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第四巻 産業設計 第六回 蒸留の器

 酒坊の土間には、甘く、焦げた匂いが立ちこめていた。


 開封の城南、官許の酒坊の一つである。奥の竈の上に、大きな甑(こしき)が据えられていた。甑の上には、底の丸い鍋が、蓋のように伏せてある。鍋には冷たい水が張られ、若い職人が、ときどき柄杓で水を汲み替えていた。


 甑の脇から、細い竹の樋が一本、突き出ている。その先から、澄んだ雫が、ぽつり、ぽつりと、壺の中へ落ちていた。


 葛元亮は、その雫を見つめている異国の男の横顔を、少し離れたところから見ていた。


 羅蘭徳。求賢局から工部へ推された、化学の技術者だった。細い顔に、細い口髭。指先が、ところどころ黄色く染まっている。何の薬で染まったのか、本人に訊いても、笑って答えなかった。


 葛元亮は、工部の若い技官で、この男の通詞と、書き役と、道案内を命じられていた。通詞といっても、羅蘭徳は、すでに、たどたどしいながら宋の言葉を話した。葛元亮の役目は、主に、羅蘭徳が言いたくて言えない言葉を、横から探してやることだった。


「親方」


 羅蘭徳が、酒坊の親方に声をかけた。


「いつ、止めますか」


 親方は、五十がらみの、腹の出た男だった。羅蘭徳の問いに、少し首を傾げた。


「止める、とは」


「この雫を、壺に受けるのを。——初めから終わりまで、同じ壺に受けますか」


「いや」


 親方は、笑った。


「初めに出てくるのは、鼻につんとくる。あれは、捨てる。終わりの方は、水っぽくて、臭い。あれも、別にする。真ん中の、いいところだけを、この壺に受ける」


「いつ、真ん中になったと、分かりますか」


 親方は、樋の先に、小さな杯を差し出した。雫を二つ三つ受け、鼻に近づけ、それから舐めた。


「こうして」


 羅蘭徳は、何度も頷いた。


「では、あなたの弟子は、いつ、それが分かるようになりますか」


「さあ」


 親方は、柄杓の水を替えている若い職人を、顎で指した。


「あれで、五年目だ。まだ、真ん中を取らせてはおらん。十年やって、分かる者もおれば、分からん者もおる」


 羅蘭徳は、葛元亮の方を振り向いた。


「葛どの。今の言葉、書いてください。十年やって、分かる者もいれば、分からない者もいる」


 葛元亮は、筆を走らせた。


 書きながら、羅蘭徳が、なぜそれを書けと言ったのか、よく分からなかった。


  ◇


 その日から、半月のあいだ、葛元亮は、羅蘭徳について、開封と、その周りの工房を歩き回った。


 解州から塩を運んでくる商人の倉では、塩の粒の大きさと白さで値を分ける目利きの話を聞いた。羅蘭徳は、塩の粒を掌に載せ、陽に透かし、それから、池の水を畦に引いて日に晒すとき、どこで水を足すのか、と訊いた。


 藍の染め屋では、甕の中で、藍の葉を水に漬け、石灰を入れ、かき混ぜ、泡が立つのを待つ工程を見た。甕の底に沈んだ泥のような藍を、上澄みを捨てて取り出す。羅蘭徳は、その上澄みを捨てる前に、どれだけ待つのか、と訊いた。職人は、「泡の色が変わるまで」と答えた。


 城東の薬種商では、生薬を煎じ、布で漉し、漉した汁を、さらに煮詰めて膏にする工程を見た。煎じた滓を干す棚。煮詰めた膏を、小さく丸めて乾かす板。


 ある道観の奥では、丹薬を練る道士が、密閉した鉢を火にかけ、鉢の蓋の裏に、白い粉が付くのを見せた。羅蘭徳は、それを見て、しばらく黙っていた。それから、道士に、蓋のどこに一番多く付くのか、と訊いた。


 どこへ行っても、羅蘭徳は、同じようなことを訊いた。


 いつ止めるのか。どれだけ待つのか。どこで火を弱めるのか。どうして、それが分かるのか。


 答えは、いつも、似たようなものだった。


 匂いで。色で。泡で。手の感じで。親方に教わった通りに。


  ◇


「葛どの。この国には、化学が、あります」


 半月目の夕方、工部へ戻る道で、羅蘭徳が言った。


「化学、とは」


「物を、分けて、混ぜて、変える、知です」


 羅蘭徳は、歩きながら、指を折った。


「酒の親方は、蒸留をしている。煮て、湯気にして、冷やして、分ける。染め屋は、沈殿をしている。混ぜて、待って、底に沈んだものを取る。薬屋は、濾過と、濃縮と、乾燥をしている。塩の商人は、結晶を見ている。道士は、焙焼と、昇華をしている」


「……皆、別の仕事です」


「そう、別の仕事。別の親方。別の言葉。——でも、やっていることは、同じ形です。私の国の言葉で、これを、単位の操作、と言います」


 羅蘭徳は、足を止めて、工部の門の前で、葛元亮を見た。


「私は、この国に、化学を教えに来たのでは、ありません。化学は、もう、ここにある。散らばって、親方の舌と鼻の中に」


「では、何を」


「親方の舌と鼻を、数に、します」


  ◇


 工部の一室の壁に、黒い板が掛けられた。周学衡の大学で使っているのと同じものを、羅蘭徳が頼んで作らせた。


 羅蘭徳は、その板に、七つの言葉を並べて書いた。


 蒸留。濾過。沈殿。結晶。乾燥。焙焼。濃縮。


 部屋には、工部の員外郎と技官が数人、少府監から来た者が二人、それに修平が座っていた。修平は、隅の方に座り、ほとんど口を開かなかった。


「化学の工場は、この七つで、できています」


 羅蘭徳は、言った。


「物を作る。反応させる。——それは、大事です。でも、その前と、後に、必ず、この七つが要る。原料を、きれいにする。反応したものから、欲しいものだけを、取り出す。濃くする。乾かす」


 羅蘭徳は、蒸留の字の下に、線を引いた。


「中でも、蒸留が、一番、広い。酒から、強い酒を取る。薬を、きれいにする。木を、蒸し焼きにして、酢と、油を取る。石炭を、蒸し焼きにして——」


 羅蘭徳は、そこで言葉を切り、黒い板の端に、何かを書こうとして、やめた。


「それは、後で見せます」


  ◇


「酒の親方は、真ん中を、舌で取ります」


 羅蘭徳は、黒い板の前を、ゆっくり歩いた。


「その親方が、死んだら。弟子が、十年たっても、分からなかったら。——別の町の酒坊で、同じ酒を作りたいとき、親方を、二人に割ることは、できない」


 技官の一人が、小さく笑った。


「では、何で、真ん中を取るのですか」


「熱さで」


 羅蘭徳は、言った。


「湯気の熱さを、測ります。酒の、強いところが出てくる熱さと、水っぽいところが出てくる熱さは、違う。——熱さを、数で読める器を作れば、親方の舌がなくても、同じところで、壺を替えられる」


「熱さを、数で読む器」


 工部の員外郎が、眉を寄せた。


「そのような器は、ございませぬ」


「ありません。だから、作ります」


 羅蘭徳は、黒い板に、細長い管の絵を描いた。下が丸く膨らみ、上へ細く伸びる管。


「中に、熱さで伸び縮みするものを入れる。透き通った管の、外から、どこまで伸びたかを読む。——作るには、薄くて、透き通って、同じ太さの、硝子の管が、要ります」


 少府監の者が、顔を見合わせた。


「琉璃の工房は、ございます。ですが、そのような細い管を、同じ太さで引ける職人は」


「いなければ、それも、課題です」


 羅蘭徳は、あっさりと言った。


 員外郎が、しばらく考えてから、言った。


「熱さを読む器、重さと嵩の器。——作るなら、工部で、一つの型に決めて、作らせましょう。工房ごとに違う器を作られては、同じ数にならぬ」


 羅蘭徳は、頷いた。それから、黒い板に、さらにいくつかの絵を描いた。秤。升。そして、水に浮かべる、細い浮き。


「重さを、測る。嵩を、測る。この浮きは、液の中に、どれだけ沈むかで、その液が、どれだけ重いか——どれだけ濃いかを、測ります。強い酒は、水より軽い。濃い塩の水は、水より重い」


 羅蘭徳は、葛元亮の方を見た。


「葛どの。染め屋の親方が、泡の色が変わるまで、と言ったこと。覚えていますか」


「はい」


「泡の色は、人によって、見え方が違う。朝と夕方でも、違う。——でも、熱さと、重さと、嵩と、時は、誰が測っても、同じ数になる。そうなるように、器を揃えれば」


 羅蘭徳は、黒い板に、四つの字を書いた。


 熱。重。嵩。時。


「強い酒、濃い薬、と言う代わりに、数で言う。それが、化学の工場の、最初の一歩です。反応の式より、先です」


  ◇


「それから、帳面」


 羅蘭徳は、机の上の帳面を一冊、手に取った。周学衡の実験棟の棚に並んでいるのと同じ、白い帳面だった。


「原料を、どれだけ入れたか。何の熱さで、どれだけの時、煮たか。何が、どれだけ出てきたか。それは、どれだけ濃かったか。——全部、書きます。うまくいったときも、いかなかったときも」


「職人は、嫌がりましょうな」


 員外郎が、言った。


「自分の技を、帳面に書かれるのは」


「嫌がると、思います」


 羅蘭徳は、頷いた。


「ですから、職人から取り上げるのでは、ありません。職人の名で、書きます。この工程は、どこの誰の技から来たか。——そして、帳面に書けたことは、別の町の工場でも、同じようにやれる。書けなかったことは、まだ、職人の手にしかない。どこまでが書けて、どこからが書けないかを、分けていくのです」


  ◇


「大きくすると、何が起きるのか」


 修平が、隅から、一つだけ問うた。


 羅蘭徳は、修平を見た。それから、黒い板に、小さな鍋と、大きな釜を並べて描いた。


「小さな鍋は、火が、すぐに、全体へ回ります。大きな釜は、火に近いところだけが、熱い。上の方は、まだ冷たい。——焦げるところと、生のところが、同じ釜の中にできる」


 羅蘭徳は、釜から伸びる管を描いた。


「湯気を冷やす水も、小さな鍋なら、桶一杯で足ります。大きな釜なら、川が一本、要るかもしれない。冷やしきれなければ、湯気が、そのまま外へ漏れる。酒の湯気は、燃えます」


 部屋の空気が、少し変わった。


「酸を扱えば、釜が、食われます。鉄の釜は、ある酸には、すぐに穴が開く。銅も、陶も、それぞれ、弱い相手がある。——釜の中で、湯気が逃げ場をなくせば、圧が上がって、釜が、裂けます」


 羅蘭徳は、黒い板の余白に、字を並べた。


 釜の材。冷やす水の量。火と釜を分ける壁。風の抜け道。熱さの記録。


「これを、工場を建てる前に、決めておきます。建ててから、足すのでは、遅い」


 羅蘭徳は、さらに書き足した。


 火を扱う場所と、湯気を扱う場所を、分ける。風を通す。火の元を決める。釜が危うくなったとき、中身を安全に抜く道を作る。事があれば、必ず、上へ報せる。


「化学の工場は、火事と、毒と、破裂の、新しい起こり方を作ります。今まで、この国の役所が、知らなかった起こり方です。——それを、工部が、最初から、知っておく」


  ◇


 十日後、羅蘭徳は、工部の裏庭に、小さな炉を一つ作らせた。


 炉の上に、蓋を土で固く封じた、鉄の壺を載せる。壺の蓋には、一本の細い鉄の管が差し込まれ、管は、水を張った桶の中をくぐって、その先で、上へ曲がっていた。


 壺の中には、石炭が詰めてあった。


 葛元亮と、工部の技官たちと、修平が、少し離れて見守る中、羅蘭徳は、炉に火を入れた。


 半刻ほどして、桶の中をくぐった管の、途中に付けた小さな受け壺に、黒くどろりとしたものが、溜まり始めた。


「石炭の、油です」


 羅蘭徳は、言った。


「今は、臭くて、汚いだけの油。でも、いずれ、これから、色も、薬も、作れます。——ずっと、先の話ですが」


 それから、羅蘭徳は、管の先に、火のついた付け木を近づけた。


 管の先に、黄色く明るい炎が、ふっと灯った。


 技官たちが、声を上げて、一歩下がった。


 炎は、揺れながら、管の先で、燃え続けた。誰も、油を注いでいない。芯もない。ただ、管の中から出てくる、目に見えない何かが、燃えていた。


「石炭の、気です」


 羅蘭徳は、言った。


「これを、管で町へ引けば、夜の町を、灯せます」


 しばらくして、炉の火を落とし、壺が冷めるのを待って、羅蘭徳は、封を割った。


 壺の中には、灰色の、軽く、硬く、穴だらけの塊が、残っていた。


「これは、骸炭(がいたん)」


 羅蘭徳は、塊の一つを、葛元亮の掌に載せた。思ったより、ずっと軽かった。


「石炭のまま、鉄の炉に入れると、石炭の中の、悪いものが、鉄に入る。その悪いものを、いくらか、先に抜いたものです。鉄を作る者が、欲しがる」


 羅蘭徳は、壺と、受け壺と、まだ燃えている管の先を、順に指した。


「骸炭。油。気。——一つの壺から、三つ、出てきました。骸炭だけが欲しい者は、油と気を、捨てるでしょう。でも、捨てなければ、それは、別の工場の、原料です」


 修平は、その灰色の塊を、じっと見ていた。


 葛元亮は、その横顔を見て、この詳定官は、何かを知っているのだ、と思った。けれど、修平は、何も言わなかった。


  ◇


 日が落ちてから、葛元亮は、工部の一室で、その日の帳面を清書していた。


 石炭、何斤。火を入れてから、油が出始めるまで、何刻。油、何斤。骸炭、何斤。気は、量れなかった。——羅蘭徳は、それも、量れなかった、と書け、と言った。


 羅蘭徳が、部屋に入ってきた。手には、昼間の、骸炭の塊を一つ持っていた。


「葛どの」


 羅蘭徳は、机の端に腰を掛けた。


「今日の壺は、うまくいきました」


「はい」


「でも、それは、小さな壺だったから、です」


 羅蘭徳は、骸炭の塊を、指の間で転がした。


「あの壺を、百倍にしても、同じように、うまくいくとは、限らない。火が、中まで回らない。管が、詰まる。封が、破れる。——一度うまくいっても、次の日も、同じものが、同じだけ出てくるとは、限らない。石炭が、違う山から来れば、違う」


 羅蘭徳は、塊を机に置いた。


「たくさん作ることと、同じものを作り続けることは、別の仕事です。私の国の、化学の工場は、その二つ目で、何度も、何度も、失敗しました」


 葛元亮は、筆を止めた。


「では、この国でも、失敗しますか」


「します」


 羅蘭徳は、笑った。


「だから、帳面が要るのです。失敗したとき、何が違ったのかを、探せるように」


 羅蘭徳は、立ち上がり、戸口のところで振り返った。


「酒の親方の弟子。五年目の、あの若者。——彼に、熱さの器を、最初に使わせたい。親方の舌と、器の数が、どこで合って、どこで合わないか。彼なら、両方、見られる」


 葛元亮は、帳面の、最初の頁を開いた。


 半月前に書いた、酒の親方の言葉が、そこにあった。


 十年やって、分かる者もいれば、分からない者もいる。


 その横に、葛元亮は、小さな字で、書き足した。


 ——器があれば、何年で分かるか。


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