第四巻 産業設計 第九回 計算機の提案
統計局の大部屋には、算盤の音が、雨のように降っていた。
長い卓が、六列。それぞれの卓に、吏員が十人ずつ並んで座り、目の前の帳面の数を、算盤で弾いている。一人が弾き終わると、隣の者に帳面を回す。隣の者は、同じ数を、もう一度弾く。二人の答えが合えば、次の卓へ回す。合わなければ、三人目が弾く。
蘇玄機は、大部屋の入口に立ったまま、その音を聞いていた。
六十に手の届く、白髪の男だった。杭州で四十年、時計の歯車を削ってきた。若い頃には、昔の宰相が作らせたという、水で回る大きな天文の時計の、残された図を写し、その歯車の一つ一つを、木で削り直して、動かしてみたことがある。
隣には、韋金森が立っていた。この一年で、宋の言葉がずいぶん滑らかになった。
「毎月、これを」
韋金森が、問うた。
「毎月です」
統計局の韋明遠が、答えた。
「七つの市の、物の値の調べ。それが、この春から、十五の市に増えました。一つの市で、百を超える品の値を、月に三度取る。取った値を、品ごとに、市ごとに、重みを付けて足し合わせる。——それだけで、この部屋が、ひと月の半分、埋まります」
韋明遠は、大部屋の奥の、もう一つの戸を指した。
「あちらでは、中央銀行の、本院と支院の帳面の突き合わせ。その隣では、戸部の、各路の税の集計。夏からは、許稼民どのの田の調べの数も、入ってくる」
蘇玄機は、算盤の音を、もう一度聞いた。
速い。どの吏員の指も、驚くほど速い。この国の算盤は、世にある計算の道具の中で、たぶん一番速い。
それでも、卓の上の帳面の山は、減っていなかった。
◇
「足りないのは、算盤の腕ではない」
帰りの道で、蘇玄機が言った。
韋金森は、頷いた。
「この国の算術は、私の国より、ずっと古い。算盤の者の速さは、私の国の、どの計算の者より、速い」
「なのに、足りない」
「数が、増えたから」
韋金森は、言った。
「林詳定が、十の数字を、帳面に入れた。物の値を、あちこちで取るようにした。中央銀行を作って、帳面を揃えた。——揃ったから、数が集まるようになった。集まるようになったから、足し合わせる手が、足りなくなった」
蘇玄機は、少し笑った。
「いいことが起きたから、困っておる、というわけか」
「ある国で、同じことがありました」
韋金森は、言った。
「国の人の数を、数えようとした。数えた紙を、足し合わせるのに、何年もかかった。足し終わったときには、もう、人の数は、変わっていた」
◇
その話が、修平のところへ届いたのは、夏の初めだった。
統計局の韋明遠が、中央銀行の程伯言と連名で、一通の書き付けを出してきた。——今の手で、今の数を処すのに、あと二年で、吏員を倍にせねばならぬ。倍にしても、数が増え続ければ、また足りなくなる。
修平は、その書き付けを、二度読んだ。
それから、韋明遠と、程伯言と、戸部の孟季常と、枢密院の、糧と荷車の数を預かる吏員を、一つの部屋に集めた。
「どの数を、ひと月に、何度、足さねばならないか。一つの数は、何桁か。答えは、いつまでに要るか」
修平は、それを、一つずつ、書き出させた。
物の値の調べ。一回に足し合わせる数、およそ千五百。桁は、五桁から七桁。月に三度。答えは、十日以内に。
中央銀行の本院と支院の帳面の突き合わせ。一日に、数百。桁は、八桁から十桁。毎日。
戸部の各路の税。季ごとに、二十五路分。桁は、九桁。
枢密院の、糧の計算。兵の数に、日数を掛け、一人一日の量を掛け、荷車一台の積める量で割る。——これは、戦のときには、一刻を争う。
修平は、その書き出しを、統計局の韋明遠から、蘇玄機と韋金森のもとへ回した。求賢局の王懐遠が、二人のために、工部の工房の一隅と、真鍮と、若い工人を二人、手配した。
自分では、何も付け加えなかった。
◇
秋の御前廷議で、蘇玄機は、生まれて初めて、皇帝の前に立った。
手には、木で作った、小さな模型を持っていた。
「数を足す、機械でございます」
蘇玄機の声は、少し震えていた。杭州の時計職人が、廷議の殿に立つことは、これまで、なかった。
模型は、手のひらに載るほどの、箱だった。箱の上に、小さな窓が五つ並んでいる。窓の中には、零から九までの数が書かれた、木の輪が見えていた。
「一つの輪に、十の歯がございます」
蘇玄機は、箱の蓋を開けて、中を見せた。
「輪を、一つ回すと、窓の数が、一つ進みます。零から、一、二、と進んで、九まで来て、もう一つ回すと——」
蘇玄機は、一番右の輪を、指で一歯ずつ回していった。窓の数が、九になった。もう一歯、回した。
一番右の窓が、零に戻った。
同時に、その隣の窓の数が、零から一に変わった。
殿の中で、誰かが、小さく声を上げた。
「繰り上がり、でございます」
蘇玄機は、言った。
「九から零へ戻るとき、輪の脇に付けた爪が、隣の輪を、一歯だけ押します。算盤の者が、指で、隣の珠を一つ上げるのと、同じことを、歯車がいたします」
皇帝が、身を乗り出した。
「もう一度、見せよ」
蘇玄機は、もう一度、やってみせた。九から零へ。隣が、一つ進む。
それから、九九九九九まで回して、もう一歯、回した。
五つの窓が、一斉に、零に戻った。
殿の中が、しんとした。
◇
「算盤の方が、速いのではないか」
戸部尚書の葉正言が、言った。
「戸部の吏員は、この箱を回すより、ずっと速く、珠を弾くぞ」
「一つ二つの数なら、算盤の方が、速うございます」
蘇玄機は、すぐに答えた。
「ですが、算盤は、弾く者が疲れます。朝の一刻と、夕の一刻とでは、同じ者でも、誤りの数が違う。——この箱は、疲れませぬ。誤りは、入れる数を、入れ違えたときだけです」
韋金森が、進み出た。
「まず、足すことと、引くことだけを、速く、確かに、繰り返せる機械を作ります」
韋金森は、言った。
「掛けることは、足すことを繰り返せばできます。割ることは、引くことを繰り返せばできます。——初めから、何でもできる機械を作ろうとすると、何もできない機械になる。私の国で、そういう機械を夢見た者がいました。図は美しかった。でも、その者が生きているうちには、動かなかった」
「何が、難しい」
工部の沈維新が、問うた。
韋金森は、指を折った。
「歯車の歯を、同じ形に、正確に削ること。一つでも歯が歪めば、繰り上がりが、ずれる。——繰り上がりが、一度に五つの輪をまたぐとき、押す力が重くなる。それで、爪が折れる。歯が、すり減る。回した輪が、勝手に逆に回らぬよう、止めておかねばならない。窓の数が、読み違えられないように、字の形と、窓の大きさを決めねばならない」
韋金森は、蘇玄機の手の中の、木の箱を見た。
「この箱は、木で作りました。本物は、真鍮で作ります。歯車の歯を、同じ形に、何千と削る機械が、まず要る。——計算の機械を作ることは、歯車を削る機械を作ることでも、あります」
沈維新が、頷いた。
◇
「何桁、要るのか」
枢密使の楊崇武が、問うた。
蘇玄機は、懐から、一枚の紙を出した。修平が集めさせ、統計局から回ってきた、あの書き出しだった。
「統計局と、中央銀行と、戸部と、枢密院に、伺いました。どの数を、何度、足さねばならないか。何桁か。いつまでに要るか」
蘇玄機は、紙を読み上げた。物の値の調べ。帳面の突き合わせ。税。糧の計算。
「一番長いのは、中央銀行の帳面で、十桁。——ですから、最初の機械は、十二桁といたします。一日に、何百回と回しても、壊れぬように。役所の吏員が、一日で、使い方を覚えられるように」
蘇玄機は、紙を畳んだ。
「作りたい機械を、作るのではありませぬ。役所が、使える機械を、作ります」
◇
「一つ、訊きたい」
御史大夫の周清源が、言った。
殿の中の目が、周清源に集まった。御史台の長が、技の話に口を開くことは、珍しかった。
「その機械が出した数を、誰が、正しいと保証する」
蘇玄機は、言葉に詰まった。
「今は、吏員が二人で同じ数を弾き、合わねば三人目が弾く。答えが誤っていれば、誰が弾いたかが分かる。——機械が誤れば、誰の責めになる。機械か。回した者か。作った者か」
短い沈黙があった。
それに答えたのは、統計局の韋明遠だった。殿の末席から、一歩、前へ出た。
「入れた数と、出た数を、必ず、帳面に残させます」
韋明遠は、言った。
「誰が、いつ、どの機械で、何を入れ、何が出たか。——そして、別の者が、そのうちのいくつかを、抜き出して、算盤で、弾き直す。合わなければ、入れた数を誤ったのか、機械が狂ったのかを、調べる。機械も、月に一度、決まった数を入れて、決まった答えが出るかを、確かめる」
周清源は、韋明遠を見た。
「機械を入れても、検めは、なくならぬということか」
「なくなりませぬ」
韋明遠は、言った。
「誤り方が、変わるだけでございます。人は、疲れて誤る。機械は、狂って誤る。——狂ったときに、それと気づける仕組みを、機械と一緒に、作ります」
周清源は、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「御史台からも、一人、その仕組みを作る席に、出そう」
◇
廷議の間、修平は、末席に座ったまま、一度も口を開かなかった。
口を開く必要が、なかった。
どの数が、どれだけ要るのか。それは、夏のうちに、書き出させて、渡してあった。そこから先は、蘇玄機と、韋金森と、統計局と、御史台の話だった。
皇帝が、最後に、修平の方を見た。
「林詳定。そなたは、何か、付け加えることはあるか」
「ございません」
修平は、頭を下げた。
「臣が申し上げたかったことは、全て、蘇どのの紙の中に、ございます」
◇
冬の初め、工部の工房の一隅に与えられた、蘇玄機の仕事場で、韋金森は、一本の真鍮の歯車を、光にかざしていた。
十の歯。小指の爪ほどの大きさ。工部の工房で、韋金森が作らせた、小さな歯切りの台で、削り出したものだった。
「同じものを、あと、百九十九」
韋金森が、言った。
「十二桁の機械、一台に」
蘇玄機は、その歯車を受け取り、老眼の目を細めて、歯の一つ一つを、見比べた。
「……三つ目の歯が、ほんの少し、太い」
「分かりますか」
「分かる。四十年、時計の歯を見てきた」
蘇玄機は、歯車を、韋金森に返した。
「私の目で分かるうちは、まだ、機械には、使えませぬ」
韋金森は、歯車を、しばらく見つめていた。
それから、笑った。
「私の目では、分からなかった。——蘇どのの目を、測る器が、要りますね」
仕事場の隅で、蘇玄機が杭州から持ってきた、小さな水の時計が、時を告げる水の音を立てていた。
百年以上前に、この国の誰かが、水の力で、天の動きを歯車で追いかけた。その歯車の図が、今、蘇玄機の仕事場の壁に、写しで貼られていた。
その下の卓で、真鍮の歯車が一つ、灯の光を返していた。




