第四巻 産業設計 第十一回 糸を機械で紡ぐ
綾錦院の織り場には、機の音が、低く、途切れずに響いていた。
陶大年は、その音の中を、異国の男を案内して歩いていた。
陶大年は、綾錦院の機匠の頭だった。少府監に属する、宮と官のための錦を織る工房である。十二で蘇州の機屋に弟子入りし、四十で開封に呼ばれ、それから二十年、ここで機の音を聞いてきた。
異国の男は、韋金森といった。工部から、紡ぐことと織ることを、機械でやりたい、という話を持ってきた。
陶大年は、その話を聞いたとき、腹の底が、少し冷たくなった。
機械で。
それは、つまり、自分たちの手を、要らなくするということではないのか。
◇
織り場の一番奥に、二階建ての高さの、大きな機が据えてあった。
花楼機。錦の文様を織るための機だった。下で織り手が杼を投げ、上の楼に座った引き手が、文様の順に、何百本もの経糸を、束ねた紐で引き上げる。二人が息を合わせて、一日に、指の幅ほどしか織り進まない。
韋金森は、その機の前で、長いこと、動かなかった。
楼の上の引き手が、紐を引く。下の織り手が、杼を投げる。紐の束には、文様の順が、結び目として、組み込まれていた。引き手は、その結び目の順に従って、紐を引いていく。
「文様を、紐の結び目に、覚えさせている」
韋金森が、呟いた。
「はい」
陶大年は、言った。
「一つの文様の紐を組むのに、腕のいい者で、ふた月かかります」
「私の国では」
韋金森は、振り返った。
「この紐の代わりに、穴を開けた板を、並べて使う機を、作った者がいました。板の穴の並びが、文様を覚えている。——ずっと、後の時代です」
陶大年は、何と答えていいか、分からなかった。
韋金森は、それから、織り場の脇の、紡ぎ場へ回った。
大きな紡ぎ車が、三台、並んでいた。一つの大きな輪を、一人が足で回す。輪から紐が伸び、紐が、横一列に並んだ三十二の錘を、一度に回している。紡ぎ手は、錘の列の前を行き来しながら、麻の繊維を、少しずつ、送り込んでいた。
韋金森の足が、止まった。
「三十二」
「はい」
「一人で、三十二の錘を」
「麻なら、これで。川沿いの村では、水車で回すものも、ございます」
韋金森は、しばらく、その紡ぎ車を見ていた。
「私の国で、一人が八本の錘を扱える機械ができたとき、国中が、驚きました」
韋金森は、言った。
「この国には、もう、あった」
◇
綾錦院の一室で、韋金森は、紙に、四つの機械の絵を描いた。
陶大年と、その下の機匠が二人、紡ぎ場の女頭の何四娘、それに工部の員外郎と、太府寺の丞の范汝舟が、卓を囲んでいた。
「私の国で、紡ぐ機械と、織る機械が、どう変わってきたか」
韋金森は、一枚目の絵を指した。
「最初は、一人で、何本もの錘を回す、紡ぎの機械。この国の、あの三十二錘の車と、似ています」
二枚目。
「次は、水車で回す、紡ぎの機械。何組かのローラーで、繊維を引き伸ばしてから、撚る。強い糸ができる」
三枚目。
「その二つを、合わせたもの。細くて、強い糸が、たくさん、できる」
四枚目。
「そして、水や蒸気の力で、杼を投げ、経糸を上げ下げする、織る機械」
韋金森は、紙を、卓の真ん中へ押しやった。
「私は、機械の側のことなら、分かります。どうすれば、軸がまっすぐ回るか。どうすれば、百の錘を、同じ速さで回せるか。——でも、糸のことは、分からない」
韋金森は、何四娘を見た。
「糸は、なぜ切れますか」
何四娘は、少し驚いた顔をした。四十がらみの、小柄な女だった。官の者に、そんなことを訊かれたのは、初めてのことらしかった。
「……繊維が、短いところで、細くなりすぎると、切れます」
何四娘は、言った。
「撚りが、足りないと、切れます。撚りが、かかりすぎても、縮れて、切れる。麻は、乾きすぎると、切れる。梅雨時は、撚りが、甘くなる」
「苧麻は」
「苧麻は、糸を紡ぐのではございませぬ。繊維を、細く裂いて、端と端を、指で撚り継ぐ。一本ずつ。——あれは、紡ぎ車では、できませぬ」
韋金森は、何四娘の言葉を、一つ一つ、紙に書き留めていった。
「絹は」
陶大年が、代わりに答えた。
「絹は、紡ぎませぬ。繭を煮て、糸口を見つけ、何本かの繭の糸を、一本にまとめて、繰り取る。繰り取った糸に、撚りをかける。——繭が違えば、糸の太さも、違う。何個の繭をまとめるかで、太さを揃える。それは、繰り手の、指の感じでございます」
韋金森は、書き留める手を止めた。
「三つとも、違う」
「違います」
陶大年は、言った。
「綿と、麻と、苧麻と、絹は、別の生き物のようなものです」
韋金森は、しばらく、自分の書き留めた紙を見ていた。
それから、顔を上げた。
「では、機械を、一つ作るのではない。——あなたがたと、一つずつ、作り直します」
◇
それから、ひと月、韋金森は、綾錦院に通った。
陶大年は、最初、この男が何を狙っているのかを、見定めようとしていた。職人の技を盗んで、機械に移し、職人を追い出すつもりなのか。
けれど、韋金森がやっていたのは、少し違うことだった。
何四娘に、一日のうち、どの手の動きに、一番時がかかるかを訊いた。繊維を送り込むこと。切れた糸を継ぐこと。錘が満ちたら、糸を巻き取って、替えること。
陶大年の下の機匠に、錦の織りのうち、どこが一番難しいかを訊いた。文様の紐を組むこと。経糸の張りを、均しく保つこと。色糸を、正しい順に投げること。
それから、平の絹や、平の麻の布を織るときには、どこに一番時がかかるかも、訊いた。
「杼を投げて、打ち込んで、踏み木を替える。それだけを、朝から晩まで、繰り返します」
機匠の一人が、言った。
「錦ほど難しくはない。でも、一日に織れる長さは、腕の差が出にくい。誰がやっても、そう変わらぬ」
韋金森は、それを聞いて、深く頷いた。
「誰がやっても、そう変わらない仕事。——それを、機械に、やらせたい」
陶大年は、その言葉に、顔を上げた。
「では、錦は」
「錦は、あなたがたの手が、要ります」
韋金森は、言った。
「文様を組むこと。色を選ぶこと。張りを、見て、直すこと。機械は、それを、しばらくは、できない。——機械にやらせたいのは、平の布を、同じように、何千反も織ること。糸を、同じ太さで、何万本も紡ぐこと。その仕事から、あなたがたの手を、空けたい」
「空けて、どうする」
「機械の、調子を見る者が、要ります。糸が、揃っているかを、見る者が、要ります。錦を織る者も、もっと、要るかもしれない。布が安くなれば、布を買う者が、増えるから」
陶大年は、何も言わなかった。
この男の言うことが、本当になるのかどうか、分からなかった。
◇
春の初め、工部の一室で、韋金森は、一枚の長い紙を、壁に貼った。
紙は、左から右へ、長く続いていた。
一番左に、繭と、麻の茎と、苧麻の束と、綿の実。
そこから、右へ、いくつもの箱が、線で繋がっていた。
繭を煮る。麻を水に浸し、叩いて、繊維を取り出す。綿の種を抜き、繊維をほぐす。
繊維を、同じ向きに揃え、同じ太さの、柔らかい帯にする。
帯を、引き伸ばし、撚りをかけ、糸にする。
糸を、巻き取る。
経糸を、機にかける。
織る。
織った布を、洗い、乾かし、染める。
検める。
一番右に、反物の絵。
「紡ぐ機械は、この真ん中の、一つの箱です」
韋金森は、言った。
部屋には、工部の員外郎たちと、太府寺の范汝舟と、陶大年と、何四娘、それに修平がいた。
「この一つだけを、速くしても、左の箱が遅ければ、紡ぐ機械は、繊維を待つだけ。右の箱が遅ければ、糸が、山のように積まれる。——前に、綿の種を抜く話で、同じことを言いました」
韋金森は、紙の上の箱を、端から端まで、指でなぞった。
「一つの工場は、この全部です。全部の箱の速さを、揃えなければ、いけない」
それから、韋金森は、紙の下に、一本の長い横線を描いた。横線から、何本もの縦の線が、上の箱へ伸びていた。
「力を、どう配るか」
韋金森は、横線を叩いた。
「一つの大きな水車か、蒸気の機械で、長い軸を回す。軸から、革の帯で、一台一台の機械へ、力を分ける。——一つの力で、百台の機械が、動く」
「軸が、止まったら」
工部の員外郎が、問うた。
「百台が、全部、止まります」
韋金森は、あっさりと言った。
「ですから、止まらないように、決まった日に、止めて、直す。軸受けに、油を差す。帯が、切れそうになっていないか、見る。替えの部品を、いつも、倉に置いておく。——そして、火」
韋金森は、紙の上の、綿の箱を指した。
「綿の埃は、よく燃えます。軸受けが熱を持てば、そこから、火が出る。工場を建てるときに、火の元と、逃げ道を、決めておく」
◇
「水車でなければ、ならぬのか」
范汝舟が、問うた。
「今の、南の水車の紡ぎ車は、川のそばにしか、置けませぬ。川のそばは、土地が限られる。糸を売る市からも、遠いことがある」
「今は、水車です」
韋金森は、言った。
「でも、貝爾どのが、蒸気の機械を、坑の水を抜くもの以外にも、使えるようにしようとしています。回る力を、作る機械。——それができれば、工場は、川から、離れられる。町の近くへ。舟の着く港の近くへ。綿や繭が集まるところへ」
韋金森は、紙の上の、横線の左端に、小さな丸を描いた。そこに、「蒸気」と書いた。
「そして、紡ぐ工場と、織る工場は、この国で、蒸気の機械を、一番たくさん、欲しがる者に、なるでしょう。坑よりも。——民の着る布は、それだけ、多いから」
陶大年は、末席の詳定官が、その丸を、じっと見ていることに気づいた。
蒸気の機械というものを、陶大年は、まだ見たことがなかった。坑の水を抜くために、工部の裏庭で、何かを組み立てているとは聞いていた。——その機械を、一番待っているのが、坑ではなく、機屋だという。
◇
「一つ、申し上げたい」
陶大年が、口を開いた。
部屋の目が、機匠の頭に集まった。
「私どもの綾錦院は、官の工房でございます。機械が入っても、錦は、残りましょう。——ですが、開封にも、蘇州にも、杭州にも、家で機を織って食べておる者が、何万とおります。その者たちの布を、問屋が買い集めて、市へ出しておる」
陶大年は、壁の長い紙を見た。
「機械の工場が、平の布を、安く、何千反も織るようになれば、その者たちの布は、売れなくなる。問屋も、困る。——その者たちに、何と言えばよいのか」
部屋が、静かになった。
范汝舟が、ゆっくりと口を開いた。
「布は、米と塩に次いで、市でいちばん多く売り買いされる品でございます。そのほとんどが、家の機と、小さな機屋で織られておる。——太府寺は、一度に、工場にせよとは、申しませぬ」
范汝舟は、言った。
「錦や、緙絲や、刺繍のある絹や、土地ごとの特別な織り。——手の方が、機械よりも、良いものができる布は、手に残す。機械にやらせるのは、平の麻、平の綿、平の絹。民が、毎日着て、すり切れたら替える布」
范汝舟は、陶大年を見た。
「それでも、家の機で、平の布を織って食べている者は、困ります。それは、隠しませぬ。——ですから、急がない。工場を、少しずつ建てる。建てた工場が、どれだけの布を出したら、市の布の値が、どれだけ動くか。家の機の者の暮らしが、どう変わるか。一つずつ、測りながら、進めます」
陶大年は、黙っていた。
「布が安くなれば、今まで、一年に一着しか新しい服を買えなかった者が、二着、買えるようになります」
修平が、言った。
「布を買う者が、増える。工場の布だけで、その全てを、まかなえるとは限らない。——それに、工場にも、人が要ります。機械を見る者。糸を検める者。軸を直す者。家で機を織っていた者の、手と目が、要るはずです」
修平は、少し間を置いた。
「全部が、そう、うまくいくとは、思いません。うまくいかない者も、出ると思います。——それを、見えないところで起きさせないように、したいのです」
◇
「工場の中のことも、考えておかねばなりません」
何四娘が、小さな声で、言った。
皆が、振り向いた。何四娘は、少し身を縮めた。けれど、言葉を止めなかった。
「家で紡いでいるときは、疲れたら、休みます。子に乳をやるときは、手を止めます。日が暮れたら、やめます。——工場の機械は、止まりません。止まらない機械の前で、何刻、立ち続けるのか」
何四娘は、壁の紙の、横線と縦の線を見た。
「軸と、帯が、あれだけ回っていれば、袖や、髪や、指が、巻き込まれます。暗ければ、糸の切れたのが、見えません。綿の埃を、一日吸っていれば、咳が、止まらなくなる」
韋金森が、何四娘をじっと見た。
「……それに、子を、連れてくる者も、出ます」
何四娘は、言った。
「子の指は、細い。糸を継ぐのに、ちょうどいい。そう言って、子を、機械の下へ潜らせる者が、必ず、出ます」
韋金森の顔が、ほんのわずか、強張った。
「私の国で」
韋金森は、言いかけて、やめた。
それから、もう一度、口を開いた。
「私の国で、それが、起きました。何年も」
部屋の中が、静まり返った。
修平は、筆を取り、手元の紙に書き付けた。
働く刻。休み。明かり。風。巻き込まれ。子。
「工場を、見て回る者が、要りますね」
修平は、言った。
「工場の主のためでも、工部のためでもなく、中で働く者のために。——今、それをどこの役所がやるのかは、分かりません。けれど、工場が建つ前に、議に上げておきます」
何四娘は、それを聞いて、深く頭を下げた。
◇
話し合いの後、陶大年は、綾錦院へ戻る道を、ゆっくりと歩いていた。
市の角で、孫娘が、陶大年を見つけて、駆け寄ってきた。十になったばかりの、孫娘だった。
着ている麻の上着の肘に、継ぎが当たっていた。継ぎの上に、また継ぎが当たっていた。
陶大年は、孫娘の手を引きながら、その継ぎを見ていた。
綾錦院の機匠の頭の家でも、孫娘の服は、継ぎだらけだった。錦を織る者の家に、錦はない。平の麻の布でさえ、一反の値は、軽くない。
布が安くなれば。
陶大年は、その先を、考えないようにしてきた。家の機を織る者たちの顔が、浮かぶからだった。
けれど、今、孫娘の肘の継ぎを見ていると、別の顔も、浮かんだ。
布が安くなれば、この子は、新しい上着を、もう一枚、持てる。
糸を紡ぐために、綿が要る。綿を運ぶために、舟が要る。機械を回すために、蒸気の機械が要る。蒸気の機械を作るために、鉄が要る。鉄を作るために、石炭が要る。
その全てが、一枚の上着のために、動き出す。
陶大年は、孫娘の手を、少し強く握った。
「爺、痛い」
「ああ、すまぬ」
陶大年は、手を緩めた。
それから、何か言おうとして、何も言えずに、ただ、綾錦院の方へ、孫娘と並んで歩いていった。
遠くで、機の音が、低く、途切れずに響いていた。




