第三巻 敗北 第八回 戦術計画
作戦の図は、方面軍の司令部の大広間の、壁一面を覆っていた。
ステファノスの幕僚たちが、三日かけて描いたものだった。テオドリアの城壁から北へ、国境の外の平原。その上に、街道が細い線で描かれ、干上がった川の床が波の線で描かれ、低い丘が丸い印で描かれ、井戸が小さな円で描かれていた。三つの前進拠点は、赤い四角で。ロマニエ軍の補給の拠点は、青い四角で。
大宋側の書記たちが、その図の横に、もう一枚、紙を貼った。
大宋の三千の兵が、この戦のために消費する物の見積もりだった。
兵の糧、一日あたり。馬の秣、一日あたり。神臂弓の矢、一戦あたり。火槍の火薬、一戦あたり。荷車、何台。荷車を引く牛と驢馬、何頭。
ステファノスは、その紙を、長いこと眺めていた。
「矢と火薬の数まで、見積もるのか」
「見積もらねば、足りなくなったときに、気づけませぬ」
狄承武は、言った。
「我が国の枢密院は、兵を動かす前に、必ずそれを出させます。——我が国の北辺でも、矢が足りずに困ったことが、何度もございました」
◇
「まず、戦の目的を、改めて確かめておく」
ステファノスが、作戦の図の前に立った。
「三つの前進拠点を取り除く。国境の外縁の、この井戸の列と、この街道を、一つずつ取り戻す。取り戻した井戸と街道には、守りを置き、補給の拠点を築く。そうして、国境の守りの奥行きを取り戻す」
ステファノスは、図の上の、三つの赤い四角を指した。
「敵の兵を、追い回して滅ぼす必要はない。——だが、敵が土地を譲れば、我らは、この線まで、進まねばならぬ」
ステファノスは、図の上に引かれた、一本の線を指でなぞった。三つの拠点と、井戸の列と、街道とを、結んだ線だった。
「この線が、我らの目的だ」
狄承武は、その線を見つめた。
敵を追わない。けれど、この線までは、進む。
合同の閲兵の夜から、ずっと、それが頭に引っかかっていた。
「一つ、確かめておきたい」
狄承武は、言った。
「敵が、拠点を捨てて、退いたとき。我らは、拠点へ進む。敵は、さらに奥へ退く。我らは、井戸の列へ進む。——敵が、戦わずに退き続けたら、我らは、どこまで進むことになる」
「この線までだ」
ステファノスは、即座に答えた。
「この線を越えては、進まぬ。この線を取り戻せば、目的は果たされる」
「この線まで進む間に、敵が、戦わずに、我らの脇や後ろへ回ったら」
ステファノスは、少し間を置いた。
「そのための、斥候だ。そのための、予備だ」
狄承武は、頷いた。
筋は、通っていた。
◇
それから、二日かけて、両軍は、戦い方を決めた。
第一の原則は、ステファノスが示した。
「敵の主力は、騎兵だ。我らは、無理に追わぬ。歩兵の列を崩さず、敵の攻めを受け止める。受け止めて、傷を負わせる」
正面には、大宋の歩人甲士と、ロマニエのアルマトイを並べる。
両者を混ぜはしない。混ぜれば、号令が通じなくなる。大宋の歩人甲士は大宋の号令で動き、ロマニエのアルマトイはロマニエの号令で動く。二つの列が隣り合う繋ぎ目にだけ、互いの言葉と旗を知る連絡の将を置く。
「射撃は、二段にする」
狄承武が、作戦の図の上に、印を置いていった。
「神臂弓兵を、歩人甲士の間に置く。敵の弓騎兵が近づいてきたら、まず神臂弓で、遠くから叩く。——連合の軍の中で、あの弓騎兵の安全な距離を、じかに脅かせるのは、神臂弓だけです」
ステファノスの幕僚たちが、頷いた。閲兵の日に、三百歩先の鉄の札が貫かれたのを、皆が見ていた。
「ただし、神臂弓は、一度射れば、弦を引き直すのに時がかかる。その間を、サギタリイの弓で埋めていただきたい。サギタリイは、途切れずに射られる。敵を倒すというより、敵に、息をつかせぬために」
「バッリスタリウスは」
「敵が、丘の間の道や、狭い通り道に固まったときだけ、大弓で叩いていただく。速く動く敵を追うのは、大弓には向かぬ」
ステファノスが、同意した。
「敵の騎兵が、列に近づいてきたら」
「火槍兵を、歩人甲士の間から前へ出します」
狄承武は、図の上の、歩人甲士の列の前に、赤い印を置いた。
「火と煙と轟音で、馬を乱す。それでも列に食い込んできた騎兵は、斬馬刀隊が、列の内側で止める」
「騎兵は」
「玄甲軍と、カタフラクタイは、追うためには使いませぬ」
狄承武は、図の後方に、黒い印と、青い印を置いた。
「予備として、後ろに置く。歩兵と弓が敵を足止めし、敵の退く道や脇が限られたときだけ、そこへ叩きつける。それ以外では、動かさぬ」
「プロトリアヌスは、司令部と、輜重と、二つの軍の繋ぎ目が危うくなったときだけ動かす。最後の備えだ」
ステファノスが、付け加えた。
◇
「斥候は、どうする」
董元礼が、問うた。
「リミタネイの斥候隊に、前へ出てもらう」
ステファノスは、言った。
「あの者たちは、この土地を、誰よりも知っておる」
「我が軍の斥候も、出したい」
狄承武が、言った。
「二つの軍の斥候を、組にして出しませぬか。リミタネイの斥候が、土地を読む。我が軍の斥候が、それを我が軍の言葉で報せる」
ステファノスは、少し考えた。
「組にして出すのはよい。だが、報せは、それぞれの軍の司令部へ、それぞれ送らせよう。リミタネイの斥候は、我が軍の書式で、我が軍の司令部へ。そなたの斥候は、そなたの軍の書式で、そなたの司令部へ。——司令部同士で、それを突き合わせる」
狄承武は、一瞬、ためらった。
斥候の報せが、二つの司令部へ、別々に届く。それを、後で突き合わせる。突き合わせるまでの間に、時が過ぎる。
けれど、一つにまとめようとすれば、どちらの書式で、どちらの言葉で、誰が受け取るのかを、一から決めねばならない。それを決めるには、この二日では足りない。
「……それで、まいりましょう」
狄承武は、頷いた。
◇
「追撃は」
韓奇捷が、問うた。
狄承武は、韓奇捷を見た。
この若い指揮使が、いちばん聞きたかったのは、それだろう。
「追わぬ」
狄承武は、はっきりと言った。
「敵が、はっきりと崩れて、逃げている。そして、斥候が、敵の後ろにも脇にも、別の群れがいないことを確かめた。——その二つが揃ったときだけ、追う。それ以外は、追わぬ。騎兵を一騎逃がしても、列を崩さぬ方がよい」
韓奇捷は、何か言いかけて、口を閉じた。
ステファノスが、頷いた。
「我が軍も、それで行く」
「補給の隊は」
「本隊から離しすぎぬ」
プラエフェクトゥス・プラエトリオの官署の、糧を扱う官吏が、言った。
「井戸を一つ取り戻すたびに、そこに守りを置き、そこまで荷を運ぶ。次の井戸へ進むのは、その後だ。一度に遠くへ進まぬ」
◇
三日目の夕刻、作戦の図の上に、全ての印が置き終わった。
狄承武は、図の前に立ち、一歩下がって、全体を眺めた。
正面に、大宋の歩人甲士と、ロマニエのアルマトイの、二つの列。その間に、神臂弓兵と、サギタリイ。列の前に、火槍兵。列の内側に、斬馬刀隊。後方に、バッリスタリウスの大弓。さらに後方に、玄甲軍とカタフラクタイの予備。司令部の傍らに、プロトリアヌス。前方に、リミタネイと大宋の斥候の組。そして、本隊のすぐ後ろに、補給の荷車の列。
正面から攻めてくる敵に対して、これほど固い布陣は、狄承武も見たことがなかった。
ヴォルガルの騎兵が、この列に突っ込んできたら、砕けるのは、向こうだろう。
神臂弓が、遠くから叩く。サギタリイが、息をつかせぬ。近づけば、火槍が焼く。食い込めば、斬馬刀が止める。崩れたところへ、玄甲軍とカタフラクタイが叩きつける。
負ける理由が、見当たらなかった。
狄承武は、図を見つめたまま、しばらく動かなかった。
敵が、この列に、攻めてきたら。
そう思ったところで、狄承武は、自分の考えの中に、一つの前提があることに気づいた。
敵が、攻めてくる。あるいは、少なくとも、前進の拠点や、井戸や、街道を守るために、しばらくの間、この野に留まる。
もし、敵が、攻めてこなかったら。拠点も、井戸も、街道も、あっさりと捨てて、退いたら。
そのときは、こちらが、進まねばならない。この線まで。
進めば、布陣は、動く。動けば、補給の列は伸びる。伸びた補給の列を、誰が守るのか。
斥候が、敵の位置を掴んでいる。予備が、どこへでも間に合う。補給の列は、後方で守られている。——この布陣は、その三つが揃っていることを、前提にしている。
狄承武は、それを、口に出そうかと思った。
けれど、何と言えばいいのか、分からなかった。三つとも、備えてある。斥候も出す。予備も置く。補給の列も本隊から離さない。それ以上、何をすればいいのか。
それに、と狄承武は思った。この布陣には、あの弓騎兵を捕まえて、逃げる自由そのものを奪う兵が、どこにもない。遠ざけることはできる。追い払うこともできる。だが、捕まえることはできない。
そして、図の上では一つの軍に見えるこの布陣は、実のところ、二つの国の軍を、隣に並べて繋いだものだった。大宋の兵は、大宋の旗と角笛と伝令で動き、ロマニエの兵は、ロマニエの旗と角笛と伝令で動く。地図の印の描き方も、報せの書き方も、違う。
今、この時の、この二つの国の軍が持っている手立ての中では、これが、最も慎重な計画だった。
「狄統制」
ステファノスが、隣に立った。
「どう見る」
狄承武は、図から目を離さずに答えた。
「今、我らが持っておる知らせと、手立ての内では、これ以上の計画は、立てられぬと思います」
ステファノスは、頷いた。
「私も、そう思う」
それから、少し間を置いて、付け加えた。
「そして、それが、少し恐ろしい」
狄承武は、ステファノスを見た。
ステファノスは、図を見ていた。
「十年、奴らと戦ってきた。その十年、我らは、いつも、これ以上の計画はないと思って、出ていった」
◇
翌朝、陛下の許された限られた共同の防衛の範囲の内で、二つの国の軍が、テオドリアの北の門から、国境の外へ出た。
大宋の三千と、ロマニエの一万二千。
作戦の図の上では、全ての兵が、あるべきところに、整然と並んでいた。
紙の上では、負ける理由が、ほとんど見当たらなかった。




