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第三巻 敗北 第十回 乾河床

 国境平原の戦いから六日後、連合の軍は、最初の前進拠点を取り除いた。


 取り除いた、と言っても、戦いはなかった。


 赤い四角で図に描かれていた拠点は、連合の軍が着いたとき、空だった。土を盛った塁と、木の柵と、焼け落ちた小屋がいくつか。井戸は、石で塞がれていた。糧も、替えの馬も、何も残っていなかった。


 ヴォルガルは、戦わずに、拠点を捨てていた。


 ステファノスの幕僚たちは、図の上の赤い四角に、線を引いた。一つ目の目的を、果たした。


 ロマニエの兵たちが、塞がれた井戸の石を取り除き、井戸を浚った。水が出るまでに、半日かかった。糧を扱う官吏が、井戸の傍らに、守りの兵と、次の補給の荷を置く場所を決めた。


 狄承武は、空の拠点の塁の上に立ち、北を見ていた。


 北には、低い丘が、いくつも連なっていた。丘と丘の間を、干上がった川の床が、白い帯のように曲がりくねって、北西へ延びていた。


 次の拠点は、あの川の床の先にあった。


  ◇


 三日後。


 干上がった川の床と、低い丘の続く土地で、マングダイが、再び連合の軍の前衛に触れてきた。


 狄承武は、司令部の丘から、それを見た。


 前回とは、違った。


 前回、マングダイは、遠くで止まり、横へ流れ、少しずつ近づいては離れた。今度は、近づいてくるのが速かった。そして、離れるのも速かった。


 神臂弓の届く距離の、ぎりぎりの縁まで来て、そこで、くるりと向きを変える。


 正確に、縁まで。一歩も、内へは入らずに。


「覚えておる」


 狄承武は、呟いた。


「神臂弓の届く距離を。九日前に、測ったのだ」


 昼過ぎ、重い弓騎兵が、丘の陰から現れた。


 前回とは、止まる距離が違った。二百五十歩ではなく、三百歩の少し外。神臂弓の矢が、届くか届かぬかの、ちょうど縁だった。


 弓騎兵たちは、そこでは矢を放たなかった。ただ、並んで、待っていた。


「神臂弓、放て」


 角笛が鳴り、神臂弓兵が斉射した。


 矢は、届いた。縁の上で、何騎かの弓騎兵が倒れた。


 だが、斉射の音が止むか止まぬかのうちに、弓騎兵の群れの一部が、前へ駆け込んできた。


 百五十歩まで。


 弓を引き、矢と光を浴びせた。重い弓の矢が、盾の縁を越えて、列の中へ落ちた。光の弾が、列の前で爆ぜた。


 神臂弓兵たちが、弩の鐙に足をかけ、弦を引き直し始めた。


 その間に、別の方角から、マングダイの群れが、前衛の列へ向かって駆け込んできた。近づいて、矢を放ち、すぐに離れた。


 神臂弓兵が弦を引き終え、矢を番え、構えたとき、駆け込んできた弓騎兵も、マングダイも、もう三百歩の外にいた。


 弓騎兵の群れは、また、縁の上に並んで、待っていた。


 狄承武は、それを見て、背筋が冷たくなるのを感じた。


 敵は、神臂弓を無力にすることは、できていなかった。神臂弓が射れば、敵は倒れる。


 けれど、敵は、神臂弓が射った後の、弦を引き直している間を、知っていた。そして、その間に、別の群れを差し込んできた。


 神臂弓の、斉射と斉射の間の、空白を。


  ◇


 西側の、ロマニエ軍の前では、アルマトイが、別の苦しみの中にいた。


 重い弓騎兵の群れが、アルマトイの列の、正面ではなく、斜め前から、矢を浴びせていた。


 アルマトイの槍は、届かない。サギタリイの弓は、届く。サギタリイが矢を返すと、弓騎兵は、少し退く。サギタリイが次の矢を番える間に、弓騎兵は、また、少し近づく。


 アルマトイは、崩れなかった。


 鉄の壁は、斜めからの矢を受けても、一歩も退かなかった。


 けれど、崩れないことと、傷つかないことは、違った。


 斜めから飛んでくる矢は、盾の縁を越えて、盾を持つ腕に当たった。鎧の隙間の、脚に当たった。列の後ろで、槍や矢を運ぶ従兵に当たった。馬に当たった。


 一人、また一人。


 倒れはしない。死にもしない。けれど、腕を射られた兵は、盾を持てなくなる。脚を射られた兵は、列から外れる。従兵が倒れれば、矢の補いが遅れる。


 狄承武は、丘の上から、ロマニエ軍の列を見ていた。


 鉄の壁は、そこに立っていた。立ったまま、少しずつ、削られていた。


 負けていない。


 だが、反撃もできない。


  ◇


 リミタネイの斥候から、報せが来たのは、午後も遅くなってからだった。


「敵の騎兵、川の床に沿って、北西へ退いております」


 ロマニエ軍の司令部から、連絡の将が、駆けてきた。


「ステファノス将軍より。カタフラクタイの一部を、川の床に沿って追わせる、と。敵を放っておけば、川の床を回って、我らの脇か、輜重へ出るおそれがある。追って、川の床から追い払う、と」


 狄承武は、図を見た。


 理にかなっていた。川の床は、騎兵の通り道だ。そこを敵に握られたまま進めば、いつ脇を突かれるか分からない。


「我が軍からも、玄甲の一隊を出す」


 狄承武は、言った。


「カタフラクタイの脇を固めさせろ。ただし、深追いはさせるな。川の床の曲がりを二つ越えたら、戻れと伝えろ」


 伝令が、駆けていった。


 しばらくして、丘の上から、狄承武は、川の床の方を見た。


 カタフラクタイの群れが、地響きを立てて、白い川の床を北西へ駆けていた。その脇に、大宋の玄甲の一隊。


 その前方を、マングダイの群れが、逃げていた。


 逃げながら、振り返って、矢を放っていた。


  ◇


 狄承武は、目を凝らした。


 マングダイの先頭の群れが、矢を放ち、前を向いて駆けた。その後ろの群れが、振り返って、矢を放った。その後ろの群れが、また。


 順番に、振り返り、射り、駆ける。


 カタフラクタイは、重い鎧に守られていた。矢の多くは、鎧に弾かれた。けれど、馬の脚に当たった矢が、何騎かを倒した。


 そして、カタフラクタイと玄甲の群れは、追いつけなかった。


 近づいたと思えば、マングダイは、少しだけ速く駆けた。離れたと思えば、少しだけ、速さを落とした。追う側が、手が届きそうで、届かない距離を、ずっと保っていた。


 川の床の、一つ目の曲がりを、二つの群れが越えた。


 狄承武は、そのとき、見た。


 川の床の両脇の、低い丘の上に、別の騎馬の群れが現れた。


 重い弓騎兵だった。


 左右の丘の上から、弓騎兵が、川の床を駆けるカタフラクタイと玄甲の群れに、矢を浴びせた。前方では、マングダイが、振り返っては射っていた。


 川の床の上で、追っていたはずの群れが、三方から、矢に囲まれていた。


「追撃を止めろ!」


 狄承武は、叫んだ。


「角笛を! 全部の角笛を鳴らせ! 戻れと!」


 丘の上で、角笛が、一斉に鳴った。旗が、大きく振られた。


 けれど、その音と旗が、川の床の一つ目の曲がりの向こうまで、届くのか。


 狄承武は、伝令を三騎、続けて走らせた。


  ◇


 命令が、全ての部隊に届くまでに、時がかかった。


 丘の上の角笛は、近くの部隊には、すぐに届いた。大宋の前衛は、すぐに、列を固めて止まった。


 けれど、川の床の曲がりの向こうの玄甲の一隊に、角笛は、届いたのか届かなかったのか。伝令の一騎目は、途中で、弓騎兵の矢に阻まれて、引き返してきた。


 そして、カタフラクタイは、大宋の角笛では止まらなかった。


 大宋の角笛の音と、ロマニエの角笛の音は、違う。大宋の旗の振り方と、ロマニエの旗の振り方も、違う。大宋の司令部が、止まれと命じても、それは、まず、連絡の将を通して、ロマニエの司令部に伝わらねばならない。ロマニエの司令部が、それを聞いて、ロマニエの角笛を鳴らす。


 その間に、カタフラクタイは、川の床の、二つ目の曲がりへ向かっていた。


 狄承武は、丘の上で、歯を食いしばった。


 予備の玄甲軍の、残りの半分を、呼んだ。


「追うためではない」


 狄承武は、玄甲軍の指揮使に、言った。


「前へ出すぎた味方を、連れ戻すためだ。川の床の一つ目の曲がりまで出て、そこで止まれ。そこから先へは行くな。戻ってくる味方を、脇から守れ。敵とぶつかる必要はない」


 玄甲軍が、丘を駆け下りた。


  ◇


 日が沈む頃、川の床から、カタフラクタイと玄甲の一隊が、戻ってきた。


 大きな損害は、なかった。


 玄甲軍の残りの半分が、川の床の一つ目の曲がりに現れたとき、左右の丘の上の弓騎兵は、すぐに、距離を取った。重い騎兵の群れとぶつかることを、嫌ったのだ。カタフラクタイも、ようやく、ロマニエの角笛を聞いて、向きを変えた。


 敵の弓騎兵は、重い騎兵が近づけば、離れる。離れた重い騎兵が、また追おうとすれば、また離れる。


 重い騎兵の馬が、疲れるまで。


 狄承武は、戻ってきた玄甲の兵たちの、馬の息の荒さを見て、それを知った。


 騎兵には、騎兵をぶつければいい。


 そう考えていた者は、連合の軍の中にも、少なからずいた。韓奇捷も、その一人だった。


 けれど、ぶつかってこない騎兵に、騎兵をぶつけることは、できなかった。


  ◇


 その夜の報せは、前回と同じだった。


 敵騎兵を退けた。追撃の後、秩序を保って再集結した。陣地を保った。


 戦果の表の上では、連合の軍は、また、勝っていた。


 けれど、狄承武の天幕の中で、作戦の図を囲んだ大宋の指揮使たちの顔は、明るくなかった。


「神臂弓の空白を、突かれました」


 神臂弓兵を預かる指揮使が、言った。


「射った後、弦を引き直す間に、別の群れが入ってくる。それを繰り返されれば、矢ばかり減って、敵は減りませぬ」


「火槍は、今日は、一度も使えませんでした」


 火槍兵を預かる指揮使が、言った。


「敵が、火槍の届くところまで、近づいてこなかったのです」


「斬馬刀隊も、同じです。敵が、列に食い込んでこない」


 狄承武は、黙って、皆の言葉を聞いていた。


 それから、図の上の、川の床の曲がりを指した。


「今日、私は、あそこで、止まれと命じた」


 指揮使たちが、図を見た。


「その命が、玄甲の一隊に届くまでに、どれだけかかったか。カタフラクタイに届くまでに、どれだけかかったか。——誰か、測っておったか」


 誰も、答えなかった。


「敵は、測っておったと思う」


 狄承武は、言った。


「今日、敵が測ったのは、神臂弓の空白だけではない。我らが、止まれと命じてから、それが前の兵に届くまでに、何刻かかるか。大宋の命が、ロマニエの兵に届くまでに、何刻かかるか。——それを、測っておったのだと思う」


 天幕の中が、静まり返った。


 狄承武は、天幕の外に出た。


 北の平原は、暗かった。


 敵影は、また、遠くへ消えていた。


 今日、連合の軍は、また勝った。けれど、今、敵の主力がどこにいるのかを、誰も、説明できなかった。


  ◇


 開封に、その報せが届いたのは、冬の半ばだった。


 葉正言は、戸部の執務室で、遠征の報告と、遠征の費えの帳簿を並べて、修平を呼んだ。


「二度目の戦いも、勝ったそうだ」


 葉正言は、報告を修平に渡した。


「敵騎兵を退けた。追撃の後、秩序を保って再集結した。陣地を保った。——敗れた、とは、どこにも書いておらぬ」


 修平は、報告を読んだ。


 確かに、敗れたとは、どこにも書かれていなかった。


「費えの方は」


「落ち着いておる」


 葉正言は、帳簿を開いた。


「遠征の国の証文は、今月も、市で売れた。利も、上がっておらぬ。銀の手形の一回目は、河西を越えた頃だろう。中央銀行の蔵の銀も、まだ余裕がある。換わり目も、この半年、大きくは揺れておらぬ」


 修平は、帳簿を目で追った。


 どの数字も、落ち着いていた。


「戦費の調達には、まだ、十分に余力があると思います」


 修平は、言った。


「国の証文の利が上がっていないのは、市が、この遠征の費えを、無理なく呑み込めているということです。銀の手形も、うまく回り始めれば、万里の道で銀を運ぶ手間が減ります」


「戦が長引いたら」


「長引いても、国の証文と、中央銀行の手立てで、支えられると思います」


 修平は、少し考えてから、言葉を継いだ。


「費えが続けば、国の中で、軍の求める品——矢や、火薬や、武具や、糧——を買う銭が、途切れずに流れます。銭が途切れずに流れれば、それを作る工房も、商人も、作り続けられます。作る者が足りなければ、銭が、作る者を引き寄せます。——軍の求める品も、次第に、増えていくはずです」


 葉正言は、黙って、修平の言葉を聞いていた。


 それから、帳簿を閉じた。


「楊枢密から、矢と火薬の作り足しの算段について、戸部に問い合わせが来ておる」


 葉正言は、帳簿の上に、一枚の書状を置いた。


「軍器監の工房は、今も手一杯だそうだ。銭を積んでも、職人と、鉄と、硝石が、追いつかぬ、と」


「銭が続けば、職人も、鉄も、硝石も、集まってくるはずです」


 修平は、言った。


「すぐには無理でも、一年、二年あれば」


 葉正言は、書状を見下ろしていた。


「一年、二年、か」


 葉正言は、低く繰り返した。


 窓の外で、その冬はじめての雪が、ちらちらと舞い始めていた。


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