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第一巻 覚醒 第四回 州試(解試)

 解試まで、あとひと月というころ、徐文礼は修平の答案を読み終えて、朱筆を置いた。


「経義は、まず及第の水準だ」


 修平は、背筋を伸ばした。徐文礼がこういう言い方をするのは、珍しかった。


「論も悪くない。策は、題によってはよく書ける。詩賦は——」


 徐文礼は、そこで一度言葉を切った。


「詩賦は、落第しない程度には整った」


「……ありがとうございます」


 褒められたのか、そうでないのか、修平には判断がつかなかった。羅允中が後ろで咳払いをした。笑いをこらえているのが分かった。


 徐文礼は、答案の束を揃え、机の端に置いた。


「一つだけ、言っておく」


 修平は、顔を上げた。


「お前の策には、ときどき、私の知らぬ考え方が混じる。数を並べて、その増減から物事を論じる書き方だ。筋は通っている。私も読んで得るところがあった」


 徐文礼は、修平の目をまっすぐに見た。


「だが、解試の試官がそれをどう読むかは分からぬ。見慣れぬものは、良く読まれることもあれば、悪く読まれることもある。お前がここで落ちれば、次の解試まで待たねばならぬ。それだけではない。お前の籍は来住だ。次の機会が同じように与えられるかどうかも、分からぬ」


 修平は、黙って聞いていた。


「経書を読み、古人の論を引き、朝廷の悩みを朝廷の言葉で論じよ。お前の考えは、その中に一滴だけ垂らせばよい。一滴で足りぬと思うなら、それは官になってから存分に使え」


 修平は、深く頭を下げた。


 同じことを、自分でも考えていた。


 解試で落ちれば、そこで道が閉ざされる。この四年、呉家と徐文礼と、村の人々が自分に費やしてきた時間も、無駄になる。自分の知っている未来の知識で試官を驚かせようなどと考えるのは、合格してからでいい。


 まずは、この国の士人として、この国の試験を、正面から通る。


  ◇


 旅立ちの朝、呉家の庭には、家族全員が揃っていた。


 修平は、この四年半で二枚目になる長衣を着ていた。一枚目は私塾へ通ううちに擦り切れ、周氏が繕い直して今は寝間着になっている。二枚目は、筆写の稼ぎを一年かけて貯め、永和鎮の古着屋で買った。袖が少し短かった。周氏が、夜なべして袖口に布を継ぎ足してくれた。


 背には、書物と筆と墨と紙を入れた包み。そして、あの黒い鞄。


 鞄は置いていくべきか、修平は最後まで迷った。


 けれど、置いていけば、呉家の誰かがそれを預かることになる。中に何が入っているかを知らないまま、得体の知れないものを守らせることになる。それは、呉守田に対して公平ではない、と思った。


 だから、持っていくことにした。スマートフォンとノートパソコンと、充電器とケーブル。四年半前から一度も電源を入れていない。


 呉守田は、修平の前に立ち、小さな布の袋を差し出した。


 受け取ると、ずしりと重かった。銭だった。


「これは——」


「貸すんだ」


 呉守田は、ぶっきらぼうに言った。


「やるんじゃない。貸す。官になったら返せ」


 修平は、袋を握りしめた。


 呉家の帳面は、修平がつけている。この家に、いつ、どれだけの銭があるのか、修平は誰よりもよく知っていた。この袋の中身は、呉家が去年の籾を売って残してきた銭の、少なくない部分だった。


「必ず、お返しします」


「当たり前だ」


 呉守田は、鼻を鳴らした。


 旅費は、この袋だけではなかった。修平自身が、三年間の筆写で貯めた銭。徐文礼が、自分の蓄えから貸してくれた銭。そして、曾耆長が村の何軒かの家に声をかけて集めてくれた、少しずつの銭。


 どれも、貸しだった。官になったら、返す。


 村の誰かが科挙を受けるとき、村が少しずつ旅費を貸す。受かれば返ってくる。落ちれば、返ってこないこともある。それでも貸すのは、この村から官が出れば、いずれ何かの形で村に返ってくると信じているからだ。


 修平は、この四年半で、そういう仕組みがあることを知った。


 善意だけではない。けれど、計算だけでもない。


 周氏が、包みをもう一つ差し出した。干し飯と、漬物と、塩。


 老母は、何も言わずに、修平の袖を二度撫でた。


 呉順は、もう十八になっていた。修平より背が高くなり、田の仕事は父親とほとんど変わらないほどこなす。


「林兄」


 呉順は、少し照れたように言った。


「帳面は、俺がつけとく。兄貴のやり方で」


 修平は、笑った。


「右と左を間違えるなよ」


「間違えねえよ」


 呉守田は、最後まで、頑張れとも、行ってこいとも言わなかった。


 修平が門を出て、畦道を歩き始め、振り返ったとき、呉守田はもう田の方へ歩き出していた。肩には、いつもの農具を担いでいた。


 秋の刈り入れの最中だった。


  ◇


 解試は、吉州の州城で行われた。


 試験の前日、州の役所の前には、受験者が長い列を作っていた。


 修平は、その列に並びながら、周りの顔を見ていた。


 立派な絹の長衣を着て、従者に荷を持たせている若者がいた。修平と同じように、古着の長衣で、自分で包みを背負っている者もいた。三十を過ぎているらしい男もいれば、まだ十代にしか見えない少年もいた。


 羅允中は、修平の二人前に並んでいた。羅家の従者が一人ついてきていて、羅允中の荷を持っていた。羅允中は、それを少し恥ずかしそうにしていた。


「林兄、あの人」


 羅允中が、小声で列の前の方を指した。


 四十近い、痩せた男だった。長衣は清潔だったが、何度も洗ったのか、色が抜けていた。


「あれは、隣の県の教師だ。解試は、もう四度目だそうだ」


「四度目」


「前の三度は、いずれも落ちた。家に弟子がいるから、教えながら受け続けている」


 修平は、その男の背中を見た。


 列の中で、誰かが別の誰かの出自を噂していた。あれは塩商の息子だ。あれは県の豪家の孫だ。あれは自作の家から出てきた、村で初めての受験者だ。


 科挙は、誰にでも開かれている。


 建前としては、そうだった。籍があり、罪がなく、保証人がいれば、誰でも受けられる。実際、この列には、豪家の子も、商家の子も、自作農の子も、教師も並んでいる。


 けれど、修平は、この四年半で知っていた。


 受験の資格を得るまでに、何年の学問が要るか。そのあいだ、誰がその者を食べさせるか。紙と筆と墨と書物の代を、誰が払うか。州城へ出てくる旅費を、誰が出すか。


 従者に荷を持たせている若者は、その全部を、家が当たり前のように払ってきたのだろう。


 古着の長衣の者は、その全部を、どこかで誰かに借りてきたのだろう。自分と同じように。


 門は開いている。けれど、門までの道の長さは、一人ひとり違っていた。


  ◇


 試験の朝は、まだ暗いうちに始まった。


 試場は、州の役所に隣接する広い建物だった。門の前で、受験者は一人ずつ名を呼ばれ、籍の写しと照らし合わせて本人かどうかを確かめられる。


 それから、持ち物の検査があった。


 胥吏が、修平の包みを開けた。筆、墨、硯、水差し。紙は官から支給されるので、持ち込めない。書物も持ち込めない。胥吏は、墨の塊を割って中を確かめ、筆の軸を振って中に何も入っていないことを確かめた。


 黒い鞄は、門の外の預かり所に置かされた。胥吏は、その鞄の留め金を不思議そうに眺めたが、中を開けろとは言わなかった。試験に持ち込むのでなければ、構わないということらしかった。


 修平は、胸の奥で小さく息を吐いた。


 試場の中は、広い一つの空間だった。


 低い机が、一定の間隔を空けて、何列にも並んでいた。受験者は、胥吏に番号を告げられ、その番号の机に座る。隣との間隔は、腕を伸ばしても届かない程度。前後の机も同じだった。


 正面の一段高いところに、監試の官が座っていた。その周りに、胥吏たちが立っている。試場の四隅にも、胥吏が一人ずつ立っていた。


 全員が着席すると、門が閉じられた。


 閂が下ろされる音が、試場の中に響いた。


 修平は、その音を聞いて、背筋が冷たくなるのを感じた。


 これで、外とのつながりは断たれた。試験が終わるまで、誰も出入りできない。誰かに答えを聞くことも、誰かから書物を受け取ることもできない。


 目の前にあるのは、官から配られた白い紙と、自分の頭の中にあるものだけだった。


  ◇


 題が、読み上げられた。


 最初は、経義だった。ある経書の一節を示し、その意を論ぜよという問い。


 修平は、その一節を知っていた。徐文礼の私塾で、何度も読み、注釈を読み、注釈の注釈を読んだ箇所だった。


 筆を取り、硯で墨を擦った。


 書き始める前に、頭の中で構成を組み立てた。題の意を明らかにする。古来の注の読み方を引く。そのうちどれに従うかを示し、理由を述べる。自分の論を立てる。結ぶ。


 書いた。


 字は、四年半前とは比べものにならなかった。徐文礼に何百回も朱を入れられた字だ。美しいとは言えない。けれど、崩れてはいない。


 書き終えて、読み返した。一か所、典拠の書名を略しすぎているのに気づいた。直すと、紙を汚すことになる。修平は、しばらく迷ってから、直さずにおいた。意味は通る。汚れた答案は、それだけで印象が悪い。


 論の題は、古の賢君の政治について問うものだった。


 修平は、これも正面から書いた。経書と史書から例を引き、先人の議論を踏まえ、自分の考えを述べる。自分の考えといっても、それは徐文礼の教えを踏まえ、この国の士人が読んで頷ける範囲のものだった。


 詩賦は、予想通り苦しんだ。


 題を聞き、韻字を確かめ、頭の中で一字ずつ平仄を合わせていく。周りの受験者の筆が、さらさらと紙の上を走る音が聞こえる。修平の筆は、何度も止まった。


 それでも、書き上げた。


 徐文礼の言葉を借りれば、落第しない程度には整っていた。と、思う。


 最後は、策だった。


 題は、常平倉についてだった。


 凶作に備えて穀物を蓄える倉。豊作の年に買い入れて値を支え、凶作の年に売り出して値を抑える。その運用に弊害が生じているが、いかにして改めるべきか。


 修平は、筆を止めた。


 書けることは、たくさんあった。


 穀物の値の変動。豊作と凶作の周期。倉に蓄えた穀物の量と、市場の値との関係。買い入れの値を誤れば、倉は損を抱える。売り出しの時期を誤れば、値は下がらない。倉の役人が、自分の利のために買い入れ値を操作すれば——。


 頭の中で、図が組み上がりかけた。縦軸に値、横軸に量。需要の曲線と、供給の曲線。倉の買い入れが、その曲線をどう動かすか。


 修平は、そこで筆を置き、目を閉じた。


 徐文礼の言葉を思い出した。


 お前の考えは、その中に一滴だけ垂らせばよい。


 目を開けた。


 図は、頭の中にしまった。


 書いたのは、この国の士人の言葉だった。古の常平の法の趣旨を述べ、近年の運用の弊害を挙げた。買い入れの時期と値を定める者が地方の事情を知らないこと。倉の役人の不正を監察する仕組みが弱いこと。蓄えた穀物が古くなって腐ること。それらを、史書の例を引きながら論じた。


 一滴だけ、垂らした。


 倉の出し入れを、年ごとに、州ごとに、数で記録し、それを並べて比べれば、どの倉のどの年の運用に誤りがあったかが見えるはずだ、と書いた。数を並べることの意味を、それ以上は説明しなかった。


 書き終えたとき、試場の窓から差し込む光は、もう斜めになっていた。


  ◇


 答案を提出すると、胥吏がそれを受け取り、その場で答案の端を折って、名前を書いた部分を糊で封じた。


 糊名、という。


 修平は、それを見て、胸の奥で小さく頷いた。


 知ってはいた。宋代に発達した、科挙の不正を防ぐための仕組みだ。答案の名を伏せ、試官が受験者の名を知らないまま採点する。さらに、答案は胥吏によって別の紙に写し取られ、その写しが試官のもとへ回される。筆跡からも、誰の答案か分からないようにするのだ。


 本で読んだことが、目の前で行われている。


 ただ、それを見て修平が感じたのは、懐かしさでも、知識が当たった喜びでもなかった。


 この仕組みがあるから、自分の答案は、「来住」の籍の者の答案としてではなく、ただの一枚の答案として読まれる。


 それが、ありがたかった。


  ◇


 合否が出るまでの日々は、長かった。


 修平は、州城の安宿に泊まり、手持ちの銭を一枚ずつ数えながら暮らした。昼間は書肆で本を眺め、夜は宿の灯りの下で、試験の答案を頭の中で何度も読み返した。


 あの典拠の書名を、やはり直しておくべきだったか。


 詩賦の三句目の韻は、あれで合っていたか。


 策の最後に垂らした一滴は、試官にどう読まれたか。


 考えても仕方がないことだった。分かっていても、考えてしまった。


 羅允中は、同じ宿に泊まっていた。羅允中は、修平よりもずっと落ち着いていた。


「詩賦は、よく書けた。経義は、少し不安がある。まあ、天命に任せるしかない」


 そう言って、昼間から茶屋で他の受験者と談笑していた。


 修平には、そういうことができなかった。


 自分の手応えが、当てにならないことを知っていたからだ。この国の試験で、この国の士人と比べて、自分の答案がどう評価されるのか。その基準を、自分はまだ体の芯では分かっていない。


 十日あまりが過ぎた朝、州の役所の門前に、榜が張り出された。


 合格者の名を記した紙だった。


 門前には、受験者と、その家族と、師と、野次馬が押し寄せていた。修平は、人垣の後ろから、背伸びをして榜を見た。


 字が、小さかった。名前が、何十と並んでいた。


 上から、一つずつ目で追った。


 羅允中の名があった。


 修平は、息を吐いた。自分のことより先に、ほっとした。


 さらに目で追った。


 そして、見つけた。


 林修平。


 名前の順番は、真ん中よりやや下だった。


 修平は、しばらくその三文字を見つめていた。


 隣で、誰かが泣き崩れていた。榜に名がなかったのだろう。別の誰かは、家族に抱きつかれて笑っていた。あの色の抜けた長衣の教師を、修平は目で探した。見つからなかった。人垣のどこかにいるのか、それとも、もう榜の前を離れたのか。


「林兄!」


 羅允中が、人垣をかき分けてやってきた。修平の肩を、両手で掴んで揺さぶった。


「二人とも受かったぞ! 開封だ!」


 修平は、ようやく笑った。


  ◇


 石塘村に報せを送ったのは、その日のうちだった。


 修平は、呉守田と徐文礼に宛てて、短い手紙を書いた。解試に合格したこと。これから開封へ向かい、年明けの省試を受けること。借りた銭は、必ず返すこと。


 書き終えて、読み返して、修平は筆を置いた。


 もっと書きたいことがあった。けれど、何を書いても、この四年半のことを言い表せる気がしなかった。


 出発は、十日後と決めた。


 吉州から開封までは、川と運河を乗り継ぎ、陸路を歩き、ふた月あまりかかる。年明けの省試に間に合わせるには、冬のうちに都へ入っていなければならない。


 旅の支度をしながら、修平は、州城の書肆で買った地図の写しを、もう一度開いた。


 江南西路から、北へ。長江を渡り、淮南を抜け、さらに北へ。運河の線を辿った先に、開封があった。


 この国は華北を失っていない。だから都は今も、北宋以来の開封にある。州城の宿で邸報を読み返した夜に確かめたことを、修平は地図の上で改めてなぞった。


 修平は、地図を畳んだ。


 燕雲も河西も安南も大理も、この国の版図に入っている。その理由を、自分はまだ知らない。北の敵が何者なのかも、知らない。


 都へ行けば、分かるかもしれない。


 宿の窓の外では、秋の雨が降り始めていた。


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