第四巻 産業設計 第八回 湧き出る鉄・青図
工部の尚書の部屋は、冬になると、隙間風がひどかった。
沈維新は、火鉢に手をかざしながら、机の上の一通の書面を、もう一度読んだ。
求賢局からの、推薦の書面だった。
——冶金の技術者、杜布林。鉱山と蒸気の機械の技術者、托馬斯・貝爾。右二名を工部に推し、坑の水を抜く機械と、鋼を多く作る法との、試みの作り方を検めさせたい。工部・坑冶寺・軍器監にまたがる事ゆえ、工部において、これを統べられたし。
沈維新は、書面を机に置き、窓の外を見た。
工部の庁舎は、六部の中で、いちばん古く、いちばん狭かった。瓦の一部は、去年の夏の雨で割れたまま、まだ替えられていない。修繕の費えを戸部に申し出て、三度、後回しにされた。
工部は、城の壁を直し、堤を直し、宮の屋根を直す役所だった。何かを直すための費えを、戸部に頼む役所だった。
六部の尚書が並ぶ朝の席で、工部の尚書が口を開くことは、あまりない。口を開いても、話はたいてい、屋根か、壁か、堤のことだった。宰相たちは、それを聞いて頷き、次の話へ移った。
沈維新が工部の尚書になって、六年近くが経っていた。
この数年、中央銀行ができ、物の値の調べが始まり、国の証文が出され、西の遠征が出て、敗れた。そのどれにも、工部は、ほとんど関わらなかった。
その工部に、今、坑の水を抜く機械と、鋼を多く作る法を、統べよ、と言ってきている。
坑冶寺は、名目の上では工部に属していたが、実のところ、長く、坑ごとの監官が、それぞれの坑を見るだけの役所だった。軍器監は、工部とは別の役所で、兵部と枢密院の方を向いている。
その三つにまたがることを、工部で、統べる。
沈維新は、火鉢の灰を、火箸で、ゆっくりと掻いた。
断る理由は、いくらでも思いついた。
◇
「沈尚書」
戸口に、修平が立っていた。
沈維新は、少し驚いた。詳定官が、工部の尚書の部屋を訪ねてくることは、これまでなかった。
「求賢局の書面を、ご覧になりましたか」
「今、読んでおったところだ」
沈維新は、修平に、火鉢の向かいの椅子を勧めた。
「林詳定の差し金か」
「いいえ」
修平は、首を振った。
「推したのは、王参政と、求賢局の審査の者たちです。杜布林どのと、貝爾どのが、自分から、工部で、と申したそうです」
「なぜ、工部で」
「工部の庁舎の書庫に、国中の鉄の炉と、坑の、古い図と記録が、一番多く残っているから、と」
沈維新は、黙った。
たしかに、工部の書庫には、そういう記録が、埃をかぶって積まれていた。誰も読まない記録だった。
「私は、今日は、一つだけ、お伝えに参りました」
修平は、言った。
「私は、この話の、技の中身には、口を出しません。鉄の炉のことも、機械のことも、私には分かりません。——西の遠征の前、私は、軍器監の報せを読んで、矢と鉄の詰まりを、一時のことだと判じました。それが、誤りでした」
修平の声は、落ち着いていた。
「ですから、今度は、中身は、杜布林どのと、貝爾どのと、沈尚書に、お任せします。私にできるのは、費えを、戸部と中央銀行から引いてくること。坑冶寺と軍器監と、その他の役所との間の、話を通すこと。それに、統計局に、要る数を取らせること。——その三つは、何でも、お申し付けください」
沈維新は、修平の顔を、しばらく見ていた。
この男が、中央銀行を作ったとき、工部には、一度も相談が来なかった。
その男が、今、工部の尚書の部屋で、自分は中身には口を出さぬ、と言っている。
杜布林は、ふた月前から、求賢局の計らいで、工部の書庫に通って古い記録を読んでいる。貝爾は、坑冶寺で縦の坑の図を描いている。どちらも、沈維新は、名しか知らなかった。
「……一度、会ってみよう」
沈維新は、言った。
「その二人に」
◇
杜布林は、小柄で、背の丸い男だった。手の甲に、古い火傷の痕が、いくつもあった。
貝爾と並んで、工部の書庫の、長い卓の前に座った。卓の上には、杜布林が、この二月のあいだに書庫から引っ張り出した記録が、山と積まれていた。
「徐州の、利国監の炉を、見てきました」
杜布林は、宋の言葉で言った。貝爾よりも、訛りが強かった。
「それから、磁州と、相州の、民の炉も」
「どうであった」
沈維新が、問うた。
杜布林は、少し考えるように、卓の上の記録を指で叩いた。
「この国は、鉄を、知っています」
沈維新は、眉を上げた。
「石炭で、鉄の炉を焚いている。高い炉で、鉄を溶かして、流している。溶けた鉄を、炒めるように掻き混ぜて、柔らかい鉄にする。硬い鉄と、柔らかい鉄を、合わせて、鋼にする。——私の国で、同じことができるようになったのは、ずっと後です」
杜布林は、記録の一枚を取り上げた。利国監の、ある年の出鉄の帳面だった。
「一つの監で、一年に、これだけの鉄を出している。私の国の、ある時代の、国全体と、同じくらいです」
沈維新は、その数を見た。自分の役所の書庫にあった帳面なのに、そういう目で見たことは、一度もなかった。
「では、何が、足りぬ」
「同じ鋼を、たくさん、作れないこと」
杜布林は、言った。
「今の鋼は、職人が、一つずつ、手で作ります。腕のいい職人が作った鋼は、とても良い。でも、隣の職人が作った鋼とは、違う。同じ職人でも、今日と明日で、違う。——刀を一本作るなら、それでいい。でも」
杜布林は、貝爾の方を見た。
貝爾が、引き取った。
「鉄の道を作るなら、一里に、何百本も、同じ鋼の棒が要ります。一本だけ弱ければ、そこで、車が落ちる。機械を作るなら、何千の部品が、同じ硬さで、同じ強さでなければならない。大きな筒の、鉄砲を作るなら——」
貝爾は、言葉を切った。
「同じ鋼を、たくさん。それが、ない」
◇
杜布林は、書庫の壁に、大きな紙を一枚、貼らせた。
紙の真ん中に、丸い、壺のような形の絵を描いた。壺の口は斜め上を向いていて、壺の底には、小さな穴がいくつも開いていた。
「溶けた鉄を、この壺に入れます。底から、風を、強く吹き込む」
杜布林は、壺の底の穴から、上へ向かって、何本もの矢印を描いた。
「溶けた鉄の中には、炭の気が、多く入っています。だから、硬くて、脆い。風を吹き込むと、その炭の気が、燃える。燃えて、熱が出る。——火を焚かなくても、鉄は、溶けたまま。炭の気が抜けていく。炭の気が、すっかり抜けたところで、別の鉄を、少しだけ足して、加減する。そうすれば、柔らかい鉄にも、鋼にも、できる」
「火を焚かずに、鉄が溶けたままなのか」
沈維新は、思わず問い返した。
「炭の気が、燃えるから。鉄の中の、別の悪いものも、一緒に燃える」
杜布林は、壺の上から、炎のような線を描き足した。
「職人が、一日かけて掻き混ぜる鉄を、この壺は、半刻もかからずに、たくさん、変えます。私の世では、この壺で、国中の鉄の道の鋼を、作りました」
沈維新は、その壺の絵を見つめた。
書庫の中は、しんとしていた。
「……ですが」
杜布林は、壺の絵の横に、二つの字を書いた。
燐。硫。
「この壺には、弱いところがあります。鉄の石の中に、この二つが多いと、風を吹き込んでも、抜けない。抜けないまま、鋼になる。そうなると、見た目は同じでも、冷えると割れる。熱いと割れる」
杜布林は、手の甲の火傷の痕を、もう一方の手で撫でた。
「私の生まれた土地の、鉄の石は、この燐が、多かった。この壺ができたとき、私の土地の者は、皆、喜んだ。そして、皆、失敗しました」
「では、使えぬのか」
「使えます。石を、選べば」
杜布林は、言った。
「この壺の名を知っていることと、この国の、この土地の石で、それがうまくいくことは、別のことです。——ですから、壺を作る前に、国中の鉄の石を集めて、何が入っているかを、調べます。燐の少ない石が、どこにあるか。それが、先です」
「羅蘭徳どのの、仕事にもなるな」
貝爾が、言った。
「石の中に何が入っているかを、分けて、量るのは、化学の者の仕事だ」
杜布林は、頷いた。
◇
「壺だけでは、鋼は、できません」
杜布林は、壺の絵の周りに、次々と、小さな絵を描いていった。
鉄の石。
石炭と、骸炭。——羅蘭徳の壺から出てきた、あの灰色の塊の話が、そこで出た。石炭のまま炉に入れると、石炭の中の硫が、鉄に入る。骸炭にしてから入れる。
石灰の石。炉の中で、鉄の石の中の、要らない土を、溶かして浮かせるためのもの。
火に強い煉瓦。炉の内側に積む。普通の煉瓦では、炉の熱で、溶けてしまう。
風を吹き込む機械。今の炉は、皮の鞴を、人や水車で動かしている。壺に吹き込む風は、それよりずっと強くなければならない。
「その風を、何で吹くのか」
沈維新が、問うた。
貝爾が、答えた。
「最初は、水車。いずれ、蒸気の機械で。——坑の水を抜く機械が、鶴壁で動けば、石炭が、今より深くから、今より多く出る。炉を焚く石炭も、そこから来ます」
炉の熱さを、測る法。
それから、できた鋼を、叩いて、延ばして、板や棒にする、大きな機械。
杜布林は、それらの絵を、壺を中心に、線で繋いでいった。
「どれか一つでも、足りなければ、壺だけあっても、鋼は、たくさんは、できません。骸炭がなければ、鉄に硫が入る。煉瓦が悪ければ、炉が、ひと月で崩れる。風が弱ければ、炭の気が抜けない。延ばす機械がなければ、鋼の塊が、倉に積まれるだけ」
沈維新は、壁の紙を見上げた。
壺の絵は、もう、真ん中の小さな丸にすぎなかった。その周りに、石の山、炭の山、煉瓦の窯、風の機械、延ばす機械が、ぐるりと並んでいた。
「これは、一つの炉の話ではないな」
「はい」
杜布林は、言った。
「一つの、国の中の、仕組みの話です」
◇
「もう一つ」
貝爾が、言った。
「鋼は、一つでは、ありません」
貝爾は、紙の下の端に、四つの言葉を並べた。
鉄の道の棒。
湯を沸かす釜の板。
物を削る刃。
鉄砲の筒。
「鉄の道の棒は、重い車が、何万回も上を通っても、すり減りにくく、折れないこと。釜の板は、中の湯気に押されても、裂けないこと。削る刃は、硬いこと。鉄砲の筒は——」
貝爾は、少し間を置いた。
「中で火薬が爆ぜても、割れないこと。冬の寒さでも、割れないこと」
杜布林が、続けた。
「四つとも、同じ鋼では、ありません。硬い鋼は、脆い。粘る鋼は、柔らかい。——全部に、一番いい鋼を使えば、費えが、何倍にもなる。全部に、同じ鋼を使えば、どこかで、割れる」
「では、どうする」
「試します。引っ張って、どこで切れるか。曲げて、どこで割れるか。叩いて、どれだけ耐えるか。硬さは、どれだけか。——使い道ごとに、どこまでなら良い、という線を、決めます」
沈維新は、壁の紙を見た。
工部は、城の壁を直す役所だった。壁の石が、どれだけの重さに耐えるかを、測ったことは、なかった。昔から、この厚さで積めば崩れぬ、という決まりに従ってきた。
この男たちは、それを、全て、測れと言っている。
◇
その夜、沈維新は、工部の書庫に、一人で残っていた。
壁の紙を、灯の下で、もう一度見上げた。
壺。石。炭。煉瓦。風。延ばす機械。四つの鋼。
杜布林は、書庫を出るとき、一つだけ、付け加えていた。
「この仕事は、工部だけでは、できません。石は、坑冶寺の坑から来る。鋼の筒は、軍器監が使う。釜の板は、貝爾の機械が使う。鉄の道の棒は——まだ、誰も、使っていない」
杜布林は、書庫の戸口で、沈維新を振り返った。
「でも、工部でなければ、この三つを、繋げない、と思います。坑冶寺は、坑しか見ていない。軍器監は、兵器しか見ていない。工部は、何でも、直してきた役所だから」
何でも、直してきた役所。
沈維新は、その言葉を、口の中で転がした。
屋根を直し、壁を直し、堤を直す。何かが壊れるたびに、呼ばれる。何も壊れなければ、忘れられる。
けれど、何でも直してきたということは、城の石も、堤の土も、宮の木も、瓦の窯も、何でも見てきたということでもあった。
沈維新は、火鉢の火が、もう消えかけていることに気づいた。
灯を持ち上げ、壁の紙の、真ん中の壺の絵を、もう一度照らした。
それから、机に戻り、筆を取った。
◇
翌月、都堂に、工部から一通の上申が出た。
——工部において、坑の水を抜く機械と、鋼を多く作る法の、試みの作り方を、統べる。坑冶寺は、候補の坑と鉄の石の調べを担う。軍器監は、兵器に用いる鋼の試しを担う。少府監は、火に強い煉瓦と、測りの器を担う。求賢局の推した杜布林、托馬斯・貝爾、羅蘭徳は、工部の下に、宋の技官と組んで、事に当たる。費えは、戸部・中央銀行と別に議す。
上申の末尾には、工部尚書、沈維新の名があった。
都堂で、その上申を読んだ左丞相の李徳彰は、しばらく、末尾の名を見ていたという。
それから、「工部の尚書が、こういう書面を出してきたのは、何年ぶりか」と、誰にともなく言ったという。
◇
春の初め、工部の書庫の壁に、もう一枚、大きな紙が貼られた。
国の北半分の、地図だった。
杜布林と、貝爾と、坑冶寺の丞と、少府監の技官が、一月かけて、その上に印を置いていった。
黒い丸は、石炭の坑。相州、磁州、河東路のいくつか。
赤い丸は、鉄の石の山。利国監の周り、磁州、そのほか、まだ調べの済んでいない印が、いくつも。
白い丸は、石灰の石の採れるところ。
茶色の丸は、火に強い煉瓦の土が採れるところ。
そして、それらの丸の間を、青い線が結んでいた。川。運河。街道。
沈維新は、その地図の前に立って、長いこと、動かなかった。
黒い丸と、赤い丸と、白い丸が、互いに近いところがあった。近いけれど、川で結ばれていないところもあった。赤い丸が、黒い丸から、何百里も離れているところもあった。
「炉を、どこに建てるか」
杜布林が、隣に立って、言った。
「石のそばか。炭のそばか。川のそばか。——全部のそばに建てられるところは、ほとんど、ありません。どれかを、運ぶことになる」
貝爾が、地図の上の、黒い丸と赤い丸の間に、指で一本の線を引いた。川も街道も通っていない、平らな土地を、まっすぐに。
「林詳定が、いずれ申すという鉄の道が、ここを通れば」
指は、そのまま、地図の端の、開封の方へ伸びていった。
「炭も、石も、鋼も、ここを通って、運ばれる。——そして、その鉄の道の棒は、ここで作った鋼で、できる」
沈維新は、その見えない線を、目で追った。
鋼を作る炉のために、道が要る。道を作るために、鋼が要る。
どちらが先ということは、ない。両方を、同じ一枚の地図の上で、決めねばならない。
「炉の場所を決めるのは、工部の仕事ではない、と、昔の私なら、言っただろう」
沈維新は、言った。
杜布林が、沈維新を見た。
「今は」
沈維新は、答えなかった。
ただ、筆を取り、地図の余白に、小さな字で、何かを書きつけた。
杜布林が覗き込むと、そこには、こうあった。
——炉の地、鉄の道の地、共に、工部にて議す。




