第三巻 敗北 第六回 共同作戦
崔景伯が帝都から国境へ戻ってきたのは、夏の盛りのことだった。
ひとりではなかった。同じ駅伝の馬車の列に、ロマニエの東方野戦軍を率いるマギステル・ミリトゥム、ステファノス・ヴァリダスが加わっていた。その後ろに、ステファノスの幕僚たちと、何人かの長衣の官吏が続いていた。
狄承武は、テオドリアの城壁の内側にある、方面軍の司令部の一室で、崔景伯から、帝都での話の結末を聞いた。
「皇帝は、共同の防衛を、お許しになった」
崔景伯は、卓の上に、一枚の文書を広げた。
「ただし、限られた形で、だ。ヴォルガルの国境の外に、ここ数年のうちに築かれた前進の拠点がいくつかある。それを取り除く。国境の外縁の街道と、井戸の列と、補給の拠点を、一つずつ取り戻す。そうして、国境の守りの奥行きを、取り戻す。——それが、この共同の戦の目的だ。ヴォルガルの国の奥深くへ攻め入ることではない」
狄承武は、文書を読んだ。
ロマニエの皇帝の名と、大宋の使節の名が、並んで記されていた。国の名は、ロマニエ、と記されていた。
「開封の裁可は」
「まだだ。開封まで報せが届いて、戻ってくるまで、一年はかかる」
崔景伯は、苦い顔をした。
「使節の権限の内で、限られた共同の防衛までは、決めてよいと、出立の時に都堂から言われておる。それを越えることは、決めておらぬ。——狄統制。そなたの兵を、この文書の範囲の内で、使わせてもらう」
「承知しました」
狄承武は、文書を巻いた。
三年前、長城の上で、会子が通らずに飼い葉を掛けで買っていた自分が、今、万里の西の国で、別の国の皇帝の許しの下、共同の戦に兵を出そうとしている。
狄承武は、そのことを、しばらく噛みしめていた。
◇
共同の戦の協議は、翌日から、方面軍の司令部の大広間で始まった。
卓の片側に、ステファノス・ヴァリダスと、その幕僚たち。反対側に、狄承武と、韓奇捷と、大宋の指揮使たちと、董元礼。崔景伯は、卓の端に座った。
最初に、ステファノスの幕僚が、大きな地図を広げた。
テオドリアの北の国境。そこから北へ、乾いた平原が広がり、ところどころに低い丘と、干上がった川の床と、井戸の印があった。平原の向こうに、ヴォルガルの前進拠点の印が三つ。
「敵の兵力は、我らの見るところ、この一帯で、騎兵を主とする二万から三万」
ステファノスが、地図を指しながら言った。
「ただし、一か所に固まっておることは、まずない。いくつもの群れに分かれて、この平原を動き回っておる。前進の拠点には、少数の守りと、糧と、替えの馬を置いておる」
狄承武は、地図を見つめた。
この地図は、軍の地図だった。敵の数と、拠点の位置と、道。
けれど、そこに、糧のことは、何も書かれていなかった。
「我が軍の糧と秣は、どこから」
狄承武が問うと、ステファノスは、卓の端に座っていた長衣の官吏の方を向いた。
「それは、私の答えることではない」
◇
長衣の官吏が、立ち上がった。
東方プラエフェクトゥス・プラエトリオの官署から来た、糧と供給を扱う官だと名乗った。四十代の、帳面を何冊も抱えた男だった。
官吏は、軍の地図とは別の、もう一枚の地図を広げた。
そこには、敵の拠点は描かれていなかった。代わりに、テオドリアから北の国境へ向かう街道と、その沿いの町と村と、倉庫と、宿駅と、井戸が描かれ、その一つひとつに、細かい数字が書き込まれていた。
「この一帯で、この夏から秋にかけて、兵のために徴することのできる麦の量。馬のための秣の量。荷車の数。荷車を引く牛と驢馬の数。宿営のできる場所と、そこで同時に養える兵の数」
官吏は、数字を一つずつ読み上げた。
「これを越えて徴すれば、この一帯の民が、冬を越せなくなります。民が冬を越せなければ、来年の税が入らず、来年の兵の糧が出ませぬ」
狄承武は、二枚の地図を見比べた。
一枚は、軍の地図。敵と、拠点と、道。
もう一枚は、民政の地図。麦と、秣と、荷車と、宿営。
二枚は、同じ土地を描いていた。けれど、描かれているものが、まるで違った。
「兵の数と、動かし方は、マギステル・ミリトゥムがお決めになる」
官吏は、ステファノスの方へ、軽く頭を下げた。
「ですが、その兵を、この土地で、どれだけの間、養えるかは、この地図が決めます。私は、兵を一歩も動かせませぬ。ですが、この地図の数を越えて、麦を出すこともできませぬ」
ステファノスが、苦笑した。
「この男と、私は、この十年、毎年、同じ話をしておる」
◇
矢と武具の話になると、また別の者が現れた。
ステファノスの幕僚が、ロマニエ軍の矢と、槍と、盾と、バリスタの弾の蓄えを読み上げた。それが足りなくなったときの補いを、狄承武が問うと、今度は、濃い青の長衣の男が立ち上がった。
国境で国書を受け取った駅伝の官と、同じ色の長衣だった。
「マギステル・オフィキオルムの系統の、武器の工房の者でございます」
男は、名乗った。
「矢と、槍と、盾と、バリスタの弾は、この帝国の東の、いくつかの国の工房で作っております。工房は、マギステル・ミリトゥムのものではなく、官房の長のものでございます。マギステル・ミリトゥムが、これだけ要る、と申されれば、我らが作る。作るための鉄と木と皮は、コメス・サクラルム・ラルギティオヌムの系統と、プラエフェクトゥス・プラエトリオの系統から、回してもらう。作ったものを前線へ運ぶ荷車は、また、プラエフェクトゥス・プラエトリオの系統から」
韓奇捷が、狄承武の耳元で、小さく囁いた。
「統制。一本の矢が、前線に届くまでに、四つの官が関わっておりますな」
「黙っておけ」
狄承武は、小さく言い返した。
「我が国の矢も、似たようなものだ」
◇
協議は、十日続いた。
十日かけて、両軍は、いくつかのことを取り決めた。
大宋の軍とロマニエの軍は、互いに攻めぬ。
大宋の軍の糧と秣は、プラエフェクトゥス・プラエトリオの官署の地図の数の内で、ロマニエの市で、定めた値で買う。大宋の軍が持つ銀が尽きれば、ロマニエの官署が一時立て替え、後に大宋が払う。その払いの方法は、使節と、コメス・サクラルム・ラルギティオヌムの系統の官との間で、別に定める。
傷ついた兵は、どちらの軍の者であれ、近くにいる方の医官と、ロマニエの聖職者が、手当てをする。ただし、ロマニエの聖職者は、大宋の兵に対し、祝福の言葉を唱えず、改宗を勧めず、慈悲の業としてのみ、癒やしの術を施す。
敵の動きの報せは、両軍が、互いに渡す。
戦場の近くの民は、両軍が、共に守る。民の家に押し入らず、民の財を奪わず、民の井戸を汚さぬ。
捕らえた敵は、捕らえた軍が扱い、殺さず、傷を手当てし、記録を取り、互いに渡し合う。
道の使い方は、日ごとに、どちらの軍がどの道を使うかを、前日のうちに決めておく。
宗教のことは、協議の最後の日に、ステファノスの傍らにいた従軍聖職者の長が、ロマニエの教会の公会議の決議を読み上げた。
大宋の兵に、改宗を強いぬ。ロマニエの兵に、大宋の神を拝ませぬ。共に礼拝をせぬ。大宋の軍旗は、ロマニエの軍旗と並べてよいが、聖旗の上に掲げてはならぬ。大宋の兵を、聖堂の境内に宿営させてはならぬ。
狄承武は、それを聞き終えると、立ち上がった。
「我が国の兵は、貴国の神を拝みませぬ。それは、我が国の兵が、貴国の神を軽んじておるからではありませぬ。我が国には、我が国の天と、我が国の祖先への礼がございます。——そして、我が国の兵は、貴国の聖堂にも、聖旗にも、貴国の兵の祈りの場にも、決して立ち入りませぬ。それを、私の軍法で、兵に守らせます」
従軍聖職者の長は、しばらく狄承武を見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「——東の将は、我らの決議の文言を、そのまま、自分の軍法に書き写すと申されるか」
「そのつもりです」
従軍聖職者の長は、胸の前で、指で小さな円を描いた。祈りの仕草なのだろう、と狄承武は思った。
◇
最後に、ステファノスと狄承武は、二人だけで、軍の地図の前に立った。
ステファノスは、地図の上の、三つの前進拠点の印を、指で辿った。
「ここと、ここと、ここ。三つの拠点を、この夏と秋のうちに、取り除く。取り除いた後、この井戸の列と、この街道を、我らの手に取り戻す。——それが、陛下の許された、この戦の目的だ」
「敵の兵を、追って叩くことは」
「目的ではない」
ステファノスは、首を振った。
「ヴォルガルの騎兵を追い回しても、捕まえられぬ。我らは、この十年で、それを嫌というほど学んだ。だが、敵が土地を譲れば、我らは、その土地へ進まねばならぬ。拠点を取り除き、井戸を取り戻すまで」
狄承武は、地図を見つめた。
敵を追わない。けれど、敵が退けば、進まねばならない。
その二つは、矛盾しないのか。
狄承武は、それを口に出しかけて、やめた。まだ、敵を見てもいないうちに、言うべきことではない、と思った。
「一つ、お伝えしておきたいことがある」
ステファノスが、言った。
「我が軍の中で、命令が下るのは、私からだ。だが、我が軍が食い、我が軍が射る矢が届くのは、今日そなたが見た、別の官たちからだ。私が、明日、北へ進めと命じても、プラエフェクトゥス・プラエトリオの官が、北の村では麦が足りぬ、と言えば、我が軍は、北へ進めても、長くは留まれぬ。——我が軍は、そなたの軍より、決めるのが遅いかもしれぬ」
ステファノスは、狄承武を見た。
「それを、我が国の者の怠慢と、思わないでもらいたい」
「思いませぬ」
狄承武は、首を振った。
「この十日で、貴国の軍が、なぜそうなっておるのかは、分かったつもりです。将が、兵と、税と、裁きと、糧を、全部一人で握れば、将は、国の中のもう一つの国になる。——我が国も、それを恐れて、将と、糧と、税を、分けております」
ステファノスは、少し驚いたような顔をした。
「そなたの国も、か」
「我が国の兵の頂には、将ではなく、文の官が立っております。枢密使と申します。私も、その命に従う」
ステファノスは、しばらく黙っていた。
それから、低く笑った。
「遠い東の国も、同じことで苦労しておるのだな」
「同じ苦労ではないかもしれませぬ。似た苦労です」
狄承武は、地図の上の、三つの前進拠点の印を見た。
「その苦労の分だけ、我ら二つの軍が一つになって動くには、時がかかりましょう。貴国の軍の中でも、軍の命と、糧の文書が、別々に動いておる。そこへ、我が軍が加わる。我が軍の命と、貴国の軍の命と、貴国の糧の文書とが、三つ、別々に動く」
「それは、敵には、見えておると思うか」
ステファノスの問いに、狄承武は、すぐには答えられなかった。
「……分かりませぬ」
ようやく、そう言った。
「ただ、我らには、見えております。見えておるなら、備えられる。——伝令を、倍に増やしましょう。貴国の軍と我が軍の境には、互いの言葉と旗を知る者を、連絡の将として置きましょう」
ステファノスは、頷いた。
窓の外で、テオドリアの城壁の上の旗が、北からの風に翻っていた。
その風は、乾いていた。北の平原から吹いてくる、夏の風だった。




