第三巻 敗北 第十五回 崩壊と覚醒
その報せが開封に届いたのは、春の初めだった。
御前廷議の殿に、宰執と、六部の尚書と、中央銀行の知院事と、枢密院の官たちが列していた。修平は、殿の端の、説明員の位置にいた。この日の議題は、遠征の費えの続きのことだと聞かされていた。
枢密使・楊崇武が、立ち上がった。
手に、紙の束を持っていた。その紙の束の表紙に、狄承武の筆で、「北西遠征戦役記」と書かれていた。
「陛下」
楊崇武の声は、低かった。
「西方の遠征の、戦役の顛末を、申し上げます」
殿の中が、静まった。
楊崇武は、紙の束を開いた。
「三度の局地の戦いで、我が軍とロマニエの軍は、いずれも戦場を保ちました。その報せは、これまでに申し上げた通りでございます。——ですが、その後、敵は、散らばっていた群れを一か所に集め、連合の軍を、三方から囲みました」
楊崇武は、一行ずつ、読み上げていった。
囲まれたこと。四つの戦場に切り分けられたこと。北の道が誘いだったこと。兵と物と指図が限られた場所へ押し込められたこと。敵の宗教の府の高位の術者たちが、そこへ一度だけ、大きな術を放ったこと。ロマニエの大弓の陣と、大宋の火薬の荷車と、伝令の中継所が、焼かれたこと。
段を分けて、退いたこと。国境の門まで、十日かかったこと。
三千のうち、門をくぐった者、二千三百余。そのうち、傷ついた者、四百余。
戦の目的——国境の外縁の井戸の列と街道を取り戻すこと——は、果たせなかったこと。
「連合の軍は、壊滅は免れました」
楊崇武は、紙の束を閉じた。
「ですが、この戦役は、敗れでございます」
◇
殿の中は、長いこと、静かだった。
修平は、説明員の位置で、動けずにいた。
三度、勝ったと聞いていた。国境平原でも、乾河床でも、二つの丘でも、連合の軍は戦場を保った、と。その報せを聞くたびに、修平は、統計房の表を見て、費えは足りている、この遠征は長くはかからない、と思っていた。
その間に、軍は、少しずつ、削られていたのだ。
修平は、楊崇武が読み上げた数を、頭の中で辿った。
馬が減った。荷車が減った。矢が減った。火薬が減った。予備が減った。伝令の中継所が減った。傷ついた者を運ぶ車が足りなかった。
どれも、修平の統計房の表には、載っていなかった。
「楊枢密」
正面の座から、趙祺の声がした。
「狄承武は、何と書いておる」
楊崇武は、紙の束を開き直した。
「狄統制は、自らの判断の誤りを、三つ、書いております。追撃を止める命が遅かったこと。予備を使いすぎたこと。井戸の守りに兵を貼りつけすぎたこと」
楊崇武は、頁をめくった。
「そして、その後に、敵の報せを集める常設の幕僚も、報せの決まりも、図の決まりも、予備の決まりも、我らにはなかった、と。有能な将であっても、制度と報せとが足りなければ、その判断の質には限りがある、と書いております」
趙祺は、しばらく黙っていた。
「狄承武を、責めるな」
やがて、そう言った。
「狄承武が書いたものを、枢密院と兵部で、写して回せ。その上で、何を改めるべきかを、議せ」
「承りました」
楊崇武は、深く頭を下げた。
それから、趙祺は、殿の端へ目を向けた。
「林詳定」
修平は、進み出て、拝礼した。
「費えは、足りておったのだな」
問いは、それだけだった。
「足りておりました」
修平は、答えた。それ以外に、答えようがなかった。
趙祺は、それ以上、何も問わなかった。しばらく修平を見てから、次の議へ移るよう李徳彰に目で示した。
◇
廷議の後、修平は、戸部へ行った。
葉正言の執務室の戸を叩くと、葉正言は、一人で、机の前に座っていた。
机の上には、遠征の費えの帳簿が広げられていた。
「入れ」
修平は、戸を閉め、葉正言の前に立った。
何から言えばいいのか、分からなかった。
「……私は、間違えておりました」
ようやく、それだけ言った。
葉正言は、顔を上げた。
「何を」
「この一年、遠征の報せが届くたびに、私は、統計房の表を見て、費えは足りている、国の財には余力がある、と申し上げてまいりました。——それは、間違いではありませんでした。費えは、実際に、足りておりました。国の証文は売れ、利は落ち着き、物の値も落ち着いておりました」
修平は、言葉を切った。
「間違えていたのは、そこから先です」
葉正言は、黙って、修平を見ていた。
「費えが足りていることと、戦に要る物が足りていることを、私は、同じことのように考えておりました。銭が途切れずに流れれば、作る者が引き寄せられ、矢も火薬も、次第に増えていく、と」
修平は、葉正言の机の端の、一枚の紙を見た。
楊崇武が、枢密院から戸部へ回してきた、軍器監の工房の報せの写しだった。年が明けて間もなく、同じ写しが、修平の机の上にもあった。修平は、それを、別の束に戻したのだった。
「私は、金融の改めが成功したことを、この国全体が新しくなったことと、取り違えておりました」
修平は、言った。
「金融の改めは、正しかったと思います。今も、そう思います。けれど、その成功が、この国の全部に及んでいるわけではなかった。私の見ている数の外に、何があるのかを、私は、見ておりませんでした」
葉正言は、長いこと、何も言わなかった。
「数の外、と言ったな」
やがて、葉正言が口を開いた。
「では、その外に何があったのかを、言葉にしてみよ。この一年、遠征の費えの帳簿を、私と並んで見てきたそなたの言葉で」
修平は、袖の中を探った。
指に触れたのは、一貫の会子が一枚だった。朝、屋台の払いにと袖へ入れてきて、使わずに残ったものだった。
修平は、その会子を、葉正言の帳簿の上に置いた。
「これは、米や矢を受け取る約束の紙です」
修平は、言った。
「この紙を持つ者は、市へ行けば米と引き換えられる。軍器監へ持っていけば、矢と引き換えられる。そう、国が約束しています。——けれど、約束の先に作る者がいなければ、紙を何枚刷っても、矢は一本も増えません」
葉正言は、会子を見下ろした。
「約束の紙の数は、そなたたちが、よく整えた。多すぎず、少なすぎず」
「はい。そこは、間違えていなかったと思います」
修平は、少し間を置いた。
「間違えたのは、約束の先を見なかったことです」
葉正言は、帳簿の端を、指で軽く叩いた。
「年が明けてすぐ、この卓の上に、二枚の紙が並んでいた。統計房の表と、枢密院の書状と。そなたは、二枚とも読んでいった」
修平は、頷いた。
「あの二枚を、もう一度、並べてみよ」
修平は、今日の廷議のために持ってきた統計房の表を、会子の左に置いた。葉正言の机の端から、軍器監の報せの写しを取り、会子の右に置いた。
「統計房の表は、国全体の隙間が縮んだことを言っていました」
修平は、表の上に手を置いた。
「銭荒の頃、この国には、遊んでいる田と、人と、工房がありました。作れるのに、買う者がいないから、作らずにいた。利を下げ、国の証文を売り、銭を巡らせれば、その隙間は埋まります。遊んでいたものが、動き出す。この一年の表は、その通りになったと言っていました」
修平は、手を書状の写しの上へ移した。
「軍器監の報せは、矢を作る工房が、はじめから遊んでいなかったことを言っていました。職人も、炉も、硝石も、もう手一杯だった。そこへ銭をいくら流しても、工房の天井は、一寸も上がりません。矢の値が上がるだけです」
「では、天井を上げるのは」
「炉と、職人と、道具と、年月です」
修平は、答えた。
「国全体の隙間を埋めることと、隙間のない工房の天井を上げることは、別のことでした。——正月に、私は、それを言いかけて、やめました。自分の詳定の外のことだと思ったからです」
葉正言は、会子を、修平の方へ押し戻した。
それから、帳簿を閉じた。
「四年前の夏、そなたは、矢を作る工房のことを、工部と兵部の話だと言った」
葉正言は、静かに言った。
「私は、あの時、何か言うべきだったのかもしれぬ。——だが、私にも、言うべき言葉がなかった。私も、戸部の者だ。戸部の帳簿は、銭の出入りを書く。矢が何本作れるかは、書かぬ」
葉正言は、修平を見た。
「そなた一人の誤りではない。この国の帳簿が、そう作られておるのだ。——そなたは、それを、自分で見つけた。遅かったが、見つけた」
◇
その日から、修平は、戸部の詰所に戻り、工部と、軍器監と、坑冶寺と、兵部に、書状を送った。
この国で、今、何が作れて、何が作れないのか。
それを、教えてほしい、と。
ひと月の間に、報せが集まってきた。
どの報せにも、未来の技術の答えは、書かれていなかった。書かれていたのは、この国の工房と鉱山と役所の、現場の者たちが、毎日ぶつかっている壁のことだった。
工部からの報せは、こう書いていた。
鉄そのものは、国の中で、多く作れる。鍋も、釘も、鋤も、剣も。だが、同じ質の鉄を、同じように、大量に作ることが、難しい。ある炉の鉄は硬く、ある炉の鉄は脆い。同じ炉でも、日によって違う。弩の部品や、武具や、いずれ機械に使うなら、質の揃った鉄が、大量に要る。それを作れる炉が、国に数えるほどしかない。
軍器監からの報せは、こう書いていた。
神臂弓を一張、見事に作ることは、腕の良い職人ならできる。だが、同じ寸法、同じ強さの神臂弓の部品を、何百、何千と、繰り返し作ることは、別のことだ。職人ごとに、少しずつ違う。違えば、壊れた部品を、別の弩の部品で取り替えられぬ。遠征で壊れた弩を、戦場で直せなかったのは、そのためだ。
坑冶寺からの報せは、こう書いていた。
火薬の硝石は、国の中の土から取り出しておる。今の兵器に使う量なら、なんとか足りる。だが、もっと多くの火器を、もっと大規模に使うなら、硝石の取り出し方、火薬の混ぜ方、保ち方、運び方まで、全てを大きく作り直さねばならぬ。それには、何年もかかる。
兵部からの報せは、遠征の記録を引いて、こう書いていた。
道と水運だけでは、大きな軍の糧と武具を、遠くまで、速く運ぶことに、限りがある。今回の遠征の糧の運びが、何度も途切れたのは、そのためだ。
修平は、ひと月をかけて、それらの報せを、全部読んだ。
◇
そのひと月の終わり近く、軍器監から老いた工匠が一人、詰所を訪ねてきた。
弩を作る坊で、四十年、神臂弓の機を削ってきた男だという。書状では伝わらぬことがある、と軍器監の監官が言って、寄越したのだった。
工匠は、布の包みを、修平の机の上で解いた。
鉄の部品が、二つ入っていた。
一つは、弦を掛ける牙だった。もう一つは、その牙を納める、小さな箱の形をした郭だった。どちらも、北辺の軍へ送るはずの、替えの部品だという。
工匠は牙を郭に納め、軸を通す穴に鉄の軸を差し込もうとした。
軸は、途中で止まった。
工匠は、軸を抜いて、向きを変えて差し直した。また、止まった。牙の穴と郭の穴が、髪の毛一本ほど、ずれていた。
「どちらも、正しく作ったものです」
工匠は、言った。
「牙は、開封の坊で、私の弟子が削りました。郭は、京兆府の作院で、あちらの職人が鋳て、削りました。どちらも、それぞれの坊の型の通りです。坊の検めも、通っています」
「それでも、嵌まらない」
「嵌まりませぬ」
工匠は、牙と郭を、机の上に並べて置いた。
「坊ごとに、物差しが少しずつ違います。同じ物差しを使っても、削る手が違えば、また違う。一張の弩の中でなら、職人がその場で削り合わせて嵌めます。だから、一張ずつなら、見事な弩ができるのです」
工匠は、牙を指先で軽く弾いた。
「けれど、戦の野で、壊れた弩の牙を、別の弩の牙と取り替えることはできません。削り合わせる職人が、戦の野にはいませんから」
修平は、二つの部品を手に取った。
重かった。どちらも、よく磨かれていた。
「どうすれば、嵌まるようになりますか」
工匠は、しばらく黙っていた。
「分かりません」
やがて、そう言った。
「四十年、この仕事をしてきて、分からないのです。国中の坊が、同じ物差しを持てばよいのか。それでも、手が違えば違う。——私に分かるのは、今のやり方のままでは、何百張、何千張と作るほど、嵌まらない部品が増える、ということだけです」
工匠は、二つの部品を、包みに戻さなかった。
「置いていきます。書状より、分かりやすいでしょうから」
工匠が帰った後、修平は二つの部品を机の端に寄せ、その横に紙を一枚広げた。
真ん中に、「供給する力」と書いた。
その周りに、報せから拾った言葉を、書き並べた。
質の揃った鉄。
同じ寸法の部品を、繰り返し作る技。
火薬を大きく作る仕組み。
遠くへ、速く、大量に運ぶ道。
遠くへ、速く、報せを届ける手立て。
修平は、それらを、線で繋いでみた。
質の揃った鉄がなければ、同じ寸法の部品は作れない。同じ寸法の部品を作るには、それを削る道具が要る。その道具も、質の揃った鉄でできている。火薬を大きく作るには、硝石を運ぶ道が要る。道を造るには、鉄が要る。報せを速く届けるには——。
線は、全部、どこかで、互いに繋がっていた。
どれか一つだけを新しくしても、国全体の、作る力にはならない。
◇
夜、修平は、一人で、詰所に残っていた。
机の上の紙を、長いこと見つめていた。
鉄。部品。火薬。道。報せ。
修平は、そのうちのいくつかについて、未来に何があったのかを、知っていた。
鉄の道。鉄の車輪が、鉄の軌条の上を、蒸気の力で走る。一度に何百人も、何百石もの荷を、馬の何倍もの速さで運ぶ。
電信。細い線を通して、何百里、何千里先へ、一瞬で報せを届ける。
後ろから弾を込める銃。兵が、伏せたまま、何度も、速く、撃てる。
どれも、知っていた。
けれど、それを、どうやって作るのか。
鉄の軌条を、どんな鉄で、どうやって作るのか。蒸気の力を、どんな炉で、どんな釜で、どうやって生み出すのか。電信の線に、何を流すのか。その何かを、どうやって作るのか。後ろから弾を込める銃の、筒と、弾と、火薬を、どうやって作るのか。
修平は、知らなかった。
大学で学んだのは、経済学と統計学だった。物の値と、利と、信用と、国の財のことだった。
鉄の混ぜ方も、釜の造り方も、電気の起こし方も、火薬の作り方も、学んだことはなかった。
修平は、紙の余白に、書いた。
私は、紙の上に美しい均衡を描き、富を巡らせた気になっていた。でも、金があっても、それだけで、工房も、鉄の道も、兵器も、生まれない。
書いて、しばらく、その字を見つめた。
それから、もう一行、書いた。
帳簿の数字が、無意味だったのではない。その数字を、同じ質の鉄と、機械と、火薬へ、変え続ける力が、この国には、まだ足りない。
そして、もう一行。
その作り方を、私は、知らない。
◇
修平は、筆を置き、窓の外を見た。
開封の夜は、暗かった。
自分は、この国に、答えを持ってきたのではなかった。
金融と統計については、少しは、答えを持っていた。それも、この国の帳簿と、この国の官たちの手で、何度も直されて、ようやく、この国のものになった。
鉄と、機械と、火薬と、道と、報せについては、答えを持っていない。
答えを思い出そうとしても、思い出すべき答えが、自分の中にはない。
では、誰が、持っているのか。
修平は、ふと、李徳彰の部屋で、ノートパソコンの底を開けた日のことを思い出した。
文思院の工匠は、十字の溝のねじを見て、三日で、それに合う回し具を作った。傍らの将作監の技官は、どのねじがどの穴から出たかを、言われもしないのに、紙に並べて記した。
あの工匠は、見たこともないねじに合う道具を、三日で作る技を、知っていた。
この国には、自分の知らない技を知っている者が、いる。
それに、と修平は思った。
自分は、ある朝、道の上で目を閉じて、開けたら、この国の田の中にいた。なぜなのかは、今も分からない。
自分だけなのだろうか。
この広い国のどこかに、自分と同じように、ある日突然、ここへ来た者は、いないのだろうか。自分が学ばなかったことを学んだ者が。鉄の混ぜ方を知る者が。釜の造り方を知る者が。
あるいは、この国に生まれ、この国の工房で、自分の力で、答えを見つけようとしている者が。
修平は、紙を見下ろした。
知っている者を、探さねばならない。
この国のどこかに、私の知らない答えを知る者が、いるかもしれない。




