第三巻 敗北 第十二回 井戸線
三つ目の前進拠点は、空ではなかった。
だが、守りの兵は、連合の軍が近づくと、戦わずに退いた。拠点の中には、焼かれていない糧の袋が、いくつか残されていた。ステファノスの幕僚は、それを見て、眉をひそめた。
「急いで退いたのか」
「あるいは、置いていったのか」
狄承武は、糧の袋を見下ろした。
ステファノスの幕僚が、図の上の三つ目の赤い四角に、線を引いた。
三つの前進拠点を、全て取り除いた。
戦の目的の、前半を果たした。残るは、国境の外縁の、井戸の列と街道を、一つずつ取り戻し、守りを置くことだった。
図の上で、井戸の列は、三つ目の拠点から、さらに北西へ、国境の外縁の奥へ向かって、点々と並んでいた。七つの井戸。その間を、街道が繋いでいた。
七つの井戸を、一つずつ、手に入れる。
連合の軍は、三つ目の拠点から、井戸の列を辿り始めた。
◇
四つ目の戦いは、戦いと呼べるものではなかった。
連合の軍は、井戸の列の一つ目を、何の抵抗もなく手に入れた。
井戸は、塞がれていなかった。水は、澄んでいた。連合の軍は、そこに守りの兵を置き、補給の荷を運び込んだ。
その三日後、補給の荷車の列が、二つ目の井戸へ向かって、街道を進んでいたときだった。
街道の両脇の窪地から、マングダイが現れた。百騎ほど。荷車の列の脇へ駆け込み、火のついた矢を、荷車に射込んだ。荷車を引いていた牛と驢馬を、何頭か奪った。そして、守りの兵が駆けつける前に、窪地の向こうへ消えた。
燃えた荷車は、十二台。奪われた牛と驢馬は、二十頭。死んだ者は、三人。
翌日、同じことが、別の場所で起きた。
その翌日も。
三度目の後、輜重を預かる指揮使が、煤のついた顔で司令部の天幕へ来た。
「荷車の列を、二つに分けました。出る刻も、半刻ずらしました」
指揮使は、図の上の、街道の一点を指した。
「それでも、同じ窪地で待たれておりました。二つに分けた列のうち、糧を多く積んだ方を選んで」
「どちらの列が重いかを、敵は、どうして知った」
狄承武が問うと、指揮使は首を振った。
「分かりませぬ。ただ、荷の量と出る刻とを、誰かが敵に教えているとしか思えませぬ」
敵は、井戸そのものを守ろうとはしなかった。連合の軍に、井戸を取らせた。そして、井戸と井戸の間の、街道の上の荷車の列を、狙った。
◇
司令部の天幕の中で、狄承武とステファノスは、図を挟んで向かい合っていた。
「井戸に、守りを置けば、前へ出る兵が減る」
ステファノスが、言った。
「置かなければ、井戸と井戸の間の、荷車の列を守れぬ」
「荷車の列そのものに、兵をつければ」
「つければ、前へ出る兵が、さらに減る」
ステファノスは、図の上の、井戸の印を指で辿った。
「一つ目の拠点に、守りを二百。二つ目に、二百。三つ目に、三百。井戸の一つ目に、百。二つ目に、百。——井戸の列は、あと五つある。一つに百ずつ置けば、あと五百。荷車の列の護りに、さらに五百」
ステファノスは、図から顔を上げた。
「我が軍の一万二千と、そなたの軍の三千。戦で傷ついた者を除けば、今、前へ出せるのは、一万三千余。そこから、守りと護りに、二千近くを割けば、一万一千ほどになる」
狄承武は、黙って、図を見ていた。
「アルマトイに、井戸を守らせるのは、どうです」
大宋の指揮使の一人が、言った。
「アルマトイは、守らせれば、鉄の壁です。騎兵が、井戸に近づくことはできませぬ」
「近づくことは、できぬ」
ステファノスは、頷いた。
「だが、アルマトイを井戸に置けば、アルマトイは、そこから動けぬ。井戸を守るアルマトイの周りの、広い野は、全て、敵の騎兵のものになる。——アルマトイが強いほど、それを一か所に留めることは、野を敵に譲ることになる」
敵は、戦って兵を減らすのではなかった。
連合の軍に、守らねばならないものを、一つずつ増やさせていた。守りに兵を割かせ、前へ出る兵を、少しずつ薄くしていた。
◇
五つ目の戦いは、夕刻に起きた。
連合の軍の前衛が、井戸の列の三つ目へ向かって進んでいたとき、日が沈む少し前に、重い弓騎兵が、前衛へ、光の弾と矢を浴びせかけてきた。
前衛は、盾を並べて、それを受けた。
その間に、別のマングダイの群れが、補給の荷車の列の、後ろへ回り込んでいた。
伝令が、その報せを司令部へ届けたとき、狄承武は、図を見て、すぐに決めた。
「追うな。全ての隊に、追うなと伝えろ。——前衛を、下げる。段を分けて、下げる。前衛の一つ目の列が下がる間、二つ目の列が盾を並べて守る。二つ目の列が下がる間、三つ目が。本隊まで下がって、本隊と一つになれ」
前衛は、段を分けて、下がった。
日が沈み、暗くなった平原の上で、前衛は、本隊と、一つになった。荷車の列の後ろに回り込んだマングダイは、荷車を三台焼いて、消えた。
損害は、小さかった。
けれど、前衛が本隊まで下がったために、井戸の三つ目へ向かう行軍は、丸一日、遅れた。
◇
夜も、敵は、休ませてくれなかった。
真夜中、平原の北で、角笛の音が鳴った。
見張りの兵が、叫んだ。北の稜線の上に、火が見える。いくつも。
連合の軍の兵たちが、飛び起きて、武器を取った。
火は、稜線の上で、しばらく揺れていた。それから、消えた。
何も、来なかった。
一刻後、今度は、東の方で、光が見えた。術者の、魔法の光だった。空中に、いくつもの光の玉が浮かび、ゆっくりと漂い、消えた。
また、兵たちが、武器を取った。
何も、来なかった。
夜明けまでに、同じことが、四度あった。
翌朝、兵たちの顔は、灰色だった。行軍の足は、重かった。井戸の三つ目に着くのは、また、半日遅れた。
「戦いは、昼だけのことではないのだな」
狄承武は、司令部の丘の上で、呟いた。
「敵にとっては、夜も、戦のうちだ」
◇
捕らえた村人の話が、司令部を揺らした。
ある日、リミタネイの斥候が、国境の外の小さな村の男を一人、連れてきた。ヴォルガルの商人とも取引をしている村だと、以前、斥候の長が言っていた村だった。
男は、こう言った。
昨日、村に、ヴォルガルの騎兵が来た。騎兵は、大宋の軍の荷車が、何台あるのか、馬が何頭いるのか、一日にどれだけの麦を食うのか、村の者に聞いて回っていた。村の者は、知っていることを話した。大宋の軍の兵が、村の市で、麦を買っていったから。
それから、騎兵は、こうも言っていた。——ヴォルガルの主力は、北の大きな川の向こうへ、退いた。冬まで、戻ってこない。
ステファノスの幕僚が、それを聞いて、身を乗り出した。
「主力は退いた、と」
「村の者に、わざと聞かせたのかもしれぬ」
狄承武は、言った。
「我らに、伝わるように」
「あるいは、本当かもしれぬ」
どちらなのか、確かめる術がなかった。
別の斥候を北の大きな川の方へ出し、その報せを待つ間に、また、一日が過ぎた。
斥候は、戻ってきた。北の大きな川の岸に、ヴォルガルの騎兵の影は、見えなかった、と。
見えなかった。
それは、いないということなのか。見えないところにいるということなのか。
◇
狄承武は、その夜から、書記たちに、一つのことを命じた。
全ての報せに、時刻を書け。
敵と触れた時刻。敵がどこにいたか。何騎いたと推したか。どの方へ去ったか。追った隊が、何歩追ったか。我が軍の矢と火薬と糧が、今どれだけ残っているか。馬が、どれだけ疲れているか。傷ついた者が、何人いるか。伝令が、司令部から前衛まで、何刻かかったか。
書記たちは、それを、一枚の紙に、一行ずつ書き込んでいった。
けれど、三日も経たないうちに、狄承武は、その紙を見て、唸った。
大宋の軍の報せと、ロマニエの軍の報せとで、同じことを書いているのに、書き方が違った。
大宋の書記は、敵の数を「百騎ほど」と書き、ロマニエの書記は、敵の数を、隊の数で書いた。大宋の書記は、時刻を、日の高さで書き、ロマニエの書記は、ロマニエの時の数え方で書いた。距離の単位も、違った。地図の上の印も、違った。
同じ敵を見ても、二つの軍の報せを並べると、それが同じ敵なのか、別の敵なのかすら、分からないことがあった。
ある日の昼には、そのために、荷車を失った。
ロマニエの斥候の報せには、「敵騎兵、二隊。第六刻。二つ目の井戸の西」とあった。大宋の斥候の報せには、「百騎ほど。日の高さ三竿。二つ目の井戸の北西、十里」とあった。
同じ群れなのか、別の群れなのか。司令部の書記たちが、ロマニエの刻を日の高さに直し、ロマニエの距離を大宋の里に直しているあいだに、半刻が過ぎた。
同じ群れだと分かった頃、その群れは二つ目の井戸の南で、荷車の列の脇に出ていた。燃えた荷車は、七台だった。
護りの騎兵を出す命は、その書き直しが終わるのを待っていた。
大宋の軍の中でも、指揮使ごとに、書き方がばらばらだった。ある指揮使は、敵の数を多めに書き、ある指揮使は、少なめに書いた。
狄承武は、紙の束を見下ろして、ため息をついた。
決まった書き方が、ない。
全ての者が、同じ物差しで、同じ形で、報せを書く。そういう決まりが、大宋の軍にも、ロマニエの軍にも、なかった。
◇
その夜、狄承武は書き方の揃わない紙の束を、卓の上に並べ直した。
それでも、どの紙にも、時刻だけは書いてあった。日の高さでも、ロマニエの時の数え方でも、前と後は分かる。
狄承武は、この三日の紙だけでなく、国境平原からこちら書記たちが残してきた覚え書きも、あるだけ引き出した。そして、全てを、時刻の順に並べた。
並べてみると、紙の上の敵は、ばらばらに動いてはいなかった。
国境平原の前の日々。遠くの稜線に、十騎、二十騎の影が、毎日のように立っていた。近づけば退き、退けば、また立った。
国境平原。敵は正面から当たり、こちらの矢がどこまで届くかを確かめるようにして、退いた。
乾河床。敵は退き、追った騎兵を、川の床の奥へ引き込んだ。
二つの丘。敵は、大宋の軍とロマニエの軍の繋ぎ目を狙い、二つの軍を切り離しにかかった。
井戸の列。敵は井戸を譲り、井戸と井戸の間の荷車を焼いた。
狄承武は紙の束の横に白い紙を一枚置き、筆を取った。
見つける。
触れる。
誘う。
切り離す。
荷を削る。
五つの言葉を、上から順に書いた。それぞれの横に、紙の束から拾った日付と場所を添えた。
一つずつなら、どれも見知った戦い方だった。北辺でも、斥候は出す。退いて誘う敵もいる。荷を襲う賊もいる。
だが、この敵は、それを一つの流れとして順に踏んでいた。一つの段が済むと、次の段へ移っていた。
狄承武は、白い紙の余白に縦に一本、線を引いた。線の左に「一つの戦いの中」と書き、右に「戦いと戦いの間」と書いた。
左には、退きながら振り返って射る矢。光の弾。三百歩の縁で待ち、装填の空白に駆け込む重い弓騎兵。
右には、稜線の影。一人で何頭もの替え馬を連れ、昨日と違う場所に現れる群れ。村の市で聞き出された、荷車の数。夜の角笛と火。
左と右を、見比べた。
同じ騎兵だった。
朝に稜線に立ってこちらを見ていた群れが、昼には退きながら射て、夕刻には荷車の列の後ろへ回っていた。左の技と右の運びとを、同じ弓騎兵が一つの隊のまま繋いでいた。
大宋の軍では、それは、それぞれ別の者の務めだった。斥候は斥候。弩兵は弩兵。荷車を護るのは、また別の隊だ。
狄承武は、五つの言葉に目を戻した。
五つ目まで、敵は踏んだ。
では、その次は。
狄承武は、五つ目の下に、六つ目の言葉を書こうとした。
筆先が、紙の上で止まった。
この一月半、敵は主力と呼べるほどの大きな群れを、一度も見せていなかった。群れはいつも、二百、三百と小さく、いくつにも分かれていた。
分かれた群れは、いずれ、どこかで一つになる。
集まる。
その言葉は、頭に浮かんでいた。けれど、その横に添えるべき日付と場所が、紙の束のどこにもなかった。
まだ、起きていないのだ。
狄承武は、筆を置いた。墨が一滴、五つ目の言葉の下に落ちて、滲んだ。
◇
「予備を、どこに置く」
ある夜、狄承武は、天幕の中で、大宋の指揮使たちに問うた。
予備は、今、ほとんどなかった。
玄甲軍は、二つの丘の戦いの後、ようやく馬が戻り始めたところだった。プロトリアヌスは、五十余の死傷を出し、ステファノスは、もう、それを前へ出すことを渋っていた。
「前へ出せば、前衛が危うくなったときに、すぐに救える」
韓奇捷が、言った。
「だが、前へ出せば、後ろの補給の列が、手薄になる」
別の指揮使が、言った。
「後ろに置けば、補給の列は守れる。だが、前衛が危うくなったとき、救いに行くのが、遅れる」
「敵の主力がどこにいるのかさえ分かれば、決められるのだ」
韓奇捷が、拳で卓を叩いた。
誰も、答えられなかった。
敵の主力が、どこにいるのか。
それが分からない以上、予備をどこに置いても、それが正しいのか、間違っているのか、分からなかった。
◇
五日後の夕方、狄承武は、一人で、作戦の図を見ていた。
図の上には、この一月半の、全ての印が描き込まれていた。
国境平原。乾河床。二つの丘。井戸の列。三つの前進拠点の赤い四角には、全て、線が引かれていた。井戸の列の七つのうち、四つに、青い印——連合の軍の手に入った印——がついていた。
勝ちの印ばかりだった。
狄承武は、図から、一歩下がった。
そして、図の全体を見た。
国境の門から、補給の列が、細く、長く、北西へ伸びていた。三つの前進拠点と、四つの井戸に、それぞれ守りの兵が貼りついていた。その守りに、荷車の列の護りを足すと、二千近かった。
前へ出せる兵は、その分、薄くなっていた。
予備は、どちらも、もとの形ではなかった。
矢と火薬は、減り続けていた。
敵の主力は、どこにいるのか分からなかった。
狄承武は、気づいた。
地図の上では、勝っている。
だが、軍全体は、弱くなっている。
◇
狄承武は、その夜のうちに、ステファノスの司令部へ馬を走らせた。
「進むのを、止めましょう」
狄承武は、ステファノスの天幕に入るなり、言った。
「井戸の列の、残りの三つは、後にする。今、手に入れた井戸と拠点に守りを置いたまま、我らの本隊を、一か所に集める。予備を戻す。矢と火薬を補う。補給の列を、縮める。——それから、敵の主力を探す。見つけてから、進む」
ステファノスは、黙って、狄承武の言葉を聞いていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「私も、同じことを考えておった」
ステファノスは、自分の卓の上の図を指した。
「今夜のうちに、全軍に、止まれと命じよう。本隊を、この井戸の四つ目の周りへ集める。二日あれば、集まる」
二日。
狄承武は、図を見た。
今、連合の軍は、国境の門から北西へ、細く長く伸びている。それを、二日かけて、一か所に集める。
「……二日で、間に合えばよいが」
狄承武は、呟いた。
自分の天幕の卓に残してきた、白い紙を思った。五つの言葉の下の、まだ何も書いていない余白を。
ステファノスは、何も言わなかった。
◇
年が明けて間もない開封で、修平は、統計房の表を前にしていた。
遠征の費えの表だった。国の証文の利。中央銀行の銀の蔵。換わり目。国の中の物の値。
全て、落ち着いていた。
修平の机の端には、戸部から回ってきた、枢密院の書状の写しが置かれていた。三度目の勝ちの報せと前後して届いたものだった。軍器監の工房が、神臂弓の矢と、火槍の火薬と、武具の作り足しに追いつかない、という報せだった。
修平は、その書状を、手に取った。
銭は、足りている。国の証文で集めた銭は、軍器監に回っている。軍器監は、その銭で、職人を雇い、鉄を買い、硝石を買おうとしている。
書状には、こう書かれていた。
矢の鏃を打つ鍛冶の職人が足りない。一人前になるのに何年もかかる。弩と武具に使える質の揃った鉄を出せる炉が、国に数えるほどしかない。火薬に使う硝石は、土から長い時をかけて取り出すもので、急には増えぬ。
修平は、書状を二度読んだ。
銭が続けば、職人を育てる者が出てくる。炉を築く者が出てくる。硝石を掘る者が出てくる。一年、二年あれば。
修平は、そう考えた。考えて、書状を机に置いた。
置いてから、机の上の二枚の紙を、しばらく見比べた。
統計房の表は、国全体の商いの隙間が、この一年で縮んだことを示していた。遊んでいた田と人と工房が、動き始めている、と。
枢密院の書状は、矢を作る工房が、はじめから遊んでいなかったことを示していた。
国全体の隙間と、矢を作る工房の手一杯と。
二枚の紙は、同じ国のことを書いているのに、違うことを言っていた。
修平は、その違いの意味を、言葉にしかけて、やめた。
矢を作る工房のことは、工部と兵部と軍器監の務めだ。自分の詳定は、銭と信用と、国全体の買う力だ。国全体の買う力は、崩れていない。遠征は、三度勝っている。
修平は、二枚の紙を、別々の束に戻した。




