第四巻 産業設計 第十回 南から来る白い綿
韋金森が、司農寺の許稼民の部屋を訪ねてきたのは、秋の刈り入れが終わった頃だった。
手に、小さな布の袋を一つ持っていた。
「許どの。これが、どこから来たか、分かりますか」
韋金森は、袋の口を開け、中身を卓の上に空けた。
白い塊が、いくつか、転がり出た。綿だった。まだ種を抜いていない、摘んだままの綿の実だった。ふわりとした白い繊維の中に、黒い種が、いくつも埋まっていた。
許稼民は、一つを指でつまみ上げ、繊維を引き伸ばしてみた。短い。そして、ところどころ、黄ばんでいる。
「南の、ものですな。広南か、福建か」
「広州の商人から、買いました。開封の市では、これしか、ありませんでした」
韋金森は、卓の反対側に座った。
「紡ぐ機械の話を、工部で始めています。糸を、機械で紡ぐ。——でも、紡ぐものが、なければ」
許稼民は、綿の実を卓に戻した。
「どれだけ要る」
「分かりません」
韋金森は、正直に言った。
「だから、訊きに来ました。この国に、綿が、どれだけ、あるのか」
◇
許稼民と韋金森が、それから一月かけて集めた書き付けは、司農寺の卓の上で、三つの山になった。
一つは、工部の山。国中の、官の織物の工房と、民の大きな機屋が、何を、どれだけ織っているかの調べ。
一つは、太府寺の山。国中の市で、何の布が、どれだけ、いくらで売り買いされているかの調べ。太府寺は、市の売り買いと商税を預かる役所で、市易の務めも抱えていた。
一つは、地方官の山。広南東路、広南西路、福建路、両浙路、江南東西路の、州と県からの報せ。どこで、綿を植えているか。
許稼民は、三つの山を、一枚ずつ、突き合わせていった。
「綿は、ある」
十日目の夕方、許稼民は、言った。
「広南と福建では、畑に植え、摘み、糸にし、布にしている。民の暮らしの中に、もう入っている。——けれど」
許稼民は、地方官の山から、何枚かを抜き出した。
「両浙では、ところどころ。江南では、試しに植えている村が、いくつか。それより北では、ほとんど、見ない」
韋金森が、工部の山を指した。
「北と、江南の、大きな機屋は、何を、織っていますか」
「絹と、麻と、苧麻だ」
許稼民は、工部の書き付けを読み上げた。
「蘇州と杭州と湖州の絹。蜀の錦。江西と湖南の苧麻の布。北の麻。——どこの機屋も、何百年と、それで食べてきた。綿は、南の、畑の近くで、家ごとに紡いで、家ごとに織っている。大きな機屋で、綿を織っているところは、ほとんどない」
韋金森は、しばらく黙っていた。
「私の国では、綿は、海の向こうから、来ていました」
やがて、韋金森は言った。
「船で、何千里も。遠い土地の、大きな畑で、大勢の者が摘んだ綿が。——その綿が、何年も、途切れずに来たから、あの国の紡ぐ工場は、動いた」
「この国には、その海の向こうの畑はない」
「ありません」
韋金森は、卓の上の、黄ばんだ綿の実を見た。
「この国の中で、畑から、作らねばならない」
◇
「量は、分かるか」
許稼民は、太府寺の書き付けを、もう一度めくった。
どこの県で、何畝に綿を植えているか。一畝から、何斤採れるか。それを知っている県は、ほとんどなかった。報せの多くは、「綿を植える家、多し」「近年、やや増ゆ」といった書き方だった。
「何畝、何斤、と書いてある県は、二十に一つもない」
許稼民は、苦く笑った。
「質も、分からぬ。種も、村ごとに違う。——綿が、どこから、どこへ、どれだけ流れているかも、市の売り買いの数から、推すしかない」
「では、まず」
「まず、数える」
許稼民は、白い紙を一枚取り、書き出した。
綿を植えている畝数。一畝あたりの採れ高。繊維の長さと色。種の出どころ。摘んだ綿が、どこへ、誰の手を経て、どれだけ運ばれていくか。
「秀州で田を測るのと、同じだ。今が、どうなっているか分からぬうちに、増やせと命じても、どこで何が増えたのか、誰にも分からぬ」
◇
冬の初め、都堂の脇の一室に、関わる者たちが集められた。
司農寺の石仲衡。太府寺の丞、范汝舟。工部の員外郎。中央銀行から、同知院事の鄭仲謙。それに、許稼民と韋金森。
末席に、修平が座っていた。
許稼民が、一月の調べを、短く述べた。綿はある。だが、南に偏っている。量も質も、分からぬところが多い。北と江南の大きな機屋は、絹と麻と苧麻で動いている。
述べ終わると、部屋の中は、しばらく静かだった。
「紡ぐ機械を作っても、綿が来なければ、機械は、止まったままになる」
韋金森が、言った。
「私の国のやり方を、そのまま、持ってくることは、できません」
修平が、口を開いたのは、そのときだった。
「二つに、分けてはどうでしょう」
部屋の目が、修平に向いた。
「機械で紡ぎ、機械で織ることを、まず、絹と、麻と、苧麻で、始める。今、この国の機屋が、たくさんの原料を持っているもので。——綿は、南から、少しずつ、畑と、運ぶ道を広げていく。綿が、十分に集まるようになったところで、綿の機械を、動かす」
修平は、韋金森の方を見た。
「絹や麻を、機械で紡げるかどうかは、私には分かりません。ですが、綿のために作った工場が、綿が来ずに止まっている、ということだけは、避けたいのです。止まった工場にも、銭は、かかり続けます」
韋金森は、少し考えてから、頷いた。
「絹と麻は、綿とは、糸の性質が、違います。機械も、同じにはならない。——でも、できないことは、ない。この国の機屋の職人に、訊きながら、やれば」
◇
「綿を、どこで、増やすかだ」
石仲衡が、言った。
「南の州に、綿を植えよ、と命じれば、県は、植えさせる。数を出させればな。——だが、その畑で、去年まで、何を作っていた」
石仲衡は、許稼民を見た。
「米だ。あるいは、麦だ。綿が増えれば、その分、米が減る。布が安くなっても、米の値が上がれば、民は、どちらを喜ぶ」
「喜びません」
許稼民は、すぐに言った。
「ですから、命じません。綿に向いた土と、向いた水と、向いた気候の地を、選びます。米の田に向かぬ、乾いた高みの畑。麦の後に、植えられる土地。米の余っている州と、足りない州。——それを、地方ごとに、調べてから、決めます」
許稼民は、修平を見た。
「米と麦の値の調べを、綿の産地の近くの市でも、取っていただきたい。綿が増えた年に、その辺りの米の値が、どう動いたか。それが見えれば、増やしすぎたかどうかが、分かります」
「統計局に、伝えます」
修平は、言った。
「それと、米の運び方も」
石仲衡が、付け加えた。
「綿を植えた州で、米が足りなくなっても、米の余った州から、舟で運べれば、値は、そう跳ねぬ。——綿の畑と、米の舟とは、一緒に考えねばならぬ」
◇
「畑で、摘んで、それで、終わりでは、ございませぬ」
太府寺の丞、范汝舟が、口を開いた。
四十半ばの、丸い顔をした男だった。太府寺で、二十年近く、市の売り買いの帳面を見てきた、と自分で言っていた。
「広州の商人に、訊きました。綿が、畑から、開封の市に着くまでに、何があるか」
范汝舟は、懐から、一枚の紙を取り出した。紙の上に、左から右へ、いくつもの丸が、線で繋がれていた。
「村で、摘む。摘んだ綿を、村の仲買が、集める。一軒ずつ回って、少しずつ買う。——集めた綿を、干す。湿ったまま積めば、腐る。黴びる。燃えることもある」
范汝舟は、次の丸を指した。
「干した綿から、種を抜く。種を抜かねば、糸にならぬ。抜いた綿を、固く押して、梱にする。梱を、河の港の倉に入れる。倉から、舟に積む。舟で、河を下り、運河を上り、また積み替える。途中で、濡れる。盗まれる。沈む舟もある。——だから、舟に、保険を掛ける」
「保険」
「広州の商人たちは、海の商いで、昔から、それをやっております。舟が沈んだら、仲間で損を分ける」
范汝舟は、紙の最後の丸を指した。
「そうして、ようやく、開封の市に着く。畑で一斤いくらだった綿が、開封では、何倍にもなっている。その何倍かの中身は、摘む手間ではなく、ほとんどが、運ぶ道の途中で、足されたものです」
韋金森が、紙を覗き込んだ。
丸の数を、数えていた。
「十一」
韋金森は、言った。
「綿は、畑から、工場へ、まっすぐ来るのでは、ないのですね」
「まっすぐ来る品は、この国には、ございませぬ」
范汝舟は、笑った。
「どの品も、長い道を、旅してまいります。綿は、その道が、まだ細い、というだけで」
◇
「種を抜くところが、狭い」
韋金森が、范汝舟の紙の、一つの丸を指した。
「村で、種を、どうやって抜いていますか」
「攪車と申す、小さな道具で」
許稼民が、答えた。
「二本の細い木の軸を、互いに逆に回す。その間に、綿を噛ませると、繊維だけが、軸の間を通り抜けて、種は、手前に残る。福建の村で、見た。女たちが、一日、それを回しておる」
「一日で、どれだけ」
「数斤、というところだ」
韋金森は、しばらく黙った。それから、白い紙に、何かの数を書き始めた。
「紡ぐ機械が、一日に、飲み込む綿。——それを、攪車で、種を抜くとすれば」
韋金森は、書いた数を見て、顔を上げた。
「攪車が、何千台も、要ります」
部屋の中が、少し、ざわついた。
「紡ぐ機械だけを、速くしても、種を抜くところが遅ければ、そこで、詰まる。綿は、そこに、山のように積まれて、紡ぐ機械は、待つだけになる」
韋金森は、紙の上の、攪車の丸に、印を付けた。
「種を抜く機械も、作らねばなりません。——それと、綿の、等級。繊維の長さ。色。湿り。砂や、葉の屑が、どれだけ混じっているか。それを検めずに、機械に入れれば、糸が切れる。機械が、傷む」
「等級を、決めるのは、太府寺でできます」
范汝舟が、言った。
「塩や、茶や、絹と、同じように。——ただ、検める者を、育てねばなりませぬ」
◇
「銭の話を、しておかねばなりませぬ」
中央銀行の鄭仲謙が、言った。
恰幅のよい身体を、椅子の中で少し動かし、いつもの笑みを浮かべていた。けれど、目は笑っていなかった。
「綿を増やすには、村の者が、種を買い、畑を耕し、水を引かねばならぬ。それは、春に、要る銭です。綿が売れて、銭が入るのは、秋。——春から秋まで、村の者は、どこから、銭を借りる」
「今は、村の富家か、質屋からだ」
石仲衡が、言った。
「利は、高い」
「高うございます」
鄭仲謙は、頷いた。
「民の行が、春に貸して、秋に返させる。そういう、季節ごとの貸し付けを、中央銀行が、民の行に、低い利で、銭を回して、支えることができます。——それから、仲買と商人。秋に、大量の綿を、一度に買い付けねばならぬ。その銭も、要る」
鄭仲謙は、范汝舟の紙の、倉の丸を指した。
「倉に綿を入れたら、倉の者が、証文を出す。何等の綿が、何斤、この倉に預けてある、という証文。商人は、その証文を、民の行に持っていって、銭を借りる。綿を、売る前に。——綿そのものを、担保にするのです」
修平は、その話を、黙って聞いていた。
倉の証文。中央銀行ができた頃、民の行の者たちと、何度も話した。銭と紙幣の仕組みを作っていたときには、まだ、それが何に使われるのか、よく分かっていなかった。
今、それが、南の畑の綿と、繋がろうとしていた。
◇
話し合いの終わりに、許稼民が、一つのことを言い出した。
「いずれ、綿の畑ができ、倉ができ、舟が走り、工場が動き始めたら」
許稼民は、范汝舟の紙を手に取った。
「一つの梱を、畑から、工場まで、追いかけてみたい」
「追いかける」
「南の村で、摘まれた綿が、どの仲買の手に渡り、どこで干され、どこで種を抜かれ、どの倉に入り、どの舟に積まれ、どこで積み替えられ、何日かかって、いくらになって、工場の門に着くか。——途中の全てを、帳面に残す」
范汝舟が、面白そうに眉を上げた。
「どこで、値が一番、足されるか、分かりますな」
「どこで、一番、遅れるかもです」
許稼民は、言った。
「そこを、直せばいい」
◇
皆が出ていった後、許稼民は、一人、部屋に残った。
卓の上に、韋金森が最初に持ってきた、広州の綿の実が、一つ、転がっていた。
許稼民は、それを手に取り、繊維を、指で、少しずつ引き剥がしていった。
白い繊維の奥から、黒い種が、一つ、出てきた。
許稼民は、その種を、掌の上に載せて、灯にかざした。
小さな種だった。
この種が、南の、どこかの土に落ちて、芽を出し、実を付け、摘まれ、干され、抜かれ、押され、倉に入り、舟に揺られ、何千里を旅して、いつか、開封の近くの、まだ建ってもいない工場の門をくぐる。
その道は、今は、まだ、細い。
許稼民は、種を、小さな紙に包み、懐に入れた。
春になったら、開封の近くの試しの田の、一番端の畝に、植えてみるつもりだった。北の土で、この種が、どこまで育つのか。
それもまた、測ってみなければ、分からなかった。




