第三巻 敗北 第九回 国境平原
国境の門を出て、四日目の朝だった。
狄承武は、本隊の中ほどの、小高い丘の上に設けた司令部で、作戦の図を広げていた。
図の上には、今朝までに届いた報せをもとに、兵の位置が描き込まれていた。前衛。本隊。予備。輜重。ロマニエ軍の各隊。
けれど、狄承武は、その図を見るたびに、一つのことを思い知らされていた。
図の上の位置は、いつも、今より遅れている。
前衛の位置を知らせる伝令が、馬で司令部まで駆けてくるのに、半刻。その間に、前衛は、半刻分、先へ進んでいる。ロマニエ軍の位置は、ロマニエ軍の司令部から、さらに連絡の将を通して届くので、一刻近く遅れる。
図の上の兵は、いつも、少し前の、兵の影だった。
「報せです」
伝令が、丘を駆け上がってきた。
「リミタネイの斥候より。北の丘陵の向こうに、敵の騎兵。数、およそ二百。こちらへ向かっております」
続けて、もう一人。
「我が軍の斥候より。東の干上がった川の床に沿って、敵の騎兵の群れ。数、不明」
さらに、もう一人。
「ロマニエ軍の司令部より。敵の主力は北へ退いた模様、と」
狄承武は、三つの報せを、図の上に並べた。
北から二百。東に数の分からぬ群れ。主力は北へ退いた。
どれかが、間違っているのか。
いや、と狄承武は思った。どれも、少しずつ、正しいのだ。敵は、実際に、あちこちに分かれている。
「前衛に、止まれと伝えろ。列を固めろ」
◇
最初に現れたのは、マングダイだった。
丘の上から、狄承武は、それを見た。
北の地平線に、小さな騎馬の影が、ぽつり、ぽつりと現れた。十騎。二十騎。群れというより、点だった。点は、こちらの前衛の遠く前で止まり、しばらく動かず、それから、横へ流れ始めた。
連合の軍の前を、端から端まで、なぞるように。
点の一つが、急にこちらへ近づいてきた。神臂弓の届く距離の、ずっと手前で止まり、また遠ざかった。別の点が、別の場所で、同じことをした。
「測っておる」
狄承武は、呟いた。
「我らの列の幅を。進む速さを。見張りの線を。リミタネイの斥候が、どこまで出ておるかを」
韓奇捷が、傍らで、拳を握りしめていた。
「統制。前衛から、玄甲の半隊を出して、あの点を追い散らしては」
「出せば、追わされる」
狄承武は、首を振った。
「決めた通りだ。追わぬ」
昼近くになって、点の数が増え始めた。
北の丘陵の稜線に、騎馬の群れが並んだ。マングダイより、影が重い。鎧を着た馬と、鎧を着た騎手。背に、大きな弓。
重い弓騎兵だった。
数は、五百か、六百か。
群れが、丘を下り始めた。ゆっくりと。それから、少しずつ、速く。
◇
重い弓騎兵は、連合の軍の前衛から、およそ二百五十歩のところで、一度、速度を落とした。
狄承武は、それを見て、息を呑んだ。
二百五十歩。
ロマニエのサギタリイの弓は、二百歩を少し超えたところで落ちる。バッリスタリウスの大弓は届くが、据えて、向きを定めるのに時がかかる。——あの距離は、普通の徒歩の弓兵が相手なら、弓騎兵にとって、列を整えて息を入れる、安全な距離だった。そこで整え、百五十歩まで一気に駆け込み、射て、また戻る。十年の国境の戦で、ヴォルガルの騎兵たちは、それを体で覚えていたのだろう。
その群れの中の何騎かが、弓ではなく、手を掲げた。
手の先に、光が生じた。術の光は、弓の矢より遠くまで届く。
光の弾が、前衛の列へ飛んできた。
「盾を上げろ!」
前衛の歩人甲士とアルマトイが、一斉に盾を掲げた。矢が、盾に突き刺さる音が、雨のように続いた。光が、盾に当たって、爆ぜた。何人かの兵が、倒れた。
「神臂弓、第一列」
狄承武は、丘の上から、伝令に叫んだ。
「放て」
旗が振られ、角笛が鳴った。
歩人甲士の列の間から、神臂弓兵が一歩前へ出て、弩を構えた。
百の弦が、一度に鳴った。
百の矢が、二百五十歩の距離を、低い弧を描いて飛んだ。
弓騎兵の群れの前方の空中で、何本かの矢が、見えぬ壁に当たって逸れた。術者の障壁だった。
だが、壁は、群れの全部を覆ってはいなかった。
障壁の外を飛んだ矢が、弓騎兵の群れの中へ、次々と突き刺さった。鎧を着た馬が、棹立ちになった。鎧を着た騎手が、馬から落ちた。
群れが、揺れた。
狄承武は、丘の上から、それを見ていた。
弓騎兵たちが、明らかに、戸惑っていた。二百五十歩。自分たちが、息を入れるための安全な距離だと信じていたところだ。そこに、矢が届いた。しかも、鎧を貫いて。
「第二列、放て」
二度目の斉射が、群れを襲った。
弓騎兵の群れが、崩れるように、後ろへ下がり始めた。
◇
弓騎兵が下がると、今度は、その脇から、マングダイの群れが、前衛へ向かって駆け込んできた。
速かった。重い弓騎兵が崩れた隙に、軽い騎兵が、前衛の列の端を狙って、一気に距離を詰めてきた。
「火槍、前へ」
狄承武の命令が、角笛で前衛に伝わった。
歩人甲士の列の間から、火槍兵が前へ出た。
マングダイの先頭が、五十歩、四十歩と近づいてきた。
轟音がした。
火槍の筒から、炎と煙と火の粉が、前へ噴き出した。
マングダイの馬が、狂ったように嘶いた。先頭の何騎かが、馬ごと、横倒しになった。後ろに続く騎馬が、その炎と煙の壁の前で、一斉に向きを変えた。何騎かが、馬を御しきれずに、互いにぶつかった。
狄承武は、丘の上から、それを見ていた。
マングダイの騎手たちが、炎の向こうで、何かを叫んでいた。切れ切れに聞こえてくるその声の調子は、狄承武には、恐れより、驚きに聞こえた。
火槍を、彼らは、初めて見たのだ。
術者のいない場所から、炎と轟音が噴き出してくる。そういう兵器を。
◇
西側の、ロマニエ軍の前では、別の戦いが続いていた。
重い弓騎兵の別の群れが、アルマトイの列に、斜めから矢を浴びせていた。
アルマトイは、崩れなかった。
盾と盾が、縁を重ねて並んだ鉄の壁は、矢を浴びても、光に打たれても、一歩も退かなかった。倒れた兵の位置には、すぐに、後ろの列の兵が入った。壁に、穴は開かなかった。
その後ろから、サギタリイが、途切れぬ矢を返していた。
弓騎兵の群れが、アルマトイの壁の前で、一瞬、固まった。
その固まった一点へ、後方から、バッリスタリウスの大弓が、槍のような矢を撃ち込んだ。矢は、固まった騎馬の中へ落ち、何騎かを、まとめて地に叩きつけた。
弓騎兵の群れの脇へ、カタフラクタイが、地響きを立てて突っ込んだ。
弓騎兵たちは、カタフラクタイとぶつかる前に、散った。
狄承武の丘から見ても、ロマニエ軍の正面は、鉄の城のようだった。ヴォルガルの騎兵は、その城を、正面から崩そうとはしなかった。一度、二度、矢を浴びせ、崩れないと見ると、早々に、別の方へ流れていった。
◇
日が傾き始めた頃、ヴォルガルの軍は、退き始めた。
潰走ではなかった。
群れごとに、順番に、北へ下がっていった。重い弓騎兵が先に退き、マングダイが最後まで残って、連合の軍の前を行き来した。倒れた仲間の馬を引き、傷ついた騎手を、替え馬に乗せて。
連合の軍は、追わなかった。
日が沈む頃には、平原の上に、ヴォルガルの騎馬の影は、一つもなくなっていた。
残されたのは、倒れた馬と、倒れた騎手と、捕らえられた何十人かの捕虜だった。
大宋とロマニエの両軍の司令部に、次々と報せが届いた。
敵を退けた。戦場を保った。敵の死傷、数百と推す。こちらの死傷、百に満たず。捕虜、四十余。
ロマニエ軍の陣から、歓声が上がった。
大宋の兵たちの間からも、歓声が上がった。
韓奇捷が、丘を駆け上がってきた。顔が、紅潮していた。
「統制! 勝ちました! あの騎兵ども、神臂弓が届いた時の顔といったら。火槍を見た時の、あの馬の暴れようといったら」
「そうだな」
狄承武は、作戦の図を見下ろしたまま、答えた。
「勝った」
◇
その夜、狄承武は、一人で、司令部の天幕の中にいた。
卓の上に、作戦の図が広がっていた。今日の戦いの報せをもとに、敵と味方の動きが、書き込まれていた。
狄承武は、その図を、何度も見直した。
勝った。確かに、勝った。敵は退き、戦場はこちらのものになった。死傷も、敵の方がずっと多い。
けれど、敵は、崩れて逃げたのではなかった。
順番に、秩序を保って、下がっていった。倒れた者を連れて。
そして、最後まで残ったマングダイは、退きながらも、ずっと、こちらを見ていた。
狄承武は、今日の戦いの流れを、頭の中で、もう一度辿った。
弓騎兵は、二百五十歩で止まった。神臂弓が届いた。弓騎兵は、それを知った。
マングダイは、前衛の端へ駆け込んできた。火槍が噴いた。マングダイは、それを知った。
弓騎兵の別の群れは、アルマトイに矢を浴びせた。アルマトイは崩れなかった。サギタリイは、二百歩あまりで矢を返した。バッリスタリウスは、固まったところへ撃ち込んだ。カタフラクタイは、脇から突っ込んだ。——弓騎兵は、その一つひとつを、知った。
神臂弓は、一度射てから、次に射るまでに、どれだけの間がかかるか。
火槍は、何歩まで届くか。
サギタリイの矢は、何歩で落ちるか。
アルマトイは、どれくらいの速さで動けるか。
バッリスタリウスの大弓は、据えるのにどれだけかかるか。
カタフラクタイは、どれくらいの間で、突っ込んでくるか。
狄承武は、図の上に、筆で、小さな字を書き入れた。
敵が測ったもの。
その下に、一つずつ、書き並べた。
書き終えて、狄承武は、筆を置いた。
今日、我らは、戦場を得た。
敵は、我らの戦い方を得た。
狄承武は、天幕の外に出た。
北の平原は、暗かった。星の光の下に、何も見えなかった。
けれど、その暗闇のどこかで、マングダイが、今日見たものを、誰かに報せているはずだった。
◇
その報せが、四月をかけて、パルシアを越え、西域を越え、河西を越えて、開封に届いたのは、冬の初めだった。
東ロマニエとの共同の軍、国境の平原にて、ヴォルガル軍を退け、戦場を保つ。敵の死傷数百、こちらは百に満たず。捕虜四十余。
都堂は、その報せを、御前廷議に上げた。
修平は、説明員の位置ではなく、殿の端で、その報告を聞いていた。この日の議題は、遠征の費えのことで、中央銀行と戸部の者たちが、何人か呼ばれていた。
楊崇武が、報告を読み上げた後、戸部尚書・葉正言が、遠征の費えの帳簿を示した。
遠征の国の証文は、市で順調に売れている。中央銀行の騒ぎ以来、利は落ち着いている。遠征の一行へ送る銀の手形も、両替商と中央銀行が用意し、西へ送り始めた。国の中の商いも、物の値も、落ち着いている。——戦費の調達に、差し障りはない。
修平は、その帳簿の数字を、頭の中で辿った。
どれも、落ち着いていた。
二年前、この国は、銭荒に苦しみ、会子の値の揺れに怯えていた。今、この国は、万里の西で戦う軍の費えを、国の証文で、何の騒ぎもなく賄っている。中央銀行が、利を整えている。統計房が、毎月、数を集めている。
そして、その西の軍が、勝った。
殿の中に、明るい空気が流れていた。
廷議の後、殿を出るとき、鄭仲謙が、修平の肩を叩いた。
「林詳定。この調子なら、遠征も、来年には片がつくのではないか」
「そうかもしれません」
修平は、頷いた。
勝った。費えも、足りている。国の中の商いも、落ち着いている。
この戦は、そう長くはかからないかもしれない。
修平は、そう思った。
修平の手元にある数字は、どれも、実際に、落ち着いていた。
数字は、嘘をついていなかった。




