の、青い線——川と運河——を、指で追った。
「だから、舟の着くところ。川と運河が交わるところ。いずれ、鉄の道が、通るところ。——化学の工場は、知識だけでは、動かない。重いものを、毎日、大量に、動かす道の上に、置かねばならない」
地図の上に、羅蘭徳は、候補の印を、三つ付けた。
葛元亮は、その三つの印を見た。一つは、汴河と、北の石炭の道が交わる辺り。一つは、淮水と運河の交わる辺りで、塩の浜にも近い。一つは、長江の下流で、海にも近い。
どれも、町の、そばだった。
◇
「町のそばに、置くのですか」
修平が、問うた。
羅蘭徳は、修平を見た。
「さきほど、刺す気の話を、されました。風下の畑が枯れた、と。——町のそばに置けば、風下に、人が住みます」
「その通りです」
羅蘭徳は、頷いた。
「町から、離せば、運ぶのが、遠くなる。働く者が、住むところが、遠くなる。——近くに置けば、風下に、人がいる。汚れた水は、川を下って、下流の町へ流れる」
羅蘭徳は、地図の上の、三つの印の、それぞれの、風下と、川下を、指で示した。
「どこに置いても、誰かの、風下です」
修平は、黙った。
「ですから、置く前に、決めておきたいのです」
羅蘭徳は、言った。
「煙突から、何を、どれだけまでなら、出していいか。川へ、何を、どれだけまでなら、流していいか。それを、誰が、測るか。測った数を、誰が、見るか。——工場の主ではなく、工部でもない者が」
「工部ではないのか」
沈維新が、言った。
「工部は、工場を、建てさせる側です」
羅蘭徳は、沈維新を見た。
「建てさせる側が、見張る側も兼ねれば、工場を止めたくないときに、目を瞑ります。私の国の役所は、そうでした」
沈維新は、しばらく、羅蘭徳を見ていた。
それから、小さく笑った。
「……工部の尚書に、工部を信じるなと、言うのか」
「信じます。でも、別の目も、置いてください」
修平は、手元の紙に、書き付けた。
煙と、水と、それを測る者。工場の外の、住む者の側から。
それをどこの役所が担うのかは、まだ、分からなかった。この春、綾錦院の何四娘が言った、工場の中で働く者を見て回る者の話と、同じだった。どちらも、今の役所の、どこにも、はまらない。
修平は、二つの書き付けを、同じ束に綴じた。
◇
「それから、酸の濃さ」
羅蘭徳は、最後に、言った。
「染め屋が使う酸と、杜布林どのが、石を調べるのに使う酸と、薬を作るのに使う酸は、同じ純さでなくて、いい。——全部を、一番純い酸にすれば、値が、何倍にもなる。染め屋は、そこまで純い酸は、要らない。薬には、要る」
羅蘭徳は、黒い板の端に、三つの段を描いた。
「使い道ごとに、純さの等を、決めます。等ごとに、容れ物の印を、変える。取り違えないように」
羅蘭徳は、段の下に、もう一行、書き足した。
——扱う者に、教える。身を守る衣と、手袋と、面。酸を浴びたときに、すぐに洗える水場。工場の中で、どこへ逃げるか。工場の外の、町の者が、どこへ逃げるか。
「町の者が、どこへ逃げるか、まで」
范汝舟が、言った。
「そこまで、決めておかねばならぬのか」
「漏れてから決めたのでは、間に合いません」
羅蘭徳は、言った。
「私の国では、いつも、間に合いませんでした」
◇
夏の終わり、葛元亮は、城南の、あの酒坊を、久しぶりに訪ねた。
土間の竈の上には、あの日と同じ、甑と、伏せた鍋と、竹の樋があった。
けれど、樋の途中に、一本の、細い硝子の管が、差し込まれていた。
少府監の琉璃の工房が、何十本も引いて、そのうちの、何本かだけが、使えたという管だった。管の中には、赤く色を付けた酒が、細い柱になって、立っていた。管の脇には、紙の目盛りが、糊で貼られていた。
管の前に、あの若い職人が、座っていた。親方に、五年目と言われていた若者だった。今は、七年目になっていた。
若者は、管の赤い柱を、じっと見ていた。
それから、樋の先の雫を、小さな杯に受け、舐めた。
また、管を見た。
帳面に、何かを書き付けた。
「葛さま」
若者が、葛元亮に気づいて、立ち上がった。
「どうだ」
葛元亮は、問うた。
若者は、少し、困ったように笑った。
「親方が、真ん中だと言うところと、この管の目盛りが、合う日と、合わない日が、ございます」
「合わない日は」
「雨の日と、麹が違う日で」
若者は、帳面を見せた。この一年、毎日の、管の目盛りと、親方の舌と、自分の舌とが、並べて書かれていた。
「合わない日を、全部、書いております。羅蘭徳さまが、そうせよと」
葛元亮は、帳面をめくった。
日付。雨か、晴れか。麹の出どころ。管の目盛り。親方の舌。若者の舌。
ところどころ、若者の舌の欄に、親方の舌と同じ答えが、書かれていた。最初の頃は、ほとんどなかった。夏に近づくにつれて、増えていた。
「分かるように、なってきたか」
葛元亮が、問うた。
若者は、首を傾げた。
「分かるように、なったのか。管を見ておるうちに、舌が、管に、合わせるようになったのか。——自分でも、分かりませぬ」
葛元亮は、声を出して、笑った。
それから、自分の帳面を開き、二年前に書いた、あの一行の下に、もう一行、書き足した。
——一年。ただし、器が舌を育てたのか、舌が器に慣れたのか、分からず。これも、測る。




