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第三巻 敗北 第十一回 二つの丘

 二つ目の前進拠点も、空だった。


 一つ目と同じだった。土の塁と、木の柵と、焼け落ちた小屋。石で塞がれた井戸。


 連合の軍は、井戸を浚い、守りの兵を置き、補給の荷を運び込んだ。ステファノスの幕僚が、図の上の二つ目の赤い四角に、線を引いた。


 三つ目の拠点は、さらに北西にあった。


 そこへ向かう街道は、二つの低い丘に挟まれた、細い谷を通っていた。


  ◇


 谷の入口で、マングダイが現れた。


 正面の街道の上に、二百騎ほど。連合の軍の前衛が近づくと、マングダイは、左右に分かれて、二つの丘の陰へ退いていった。


「追わぬ」


 狄承武は、司令部の丘の上で、即座に言った。


「前衛は、谷の入口で止まれ。左右の丘に、斥候を出せ」


 前回の川の床のことがあった。敵が退いて、その先の両脇に、弓騎兵が待っている。今度は、それに乗らない。


 前衛が、谷の入口で止まった。


 斥候が、左右の丘へ登っていった。


 しばらくして、敵が、動いた。


 前ではなかった。


 横だった。


  ◇


 東の丘の方から、リミタネイの斥候が、駆け戻ってきた。


「東の丘の向こうに、敵の別の群れ! 数、三百ほど! 南へ向かっております!」


 南。


 狄承武は、図を見た。東の丘の向こうを南へ回れば、連合の軍の東の脇へ出る。


「東の脇を固めろ。歩人甲士の予備を、東へ」


 命令を出した直後、別の斥候が駆け戻ってきた。


「先ほどの、東の敵の群れ——もう、東の丘の南の端を回っております!」


 狄承武は、図の上で、その群れの位置を、動かし直した。


 斥候が、敵を見つけて、司令部へ駆け戻ってくるまでに、四半刻。その四半刻の間に、敵は、次の場所へ移っていた。


 図の上の敵は、いつも、四半刻前の、敵の影だった。


  ◇


 西の丘の側では、重い弓騎兵の群れが、ロマニエ軍のアルマトイに、矢を集め始めていた。


 丘の陰から現れ、アルマトイの列の斜め前に回り込み、サギタリイの矢がようやく届く縁まで入っては、矢と光を浴びせて退く。


 アルマトイは、崩れなかった。


 けれど、列を前へ進めようとすれば、隊形が乱れる。重い鎧の兵が、盾を揃えたまま、丘の斜面を登ることはできない。止まれば、矢を浴び続ける。


 サギタリイが、矢を返した。敵は、少し退き、また近づいた。


 狄承武の丘から見て、ロマニエ軍の最も強い兵が、その強さのために、その場に釘付けにされていた。


 動けば崩れる。動かなければ削られる。


 大宋の前衛の前にも、重い弓騎兵の別の群れが現れた。


「神臂弓、放て」


 斉射が、弓騎兵の群れを襲った。何騎かが、倒れた。


 弓騎兵の群れは、すぐに、丘の陰へ入った。


 神臂弓の射線が、丘に遮られた。


 弓騎兵は、丘の陰から出てくるときだけ、矢を放ち、神臂弓が構え直す前に、また丘の陰へ戻った。


 丘の陰に隠れた敵を、弩で射ることはできない。


「敵は、我らの弩の、まっすぐな射線を、丘で切っております」


 神臂弓兵の指揮使が、伝令を通じて報せてきた。


  ◇


 昼過ぎ、狄承武は、最も恐れていた報せを受けた。


「敵の騎兵、輜重の方へ!」


 伝令が、叫んでいた。


「ロマニエ軍のバッリスタリウスの陣と、我が軍の輜重の間に、敵が!」


 狄承武は、図を見た。


 ロマニエ軍の後方の、大弓の陣。その東に、大宋軍の輜重の荷車の列。その二つの間には、両軍の繋ぎ目があった。大宋の兵と、ロマニエの兵が、互いの号令の境で、隣り合っている場所。


 敵は、そこを狙っていた。


 最も強い兵のいる正面ではなく。


 二つの軍の、繋ぎ目を。


 東の丘を回り込んだマングダイの別の群れが、その繋ぎ目へ、一気に駆け込んでいた。


「火槍兵を、輜重の前へ。斬馬刀隊を、その後ろへ」


 狄承武は、叫んだ。


  ◇


 火槍兵が、輜重の荷車の列の前へ駆けつけたのは、マングダイの先頭が、荷車まで百歩に迫ったときだった。


 轟音。


 火槍の筒から、炎と煙と火の粉が噴き出した。先頭の馬が、狂ったように棹立ちになった。後ろの馬が、ぶつかった。何騎かが、地に倒れた。


 そこへ、斬馬刀隊が、火槍兵の間から飛び出した。


 長い柄の大刀が、炎に怯えて止まった馬の脚を払い、落ちた騎手を押さえ込んだ。火槍の一撃で足の止まった騎兵を、斬馬刀隊が、一騎ずつ、徒歩の戦いで押し返していった。


 狄承武は、丘の上から、それを見ていた。


 これが、大宋の兵器の強さだった。


 炎で止め、大刀で押し返す。術者も、祈りも、要らない。


 だが、火槍は、続けて噴けない。筒の中の火薬が燃え尽きれば、次の筒に火薬を詰め直すまで、使えない。煙が、火槍兵自身の視界を塞いだ。火槍兵の列が、乱れた。


 歩人甲士が、前へ出た。盾を並べ、火槍兵と神臂弓兵を、その後ろに覆った。乱れた列が、歩人甲士の盾の後ろで、組み直されていった。


  ◇


 ロマニエ軍の側でも、兵たちは、それぞれの役目を果たしていた。


 アルマトイは、中央を保っていた。サギタリイは、近づいてくる騎兵へ、途切れずに矢を返していた。バッリスタリウスは、固まった敵へ、槍のような矢を撃ち込んでいた。


 一つひとつの兵は、正しく戦っていた。


 けれど、カタフラクタイが、脇から突っ込もうとするたびに、重い弓騎兵は、ぶつかる前に退いた。そして、別の方から、また矢を浴びせた。


 ロマニエ軍は、戦えば強かった。けれど、敵に、戦う距離を選ばれていた。


 勝ちを、決着に変えられなかった。


  ◇


 日が傾きかけた頃、敵の第二の群れが、輜重の方へ迫ってきた。


 今度は、数が多かった。


 東の丘を回ってきたマングダイと、西の丘から下りてきた重い弓騎兵が、繋ぎ目の一点で、合わさろうとしていた。


 ステファノスの司令部から、連絡の将が駆けてきた。


「ステファノス将軍、プロトリアヌスを、繋ぎ目へ出す、と」


 狄承武は、息を呑んだ。


 プロトリアヌス。皇帝直属の親衛の重歩兵。最後の最後に使う、と、ステファノスが言っていた兵。


 それを、出す。


「我が軍も、玄甲軍を出す」


 狄承武は、即座に言った。


「追うためではない。プロトリアヌスと、歩人甲士と、アルマトイが、敵を止めたら、その脇だけを突け。止まった敵の脇だけだ。深追いはするな」


  ◇


 プロトリアヌスが、司令部の傍らを離れ、繋ぎ目へ向かって進んだ。


 金の縁取りの盾が、夕日を受けて光った。揃った足音が、地を踏んだ。


 プロトリアヌスは、崩れかけていた繋ぎ目に入ると、盾を並べ、通り道を塞いだ。アルマトイとは別の、最後の壁だった。


 マングダイの群れが、その壁の前で、止まった。


 その脇へ、玄甲軍が、突っ込んだ。


 黒い鎧の重い騎兵が、止まった騎兵の群れの脇腹へ、まっすぐに叩きつけた。追うのではなく、止まった敵の、脇だけを。


 マングダイの群れが、崩れた。


 重い弓騎兵が、それを見て、退き始めた。


 夕日の中で、狄承武は、見ていた。


 大宋の神臂弓、火槍、歩人甲士、斬馬刀隊、玄甲軍。ロマニエのアルマトイ、サギタリイ、バッリスタリウス、カタフラクタイ、プロトリアヌス。リミタネイの斥候。


 十一の兵が、それぞれの役目を果たして、崩れかけた戦線を、立て直していた。


 日が沈む頃、ヴォルガルの軍は、退いていった。


 囲もうとして、囲めずに。


  ◇


 勝ちだった。


 疑いようのない、勝ちだった。


 連合の軍は、戦場を保った。敵にも、前の二度の戦いより、ずっと大きな傷を負わせた。敵は、繋ぎ目を突き破ることも、輜重を奪うことも、できなかった。


 その夜、両軍の司令部に、集計の報せが届き始めた。


 狄承武は、天幕の中で、それを一枚ずつ読んだ。


 玄甲軍。馬、三百頭のうち、今日走った百八十頭は、明日は走れぬ。二、三日は休ませねばならぬ。


 カタフラクタイ。同じく、馬の疲れ、ひどし。


 プロトリアヌス。死傷、五十余。皇帝直属の兵が、五十余。


 神臂弓の矢。今日一日で、一万本余りを射た。残り、四万本を切る。


 サギタリイの矢束。同じく、多く減る。


 火槍の火薬。今日一日で、持ってきた量の四分の一を使った。


 バリスタの弾。三分の一を使った。


 傷を負った兵を後ろへ運ぶ荷車が、足りない。


 狄承武は、報せの紙を、卓の上に並べた。


 今日、自分は、二つの予備を使った。


 玄甲軍と、プロトリアヌス。


 どちらも、最後の備えのはずだった。今、どちらも、明日は、最後の備えの形ではない。


 次に、どこから敵が現れるのか。


 分からない。


  ◇


 狄承武は、天幕の外に出て、夜の平原を見た。


 ヴォルガルの軍は、どこかにいる。


 今日の戦いで、ヴォルガルの軍も、傷を負った。前の二度より、ずっと大きな傷を。


 けれど、主力は、壊されていなかった。


 マングダイも、重い弓騎兵も、今日、退いていった群れは、崩れてはいたが、潰れてはいなかった。


 今日、敵は、戦場を譲った。


 その代わりに、連合の軍に、矢を使わせ、火薬を使わせ、馬を疲れさせ、予備を使わせた。


 狄承武は、天幕に戻り、作戦の図を広げた。


 図の上には、三度の戦いの、勝ちの印が並んでいた。国境平原。乾河床。二つの丘。三度とも、戦場を保った。


 それなのに。


 補給の列は、国境の門から、長く、細く、伸びていた。二つの前進拠点と、その井戸に、守りの兵を残してきた。今日の戦いで、矢と火薬と馬が減った。予備は、どちらも、使った。


 そして、敵の主力が、今どこにいるのかは、分からない。


 狄承武は、図の上に、筆で、二本の線を引いた。


 一本目の線の横に、「一戦ごと」と書いた。その下に、勝ち、勝ち、勝ち。


 二本目の線の横に、「戦役」と書いた。その下には、何も書けなかった。


 一戦ごとの勝ち負けと、戦役全体の勝ち負けは、別のものだ。


 狄承武は、それを、この夜、初めて、はっきりと思い知った。


  ◇


 開封に、三度目の勝ちの報せが届いたのは、年が明けてからだった。


 国境平原。乾河床。二つの丘。三度続けて、連合の軍が、戦場を保った。


 修平の手元には、統計房が作った表があった。


 遠征の報告から拾い出した数だった。戦場を保った回数、三。敵の死傷の推定。味方の死傷。遠征の費え。


 どの数も、悪くなかった。


 戦場は三度とも保った。敵の死傷は、こちらの何倍も推された。費えは、国の証文と中央銀行の手立てで、無理なく賄えていた。国の中の物の値も、利も、落ち着いていた。


「経済の面では、まだ、十分に余力があります」


 修平は、戸部の執務室で、葉正言にそう言った。


「国の証文の利は、上がっておりません。中央銀行の蔵の銀も、手形の仕組みで、減り方が緩やかになりました。国の中の商いも、冷えていない。この遠征が、あと一年、二年続いても、国の財が崩れることはないと思います」


 葉正言は、黙って、修平の顔を見ていた。


 その卓の上の、統計房の表と並んで、もう一枚、紙が置かれていた。


 楊崇武が、枢密院から戸部へ回してきた、遠征の前線の、矢と火薬と馬の減り具合と、軍器監の工房の作り足しの遅れとを記した報せだった。


 修平は、その紙にも目を通していた。矢と火薬の作り足しが追いつかぬのは、急に求めが増えたための、一時の詰まりだろう。銭が流れ続ければ、いずれ解ける。そう判じていた。


 修平の手元の表は、落ち着いていた。


 その表には、神臂弓の矢の数も、火槍の火薬の量も、玄甲軍の馬の疲れも、載っていなかった。


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