第四巻 産業設計 第七回 電信の提案
修平の机の上には、一年半前の書き付けが、一束、置いてあった。
西の遠征の報せが、開封に届いた日付と、その報せに書かれた出来事の日付とを、並べて写したものだった。敗れた後、修平が、自分で写した。
国境の平原での勝ち。その報せが開封に着いたのは、四月後だった。
乾いた川床での戦い。その報せが着いたのも、四月後だった。
狄承武を統制に進める枢密院の文書は、出立から一年あまり経って、パルシアの王道の宿駅で、ようやく一行に追いついた。遠征の兵を、名実ともに狄承武に統べさせるための文書が、兵がすでに異国の道の半ばにいる時に、届いた。
開封が勝ちを祝っていたとき、西では、すでに負けていた。
開封が負けを知ったとき、西では、兵が、帰る支度をしていた。
修平は、書き付けの束の上に、指を置いた。
四月。
騎馬の急使は、国の中では、世に類のない速さで走る。宿駅ごとに馬を換え、昼も夜も走り継ぐ。それでも、国の外の、あの遠さを越えれば、四月かかる。
国の中でも、同じことは起きている。広州の米の値が跳ねたと、開封の中央銀行が知るのは、半月後。成都の銭引務の詰まりを知るのは、ひと月近く後。そのあいだに、値は、もう別の動き方をしている。
修平は、書き付けの束を、袖に入れた。
秋の、御前廷議の日だった。
◇
「林詳定の話を、聞こう」
皇帝、趙祺が言った。
殿の中には、左丞相の李徳彰、右丞相の張文謹、参知政事の王懐遠、枢密使の楊崇武、戸部尚書の葉正言、兵部尚書の呉承烈、工部尚書の沈維新が並んでいた。その後ろに、求賢局から、章太厳と、電気の学を修めたと認められた転生者が二人。それに、少府監と軍器監の官が、それぞれ一人ずつ。
修平は、袖から書き付けの束を取り出し、西の遠征の日付を、読み上げた。
読み終わるまで、誰も、口を開かなかった。
「負けたのは、兵器が弱かったからだけでは、ありません」
修平は、言った。
「開封と、テオドリアと、国境の外の陣とが、同じ時に、同じことを知ることが、できませんでした。開封が決めたことは、決めた時には、もう、遅かった。——国の中でも、同じことが、起きております。国が大きいほど、この遅れは、大きくなります」
楊崇武が、目を閉じた。遠征のあいだ、枢密院で文書に印を押し続けたのは、この人だった。
「臣が、今日、申し上げたいのは、この遅れを、縮める仕組みです。——軍令のためだけではありません。開封と州の役所、中央銀行の本院と支院、いずれは坑と港とを、一つの網で結ぶためです」
修平は、一度、息を整えた。
この一年あまり、求賢局を作り、専門の者たちを集め、自分は、技の中身に口を出さないと決めてきた。鉄のことは杜布林に、坑のことは貝爾に、薬のことは羅蘭徳に。
けれど、これだけは、自分が言わねばならない。自分が知っている、数少ないものの一つだった。
「電信、と申します」
殿の中が、静かになった。
「銅の線を、遠くまで引きます。線の一方の端で、電気——雷と同じ類の力を、流したり、止めたりする。もう一方の端で、その流れたり止まったりを、読み取る。流れる時の長い短いを、字に置き換えておけば、線の先へ、文を送ることができます。——開封から広州まで、馬で半月かかる報せが、その日のうちに届く」
張文謹が、ゆっくりと顔を上げた。老いた右丞相の目は、疑っているというより、測っているようだった。
「林詳定」
皇帝が、言った。
「それは、そなたの世にあったものか」
「はい」
修平は、頷いた。
そして、ここへ来る前から決めていた言葉を、口にした。
「夢を話します。ですが、私の世界では、現実にありました」
修平は、殿の中を見渡した。
「ゆえに、不可能ではありません」
一呼吸、置いた。
「ですが、作り方は、私の知識外です」
◇
殿の中に、小さなざわめきが起きた。
呉承烈が、眉をひそめた。
「作り方を知らぬものを、朝廷に勧めるのか」
「はい」
修平は、まっすぐに言った。
「臣が保証できるのは、それが、かつて、確かにあったこと。何ができて、どこで役に立ったか。そこまででございます。どうして電気が線の中を流れるのか。線をどう作り、どう覆うのか。どうやって遠くでそれを読み取るのか。——臣には、分かりません。臣がそれを図に描けば、必ず、どこかで誤ります」
修平は、求賢局の二人の方を、手で示した。
「ですから、この国の、分かる者に、渡したいのです」
求賢局の二人のうち、年かさの方が、一歩前へ出た。痩せた、眼鏡の縁のような皺を目の周りに刻んだ男だった。求賢局の記録では、十九世紀の半ば、西洋のどこかで、電気の学を講じていたという。
「林詳定の言われることは、正しい」
男は、少し訛りのある言葉で言った。
「線の中を、電気は流れます。流れたかどうかを、遠くで読み取ることも、できる。私のいた時代には、すでに、そういう線が、国と国の間に、引かれ始めていました」
「そなたは、作れるのか」
皇帝が、問うた。
「すぐには」
男は、首を振った。
「作るには、多くのものが、要ります」
◇
それから、殿の中で、要るものが、一つずつ数えられた。
修平が言い出したのではなかった。求賢局の男が言い、沈維新が問い返し、少府監の官が、この国で今できることとできないことを答えた。
まず、電気を、途切れずに、同じ強さで作り出す器。
求賢局の男は、それを、金属の板と、酸の水とで作る、と言った。羅蘭徳の話が、そこで一度出た。酸を、同じ濃さで、たくさん作らねばならない。
次に、遠くまで引く、線。
銅か、鉄か。何百里、何千里分の線を、同じ太さで引けるか。少府監の官が、鉄の線なら引ける工房がある、銅は値が張る、と答えた。
線から、電気が漏れぬよう、覆うもの。
柱に掛けるなら、柱と線の間に、電気を通さぬものを挟まねばならぬ。雨に濡れれば、電気は漏れる。陶の小さな器を挟む、という話が出た。景徳鎮の名が出た。
電気を、流したり止めたりする、送る側の器。
遠くで、流れた止まったを、読み取る、受ける側の器。
線が切れたとき、どこで切れたかを探し、直す者たち。
そして、国中のどこでも、同じやり方で送り、同じやり方で読むための、決まり。
沈維新が、指を折りながら、それを繰り返した。
「作り出す器。線。覆い。送る器。受ける器。直す者。決まり。——七つ」
沈維新は、少し間を置いて、言った。
「これは、一つの器の話ではない」
「はい」
修平は、頷いた。
「駅伝と、同じです。馬がいても、宿駅がなければ、走れない。宿駅があっても、馬を替える決まりがなければ、止まる。——電信も、線と、器と、人と、決まりが揃って、初めて、動く仕組みです」
◇
「文字は、どうする」
張文謹が、言った。
殿の中の目が、右丞相に集まった。
「流れる、止まる、長い、短い。——それで、字を送ると言うた。西の国の字は、二十か三十しかないと聞く。それなら、一字ごとに、長い短いの組を決めればよかろう。だが、我らの字は、日々使うものだけで、数千ある」
修平は、張文謹の顔を見た。
それが、一番の問題だった。そして、この老いた右丞相は、誰にも言われる前に、そこへ辿り着いていた。
「読みで、送ればよいのでは」
楊崇武が、言った。
「字を送らず、音を送る。受けた者が、音から字を書く」
「同じ音の字が、多すぎる」
張文謹は、首を振った。
「同じ音で送られて、受けた者は、将と書くか、漿と書くか、蔣と書くか。軍令で、それを誤れば」
楊崇武は、黙った。
修平は、一歩、前へ出た。
「数で、送ります」
殿の中が、修平を見た。
「戸部と中央銀行の帳面で、今、使うております、十の数字。零から九まで。——あれを、使います」
修平は、袖から、白い紙を一枚、取り出した。昨夜、自分で書いたものだった。
「常に使う字に、一つずつ、四つの数字の番号を振ります。零零零零から、九九九九まで。これで、一万の番号が振れる。その番号を並べた帳面を、電碼表と呼びます」
修平は、紙の上の、一行を指した。
「たとえば、『兵』という字が、四つの数字のある番号だったとする。送る者は、『兵』という字を見て、電碼表を引き、その番号を、線で送る。十の数字だけなら、長い短いの組は、十通り決めればよい。——受けた者は、長い短いを聞いて、数字に戻し、四つの数字を、電碼表で引いて、『兵』と書く」
修平は、紙を、張文謹の前に置いた。
「音ではなく、番号で送れば、同じ音の字でも、番号が違います。取り違えることが、ない」
張文謹は、紙を手に取り、しばらく眺めていた。
「字を、数にして、数を、流れにして、流れを、また数にして、数を、字に戻す」
「はい」
「回りくどい」
張文謹は、言った。それから、紙を置いた。
「だが、これなら、将と相を、取り違えぬ」
◇
「一つ、足りぬところがございます」
章太厳が、口を開いた。
求賢局で見出された、学者だった。痩せた身体に、よく通る声をしていた。自分の時代では、字と音の学を講じていた、と言っていた。
「電碼表に載っておらぬ字は、送れませぬ」
章太厳は、言った。
「人の名。土地の名。新しく作られた言葉。——それに、ヴォルガルの将の名や、ロマニエの町の名。あれは、そもそも、我らの字がございませぬ。音を、字で当てるしかない。当てる字が、送る者と受ける者とで違えば、別の名になってしまう」
修平は、頷いた。自分でも、それが引っかかっていた。
「私の時代には、字の音を、わずかな印で書き表す仕組みが、作られておりました」
章太厳は、懐から一枚の紙を出した。紙の上には、見慣れない、簡単な形の印が、四十ほど並んでいた。
「字の頭の音と、残りの音と、声の上げ下げとを、この印で書く。印の数は少ないゆえ、長い短いの組も、少なくて済む。——常の文は、電碼表の番号で送る。電碼表にない名だけ、この印で、音を送る。二つを、使い分けるのです」
修平は、章太厳の紙を見た。
自分の知っている、どの仕組みとも違っていた。けれど、自分の知っているどれよりも、この国の字に、よく合っているように見えた。
「電碼表の中身と、この印とを、詰めるのに、どれだけかかる」
王懐遠が、問うた。
「電碼表の、字の選びと、番号の振り方だけで、一年はかかりましょう」
章太厳は、言った。
「どの字を載せ、どの字を載せぬか。似た字を、近い番号にするか、遠い番号にするか。——後で、送り間違いや、盗み見の話になったとき、それが、効いてまいります」
修平は、章太厳の最後の一言に、一瞬、目を上げた。
章太厳は、それ以上は言わなかった。
◇
「実務の者として、申し上げたい」
兵部尚書の呉承烈が、言った。
「兵部は、国中の駅と、急脚の者を預かっておる。遅いと言われれば、その通りだ。だが、駅の文は、封をして、印を押して、人の手で運ぶ。途中で中身が変わることは、まず、ない」
呉承烈は、修平を見た。
「線の上の流れには、封も、印もない。送る者が一つ打ち違えれば、受ける者が一つ聞き違えれば、別の文になる。速くても、誤っていれば、遅いより悪い」
「それに」
工部の沈維新が、続けた。
「線が切れれば、止まる。雨で漏れれば、止まる。西の路と、東の路とで、別の電碼表を使い始めれば、繋いだときに、読めぬ」
修平は、二人の言葉を、黙って聞いた。
どちらも、正しかった。
そして、自分の知っている電信は、そのどちらにも、答えを持っていたはずだった。けれど、その答えの形を、修平は、ほとんど覚えていなかった。
「……お二人の言われることを、全て、決まりにしたいと存じます」
修平は、言った。
「文の書き方を、定めておく。どこからどこへ、誰が、いつ送ったかを、頭に必ず書く。受けた側は、受けた、と、送り返す。数字の長い文は、受けた側が繰り返して、送った側が確かめる。送った時と受けた時を、帳面に残す。誤りがあれば、もう一度送る。——電碼表は、国に一つとし、改めるときは、版を改め、全ての局へ、同じ日に配る。線は、区ごとに、直す者の持ち場を決める」
修平は、少し間を置いた。
「どれも、臣が、今、思いついたものではありません。駅伝が、何百年かけて作ってきた決まりと、同じ形のものです。——それを、線の上に、移したい」
呉承烈は、しばらく修平を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「駅の者を、その決まりを作る席に、呼んでいただきたい」
◇
「では、どこから始める」
皇帝が、問うた。
沈維新が、求賢局の二人と、少府監の官と、短く言葉を交わした。
「まず、工部の中に、短い線を、一本、引かせていただきたい」
沈維新は、言った。
「工部の庁舎から、少府監の工房まで。一里に満たぬ線です。——そこで、電気が本当に向こうまで届くのか。届いたものを、読み取れるのか。雨の日と、晴れの日とで、何が違うのか。線を長くすると、どこで、読めなくなるのか。一つずつ、測ります」
「全国の網は」
「その後でございます」
沈維新は、きっぱりと言った。
「一里で読めぬものを、千里に引いても、読めませぬ」
皇帝は、少しの間、修平を見た。
「林詳定。そなたは、これで、よいか」
修平は、頭を下げた。
「臣の役目は、ここまでです」
顔を上げたとき、修平は、自分の声が、思ったより、落ち着いていることに気づいた。
「電信が、あったこと。何ができたか。どこで役に立ったか。——それを、ここにおられる方々が、試して、作れるかどうかを確かめられる形に、直してお渡しする。それが、臣の役目です。作るのは、臣ではありません」
◇
廷議の後、宮城の廊下で、章太厳が、修平に追いついてきた。
「林詳定。電碼表の番号の振り方は、いずれ、別のことにも、効いてまいります」
「別のこと、とは」
「まだ、一里の線も、引かれておりませぬゆえ」
章太厳は、それだけ言って、軽く頭を下げ、廊下の先へ去っていった。
修平は、その背中を見送りながら、袖の中の、西の遠征の書き付けに、手を触れた。
◇
初冬、工部の庁舎の裏庭から、少府監の工房の壁まで、木の柱が、三本、立った。
柱の頭には、景徳鎮から取り寄せた、白い陶の小さな器が、一つずつ、据えられていた。器から器へ、細い鉄の線が、一本、渡されていた。線は、庁舎の屋根の端から、工房の窓へ入っていた。
庁舎の側の一室には、陶の壺が、十いくつ、並べられていた。まだ、空だった。中に満たす酸は、羅蘭徳が、少しずつしか、作れていなかった。
工房の側の一室には、細い針を載せた、小さな箱が、一つ置かれていた。求賢局の男が、少府監の職人と、ひと月かけて組んだものだった。
修平は、沈維新と並んで、その箱の前に立った。
針は、動かなかった。まだ、どこにも、繋がれていなかった。
「春になったら、壺を満たします」
沈維新が、言った。
「晴れた日と、雨の日と。朝と、夜と。線を、一里、二里と、継ぎ足しながら。——どこで、針が振れなくなるのかを、測ります」
沈維新は、帳面を一冊、箱の脇に置いた。表紙には、まだ、何も書かれていなかった。
修平は、窓の外を見た。
細い鉄の線が、初冬の風に、かすかに揺れていた。




