第一巻 覚醒 第五回 省試
開封が見えたのは、冬至を過ぎて十日ほど経った、よく晴れた朝のことだった。
汴河を上る舟の舳先で、羅允中が声を上げた。
「林兄、見ろ。あれだ」
修平は、舟縁から身を乗り出した。
最初は、城壁だとは分からなかった。
平らな大地の上に、灰色の線が一本、左右に果てしなく延びていた。地平線の一部が、盛り上がって固まったように見えた。舟が近づくにつれて、その線は少しずつ高くなり、厚みを持ち、やがて、積み上げられた煉瓦と、その上に等間隔に並ぶ望楼の形になった。
端が、見えなかった。
右を見ても、左を見ても、城壁はどこまでも続いていた。
修平は、黙ってそれを見つめていた。
吉州の州城にも城壁はあった。けれど、あれは歩いて一周できる大きさだった。この城壁は、歩いて一周するのに何日かかるのか、見当もつかなかった。
舟が水門に近づくと、河の両岸が、船で埋め尽くされていた。
荷を満載した大きな平底船。人を乗せた小舟。帆を畳んだ船が、岸に何重にも繋がれている。岸の上では、人足が荷を担いで行き来し、役人が帳面を手に船の荷を改めていた。
水門をくぐると、城内にも河が続いていた。その両岸に、店と倉と家が、隙間なく立ち並んでいた。
「永和鎮が百あっても、ここの一角にも足りんな」
羅允中が、半ば呆れたように呟いた。
修平は、答えられなかった。
本で読んだことはあった。北宋の都、開封。人口は百万とも言われる。汴河を通じて江南の米と物資が流れ込み、城内には夜も市が立った。張択端の絵巻に描かれたような、賑わいの都。
けれど、本で読むのと、目の前にあるのとでは、まるで違った。
音が違った。匂いが違った。人の流れの速さが違った。
これが、この国の中心なのだ。
この国は、これだけのものを、一つの都に集めて動かしている。
◇
宿は、州橋に近い通りの旅籠に取った。
吉州から同じ舟で来た受験者たちの多くが、同じ一帯に宿を取った。宿の主人は慣れたもので、科挙の年にはこの通りの宿がすべて受験者で埋まるのだと言った。
宿代は、吉州の安宿の三倍だった。
修平は、呉守田から借りた袋の中身を、宿の寝床の上で数えた。徐文礼から借りた分、村から借りた分、自分で貯めた分。旅の途中で、舟賃と宿代と食費に、思っていた以上に消えていた。
このまま省試を受け、合格すれば殿試を受け、それが終わるまで都にいるとすれば、手元の銭は春までもつかどうか。
修平は、紙に数字を並べた。
一日の宿代。一日の食費。紙と墨の代。冬の衣。もし病気になったら。
計算の結果は、ぎりぎりだった。
羅允中が、隣の寝床から覗き込んだ。
「また、数を並べているのか」
「並べないと、落ち着かない」
「私の家からは、年明けにもう一度、銭を送ってくると言っていた」
羅允中は、少し言いにくそうに付け加えた。
「もし足りなくなったら、言ってくれ。貸すくらいはできる」
修平は、首を横に振った。
「ありがとう。でも、まず自分で何とかする」
翌日から、修平は、宿の近くの書肆に通い、筆写の仕事がないかを聞いて回った。三軒目で、試験の模範答案集を写す仕事を見つけた。受験者が多い年には、写本がよく売れるのだという。
手間賃は安かった。けれど、紙代と油代くらいにはなった。
◇
都には、全国から受験者が集まっていた。
宿の食堂で、書肆の店先で、茶屋の卓で、修平は、さまざまな土地の言葉を聞いた。
北の河北路から来た男の言葉は、修平が四年半かけて覚えた江南西路の言葉とは、まるで響きが違った。福建から来た男たちは、互いに話すとき、修平にはほとんど聞き取れない言葉を使った。四川から来た男は、字の読み方が少しずつ違った。
それでも、筆を取れば、全員が同じ字を書き、同じ経書を引き、同じ形式で論を立てた。
修平は、それを不思議な思いで見ていた。
話す言葉はばらばらなのに、書く言葉は一つ。その書く言葉で、国中から人を選び、国中へ官を送る。科挙というのは、試験であると同時に、この巨大な国を一つの言葉でつなぎとめる仕組みなのだ。
受験者たちの学風も、土地ごとに違った。
ある晩、宿の食堂で、北から来た受験者と、両浙から来た受験者が、経書の一句の読み方をめぐって議論を始めた。北の男は、古い注釈を重んじ、字の一つひとつの意味を厳密に追った。両浙の男は、句全体の趣旨を掴み、それを今の政治にどう活かすかを論じた。
議論は、夜更けまで続いた。
修平は、途中から、ほとんど口を挟めなくなった。
二人とも、修平の知らない注釈書を何冊も引いた。修平が四年半で読んだ本の数を、二人は十代のうちに読み終えていたのだろう。
その議論の輪の端に、一人の若者がいた。
修平より少し若く見えた。温州から来たと言った。名を、葉承宗といった。
葉承宗は、議論のあいだほとんど黙っていた。けれど、夜更けになって二人の言い分が行き詰まったとき、静かに一言だけ口を挟んだ。ある古い史書の一節を引き、二人の読み方のどちらもがその一節と矛盾しないことを示した。
議論は、そこで収まった。
修平は、葉承宗の顔を見た。穏やかな、目立たない顔だった。
あとで、羅允中が小声で教えてくれた。
「葉家は、温州で三代続けて進士を出している家だそうだ。あの男は、詩賦で解試の首位だったと聞いた」
修平は、頷いた。
自分より古典に通じた者は、この都に何百人といる。自分より文章の上手い者も、詩賦の上手い者も。
未来から来たからといって、ここでは何の足しにもならない。
修平は、それを、ある種の安堵とともに受け止めた。
この国の試験は、この国の基準で人を選んでいる。その基準の中では、自分は、たまたま数字に強いだけの、一人の受験者にすぎない。
◇
省試は、年が明けて、正月の半ばに始まった。
試験を主管するのは、礼部だった。試験場となる貢院には、試験の十日以上前から、試官たちが入っていた。
鎖院、という。
試官たちは、貢院に入ったあと、試験がすべて終わり、合否が決まるまで、外へ出ない。家族と会うことも、手紙をやり取りすることも許されない。題を漏らすことも、受験者から頼みごとを受けることもできないようにするためだった。
受験の朝、貢院の門の前には、吉州の試場とは比べものにならない数の受験者が並んでいた。
本人の確認。持ち物の検査。吉州と同じ手順だったが、胥吏の目つきはずっと厳しかった。修平の前の男は、筆の軸を割られた。中から、細かい字を書いた紙片が出てきた。男は、そのまま胥吏に両腕を掴まれ、列から連れ出されていった。
周りの受験者たちは、誰もそれを見ようとしなかった。
黒い鞄は、今回も門の外の預かり所に置いた。
貢院の中は、広かった。
いくつもの建物が並び、その中にそれぞれ、机が何十、何百と並べられていた。吉州の試場と同じく、受験者は番号の机に座り、隣との間隔を空け、監試の官の目の下で答案を書く。
違ったのは、試験が一日では終わらないことだった。
省試は、数日にわたって行われた。一日ごとに題が変わり、経義、論、詩賦、策が、それぞれの日に課された。受験者は、毎朝貢院に入り、夕刻に出る。そのたびに、本人確認と持ち物検査が繰り返された。
試験の合間に宿へ戻ると、受験者たちは、その日の題について語り合った。
修平は、その輪にあまり加わらなかった。
終わった試験の出来を話し合っても、答案は変わらない。それより、翌日の題に備えて、経書を一度でも多く読み返したかった。
◇
最後の日は、策だった。
題は、長かった。
ある路で、凶作が続いている。救荒のために常平倉を開けば、倉は空になる。租税を減免すれば、国庫が減る。国庫が減れば、北辺の軍糧が足りなくなる。北辺の軍糧を確保するために、他の路から穀物を運べば、その路の値が上がる。また、救荒のための工事を起こせば、民に労働の場を与えられるが、その費用をどこから出すのか。
これらの制約を踏まえ、朝廷はいかに処すべきか。
修平は、題を読み終えて、しばらく筆を取らなかった。
これは、一つの正しい答えを当てさせる題ではない。
救荒、財政、軍事、物価、公共工事。どれか一つを優先すれば、どれか一つが傷つく。そのことを分かったうえで、朝廷が実際に検討できる案を出せ、と言っている。
修平は、題をもう一度読み、それから、紙の余白に小さく項目を書き出した。
凶作の路の民。常平倉の残量。国庫。北辺の軍糧。他の路の穀物の値。工事の費用。
それらを、線でつないだ。一つを動かせば、他のどれが動くか。
頭の中で、図が組み上がった。
これは、吉州の解試の策とは違った。一つの制度の弊害を論じるのではない。制度と制度が、互いにどう影響し合うかを論じなければならない。
修平は、筆を取った。
古の救荒の例を引いた。凶作の路の常平倉を開くことは第一とし、しかし倉を空にしないために、他の路の倉から穀物を段階的に回すこと。その際、一つの路から一度に多くを運べば値が跳ねるから、複数の路から少しずつ、時期をずらして運ぶこと。北辺の軍糧は、今年の分と来年の分を分け、今年の分は確保しつつ、来年の分の手当ては凶作の路の回復を待って行うこと。工事は、民に労働の場を与えるという点で救荒の一策であるが、その費用は、一年で賄おうとせず、数年に分けること。
書きながら、修平は、一つひとつの案に、その弊害を書き添えた。
複数の路から少しずつ運ぶのは、運ぶ手間と費用がかかる。軍糧の手当てを先送りするのは、北辺の情勢が急変すれば危うい。工事の費用を数年に分けるのは、後年の財政を縛る。
弊害を承知で、なおこの案を採る理由を書いた。
書き終えたとき、試場の中は、もう半分ほどの受験者しか残っていなかった。
修平は、答案を読み返した。
数字は、一つも書いていなかった。数を並べて論じる書き方は、吉州の策で一滴垂らしただけで、ここでは控えた。書いたのは、この国の士人が読んで、この国の言葉で理解できる策だった。
それでいい、と修平は思った。
ここで落ちれば、三年待たなければならない。いや、来住の籍の自分に、次の機会があるかどうかも分からない。
答案を提出し、貢院の門を出たとき、外はもう暗かった。
◇
合否が出るまでの日々は、吉州のときよりさらに長かった。
省試の答案は、全国から集まった受験者の数だけある。それを、糊名し、番号をつけ、胥吏が写し取り、その写しを試官が読む。一人の試官が読んだあと、別の試官がもう一度読み、評価が分かれれば、さらに上の試官が読む。
修平は、書肆の筆写の仕事を続けながら、その日々を過ごした。
模範答案集を写していると、自分の答案の欠点が、嫌でも目についた。あの経義の二段目は、もう少し注釈を厚く引くべきだった。論の結びは、弱かった。詩賦は、言うまでもない。
羅允中は、試験が終わると、すっかり落ち着きを失っていた。
「策が、だめだった」
羅允中は、何度もそう言った。
「救荒の策は、常平倉の話ばかり書いてしまった。北辺の軍糧のことを、ほとんど書かなかった。題をちゃんと読んでいなかった」
修平は、何と言えばいいか分からなかった。
二月の末、貢院の門前に、榜が張り出された。
吉州の榜とは比べものにならない人垣だった。修平と羅允中は、人の肩の隙間から、背伸びをして名前を探した。
修平の名が、あった。
羅允中の名は、なかった。
羅允中は、しばらく黙って榜を見上げていた。
それから、修平の方を向いて、笑った。
「おめでとう、林兄」
その笑顔が、少しだけ歪んでいた。
「私は、三年後にもう一度来る。詩賦で勝って、策でも勝ってみせる」
修平は、羅允中の手を握った。
言葉が、出てこなかった。
羅允中は、三日後に都を発った。江南西路へ帰る舟の舳先で、振り返って手を振った。修平は、岸から手を振り返した。
葉承宗の名も、榜にあった。上位だった。
◇
省試に合格した者は、翌月、殿試を受ける。
殿試は、皇帝が臨御して行われる、最後の試験だった。
修平は、合格者に配られた心得書を読み、殿試の手順を頭に入れた。それから、宿の食堂で、同じく合格した者たちの話に耳を傾けた。
「殿試で落ちることはあるのか」
誰かが、そう聞いた。
答えたのは、四十を過ぎた、三度目の省試でようやく合格したという男だった。
「よほどのことがない限り、ない」
男は、茶を啜りながら言った。
「殿試は、省試の合格者を落とすための試験ではない。順位を決めるための試験だ。昔は殿試でも落とすことがあったと聞くが、今はそうではない。答案に不敬があったり、白紙で出したりすれば別だがな」
「では、何のために試験をするのだ」
「陛下が、ご自身の手で、我らの順位をお決めになる。それが大事なのだ。我らは、陛下に選ばれた士人となる。試官に選ばれたのではない」
男は、少し誇らしげに言った。
「それから、順位で、最初の官と差遣が決まる。上の甲に入れば、良い職に就ける。下の甲なら、それなりの職だ。落ちはせぬが、どこに入るかで、この先の二十年が変わる」
修平は、その話を黙って聞いていた。
知っていた。
宋代の殿試は、北宋のある時期から、原則として落第させない試験になった。省試の合格者を皇帝がみずから試し、順位を定める。それによって、合格者は試官の門生ではなく、天子の門生となる。
本で読んだ知識だった。
けれど、この国が、史実の宋と同じ運用をしているかどうかは、分からなかった。燕雲も、河西も、安南も、大理も、史実とは違っていた。殿試の運用だって、違っていてもおかしくない。
だから、修平は、これまで殿試のことを当てにしていなかった。
解試も、省試も、落ちればそこで道が閉ざされる試験として受けてきた。未来の知識を前面に出さず、この国の経書と史書と典故で、この国の士人として正面から合格を目指してきた。
今、目の前の男が、それを確かめてくれた。
殿試では、よほどのことがない限り、落ちない。
修平は、宿の自室に戻り、寝床に腰を下ろした。
胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていくのを感じた。
五年、張り詰めていたものだった。呉家に迷惑をかけないように。徐文礼の期待を裏切らないように。村から借りた銭を無駄にしないように。この国の試験に、この国の士人として落ちないように。
その糸が、少しだけ緩んだ。
殿試では、順位が決まる。順位によって、最初の官が決まる。上の甲に入れば、良い職に就ける。
けれど、落ちはしない。
修平は、灯りの下で、自分の手のひらを見た。
五年前、畦の土に手をついたとき、この手のひらには泥がついていた。今は、墨の染みがついている。
殿試で、自分は何を書くのか。
これまでと同じように、この国の士人として、無難な答案を書くのか。それとも——。
多少、甲次が下がってもいい。
ここなら、自分が本当に分かっていることを、書いてみてもいいのではないか。
修平は、その考えを、頭の中でゆっくりと転がした。
まだ、決めなかった。
殿試の題が何なのかも、まだ分からない。題によっては、自分の知識など何の役にも立たないかもしれない。
修平は、灯りを消した。
暗闇の中で、宿の外の通りを行く人の足音が聞こえた。都の夜は、遅くまで眠らない。




