第三巻 敗北 第十三回 包囲
止まれ、という命令が、全軍に下った翌朝だった。
夜明けの薄明かりの中、司令部の丘の見張りが、叫んだ。
「北に、騎兵!」
狄承武は、天幕から飛び出した。
北の地平線の上に、騎馬の群れが並んでいた。一つではなかった。三つ。四つ。群れと群れの間に、少しずつ間を空けて、横に長く。
「西にも!」
別の見張りが、叫んだ。
西の低い丘の稜線に、別の群れが現れていた。
「南西にも!」
狄承武は、丘の上で、ゆっくりと体を回した。
北。西。南西。
昨日まで、どこにいるのか分からなかった敵が、一晩のうちに、三方から、姿を現していた。
散らばっていたのではなかった。
散らばったまま、ここへ来ていたのだ。
最後の瞬間にだけ、集まるために。
◇
「報せを! 全ての隊の、今の位置を!」
狄承武は、叫んだ。
伝令が、次々に丘を駆け下りていった。
半刻後、最初の伝令が戻ってきた。前衛の位置。北の井戸の近く。北の騎兵の群れと、すでに触れている。
続けて、二人目。ロマニエ軍のアルマトイの主力の位置。本隊の西。西の騎兵の群れの方を向いて、列を組み始めている。
三人目。補給の荷車の列。本隊の南東。南西の騎兵の群れが、その脇へ回り込もうとしている。
狄承武は、それぞれの報せを、図の上に書き込んだ。
書き込み終えた時には、最初の伝令の報せは、もう半刻前のものになっていた。
四人目の伝令が、戻ってきた。
「前衛より! 北の騎兵、前衛に射かけては退き、射かけては退き、を繰り返しております! 前衛の指揮使、打って出る許しを求めております!」
「許さぬ」
狄承武は、即座に言った。
「前衛は、盾を並べて、耐えろ。本隊へ向かって、段を分けて下がれ」
伝令が、駆け下りていった。
その命令が、前衛に届くまでに、また、半刻かかる。
◇
昼までに、狄承武は、敵が何をしようとしているのかを、理解した。
北の騎兵の群れは、前衛に、退きながら振り返って射る矢を、繰り返し浴びせていた。前衛が反撃しようと一歩前へ出ると、群れは退く。前衛が止まると、別の群れが、別の方から現れて射る。
西の騎兵の群れは、ロマニエ軍のアルマトイの列を、正面から攻めはしなかった。ただ、その前で、行き来していた。アルマトイの列を、その場に釘付けにするために。
南西の騎兵の群れは、補給の荷車の列と、給水の場所と、伝令の中継所を、狙っていた。
前衛。本隊。後衛。輜重。
連合の軍は、一つの軍だった。けれど、敵は、それを、四つの別々の戦場に、切り分けていた。
四つの戦場で、それぞれの隊が、それぞれの敵と向き合っていた。四つの戦場を繋ぐのは、伝令だけだった。
その伝令が、南西の騎兵に、次々と阻まれていた。
◇
午後、司令部の天幕の中で、大宋の指揮使たちが、二つに割れた。
「予備を、北へ出すべきです」
韓奇捷が、図の上の、前衛の位置を指した。
「前衛が、崩れかけております。今、玄甲軍の残りと、歩人甲士の予備を北へ出して、前衛を救い出し、そのまま北の騎兵の群れを押し返せば、北に道が開けます。北の井戸へ、全軍を集められる」
「予備を北へ出せば、南が空になる」
補給を預かる指揮使が、言い返した。
「今、南西の騎兵が、荷車と水場を狙っておるのです。予備を北へ出せば、荷車は、守る者がなくなる。水がなくなれば、北の井戸に集まっても、三日と持ちませぬ」
どちらも、正しかった。
狄承武は、図を見つめた。
北へ出せば、南を失う。南に置けば、北を失う。
どちらが正しいのかを決めるには、敵の主力が、北と南のどちらに、どれだけいるのかを知らねばならない。
図の上の敵の印は、全て、半刻前、一刻前のものだった。今、敵がどこにいるのか。誰も、知らなかった。
補給を預かる指揮使が、懐から帳面を出した。
「統制。北へ出すにせよ、南に残すにせよ、荷車を全て守ることは、もうできませぬ。どこまで捨てるかを、お決めください」
指揮使は、帳面を読み上げた。
「我が軍の荷車、三百。糧を積んだもの、百九十。拠点の塁を崩すための鶴嘴と梯子を積んだもの、四十。天幕と替えの武具、三十。飼い葉、四十。糧は、今の兵の数で、十六日分」
続けて、医官の一人が言った。
「歩けぬ者は、百十余。今は、糧の車の荷の上に載せております」
狄承武は、図から目を上げた。
前衛を救う。荷車を、どこまで捨てるか。傷ついた者を、どこへ送るか。ロマニエの軍と、退く道をどう合わせるか。
四つの問いが、同じ刻に、同じ図の上にあった。一つを決めれば、他の三つが動く。どれか一つを後に回す余裕は、なかった。
ロマニエの軍との退く道だけは、ここでは決められなかった。ステファノスの司令部へ出した伝令は、朝から、一人も戻っていない。
残りの三つは、自分が決めるほかなかった。
「鶴嘴と梯子は、全て捨てる」
狄承武は、言った。
「もう、拠点を攻めることはない。天幕と替えの武具は、半分。飼い葉も、半分。——空いた車に、歩けぬ者を移せ」
「糧は」
「糧は、今は捨てるな」
指揮使が、帳面の行に、一本ずつ線を引いていった。
「歩けぬ者を載せた車は、南の街道沿いの、林の陰に集めろ。医官も、そこへ。護りに、歩人甲士の一隊をつける」
「それなら、南に残す護りは、少なくて済みます」
指揮使が、帳面から顔を上げて言った。守らねばならない荷車が、減った分だけ。
◇
狄承武は、北を選んだ。
北の井戸の周りに、ロマニエ軍の主力と共に集まる。それが、昨夜ステファノスと決めたことだった。北へ道を開かねば、全軍が一つになれない。
玄甲軍の残りと、歩人甲士の予備が、北へ向かった。
ロマニエ軍からも、カタフラクタイの一隊が、北へ向かった。
北の騎兵の群れが、それを見て、退いた。
前衛を囲んでいた群れが、左右に分かれて、北の平原の奥へ、下がっていった。
北に、道が開いた。
「開いた!」
韓奇捷が、叫んだ。
「統制、北が開きました!」
狄承武は、丘の上から、北を見た。
確かに、開いていた。北の井戸へ向かう道の上から、騎兵の群れが、消えていた。
狄承武は、その開いた道を、長いこと見つめていた。
開きすぎている、と思った。
敵は、そこだけ、退いた。北へ向かう道だけを、空けた。
狄承武は、図の上で、北の井戸の周りを見た。
井戸の周りは、低い窪地だった。その窪地を、三方から、丘が囲んでいた。
「……北の道は、誘いだ」
狄承武は、呟いた。
敵は、連合の軍が、北の井戸へ集まることを、知っていた。だから、北の道だけを空けた。連合の軍が、そこへ集まるように。
集まったところを、三方の丘から、囲むために。
「北へ出た予備を、止めろ! 北の井戸の手前で、止まれと!」
伝令が、駆け出した。
その命令が、北へ出た予備に届くまでに、半刻かかる。
◇
日が傾く頃、連合の軍は、ばらばらになり始めていた。
ロマニエ軍の一部——アルマトイの二つの隊と、サギタリイ——は、自分たちの判断で、本隊の西の高地へ登り、そこで列を組んで、西の騎兵の群れを食い止めていた。高地は、守りやすかった。アルマトイは、そこで、一歩も退かなかった。
大宋軍の一部——歩人甲士の一つの指揮と、神臂弓兵——は、自分たちの判断で、補給の荷車の列の護りについて、南へ延びる街道を守っていた。街道の上で、火槍兵が、南西の騎兵を二度退けた。
どちらも、正しい判断だった。どちらも、それぞれの場所で、よく戦っていた。
けれど、その二つの正しい判断は、互いに、繋がっていなかった。
西の高地を守るロマニエ軍は、南の街道を守る大宋軍が、何をしているのかを知らなかった。南の街道を守る大宋軍は、西の高地に、ロマニエ軍がいることを知らなかった。
二つの隊は、それぞれに戦って、それぞれに持ちこたえていた。それが、全軍の動きとして、一つにならなかった。
全軍が、何を目指して、どう動くのか。
それが、末端の隊まで、伝わっていなかった。
◇
二日目の朝、ステファノスの連絡の将が、ようやく司令部の丘にたどり着いた。
昨夜のうちに発ったが、南西の騎兵の群れを避けて、二度、道を変えたという。韓奇捷が、騎兵を十騎連れて、途中まで迎えに出ていた。
戻ってきた韓奇捷の左の腕に、矢が一本、立っていた。
「かすり傷です」
韓奇捷は、そう言って、自分で矢柄を折った。鏃は、肉の中に残っていた。医官が駆け寄り、韓奇捷を座らせた。
連絡の将は、息を整えてから、ステファノスの言葉を伝えた。
「将軍は、北の井戸に集まる策を、まだ捨ててはおられませぬ。ただ、もし集まれぬときは、と」
連絡の将は、図の上の、来た道を指でなぞった。国境の門へ、最も短い道だった。
「この道で退く。ロマニエ軍が先に立ち、大宋の軍が後に続く。将軍は、そうお考えです」
狄承武は、図を見た。
「その道の三つ目の井戸の辺りで、昨夜、我が軍の伝令が一人、戻らなかった」
狄承武は、図の上の、別の道を指した。
「退くなら、東へ回る道を、と我が方は考えている。二日長いが、井戸が残っている。川の橋もある。それに、我が軍には、歩けぬ者が多い。後に続けば、その者たちが、最後尾になる」
連絡の将は、困った顔をした。
「東の道のことは、将軍から何も伺っておりませぬ。私には、決められませぬ」
それは、そうだった。この男は、ステファノスの言葉を運んできただけだ。ステファノスの代わりに決める者ではない。
「では、伝えてくれ。大宋の軍は、東の道を考えている、と」
狄承武は書記に、東の道の井戸の数と、大宋の軍の歩けぬ者の数とを書かせた。連絡の将はその紙を懐に入れ、護りの二騎をつけられて丘を下りていった。
その紙が、ステファノスの手に届くのは、いつになるのか。ステファノスの答えが、ここへ戻るのは、いつになるのか。
狄承武には、分からなかった。
韓奇捷は、医官が鏃を抜くあいだ、一度も声を上げなかった。抜き終えると、布で腕を吊り、黙って図の前に戻ってきた。
◇
二日目の昼、狄承武は、全軍を、一か所へ集めることを諦めた。
代わりに、全軍を、いくつかの固まりに分けて、それぞれ、守れる場所を守らせた。
水の出る井戸。街道の交わる場所。見晴らしのよい高地。
そこに、兵と、荷車と、矢と火薬と、伝令の中継所と、それぞれの司令が、集まった。
連合の軍は、もはや、一つの長い列ではなかった。平原の上に、いくつかの固まりが、点々と散らばっていた。
そして、その固まりの一つひとつに、兵と、物と、指図が、ぎっしりと詰まっていた。
ロマニエ軍のバッリスタリウスの大弓は、本隊の西の高地の上に、二十台以上が並べられていた。大宋軍の火薬の荷車は、南の街道の交わる場所の、窪地の中に集められていた。
狄承武の司令部は、その南の窪地の近くの、小さな丘の上にあった。
◇
二日目の夕刻、それは、起きた。
西の高地の方で、空が、光った。
狄承武は、司令部の丘の上から、それを見た。
西の稜線の向こうから、光の筋が、何本も、空へ昇っていった。昇った光は、弧を描いて、西の高地の上へ、落ちてきた。
河西の長城で見た、術者の光の弾とは、比べものにならなかった。
一つひとつが、家ほどの大きさだった。
光が、西の高地の、大弓の並んだ場所へ落ちた。
轟音がした。
大弓が、車ごと、宙に舞った。
続けて、二つ目の光。三つ目。
大弓の陣が、燃え上がった。
「何だ、あれは」
韓奇捷が、吊った腕を押さえたまま、呆然と呟いた。
狄承武は、答えられなかった。
光は、西の高地だけに落ちたのではなかった。
南の街道の交わる場所の、窪地にも、落ちた。
大宋軍の火薬の荷車が、集められていた窪地に。
火薬が、爆ぜた。
窪地の上に、火の柱が上がった。黒い煙が、夕空に広がった。
別の光が、狄承武の司令部の丘の、麓へ落ちた。伝令の中継所があった場所だった。
狄承武は、地に伏せた。
熱い風が、背中の上を吹き抜けていった。
◇
光が止んだのは、日が沈んでからだった。
狄承武は、丘の上に立ち上がり、夜の平原を見渡した。
西の高地で、大弓の陣が、まだ燃えていた。南の窪地で、火薬の荷車の残骸が、燻っていた。丘の麓の、伝令の中継所は、跡形もなかった。
後になって、捕虜の供述から、狄承武は知った。
あの光は、冥聖院という、ヴォルガルの宗教の府に属する、高位の術者たちの術だった。何十人もの術者が、何日もかけて祈りを重ね、一度に放つもの。何度も放てるものではない。触媒と、儀式と、術者の命を削るほどの疲れが要る。
だから、どこにでも放てるものではない。
どこに放てば、最も効くのか。それを、敵は、この一月半の戦いで、ずっと測っていたのだ。
斥候と、捕虜と、村人の話から。
連合の軍が、どこに大弓を並べるのか。どこに火薬を集めるのか。どこに司令を置くのか。
そして、この二日で、連合の軍を、囲み、追い込み、切り分け、限られた安全な場所へ、兵と物と指図を、ぎっしりと詰め込ませた。
詰め込まれたところへ、一度だけ、放った。
魔法が、この戦を負けさせたのではなかった。
この一月半の、偵察と、機動と、補給への圧迫が、連合の軍を、狭い場所へ追い込んだ。魔法は、その追い込まれた場所を、最後に打っただけだった。
狄承武は、燃える大弓の陣を見ながら、一つのことを、胸に刻んだ。
兵と物と指図を、一か所に固めてはならない。散らさねばならない。隠さねばならない。掘って、埋めて、守らねばならない。
◇
狄承武は、その夜のうちに、司令部を移した。
丘の麓の中継所が焼かれた以上、ここにいることは、敵に知られている。
司令部を、南の街道沿いの、低い林の陰へ移した。歩けぬ者を載せた車を集めた、あの林だった。天幕は張らず、旗も立てなかった。韓奇捷は、吊った腕のまま、片手で手綱を取ってついてきた。
移した後、伝令が、戻ってこなくなった。
伝令たちは、前の司令部の丘へ、報せを持って戻っていった。そこに、司令部はもうない。別の伝令が、新しい司令部の場所を伝えに走ったが、その伝令が全ての隊に届くまでに、また、時がかかった。
報せが、遅れた。命令が、遅れた。
狄承武は、新しい司令部の天幕の中で、図を見ていた。
図の上の、味方の印の半分は、もう、今どこにいるのか分からなかった。
◇
三日目の朝、捕らえたヴォルガルの騎兵の一人を、狄承武は、自ら問いただした。
若い兵だった。人ではなかった。灰色がかった緑の肌に、尖った耳。けれど、狄承武の目を、まっすぐに見返してきた。
通訳を介して、狄承武は、問うた。
「そなたの隊の長は、そなたに、何と命じた」
若い兵は、しばらく黙っていた。
それから、答えた。
「——南の街道の、交わる場所を、押さえろ、と」
「どうやって」
「どうやってとは、言われなかった」
若い兵は、首を傾げた。
「押さえろ、とだけ。どう押さえるかは、隊で決めろ、と。俺たちの隊の長が、決めた」
狄承武は、その答えを、しばらく噛みしめていた。
敵の小さな隊は、上から、何をすべきかだけを言われていた。どうやるかは、その場の隊が、自分で決めていた。
だから、敵の隊は、伝令を待たずに動けた。上からの命令が届くまで、何刻も待つ必要がなかった。
こちらの隊は、止まれ、進め、下がれ、と、一つずつ命令が届くのを待っていた。命令が届くまでの間、何をすればよいのか、分からなかった。分からないまま、それぞれが、自分の判断で動いた。その判断は、正しかった。けれど、全軍が何を目指しているのかを知らないまま下した判断は、全軍の動きにならなかった。
狄承武は、若い兵を下がらせた。
天幕の中で、一人、図を見つめた。
この敵に、自分たちは、何で負けているのか。
弓でも、魔法でも、なかった。
敵は、知っていた。こちらが、どこにいるのかを。こちらが、どう動くのかを。こちらの命令が、何刻で届くのかを。
そして、自分たちは、知らなかった。




