第四巻 産業設計 第四回 農地を束ねる
卓の上に広げられた帳面は、紙の端が茶色く焼けていた。
両浙路、秀州嘉興県、ある一つの郷の砧基簿の写しだった。十数年前の経界のときに、田の一枚ごとに、形と、広さと、四方の境と、持ち主を記したものである。
「この家を、見ていただけますか」
許稼民が、一枚の頁を指で押さえた。
四十を少し出たくらいの男だった。日に焼けた首と、節の太い指をしていた。求賢局の審査で、この男は、筆記の問いよりも先に、県の役所の裏の畑へ出て、土を指でつまみ、舐め、それから三つの畝の作物の出来を、見ただけで順に言い当てた。審査官が後で収量の帳面と突き合わせると、順番は合っていた。
修平は、頁を覗き込んだ。
一つの家の名の下に、田が七枚、並んでいた。
東の圩に一枚。西の圩に二枚。川沿いの低いところに一枚。村の北の、少し高いところに二枚。そして、隣の村との境に、細長いのが一枚。
「七枚で、合わせて二十畝あまり」
許稼民は、言った。
「この家の者は、朝、東の田へ行き、昼に西の田へ回り、夕方に川沿いの田の水を見に行く。一番遠い田まで、歩いて半刻かかります。牛を連れて行けば、もっとかかる。——一日のうち、どれだけの時を、田と田の間を歩くのに使っているか」
修平は、頁から顔を上げた。
司農寺の奥の間には、判司農寺の石仲衡と、司農寺の丞が二人、それに統計局の韋明遠が座っていた。統計局は、去年の暮れに中央銀行の統計房から独り立ちして、都堂の下に置かれたばかりだった。
「分けて相続すれば、田は細かくなる。買い足せば、飛び地が増える。どこの村でも、同じです」
石仲衡が、静かに言った。五十をいくつか過ぎた、痩せた男だった。
「細かいことは、悪いことばかりでもない。低い田が水に浸かっても、高い田が残る。日照りで高い田が枯れても、低い田が残る。——散らばっているのは、百姓の知恵でもあります」
「その通りです」
許稼民は、すぐに頷いた。
「ですから、何もかもを一か所に寄せよとは申しません。ですが、七枚を三枚にできれば、歩く時が半分になる。畦が減れば、畦に取られていた土が田に戻る。水の道を引き直せば、隣の田を通らねば水が来ない、ということもなくなる」
◇
許稼民が、この話を持ち込んだのは、春の終わりだった。
周学衡の大学の話が廷議を通った後、求賢局の王懐遠のもとへ、許稼民から一通の書き付けが届いた。
書き付けの頭には、こうあった。
——鉱山へ、工場へ、町へ、人を移すと仰せなら、その前に、村が、今より少ない人手で、今より多くを作れるようにせねばなりません。
修平は、その書き付けを、王懐遠の机の上で読んだ。
読んで、しばらく動けなかった。
自分は、この一年あまり、何を探していたのか。鉄と、火薬と、弓の弦と、荷車の車軸だった。西の遠征で足りなかったもの。工部と軍器監と坑冶寺の報せを束にして、何が詰まっていたのかを追いかけた。
けれど、鉄を掘る者も、炉の火を守る者も、どこかで食べている。
その者たちが、村を離れて鉱山へ行けば、村の田を耕す手が減る。手が減っても、同じだけの米と麦ができなければ、町の米の値が上がる。米の値が上がれば、鉱夫の賃金を上げねばならない。賃金を上げれば、鉄の値が上がる。
修平が中央銀行で毎月見ている、物の値の籠の中で、いちばん重いのは米と麦だった。
大学で習ったことのはずだった。工業が伸びる前に、あるいは伸びるのと同時に、農業の生産性が上がっていなければならない。教科書の、どこかの章の、何行かだった。
その何行かを、自分は、この国に来てから一度も思い出していなかった。
◇
「西の果ての島の国の話を、少しいたします」
許稼民は、砧基簿を脇へ寄せ、白い紙を一枚、卓に広げた。
「私が生まれるより、ずっと前の話です。その国では、村の田と、村の皆で使う野とを、有力な地主が垣で囲い、自分のものにしていきました。細かい田を一つにまとめ、羊を飼い、あるいは新しい作り方で麦を作った。——一つの田から採れるものは、たしかに増えた」
韋明遠が、筆を止めた。
「増えたのなら、よいのでは」
「増えました。ですが、村の野で牛を飼い、薪を拾っていた者たちは、野を失いました。田を借りていた者たちは、田を失いました。その者たちが、町へ流れて、工場で働いた」
許稼民は、紙の上に、二本の線を引いた。一本は、上へ伸びる線。もう一本は、横へ流れていく線だった。
「採れる物が増え、人が町へ流れる。産業が興るために要る二つが、その国では、一度に起きた。ですが、流れた人の多くは、自分で望んで流れたのではありません」
石仲衡が、目を細めた。
「それを、大宋でやれと」
「いいえ」
許稼民は、首を振った。
「真似をしてはならぬ、と申し上げに来たのです。囲い込みは、手早い。ですが、同じことをこの国でやれば、村の半分が敵になる。そして、この国の地方官の中にも、それを手早いと思う者は、必ずおります」
修平は、許稼民の横顔を見た。
この男は、どこから来たのだろう、と思った。二十世紀の、中華のどこか。求賢局の記録には、本人の言葉で、「皇帝のいない、中華の民の国。田を誰が持つかで、争いの絶えなかった時代」とだけあった。
◇
「では、何をするのか」
石仲衡が、問うた。
許稼民は、紙に、四つの言葉を書いた。
交換。境界。水。道。
「一つ目は、交換です。取り上げるのではなく、換える。この家が東の圩に持つ一枚と、隣の家が北の高みに持つ一枚とを、互いに換える。そうして、それぞれの家の田が、少しでも寄るようにする」
「換えれば、田の良し悪しが違う」
「ですから、測り、評価します。広さだけではなく、土の質、水の便、日当たり、これまでの収穫。一等の田一畝と、三等の田一畝は、同じ一畝ではない。——換える比は、村の者の前で、全て明かします」
「二つ目は」
「境界です。砧基簿の境と、今の畦とが、ずれている田は多い。十数年のうちに、畦は少しずつ動く。換える前に、まず今の境を測り直し、持ち主を確かめる」
「三つ目の、水は」
「圩の水の道です。今の水路は、田が細かく分かれてきた順に、継ぎ足されてきた。上の田を通らねば、下の田に水が来ない。上の田の持ち主と揉めれば、下の田は干上がる。田を寄せるなら、水路も引き直し、どの田にも、水路から直に水が入るようにする。圩長と、水を分けている者たちとの話し合いが要ります」
「四つ目は、道と、排水」
「田の間に、牛車が通れる道を通す。水を抜く溝を、揃える。——今は、田へ入るのに、人の田の畦を歩かねばならぬところが多い。道があれば、肥を運ぶのも、刈った稲を運ぶのも、ずっと早い。いずれ、牛や馬に引かせる新しい農具が入ったとき、細かく曲がった田では、回ることができません」
石仲衡は、しばらく、その四つの言葉を見ていた。
「話としては、分かる」
それから、言った。
「だが、県の役人に、これをやれと命じたら、何が起きるか。——私は、三つの県で、知県を務めた」
石仲衡は、指を一本立てた。
「一つ。県の役人は、村で一番大きな地主の家に泊まる。測量の話も、その家の広間でする。交換の比を決めるのも、その家の者が口を出す。気がつけば、いい田は、大きな家に寄っている」
二本目の指。
「二つ。上から、何年までに何畝を整理せよ、と数を決められれば、県は、その数を出す。村の者が得心していようがいまいが、数を出す」
三本目。
「三つ。小作の者には、そもそも、交換するものがない。田は地主のものだ。地主同士が田を換えれば、小作の者は、借りていた田を、ある日、別の田に換えられる。遠くなるかもしれぬ。水の便が悪くなるかもしれぬ。——それを、誰が聞くのか」
奥の間が、静かになった。
修平は、許稼民を見た。
許稼民は、石仲衡の三本の指を、じっと見ていた。怒った顔ではなかった。むしろ、何かを確かめたような顔だった。
「……三つとも、私の知る国で、起きたことです」
許稼民は、言った。
「ですから、三つに、それぞれ手当てを置きたい」
◇
それから、半日かけて、四人は、手当てを一つずつ書き出した。
交換の比を決める前に、村で説明の集まりを開く。地主も、自作の者も、小作の者も、圩長も呼ぶ。集まりの日取りと場所は、県の役所の前に、十日前から貼り出す。大きな家の広間ではなく、村の寺か、社の前で開く。
測量の結果と、田の等級と、交換の比は、村の者が見られる場所に貼り出す。異議のある者は、一月のうちに申し立てられる。申し立てがあれば、別の測り手が測り直す。別の測り手は、同じ県の者ではなく、隣の州から来る。
交換で損をした者には、償いを出す。償いの額は、県ではなく、路の提点刑獄司の下に置いた審査の場で決める。
小作の者が借りていた田が換わるときは、元の田と同じ等級以上の田を、同じ年季の残りで借りられるようにする。それができない場合は、小作の者に償いを出す。——石仲衡が、ここは曲げるな、と言った。
整理の数は、上から割り当てない。
「それでは、進まぬぞ」
石仲衡が、自分で言い出したことに、自分で付け加えた。
「進まぬ方が、よいのです。少なくとも、最初は」
許稼民は、言った。
「どこで、どう進まなかったかを、見たいのです」
◇
「始める場所は、どこにする」
韋明遠が、問うた。
修平は、その問いに、耳を立てた。
廷議で、この話が出れば、まず言われることは分かっていた。一番貧しい村から始めよ。一番困っている者を、先に救え。——筋は通っている。修平も、その声に、頷きたい気持ちがあった。
許稼民は、嘉興県の砧基簿を、もう一度、卓の中央へ引き寄せた。
「ここから、始めたい」
「秀州は、豊かな州だ」
石仲衡が、言った。
「豊かだからではありません」
許稼民は、砧基簿の表紙を叩いた。
「経界がきちんと済んでいて、帳面が残っている。圩の水を分ける仕組みが、村の者の手で動いている。米を売りに行く市が、舟で半日のところにある。——ここでやって、うまくいかなければ、なぜうまくいかなかったのかを、帳面と突き合わせて調べられる。台帳がない村でやって、うまくいかなければ、台帳がなかったせいなのか、交換のやり方が悪かったのか、水のせいなのか、分からない」
修平は、息を吐いた。
物の値の調べを、最初に始めたときと、同じだった。七つの市で、毎月、同じ籠の値を測る。一番大事な市からではなく、帳面が揃い、商人が値を正直に言う市から。測り方が正しいと分かってから、市を増やす。
「うまくいったら」
「条件の違う村へ移します。帳面の古い村、水の少ない北の村、畑ばかりの村。一つずつ」
許稼民は、修平の方を見た。
「林詳定の、物の値の調べの話を、求賢局で聞きました。同じやり方です」
◇
「もう一つ、決めておかねばならぬことがあります」
許稼民は、白い紙を裏返した。
「何を、測るか」
韋明遠が、身を乗り出した。
「収量だけを測れば、簡単です。去年、一畝から何石採れて、今年は何石採れたか。——ですが、それでは足りません」
許稼民は、紙に、二つの分数を書いた。戸部の帳面で使われるようになった、算用数字の書き方だった。
上に、採れた米の石数。下に、田の畝数。
もう一つ。上に、採れた米の石数。下に、その田に入った人の日数。
「一畝あたり、どれだけ採れたか。一人が一日働いて、どれだけ採れたか。——この二つは、同じではありません」
修平は、その二つの分数を見て、背筋が伸びるのを感じた。
土地の生産性と、労働の生産性。
「江南の田は、一畝あたりでは、すでに世に類のないほど採れます」
許稼民は、言った。
「ですが、それは、一畝に、とてつもない人の手をかけているからです。苗を一本一本植え、草を一本一本抜き、水を一枚ごとに見て回る。一畝あたりの収量を、あと一割増やすことは、できるかもしれない。けれど、そのために人の手を二割増やせば、村から人は出ていけない」
「工場へ、鉱山へ、人を出したいのなら」
修平が、言った。
「一人あたりで、どれだけ採れるかが、上がらねばならない」
「そうです」
許稼民は、頷いた。
「両方を、分けて測ります。収量。働いた人の日数。牛馬の頭数と、それを使った日数。入れた肥の量。水にかかった費え。刈り取りから倉に入るまでに、損じた量。それに、田から市まで荷を運ぶのに、かかった時」
「地代も」
韋明遠が、付け加えた。
「交換の後、地代がどう動いたかを見なければ、誰が得をしたのか、分からない」
「ありがたい」
許稼民は、韋明遠の言葉を、紙に書き足した。
「今年の秋の刈り入れで、改める前の数を取ります。司農寺と、統計局とで。——その数がなければ、三年後に、豊作だったのか、整理が効いたのか、誰にも言えません」
石仲衡が、小さく笑った。
「豊作だった、で済ませるのが、この国の司農寺の、長い慣わしでな」
◇
試しの田の話は、その後だった。
許稼民は、秀州のほかに、開封の近くと、江南東路と、京兆府の近くに、一か所ずつ、試しの田を置きたいと言った。
同じ田を、細く区切る。一つの区画では、稲の後に麦を作る。隣の区画では、稲の後に豆を作る。その隣では、何も作らずに草を生やし、草を鋤き込む。肥は、厩の肥を入れた区画と、積んで寝かせた堆肥を入れた区画と、入れない区画。苗の間を広くとった区画と、詰めた区画。種は、村々から集めたものを、並べて比べる。
「豆の後に麦を作ると、麦の出来がよくなる。これは、この国の百姓も、昔から知っています」
許稼民は、言った。
「知ってはいますが、どれだけよくなるのか、どの土で、どの豆なら、よくなるのかを、測った者はおらぬ。——試しの田で測った結果は、命令にはしません。その地方の村へ、こうすればこれだけ採れた、という形で返す。秀州の田で一番よかったやり方が、京兆府の畑で一番よいとは限りませんから」
石仲衡が、頷いた。
「作付けを、上から命じるな、ということだな」
「命じれば、土の合わない村が、必ず出ます」
◇
日が傾き始めた頃、韋明遠が、一つの問いを置いた。
「綿の話は、どうする」
許稼民の顔が、少し引き締まった。
綿のことは、求賢局で、韋金森が何度も口にしていた。糸を機械で紡ぐ。そのためには、綿が要る。大量に、同じ質で。
「綿は、いずれ、増やさねばなりません」
許稼民は、言った。
「ですが、米や麦を作っていた田を、綿に替えれば、米と麦が減る。綿布が安くなっても、米の値が上がれば、民の暮らしは楽にならない」
韋明遠が、修平の方を見た。
修平は、物の値の籠を思い浮かべた。布も、籠の中にある。けれど、米と麦の重みは、布の何倍もある。
「どこで、どれだけ綿を増やすかは、米と麦の出来と、物の値と、舟で運べる量とを、並べて見ながら決めることになります」
修平は、言った。
「統計局と、中央銀行と、司農寺とで、同じ数を見ながら」
「その数を、今から取っておきたい」
許稼民は、言った。
「綿の話は、いずれ、韋金森どのと、改めていたします」
◇
話し合いが終わったのは、灯が入ってからだった。
石仲衡と丞たちが先に出て、韋明遠が、書き付けの束を抱えて後に続いた。
修平と許稼民は、司農寺の門のところで、少しの間、並んで立った。
「林詳定」
許稼民が、言った。
「一つだけ、申し上げておきたい」
「はい」
「田を束ねることが、うまくいけば、村から人が出ていけるようになる。町の工場や、鉱山へ。——それは、あなたがたが望んでいることでしょう」
「……はい」
「ですが、うまくいかなければ」
許稼民は、暗くなった通りの向こうを見た。
「田を換えられて、遠くの悪い田をつかまされた者。借りていた田を失った者。村に残る場所もなく、町にも仕事のない者が、出ます。その者たちは、この国を恨む」
修平は、黙って聞いていた。
「私の知る国では、それが、何度も起きました。田を束ねるのも、分けるのも、上から一度にやろうとしたときに」
許稼民は、修平に向き直った。
「産業というのは、工場から始まるのではありません。田と、飯と、誰がどの土地を耕すのかという取り決めから、始まるのです。そこを誤れば、工場は、建つ前に、恨みの上に建つことになる」
修平は、頷いた。
中央銀行を作ったときも、そうだった。紙幣の刷り方を決めるより先に、誰がそれを信じるのか、を決めねばならなかった。
鉄よりも、蒸気よりも前に、田があった。
「秋の刈り入れまで、あと四月です」
修平は、言った。
「それまでに、秀州に、測り手を送ります。司農寺と統計局と、両方から」
許稼民は、初めて、少し笑った。
「測り手には、まず、畦を歩かせてください。帳面を見る前に」




