第四巻 産業設計 第三回 学府と研究所
周学衡は、五十代の半ばの、小柄な男だった。
丸い眼鏡——求賢局に来てから、杭州の職人に磨かせた水晶の眼鏡——をかけ、この国の士人と同じ長衣を着ていた。この国に来て、もう二十年近くになるという。はじめの数年は、流れ着いた江南の町で、寺の小僧のようなことをして暮らし、やがて字の読み書きができることを認められて、ある書院で、子どもたちに読み書きを教えるようになった。
「私のいた国でも、同じ字を使っておりました」
求賢局の一室で、周学衡は、修平に向かって、少し照れたように笑った。
「形が、少し違いましたがね。ここへ来て、はじめの年は、字の形の細かな違いを覚え直すのに苦労しました」
修平は、頷いた。
自分も、はじめは、この国の字の形に戸惑った。「国」の中に「或」が入っている字を、呉守田の庭の土の上で見たときのことを、修平は思い出した。
「周先生は、あちらの国で、大学を造っておられたと伺いました」
「造った、というほどのことではありません」
周学衡は、首を振った。
「私のいた国は、長いあいだ戦乱が続きました。その中で、学問を、国の仕組みとして立て直す仕事に、少しだけ関わりました。大学を建て、研究の所を建て、学者を育て、その学者が、また次の学者を育てる。——一人の天才に頼らず、学問そのものが続いていく仕組みを、作ろうとしておりました」
周学衡は、机の上の、求賢局の名簿を見た。
「林詳定。私は、この名簿を見て、少し怖くなりました」
「怖い」
「百人の者が、それぞれ、この国にない知を持っている。鉄の混ぜ方。機械の削り方。薬の作り方。田の肥やし方。——けれど、その知は、今、百人の頭の中にしかない」
周学衡は、名簿の上に、手を置いた。
「この百人は、いずれ、死にます。私も、あと二十年は生きられぬでしょう。その時、この百人の頭の中の知は、どこへ行くのか」
◇
御前廷議は、年が明けて間もなく開かれた。
周学衡は、殿の中央に進み出て、拝礼した。
修平は、説明員の位置から、その小さな背中を見ていた。
「陛下。求賢局は、この国に、百に近い、別の世の知を持つ者を見つけました」
周学衡は、ゆっくりと言った。訛りのない、正確なこの国の言葉だった。二十年、この国の書院で子どもたちに教えてきた者の言葉だった。
「その者たちを、工部や坑冶寺や軍器監に、一人ずつ配ることは、よいことです。その者たちは、すぐに、役に立つでしょう。——けれど、それだけでは、この国は、その者たちが生きている間しか、新しくならない」
殿の中が、静かになった。
「一人の知る者が、工房で、自分の知っていることを使う。それは、一つの工房を新しくします。けれど、その者が死ねば、あるいは別の役所へ移れば、その工房は、元に戻ります。その者が知っていたことを、誰も、受け継いでいないからです」
周学衡は、殿の中を見渡した。
「別の世の知を、この国の中で、受け継ぎ、育て、さらに、この国の者自身が、まだ誰も知らない答えを見つけられるようにする。——そのための仕組みが、要ります」
「どんな仕組みだ」
正面の座から、趙祺が問うた。
「二つ、ございます」
周学衡は、指を二本立てた。
「一つは、学府。知を教える場所です。もう一つは、研究の所。知を見つける場所です」
◇
「学府について、申し上げます」
周学衡は、言った。
「この国には、すでに、国子監がございます。州県の学がございます。書院がございます。医学、算学の学もございます。この国は、学問を尊び、学問を教える仕組みを、千年にわたって持ってまいりました。——私が申し上げるのは、それを捨てて、別の国の仕組みを持ち込むことではありません」
周学衡は、少し間を置いた。
「国子監を、土台にします。国子監は、この国の学問の中心として、そのまま残します。その国子監の中と、その周りに、新しい学院を、いくつも増やすのです。経学、史学、法学の学院は、今の国子監の学問を引き継ぐ。その隣に、数学、物理、化学、医学、農学、土木、鉱山、機械、商学、統計の学院を置く」
殿の中が、ざわめいた。
「物理、化学というのは、何だ」
陳世昌が、問うた。
「物の動き方と、物の成り立ちを調べる学問でございます」
周学衡は、丁寧に答えた。
「石が落ちる速さ。火が燃える訳。鉄と炭を混ぜると、なぜ鋼になるのか。——この国の職人たちは、それを、経験として知っております。けれど、なぜそうなるのかを、筋道立てて調べ、書き記し、誰にでも教えられる形にする学問でございます」
陳世昌は、腕を組んだ。
「それで、その学院を出た者は、官になるのか」
「なりませぬ」
周学衡は、はっきりと言った。
陳世昌が、眉を上げた。
「学府と、科挙とは、分けます」
周学衡は、言った。
「科挙は、この国を治める官を選ぶ、国の試験でございます。学府は、知を教え、知を調べる場所でございます。学府を出たからといって、寄禄の官階や、官の職が、自ずから与えられるわけではありません。——この国を治める官は、これまで通り、科挙で選ぶべきです」
「では、学府を出た者は、何になる」
「工房の技師。鉱山の技師。医師。農の指導者。測量の者。学府の教え手。研究の所の研究者。——それから、そういう専門の技を持つ者を、国の役所が用いたいときには、この国に昔からある薦挙の道を広げて、専門の任用の道を設ければよい。法の実務や、医療や、技術の官には、その道から入る者もいてよいと存じます」
陳世昌は、しばらく黙っていた。
「……科挙の秩序を崩さぬなら、よい」
◇
「次に、研究の所について」
周学衡は、二本目の指を示した。
「学府とは別に、国の研究の所を、いくつも置きます。鉄を調べる所。蒸気の機械を調べる所。電信を調べる所。薬と酸と灰汁を調べる所。田と作物を試す場。土地を測る所」
「工部や坑冶寺があるではないか」
李徳彰が、言った。
「工部は、国の日々の仕事をする役所でございます」
周学衡は、李徳彰の方を向いた。
「工部は、今年の堤を築き、今年の道を直さねばなりません。失敗は、許されませぬ。——けれど、新しいものを見つけるには、失敗が要ります。十度、二十度、百度と試して、ようやく一度、うまくいく。工部に、それをやれと言えば、工部の日々の仕事が止まります」
周学衡は、両手を広げた。
「役所は、日々の政を。研究の所は、失敗を許されながら、長い時をかけて、技を積み上げる。——その二つを、分けるのです」
李徳彰は、頷いた。
「それから、一つ、大事なことがございます」
周学衡は、懐から、一冊の薄い帳面を取り出した。
「研究の所では、全ての試みを、決まった形で、帳面に書き残させます」
周学衡は、帳面を開いて、殿の者たちに見せた。
頁には、枠が引かれていた。日付。試した者。使った材料と、その量。温度。時間。圧。寸法。何度試したか。どうなったか。うまくいったか、いかなかったか。うまくいかなかったなら、何が悪かったと思うか。
「うまくいったことだけでなく、うまくいかなかったことも、全部、書き残します」
周学衡は、言った。
「ある工房が、鉄を、ある火加減で溶かそうとして、失敗したとします。それを書き残さなければ、別の工房が、また同じ火加減で、同じ失敗をします。書き残し、国中の研究の所と工房が、それを読めるようにすれば、同じ失敗を、二度せずに済みます」
修平は、その帳面を見て、第二巻の頃の、韋明遠の検算の紙を思い出した。
算盤の上で終わった計算を、千里先の官吏が、同じ手順で確かめられるように。
周学衡が言っているのは、同じことだった。工房の中で終わった試みを、千里先の工房が、同じ手順で確かめられるように。
◇
「学府で、誰が教える」
趙祺が、問うた。
「学者だけではありません」
周学衡は、言った。
「工部の技官、坑冶寺の鉱山の者、軍器監の職人、太医院の医師、司農寺の農の者。——実際に、現場で仕事をしている者を、学府の教え手として招きます。そして、学府の学生を、鉱山へ、工房へ、田へ、河の工事へ送り出します。学ぶことと、現場とを、切り離しませぬ」
周学衡は、少し間を置いた。
「講義で学び、研究の所で試し、現場で確かめる。この三つを、一つにします」
「求賢局の者たちは」
「その者たちこそ、学府で教えるべきです」
周学衡は、殿の端の、修平の方をちらりと見た。
「求賢局の者たちを、自分の知を隠し持つ、秘密の宝として囲い込んではなりません。学府で、この国の若者に教えさせる。研究の所で、この国の技師と、並んで試させる。——そうして初めて、別の世の知が、この国の中で、この国の者の手で、また生み出せる知に変わります」
修平は、その言葉を、胸の中で繰り返した。
この国の中で、この国の者の手で、また生み出せる知に。
「費えは、どうする」
葉正言が、問うた。
「工部の予算の中で賄えば、工部は、今年の堤と道を優先するでしょう」
周学衡は、答えた。
「研究の費えは、工部の予算とは別に、国の研究の費えとして、別の枠で設けていただきたい。すぐに利益の出ない研究も、続けられるように。——ただし、研究の所で見つけた技を、工房や民の工場で使うときには、必ず、決まった試しと、安全の審べを通します。研究の所が、試してもいない技を、いきなり工房へ下ろすことは、させません」
◇
廷議の終わりに、趙祺は、周学衡に、一つだけ問うた。
「そなたの国では、その仕組みで、うまくいったのか」
周学衡は、しばらく黙っていた。
「……うまくいったところもあり、うまくいかなかったところもあります」
周学衡は、正直に答えた。
「私のいた国は、戦乱の中で、せっかく建てた大学が、何度も焼かれ、何度も移されました。学者が、戦で死にました。研究の所が、費えがなくて、閉じられました。——それでも、学者たちは、焼け跡から、また学府を建てました。私は、それを、何度も見てまいりました」
周学衡は、正面の座を見上げた。
「陛下。この国は、戦乱の中にはございませぬ。北に敵はおりますが、国の中は、治まっております。——この国なら、学府と研究の所を、焼かれずに、百年、続けられるかもしれません」
趙祺は、長いこと、周学衡を見ていた。
それから、李徳彰の方を向いた。
「国子監を土台に、学院を増やせ。研究の所を、別に置け。研究の費えは、工部とは別の枠で設けよ。周学衡を、その仕組みを作る役に任じよ。吏部の手続きを経て」
「承りました」
◇
廷議の後、修平は、周学衡と並んで、宮城の門を出た。
「林詳定」
周学衡が、歩きながら言った。
「あなたは、三つの技を知っていると、求賢局で申されましたな。鉄の道と、電信と、後ろから弾を込める銃」
「はい。知っているのは、それがあった、ということと、何の役に立ったか、ということだけですが」
「その三つを、あなたが、この国に持ち込む。それは、よいことです」
周学衡は、足を止めた。
「ですが、私たちが作ろうとしておるのは、未来から来た者が答えを教える国ではありません」
修平は、周学衡の顔を見た。
「私たちの知は、いずれ、尽きます。私たちの知らないことが、この国には、いずれ必要になる。——その時に、この国の者が、自分の手で、まだ誰も知らない答えを見つけられる国。私たちが作るべきなのは、それだと思います」
修平は、しばらく、何も言えなかった。
一年前、西の遠征が敗れたと聞いたとき、修平は、知っている者を探さねばならない、と思った。
今、周学衡は、その一歩先を言っていた。
知っている者を探すだけでは、足りない。知らないことを、見つけられる者を、育てねばならない。
「……はい」
修平は、頷いた。
◇
春の終わり、国子監の東の空き地に、最初の棟が建ち上がった。
一つは、講義の間。長い卓と、椅子と、壁一面の黒く塗った板。周学衡が、職人に作らせたものだった。その板に、白い石の粉を固めた棒で、字や図を書く。書いては消し、また書く。
もう一つは、実験の棟。炉と、机と、秤と、器と、水場。そして、壁際の棚に、周学衡の帳面と同じ形の、白い帳面が、何十冊も並べられていた。
最初の講義の日、講義の間には、二十人ほどの若者が座っていた。国子監の学生。工部の若い技官。坑冶寺の見習い。どこかの州の書院から推されてきた、算術の得意な若者。
教壇に立ったのは、韋金森だった。
たどたどしい言葉で、韋金森は、黒い板に、一本の真鍮の棒の図を描いた。
それから、その横に、同じ棒の図を、もう一本描いた。
「一本、作ることは、腕の良い者なら、できる」
韋金森は、言った。
「二本目を、一本目と、同じに作る。——今日は、それが、なぜ難しいのかを、話す」
修平は、講義の間の、一番後ろの壁際に立って、それを聞いていた。
電信も、蒸気の機械も、まだ、何一つ完成していなかった。
けれど、それを完成させる者たちを、育てる場所が、先に動き始めていた。




