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第四巻 産業設計 第五回 深坑の青図

 坑口から吹き上がってくる風は、夏だというのに、冷たく湿っていた。


 相州、鶴壁の炭坑である。


 坑冶寺の監官、喬仲堅は、坑口の縁に立って、その暗い穴を覗き込んでいる異国の男の背を見ていた。


 托馬斯・貝爾。求賢局から坑冶寺へ回されてきた男だった。赤みがかった髪を短く刈り、腕が太く、背は喬仲堅より頭一つ高い。求賢局の審査では、紙の上に、見たこともない機械の図を、定規も使わずに描いてみせたという。


「深さは」


 貝爾が、振り返らずに問うた。言葉は、まだぎこちなかった。


「十五丈あまり」


 喬仲堅は、答えた。


「この辺りでは、深い方です。石炭の層は、その下にも続いておりますが、それ以上は、掘れませぬ」


「なぜ」


「水が」


 喬仲堅が言い終わる前に、坑口の脇の轆轤(ろくろ)が軋んだ。


 四人の男が、太い横木を押して回している。縄が巻き上がり、暗い穴の底から、革の袋が一つ、上がってきた。袋からは、水が滴っていた。袋を受け取った男が、坑口の脇の溝へ、水を空ける。空になった袋が、また穴の中へ降りていく。


 その隣の轆轤では、別の四人が、石炭を詰めた籠を巻き上げていた。


「昼も夜も、あれを回しております」


 喬仲堅は、言った。


「石炭を上げる轆轤と、水を上げる轆轤と。夏の雨の後は、水の方が、倍に増える。——これ以上深く掘れば、水を上げる轆轤を倍にしても、追いつかぬ」


 貝爾は、しばらく、水の袋が上下するのを見ていた。


 それから、腰の袋から小さな帳面を取り出し、何かを書きつけた。


「一日に、袋、何回」


「数えたことは、ございませぬ」


「数えてください」


 貝爾は、帳面から顔を上げずに言った。


「袋の大きさ。一日の回数。深さ。——それで、この穴に、一日、どれだけの水が入ってくるか、分かる」


  ◇


 その日の夕方、貝爾は、坑の底へ降りた。


 喬仲堅も、後に続いた。坑冶寺の監官が、坑の底まで降りることは、めったにない。けれど、この男を一人で降ろすわけにはいかなかった。


 縄梯子と、途中の足場を伝って、十五丈を降りる。


 底は、狭かった。人が屈んで通れるほどの坑道が、三方へ伸びていた。坑道の天井には、丸太が、ところどころに組まれている。足元には、水が溜まっていた。脛まで浸かる。菜種油の灯が、壁の窪みに置かれ、煤けた光を落としていた。


 坑道の奥から、年配の男が一人、灯を掲げて出てきた。


「牛把頭(ぎゅうはとう)です」


 喬仲堅が、言った。


「この坑の、坑夫の頭を、二十年務めております」


 牛把頭は、貝爾を見て、少し眉を上げた。それから、黙って頭を下げた。


 貝爾は、坑道の天井の丸太を、手で押した。それから、壁の石炭を、指で叩いた。音を聞いているようだった。


「この先の、東の坑道は」


 貝爾が、牛把頭に問うた。


「去年の秋に、塞ぎました」


 牛把頭は、答えた。


「天井が、鳴り始めたので。——丸太が、夜中に、ぱきっと鳴る。それが三晩続いたら、その坑道は捨てる。昔からの決まりです」


 貝爾は、帳面に何か書いた。


「西の坑道は」


「西は、奥で、昔の坑に近づいております。親父の代に掘って、水に沈めて捨てた坑です。どこにあるか、はっきりとは分かりませぬ。壁から、水が滲み始めたら、それ以上は掘りませぬ」


 貝爾の手が、止まった。


「昔の坑が、どこにあるか、図は」


「ございませぬ」


 牛把頭は、首を振った。


「年寄りの話と、私の勘だけで」


  ◇


 坑冶寺の奥の間の壁に、一枚の大きな紙が貼られたのは、それから一月後だった。


 縦に長い紙だった。上の端に、地面の線。そこから、まっすぐ下へ、二本の太い線が降りている。


「これが、縦の坑です」


 貝爾が、竹の棒で、一本目の線を指した。


 奥の間には、知坑冶寺と、坑冶寺の丞たち、工部から来た員外郎が一人、戸部の孟季常、それに修平が座っていた。喬仲堅は、壁際に立っていた。


「深さ、五十丈」


 知坑冶寺が、息を呑んだ。


「今の坑の、三倍以上ですぞ」


「はい」


 貝爾は、頷いた。


「浅いところの石炭は、もう、あちこちで掘り尽くしかけている。坑冶寺の帳面を、見ました。この三十年で、浅い坑は、数が増えた。けれど、一つの坑から出る石炭は、減っている。——浅いところを、あちこち掘るのには、限りがある」


 竹の棒が、縦の線をなぞって、下へ降りていった。


「縦の坑は、ただの深い穴では、ありませぬ」


 貝爾は、縦の線の横に、小さな字で書き込まれた項目を、一つずつ指していった。喬仲堅が、貝爾の言うことを聞き取って、宋の字で書き込んだものだった。


 巻き上げ。人と石炭を、上げ下ろしする。


 排水。坑の底に溜まる水を、地上へ上げる。


 通風。坑の中に、新しい風を送り、悪い風を抜く。


 昇降。人が、安全に、上り下りする。


 坑木。天井と壁を、支える。


 灯り。


 測量。


「この七つを、一つの設備として、初めから考えます。どれか一つを後から足そうとすると、坑の太さが足りない。場所が足りない」


 それから、竹の棒が、二本目の線へ移った。


「これは、もう一本の坑。細い坑です。——一本の坑だけでは、そこが崩れたとき、火が出たとき、水が溢れたとき、底にいる者が、皆、閉じ込められる。もう一本あれば、そこから逃げられる。風も、こちらから入れて、あちらから抜ける」


「坑を、二本掘るのか」


 工部の員外郎が、言った。


「倍の費えになる」


「倍では、ありませぬ。細い方は、ずっと安い」


 貝爾は、言った。


「それに、一本で、百人が閉じ込められたら。その費えは、坑の値では、測れませぬ」


  ◇


「一番の壁は、水です」


 貝爾は、紙の下の端、縦の坑の底を、竹の棒で叩いた。


「鶴壁の坑で、水の袋を数えさせました」


 喬仲堅は、壁際で、自分の帳面を開いた。一日と一晩、坑口に立って、袋の数を数えた。牛把頭の配下の者と、交代で。


「十五丈の坑で、一日、およそ、これだけ」


 貝爾は、紙の余白に、喬仲堅の帳面から写した数を書いた。


「水を上げる手間は、水の量と、上げる高さを、掛けたものです。——同じ量の水でも、五十丈から上げるのは、十五丈から上げるのの、三倍以上の手間。しかも、深く掘れば、入ってくる水も増える」


 知坑冶寺が、腕を組んだ。


「人と牛で、上げられるか」


「上げられませぬ」


 貝爾は、あっさりと言った。


「轆轤を何十台並べても、坑口に、それだけの場所がない。人も、牛も、それだけ集めれば、その食い扶持だけで、石炭の値が合わない」


「では、どうする」


 貝爾は、紙の、縦の坑の脇に描かれた、一つの図を指した。


 大きな筒と、その上に乗った梁。梁の反対側には、坑の底へ降りていく長い棒。


「火で湯を沸かし、湯気を、この筒に入れる。筒に、冷たい水を吹き込むと、湯気は縮んで、水に戻る。筒の中が、空に近くなる。——すると、外の空気が、筒の中の栓を、押し下げる」


 奥の間の官たちは、黙って聞いていた。喬仲堅には、半分も分からなかった。


「栓が下がれば、梁が傾き、坑の底の棒が上がる。棒の先の筒で、水を汲み上げる。——人の手も、牛もいらない。要るのは、石炭と、水だけ」


「石炭を焚いて、石炭の坑の水を抜く、ということか」


 孟季常が、言った。


「そうです。炭坑には、石炭が、いくらでもある」


 貝爾は、少し笑った。


「私の国でも、この機械は、最初は、炭坑の水を抜くために使われました。石炭を、ものすごく食う。燃やした石炭の、ほんのわずかしか、仕事にならない。炭坑の外では、使い物にならない。——けれど、炭坑では、それで十分だった」


「炭坑の外では、使い物にならぬのか」


 修平が、初めて口を開いた。


「今の形では」


 貝爾は、修平を見た。


「改める道は、あります。いずれ、それも、図にします。——ですが、まず、この形で、坑の水を抜く。それが、先です」


 修平は、頷いた。


 それ以上、何も訊かなかった。


  ◇


 石炭を運ぶ話は、その後だった。


「今は、坑の底で、人が籠に石炭を詰め、背負って、坑口の下まで運び、轆轤で上げている」


 貝爾は、紙の、坑の底から横へ伸びる坑道の線を、なぞった。


「掘る量が増えれば、坑口の下で、籠が詰まる。——坑道に、木の道を敷きます。二本の木の上を、車輪のついた箱が走る。人が押せば、背負うよりずっと多くを運べる。いずれ、木を鉄に替える。坑の底に集めた箱を、そのまま、巻き上げの機械で、地上まで上げる」


「箱ごと上げるのか」


「箱ごと。地上でも、また、木の道で運ぶ。——掘るところから、坑口を出て、積み出すところまで、途切れずに、流れるようにする」


 喬仲堅は、その話を聞きながら、あの坑口の轆轤を思い出していた。四人の男が、横木を押して回す。籠が一つ上がる。空の籠が一つ降りる。


 あれが、流れる。


 うまく、思い描けなかった。


  ◇


「深くなるほど、危うくなります」


 貝爾は、紙の余白に、四つの字を書いた。


 風。塵。燃える気。崩れ。


「深いところは、風が通らぬ。息が詰まる。石炭の粉が、宙に舞う。ある坑では、燃える気が、石炭から滲み出る。灯の火が、それに移れば——」


 貝爾は、そこで言葉を切った。


「私の国では、一度に、何十人も死んだことがあります。何度も」


 奥の間が、静かになった。


「ですから、坑を掘るのと同じ時に、決まりを作ります。風を送る坑を、必ず掘る。燃える気が出る坑では、裸の火を持ち込まない。坑木の組み方を、決めておく。毎日、交代の前に、誰かが坑の中を見て回る。——何かあったら、帳面に残す。死んだ者がいなくても、残す。崩れかけた、火が出かけた、というのも、残す」


「事故の、帳面」


 知坑冶寺が、呟いた。


「坑冶寺には、そういう帳面は、ない」


「作ってください」


 貝爾は、言った。


「十年分溜まれば、どこで、何が、どういうときに起きるかが、見えてきます」


  ◇


 そのとき、壁際の喬仲堅が、一歩、前へ出た。


「一つ、よろしいか」


 奥の間の目が、喬仲堅に集まった。監官が、この席で口を開くことは、めったにない。


「この図には、牛把頭の話が、入っておりませぬ」


 貝爾が、喬仲堅を見た。


「天井の丸太が、夜中に鳴ったら、その坑道を捨てる。壁から水が滲んだら、それ以上は掘らない。坑の底で、妙な匂いがしたら、灯を消して上がる。——あの男は、そういうことを、何十も知っております。図には、どれも、描いてありませぬ」


 知坑冶寺が、眉をひそめた。


「坑夫の勘を、図に描くことは、できまい」


「描けぬものは、ございましょう」


 喬仲堅は、言った。


「ですが、あの男を、この部屋に呼ぶことは、できます」


 短い沈黙があった。


 貝爾が、竹の棒を下ろした。


「それが、いい」


 貝爾は、言った。


「私の国でも、図を描く者と、坑に入る者が、話をしなかった坑で、人が死にました。——坑の中のことは、坑に入る者が、一番よく知っている。私が知っているのは、どうすれば、もっと深く掘れるか、です。どこで、何が鳴るかではない」


 それから、貝爾は、紙の、西の坑道の辺りを指した。


「牛把頭は、昔の坑がどこにあるか、分からないと言った。水に沈めて捨てた坑です。——新しい坑道を掘って、知らずにそこへ近づけば、壁が破れて、水が一度に流れ込む」


「坑の中の図を、作るのですね」


 修平が、言った。


「はい」


 貝爾は、頷いた。


「地上の測量と、坑の中の測量を、繋げます。地上のこの点の、真下何丈に、この坑道がある。坑道は、東へ、どれだけの傾きで、どこまで伸びている。石炭の層は、どこにある。水の筋は、どこを通っている。昔の坑は、どこにある。——分かっていることを、全て一枚の図に載せ、坑道を掘るたびに、書き足していく」


 喬仲堅は、あの暗い坑の底を思い浮かべた。三方へ伸びる坑道。その先がどうなっているのか、誰も、紙の上では知らない。


 地の下を、図で持つ。


 そういうことが、できるのか。


  ◇


「一つ、訊かねばならぬ」


 孟季常が、言った。


「これを、どこでやる。全ての炭坑で、五十丈の坑を掘るのか」


「いいえ」


 貝爾は、首を振った。


「坑冶寺の方々と、候補の坑を、一つずつ見ます。石炭の層は深くまで続いているか。水は、どれだけ入るか。今ある坑道は、使えるか。機械に焚く石炭は、近くにあるか。掘った石炭を、川や街道まで運べるか。坑夫になる者が、近くに住んでいるか」


 貝爾は、指を折った。


「深く掘って、元が取れるところは、深く掘る。取れないところは、今の浅い坑を、少し良くするだけにする。——機械があるから、全ての坑に入れる、というのは、間違いです」


 孟季常は、頷いた。それから、もう一つ、問うた。


「深く掘るところの、費えは」


 知坑冶寺が、答えるより先に、修平が言った。


「一年や二年で、元の取れる費えでは、ないのでしょう」


「十年は、かかります」


 貝爾が、言った。


「坑を掘るのに、二年、三年。機械を据えて、動かすのに、また一年。石炭が、たくさん出るようになって、そこから元を取る」


 孟季常が、修平を見た。


 修平は、少し考えてから、口を開いた。


「坑冶寺が、自分で掘る坑は、国の証文で、費えを賄うことができます。国が持つ坑の、石炭の売り上げで返していく」


 修平は、言った。


「民の持つ坑には、中央銀行から、民の行を通して、長い期間の貸し付けを出せるようにする。——あるいは、国と民とで、出し合う。坑ごとに、違うやり方があっていい」


「中央銀行の、鄭仲謙どのに、話を通しておきます」


 孟季常が、言った。


 貝爾は、そのやり取りを、黙って聞いていた。


 それから、喬仲堅の方を見て、小さく言った。


「この国は、銭の話が、早い」


 喬仲堅は、何と答えていいか、分からなかった。


  ◇


 牛把頭が、坑冶寺の奥の間に呼ばれたのは、その十日後だった。


 牛把頭は、戸口のところで、しばらく入ろうとしなかった。官の座る部屋に、坑夫の頭が足を踏み入れたことは、これまで一度もなかった。


 喬仲堅が、手を取って、壁の図の前まで連れていった。


 牛把頭は、縦に長い紙を、長いこと見上げていた。


「これは」


「新しい坑だ」


 喬仲堅は、言った。


「五十丈」


 牛把頭の喉が、動いた。


 貝爾が、牛把頭の隣に立った。そして、図の、坑の底のあたりを指した。


「ここで、天井が鳴ったら。あなたは、どうしますか」


 牛把頭は、貝爾を見た。それから、図を見た。


 長い間があった。


「……坑の、頭に、知らせます」


 牛把頭は、ゆっくりと言った。


「頭が、上へ知らせる。上の役人が、どうするか決める。——それまで、掘り続けろと言われることも、ございます」


「それを、変えます」


 貝爾は、言った。


「坑口の頭が、決めていい。上に訊かずに、皆を上げていい。その日、石炭が出なくても、その者は、責められない。——そういう決まりを、作ります」


 牛把頭は、何も言わなかった。


「それから、坑に入る者の名と数を、交代ごとに、帳面に書く。何かあったとき、誰が中にいるのか、すぐに分かるように。——坑口の脇には、縄と、灯と、担架と、水を、いつも置いておく」


 貝爾は、牛把頭に、帳面と筆を差し出した。


「あなたが、坑の中で知っていることを、全部、教えてください。字が書けなければ、喬どのが、書きます」


 牛把頭は、その筆を、しばらく見ていた。


 それから、筆には手を伸ばさず、図の、西の坑道の辺りを、太い指で押さえた。


「……親父の代の坑は、この辺りだと、思います」


 指は、少し震えていた。


「この辺りで、子供の頃、水の音を聞いた」


 喬仲堅は、急いで帳面を開き、筆を走らせた。


 貝爾は、牛把頭が指で押さえたところに、鉛の筆で、小さな丸を描いた。そして、その横に、まだ誰も読めない異国の文字と、宋の字で、「旧坑、推定」と書いた。


 五十丈の縦の坑の図の上に、最初に書き込まれた、坑夫の言葉だった。


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