第三巻 敗北 第五回 三つの選択
遠征の費えの帳簿は、年が明けてから、目に見えて厚くなっていた。
戸部の一室で、葉正言は、その帳簿を修平の前に開いた。
「国の証文で集めた銭は、足りておる」
葉正言は、帳簿の頁を指で叩いた。
「遠征の国の証文は、市で順調に売れておる。中央銀行が騒ぎを収めてからは、利も落ち着いた。都の中では、遠征の費えのために、困っておる者はおらぬ。——困っておるのは、都の外だ」
修平は、帳簿の頁を目で追った。
遠征の一行が、この一年半で使った銭の内訳だった。
西域藩王府で買った糧と馬。藩王府の者たちは、大宋の銅銭も会子も受け取った。藩王府は大宋に朝貢する国で、大宋の銭が通る。
極西藩王府で買った糧。ここでは、会子は受け取られなかった。銅銭と、銀。
パルシアの王道の宿駅で買った糧と秣。パルシアの商人たちは、大宋の銅銭も会子も受け取らなかった。銀だけ。それも、パルシアの銀貨に換えてから。
アルメニオンの峠の町で買った糧。銀。
そして、ロマニエの国境で買った糧。ロマニエの銀貨。大宋の銀を、国境の関の役人の定めた割合で、ロマニエの銀貨に換えて。
「遠征の一行が持っていった銀が、底をつきかけておる」
葉正言は、帳簿の一番新しい頁を指した。
「崔侍郎の報告では、ロマニエとの共同の戦の話がまとまれば、遠征はさらに長引く。兵の糧を、ロマニエの市で、ロマニエの銀貨で買い続けねばならぬ。——都から、銀を送らねばならぬ。それも、万里の道を」
◇
「銀を送るのに、何月かかりますか」
修平は、問うた。
「駅伝の急使でも、四月。銀を積んだ荷なら、もっとかかる。道中で盗まれる恐れもある」
葉正言は、苦い顔をした。
「それに、銀を送れば、都の銀が減る。中央銀行の蔵の銀も、両替商の蔵の銀も。銀の相場が上がり、会子や銅銭で銀を買う商人たちが困る」
修平は、帳簿を見つめていた。
国の中では、中央銀行の帳簿の上で、杭州から開封へ、銭を一枚も動かさずに送れるようになった。国の証文も、会子も、預りも、国の中では、信用されている。
国の外へ出た途端、それが、何も通らなくなる。
パルシアの商人にとって、大宋の中央銀行の預りは、ただの紙だった。大宋の国の証文も、ただの紙だった。彼らが受け取るのは、どこの国でも値打ちの変わらない、銀だけだった。
「遠征の一行に、手形を持たせることは、できませんか」
修平は、言った。
「大宋の中央銀行が、支払いを保証する手形です。ロマニエの商人が、その手形を受け取る。その商人が、いつか、その手形を、大宋の商人との商いに使う。あるいは、大宋の中央銀行へ持ってきて、銀に換える」
「ロマニエの商人が、大宋の中央銀行の手形を、受け取ると思うか」
「はじめは、受け取らないでしょう」
修平は、正直に言った。
「けれど、崔侍郎の報告では、ロマニエの商人の中には、パルシアを通って、西域と大宋との間の商いに加わっている者もいるそうです。そういう商人なら、大宋の手形を、いずれ大宋との商いの支払いに使える。——はじめは、そういう者から。手形が、確かに銀に換えられると分かれば、受け取る者は、少しずつ増えます」
葉正言は、腕を組んだ。
「手形の値打ちは、最後は、中央銀行が本当に銀に換えるかどうかで決まる」
「はい」
「では、中央銀行は、どれだけの銀を蔵に置いておかねばならぬ。遠征の手形のために。それに、これから外の国との商いが増えれば、外の国の商人が持ってくる手形のために」
修平は、少し間を置いた。
「……それが、今日、考えねばならないことです」
◇
その日の午後、修平は、中央銀行の本院で、程伯言と鄭仲謙と、統計房の韋明遠を交えて、葉正言と向かい合った。
卓の上に、修平は、紙を一枚広げた。
紙の上に、三角形を描いた。
三つの角に、それぞれ、言葉を書いた。
一つ目の角に、「国の中の利を、自由に決める」。
二つ目の角に、「国の銭と銀との換わり目を、決まった割合に留める」。
三つ目の角に、「国の内と外とを、銭と銀が、自由に行き来する」。
「国が、外の国と商いをするようになると、この三つを、同時には、全部は守れなくなります」
修平は、三つの角を、順に指した。
「私の国では、これを、三つの選択、と呼んでいました。三つのうち、二つまでは選べる。けれど、三つ全部は選べない」
程伯言が、白い眉を上げた。
「なぜだ」
「例えば、国の中の商いが冷えて、中央銀行が、利を下げたいとします」
修平は、一つ目の角を指した。
「利を下げれば、国の中で銭を預けても、あまり利がつかなくなります。すると、銭を持っている商人は、利の高い外の国へ、銭を移したくなります。国の銭を銀に換えて、外へ持ち出す。——三つ目の角、銭と銀が自由に行き来できるなら、そうなります」
修平は、二つ目の角を指した。
「皆が国の銭を銀に換えようとすれば、銀が高くなり、国の銭が安くなります。国の銭と銀との換わり目が、動く。——それを、決まった割合に留めておきたいなら、中央銀行が、蔵の銀を出して、国の銭を買い支えねばなりません。銀を出せば、国の中の銭が減り、利が上がる。せっかく下げた利が、また上がってしまう」
鄭仲謙が、眉を寄せた。
「利を下げたいのに、下げられぬ」
「はい。換わり目を留め、銭と銀の行き来も自由にするなら、国の中の利は、外の国の利に引きずられて、中央銀行が自由に決められなくなります」
修平は、三角形の三つの辺を、指でなぞった。
「国の中の利を自由に決め、換わり目も留めたいなら、銭と銀の行き来を止めるしかない。国の中の利を自由に決め、銭と銀の行き来も自由にしたいなら、換わり目は、市に任せて動かすしかない。——三つ全部は、選べない。どれを手放すかを、国が決めねばならないのです」
◇
部屋の中が、しばらく静かだった。
やがて、葉正言が、口を開いた。
「どれを、手放すべきだ」
「それは、国の形によって違います」
修平は、言った。
「外の国との商いが、国の商いの大半を占める小さな国なら、換わり目を留める方を選ぶかもしれません。換わり目が大きく揺れれば、商いそのものが立ち行かなくなるのですから。——大宋は、どうでしょう」
修平は、韋明遠の方を見た。
「韋算学。この国の商いのうち、外の国との商いは、どれくらいの割合ですか」
「推すしかございませぬが」
韋明遠は、算木の箱に手を置いた。
「市舶司の関の税の帳簿と、国の帳簿の試しとを並べますと、外の国との商いは、国の商い全体の、十分の一にも届きませぬ。大宋の商いの大半は、国の中で回っております」
「それに、外の国との商いで、大宋が、大きく買い越しているわけでもありません」
修平は、続けた。
「絹も、茶も、陶器も、外の国がこちらから買っています。こちらが外から買うものも、ありますが、大きく偏ってはいない」
修平は、三角形の一つ目の角を、丸で囲んだ。
「ですから、大宋が、何よりも守るべきは、これだと思います。国の中の利を、国の中の物の値と商いを見て、自由に決めること。中央銀行が、この二年かけて作ってきたものです」
「では、換わり目を、留めぬ、と」
程伯言が、言った。
「留めません。国の銭と銀との換わり目は、市で決まるに任せます」
鄭仲謙が、身を乗り出した。
「それでは、国の銭の値が、日々、揺れるではないか。民は、紙幣の値打ちが揺れることを、何より恐れる。会子の年を、忘れたのか」
「会子の年に揺れたのは、国の中の物の値に対する、紙幣の値打ちです」
修平は、首を振った。
「中央銀行が守るのは、それです。国の中の物の値を、ならして年に二分前後に。——銀との換わり目は、それとは別です。民が米を買い、布を買い、家の借り賃を払うのに、銀の値は、ほとんど関わりません。関わるのは、外の国と商いをする商人と、外から来る品の値です」
修平は、二つ目の角を指した。
「換わり目が動くことには、利点もあります。もし、大宋が外の国から多く買いすぎて、国の銭を銀に換える者が増えれば、国の銭が安くなります。すると、外から来る品は、大宋の中で高くなり、買う者が減る。大宋の品は、外の国から見て安くなり、売れるようになる。——換わり目が動くこと自体が、買いすぎと売りすぎを、ならしてくれるのです」
「換わり目を留めれば、それが起きぬ」
「起きません。代わりに、中央銀行が、蔵の銀を出し続けて、換わり目を守らねばならなくなります。銀が尽きれば、守れなくなる。そして、それを守るために、国の中の利を、国の中の商いとは関わりなく、上げたり下げたりせねばならなくなる」
◇
「だが、放っておけば、どうなる」
程伯言が、言った。
「戦のときや、恐慌のとき、あるいは、誰かが大きく銀を買い占めたとき。換わり目が、一日で、半分にも、倍にもなったら。外の国と商いをする商人は、潰れる。その商人に貸していた銀行も、危うくなる」
「その時には、中央銀行が、手を入れます」
修平は、頷いた。
「平時は、換わり目を市に任せる。けれど、換わり目が、商いや銀行を危うくするほど、急に、大きく揺れたときには、中央銀行が、蔵の銀や、外の国の銀貨を使って、市で売り買いをして、揺れを和らげる。——換わり目を、ある割合に留めるためではなく、急な揺れを、なだらかにするために」
「そのためには、蔵の銀が要る」
「要ります。それに、換わり目がどう動いているかを、毎日、見ていなければなりません」
修平は、韋明遠を見た。
「中央銀行の中に、外の国との銭のやり取りを扱う部を、新しく置くべきだと思います。蔵の銀と、外の国の銀貨の多さ。外の国との商いの手形の出入り。両替商と銀行と大きな商会が、毎日、銀と国の銭をどれだけの割合で換えているか。国と商人が、外の国に、どれだけ払い、どれだけ受け取っているか。——それを、毎日、集めて、見る」
韋明遠が、頷いた。
「統計房で、両替商の組合に頼めば、始められましょう。泉州と広州の市舶司の帳簿も、要りますな」
「三つ目の角は、どうする」
葉正言が、言った。
「銭と銀の、国の内と外の行き来は」
「原則として、自由にしておくべきだと思います」
修平は、言った。
「商人が、外の国と商いをするために、銭を銀に換え、外へ払うこと。外の国の商人が、大宋の品を買うために、銀を持ってくること。いずれ、大宋の商人が、外の国の港や道に、銭を出して商いを広げること。——それを止めれば、大宋の商いが、外へ伸びていけません」
「恐慌のときは」
「恐慌のときに、国の中の銀行が危うくなり、短い間に、大きな銭が、一斉に外へ逃げ出そうとする。そういうときに限って、しばらくの間、外への持ち出しを届け出させたり、止めたりできる余地を、法に残しておく。——ただし、それは、あくまで非常の時の手立てです。平時には、使わない」
◇
話が一段落したとき、葉正言が、修平の最初の話に戻った。
「遠征の手形の話だ」
「はい」
「今の話で、換わり目を市に任せるなら、遠征の手形は、どうなる。大宋の中央銀行が、支払いを保証する手形。ロマニエの商人が受け取ったとして、それを銀に換えるときの割合は、日々、動くことになる」
「動きます」
修平は、頷いた。
「ですから、手形は、国の銭の額で書くのではなく、銀の重さで書いてはどうでしょう。大宋の中央銀行、または中央銀行が認めた銀行が、この手形を持ってくる者に、これこれの重さの銀を払う、と。——遠征の一行は、それで、ロマニエの商人から糧を買う。中央銀行は、その手形が持ち込まれたら、そのとき、銀を払う。それまでは、銀を万里の道で運ばずに済みます」
「手形を受け取ったロマニエの商人が、それを、大宋との商いの払いに使えば」
「その分、銀は、一粒も動きません。大宋の商人が、その手形を受け取り、中央銀行へ持ってきて、国の銭に換える。——国の中でやっていることを、国の外にまで、少しずつ広げるのです」
葉正言は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「二年前、我らは、杭州から開封へ銭を送るのに、舟で一月かけておった」
葉正言は、修平を見た。
「今、そなたは、ロマニエから開封へ、銀を運ばずに払う話をしておる」
「……まだ、紙の上の話です」
「紙の上の話から、始まるのだ。この二年、ずっとそうだった」
◇
十日後、御前で、廷議が開かれた。
修平は、説明員の位置に立ち、三角形の紙を示して、三つの選択を説いた。大宋は、国の中の利を自由に決めることを守る。換わり目は、市に任せる。銭と銀の行き来は、原則として自由にする。急な揺れのときにだけ、中央銀行が手を入れ、恐慌のときにだけ、行き来を止める余地を残す。
陳世昌が、最後に問うた。
「換わり目を、朝廷が守らぬ、ということは、国の銭の値を、朝廷が守らぬ、ということにはならぬか。民は、それを、朝廷が紙幣を見捨てた、と取らぬか」
修平は、陳世昌の方を向き、拝礼した。
「朝廷が守るのは、民が米を買い、布を買う、国の中での紙幣の値打ちです。それは、中央銀行が、年に二分前後を目当てに、守り続けます。——銀との換わり目を守らないのは、そのためです。換わり目を守るために、国の中の利を、外の国の銀の相場に合わせて動かせば、民の米や布の値を、守れなくなります」
修平は、言った。
「換わり目を捨てるのは、紙幣を見捨てることではありません。民の暮らしを、外の国の銀の相場に、従わせないためです」
陳世昌は、しばらく修平を見ていた。
それから、頷いた。
正面の座から、趙祺の声がした。
「換わり目のために民生を犠牲にするのではなく、換わり目を、国の商いをならす手立てとして使う。——そういうことだな」
「はい」
「よかろう」
趙祺は、李徳彰の方を向いた。
「裁可する。国の銭と銀との換わり目は、市に任せる。中央銀行は、国の中の利を自由に決めることを第一とする。銭と銀の行き来は、原則として自由とする。換わり目の急な揺れと、恐慌のときに限り、中央銀行は手を入れ、また、行き来を止める余地を残す。——中央銀行に、外の国との銭のやり取りを扱う部を置け」
李徳彰が、頭を下げた。
廷議が終わり、殿を出るとき、修平は、葉正言と並んで歩いた。
「二年前、この国は、銭荒に苦しんでおった」
葉正言が、前を向いたまま言った。
「今、我らは、外の国との換わり目の話をしておる」
「はい」
「遠征の一行は、ロマニエの国境で、糧を買っておる。——あの者たちの手元に、手形が届くのは、何月後だ」
「急いでも、四月後です」
修平は、言った。
「それまでは、持っている銀で、凌いでもらうしかありません」
葉正言は、頷いた。
殿の外の空は、晴れていた。




