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第四巻 産業設計 第十二回 蒸気の次

 梁が、ゆっくりと傾いた。


 工部の裏庭の、煉瓦で囲った小屋の中だった。人の背丈の倍ほどの高さの木の梁が、真ん中の支柱の上で、一方へ傾き、しばらく止まり、また、反対へ傾いた。梁の一方の端には、鉄の筒の中へ降りていく棒。反対の端には、井戸の底へ降りていく、長い棒。


 筒の中で、湯気が、冷たい水を吹きかけられて、縮む。外の空気が、筒の中の蓋を、押し下げる。梁が傾き、井戸の底の棒が上がる。棒の先から、水が、樋へ溢れ出る。


 また、湯気が入る。蓋が上がる。梁が戻る。


 托馬斯・貝爾は、小屋の隅に立って、その動きを、数えていた。


 一分に、十二回。


 その脇で、火夫が二人、釜の下の火に、石炭を放り込み続けていた。


 貝爾は、火夫の足元の、石炭の山を見た。朝、この山を量らせた。昼過ぎの今、半分より下まで、減っている。


 この小さな機械が汲み上げている水の量と、減った石炭の量。貝爾は、頭の中で、その二つを並べた。


 ひどいものだ、と思った。


 そして、それが、自分の知っている通りの、ひどさだということに、少しだけ、安堵した。


  ◇


 この国に来て、どれくらい経つのだろう、と貝爾は思った。


 目を覚ましたのは、河北の磁州の、ある炭坑の近くの村だった。自分の名前は覚えていた。自分がどこの国の、いつの時代の者で、何をしていたかも。——けれど、自分の身体が、なぜ、この東の果ての国の、見知らぬ村の、見知らぬ家の寝台の上にあるのかは、分からなかった。


 それから数年、炭坑の近くで、坑夫の手伝いのようなことをして食べていた。言葉を覚えた。坑の底へも降りた。この国の坑夫たちが、自分の国の坑夫たちと、少しも変わらない顔で、水と闘っているのを見た。


 求賢局の者が村に来たのは、二年半前の秋だった。


 求賢局の審査で、貝爾は、紙の上に、この機械の図を描いた。梁と、筒と、釜と、井戸の棒。自分の国で、百年近く、炭坑の水を汲み上げてきた機械だった。


 その図が、今、目の前で、動いていた。


 筒は、韋金森が、工部の工房に作らせた、中ぐりの台で、内側を削ったものだった。杜布林が、利国監の炉から、選んだ鉄で鋳させた。釜の板は、少府監の鍛冶が、何度も打ち直した。梁の木は、工部の大工が、宮の修繕に使う材から、選び出した。


 この機械は、自分一人では、作れなかった。


 自分の国でも、そうだったのだろう、と貝爾は思った。


  ◇


「石炭を、食いすぎる」


 その日の夕方、工部の書庫で、貝爾は言った。


 卓を囲んでいたのは、沈維新と、杜布林と、韋金森。それに、坑冶寺から、喬仲堅が来ていた。この一年で、喬仲堅は、鶴壁の坑で、縦坑を掘る前の測量と、湧水の調べを見る役に、据えられていた。


「炭坑の底の水を抜くのなら、これでいい。炭坑には、石炭が、いくらでもある。——でも、炭坑の外では、使えない」


 貝爾は、黒い板に、筒の絵を描いた。


「なぜ、食いすぎるか。この筒のせいです」


 貝爾は、筒の中に、湯気の印を描き入れた。


「湯気を入れる。筒は、熱くなる。——次に、冷たい水を吹き込んで、湯気を縮める。筒も、冷える。次に、また湯気を入れる。湯気は、まず、冷えた筒を、温め直すのに使われる。温め直してから、やっと、蓋を押し上げる」


 貝爾は、筒の絵の横に、二本の矢印を描いた。一本は、上へ向かう赤い矢印。一本は、下へ向かう青い矢印。


「一回ごとに、筒を温めて、冷やして、また温める。石炭の熱の、ほとんどが、筒を温め直すのに、消えていく」


「では、冷やさねばよい」


 沈維新が、言った。


「冷やさねば、湯気が、縮まぬ」


「そうです」


 貝爾は、頷いた。


「だから、筒の外で、縮めます」


 貝爾は、筒の絵の脇に、もう一つ、小さな箱を描いた。筒と箱を、細い管で繋いだ。


「筒は、いつも、熱いままにしておく。湯気で、蓋を押し上げたら、湯気を、管を通して、この別の箱へ、引き出す。箱の方は、いつも冷たい水に浸けておく。湯気は、箱の中で縮んで、水に戻る。——筒の中は、空に近くなる。蓋が、下がる」


 韋金森が、身を乗り出した。


「筒を、温め直さなくて、いい」


「温め直さなくて、いい。同じ仕事を、ずっと少ない石炭で、できる」


 貝爾は、黒い板に、「別の冷やし箱」と書いた。


「これが、次の一歩です」


  ◇


「だが、それでも、この機械は、上げたり下げたりしか、できぬのだろう」


 杜布林が、言った。


「井戸の水を汲むには、それでいい。でも、韋金森どのの、紡ぐ機械は、回るものだ」


「そうです」


 貝爾は、黒い板に、新しい絵を描いた。


 梁の端から、一本の棒が、下へ降りていた。その棒の先が、大きな輪の、中心から外れたところに、繋がれていた。


「梁が、上がったり、下がったりする。この棒が、輪の、端を押したり、引いたりする。——輪は、回ります」


「車の、曲がった軸と、同じだな」


 喬仲堅が、言った。


「水の力で、鞴を押し引きする水排の、あれの、逆だ」


「そうです。逆です」


 貝爾は、少し笑った。


「この国には、もう、ある。回るものを、押し引きに変える仕掛けは。——それを、逆に使う」


 貝爾は、輪の絵を、大きく描き直した。


「この輪は、重く作ります。重い輪は、一度回り始めると、止まりにくい。梁が、上と下で、一瞬、止まるときも、輪は、回り続ける。——そうして、途切れない回る力が、できる」


 韋金森が、立ち上がった。


「その輪から、長い軸へ。軸から、革の帯で、百台の紡ぐ機械へ」


「そうです」


 貝爾は、頷いた。


「それだけでは、ありません。鉄の塊を延ばす、大きな機械。杜布林どのの炉に、風を吹き込む機械。韋金森どのの、物を削る台。——一つの蒸気の機械が、工場の中の、全部を、動かす」


 沈維新は、黒い板の、回る輪の絵を見つめていた。


「回る速さは、どうやって、揃える」


 しばらくして、沈維新が、問うた。


「紡ぐ機械が、速くなったり、遅くなったりすれば、糸が、切れるのではないか」


 貝爾は、少し驚いた顔で、沈維新を見た。


「……その通りです」


 貝爾は、黒い板に、小さな絵を描き足した。回る軸の上に、二つの重い玉が、腕で吊られている。


「軸が速く回ると、玉が、外へ開きます。開くと、この腕が、湯気の入る口を、少し閉める。湯気が減って、遅くなる。遅くなると、玉が、閉じる。口が、開く。——機械が、自分で、自分の速さを、揃えます」


 喬仲堅が、小さく唸った。


「それから、軸受けに、油を。油が切れれば、軸が焼ける。力は、軸と、帯と、歯車を通るたびに、少しずつ、失われる。どれだけ失われるかも、測ります」


  ◇


「鉄の道を走る車や、河を行く舟には」


 韋金森が、言った。


「この機械は、大きすぎますね」


「大きすぎます」


 貝爾は、黒い板の、梁と筒と釜の絵を、手のひらで示した。


「この機械は、空気が蓋を押す力で、動いている。空気の力は、決まっている。強くしたければ、筒を大きくするしかない。——車や舟に載せるには、もっと小さく、もっと軽く、もっと強い機械が、要る」


 貝爾は、黒い板の端に、小さな筒を描いた。


「湯気を、強く、押し込めます」


 貝爾は、釜の絵に、矢印を何本も描き込んだ。


「釜の中で、湯気を、外に逃がさずに、溜める。溜めれば、湯気は、強く押す。空気よりも、ずっと強く。——その強い湯気で、直に、蓋を押す。筒は、小さくていい」


「強く押し込めた湯気を」


 杜布林が、ゆっくりと言った。


「釜の板が、受け止めるのか」


「受け止めます」


 貝爾は、杜布林を見た。


 杜布林は、手の甲の、古い火傷の痕を、無意識のように撫でていた。


「強い湯気の釜は、板に、一つでも傷があれば、裂けます」


 杜布林は、言った。


「板を継いだ鋲が、一本でも、緩んでいれば。板の中に、見えない燐の筋が、一本でも走っていれば。——釜が裂ければ、湯気と熱湯と鉄の破片が、辺り一面に、飛び散ります」


 書庫の中が、静かになった。


「私の国で、何度も」


 貝爾は、言った。


「炭坑で。工場で。舟の上で。——釜が裂けて、一度に、何十人も死にました」


 貝爾は、黒い板の、小さな筒の絵の横に、字を並べていった。


 釜の板の強さ。鋲と継ぎ目。釜の中の湯気の強さを、読む器。強くなりすぎたら、湯気を逃がす弁。釜に入れる水の量。釜の底に溜まる垢を、決まった日に、落とすこと。釜を、決まった日に、検めること。検めたことを、帳面に、残すこと。


「これを、機械と一緒に、作ります」


 貝爾は、言った。


「釜を作る者と、釜を焚く者を、分けては、いけない。作る者は、焚く者に、何をしてはいけないかを、教える。焚く者は、作る者に、釜が、どう鳴ったか、どう漏れたかを、伝える」


「釜を焚く者は、今は、火夫だ」


 沈維新が、言った。


「石炭を放り込むだけの者だ」


「それでは、足りません」


 貝爾は、首を振った。


「釜の湯気の強さを読み、弁を確かめ、水の量を見て、機械の音を聞き分ける者。——私の国では、その者たちを、機関士と呼びました。学んで、試されて、許しを得た者だけが、釜を焚く」


「許しを、与えるのは、誰だ」


「それも、決めねばなりません」


 沈維新は、黒い板を、長いこと見つめていた。


「……釜が裂けたとき、誰の責めになる」


 やがて、沈維新が言った。


「作った工房か。焚いた者か。検めた者か。検める決まりを作った役所か」


 貝爾は、少し間を置いて、答えた。


「帳面が、あれば、分かります」


  ◇


「水車を、捨てるのか」


 喬仲堅が、問うた。


 皆が、喬仲堅を見た。


「鶴壁の辺りでも、川の水車で、鉱石を砕いておる村がある。南では、水車で紡ぎ車を回しておる。——蒸気の機械ができたら、あれは、要らなくなるのか」


「捨てては、いけません」


 貝爾は、すぐに言った。


「水車は、石炭を食わない。水が、いつも、同じように流れている川なら、水車の方が、ずっと安い。——石炭を運ぶのに、何百里もかかる山の中で、わざわざ蒸気の機械を据えるのは、愚かです」


 貝爾は、黒い板に、二つの丸を描いた。


「川のそばで、水が安定しているところは、水車。石炭が、近くにあるところ、石炭を舟で運びやすいところ、町の中、港のそば、坑のそば。——そういうところは、蒸気。場所ごとに、選びます」


 韋金森が、頷いた。


「紡ぐ工場も、最初は、水車のそばに建てる方が、いいかもしれない」


「最初は、そうでしょう」


 貝爾は、言った。


「蒸気の機械が、本当に、止まらずに、回り続けられるようになるまでは」


  ◇


 話し合いの最後に、貝爾は、黒い板を、全て消した。


 それから、三つの列を、縦に描いた。


 一つ目の列の頭に、「坑」と書いた。その下に、今、裏庭で動いている、梁と筒と釜の機械。低い湯気。上げ下げだけ。石炭を、食う。


 二つ目の列の頭に、「工場」と書いた。その下に、別の冷やし箱。回る輪。速さを揃える玉。一つの機械で、工場の全てを回す。


 三つ目の列の頭に、「車と舟」と書いた。その下に、強い湯気。小さな筒。軽い機械。そして、釜の板、鋲、弁、器、検め、帳面、機関士。


「蒸気の機械は、一つの発明では、ありません」


 貝爾は、言った。


「使い道ごとに、別の機械になって、少しずつ、進んでいくものです。一つ目が、二つ目を育て、二つ目が、三つ目を育てる。——そして、三つ目になるほど、強く、軽く、速くなり、そして、危うくなる」


 貝爾は、三つ目の列の、一番下に、一行を書き加えた。


 ——技の進む速さを、検めの決まりが、追いかける。


「私の国では、決まりは、いつも、遅れて、やってきました。人が死んでから」


 貝爾は、白い石の棒を、置いた。


「この国では、少しでも、先に、置きたい」


  ◇


 その夜、貝爾は、一人で、工部の裏庭の小屋に戻った。


 機械は、止まっていた。釜の火は、落とされ、火夫たちは、帰っていた。梁は、片方へ傾いたまま、動かなかった。


 貝爾は、冷えた釜の、鉄の板に、手のひらを当てた。


 少府監の鍛冶が、何度も打ち直した板だった。表面には、槌の跡が、無数に残っていた。平らではない。厚さも、ところどころ、違う。


 この板なら、空気の力で動く、今の機械には、十分だ。


 けれど、湯気を、強く押し込めたら。


 貝爾は、目を閉じた。


 自分の国の、ある町の、ある工場の、ある朝のことを、思い出していた。まだ若い頃だった。遠くで、鈍い音がした。駆けつけると、工場の壁が、一面、吹き飛んでいた。辺りに、白い湯気が、立ちこめていた。湯気の中から、うめき声が、聞こえていた。


 釜の板の継ぎ目が、一本、裂けていた。


 後で聞いた話では、その釜の、湯気を逃がす弁には、重しが、余分に吊るされていたという。弁が、たびたび開いて、湯気が漏れるのを嫌った誰かが、吊るしたのだという。誰が吊るしたのかは、最後まで、分からなかった。帳面が、なかったから。


 貝爾は、目を開けた。


 冷えた釜の板から、手を離した。


 明日、杜布林に、釜の板の話をしよう、と思った。燐の少ない石で、同じ厚さの板を、何枚、作れるか。叩いた跡のない、平らな板を。


 それから、沈維新に、弁の話をしよう。弁には、誰も、勝手に重しを吊るせないように、封をする。封を切った者は、必ず、帳面に、名を書く。


 貝爾は、小屋の戸を閉めた。


 月の光の下で、梁の影が、裏庭の土の上に、長く伸びていた。


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