第三巻 敗北 第三回 二つの帝国
謁見の間は、金色だった。
天井から壁まで、金の地に色石を嵌め込んだ絵が、隙間なく覆っていた。人の姿。天の姿。崔景伯には意味の分からない紋様。窓から差し込む朝の光が、その金に当たって、部屋全体を、ゆらめく光で満たしていた。
部屋の奥の、一段高いところに、玉座があった。
その玉座に、男が一人、座っていた。
四十代の半ばだろうか。痩せた顔に、短く整えた髭。頭には、宝石を嵌めた冠。紫の衣の上に、金糸の縫い取りのある肩掛けを重ねていた。
ロマニエ帝国の、バシレウス。アレクシオス六世。
崔景伯は、駅伝の官に教えられた作法の通りに、床に膝をつき、頭を下げた。大宋の使節として、自国の皇帝以外の君主に跪くことがどこまで許されるかは、パルシアの宮廷でも、礼部と散々議論した。結論は、相手国の作法に従って敬意を示すが、臣下の礼である叩頭はしない、というものだった。
膝をつき、頭を下げ、そして、顔を上げた。
アレクシオス六世は、崔景伯を見ていた。
その目に、崔景伯は、驚きを見た。それから、それ以上の、強い好奇心を。
皇帝が、何か言った。
通訳が、訳した。
「——遠い東の、大きな帝国から来た使節よ。そなたたちの国書は、読んだ。そなたたちの国の名は、大宋、というのだな。——余は、その名を、今日まで知らなかった。だが、そなたたちの国は、我が国の名を、知っていたのか」
崔景伯は、少し考えてから、答えた。
「商人たちから、聞いておりました。ヴォルガル帝国の、さらに西に、自らをロマニエ帝国と称する大きな国がある、と」
通訳が、それを訳した。
アレクシオス六世の表情が、わずかに動いた。
「自らを、ロマニエと称する——か」
皇帝は、低く笑った。
「そなたたちの商人は、正確だな」
◇
謁見は、短かった。
皇帝は、大宋の国の大きさを問い、都の名を問い、君主の名を問い、使節の旅の道のりを問うた。崔景伯は、一つずつ答えた。
最後に、皇帝は言った。
「そなたたちと、話すべきことは多い。だが、それは、ここでではない。——余の大官たちと、話せ」
皇帝が玉座から立ち上がると、謁見の間の者たちが、一斉に頭を下げた。
皇帝は、奥の扉へ消えていった。
◇
午後、使節の一行は、宮殿の別の棟の、一つの広間へ導かれた。
広間の中央に、長い卓が置かれていた。卓の向こう側に、六人の男が座っていた。
通訳が、一人ずつ、その肩書きを訳した。崔景伯は、昨夜作った対照表を膝の上に広げ、一人ずつ、その名を書き入れていった。
東方のプラエフェクトゥス・プラエトリオ。六十に近い、恰幅のよい男。この国の東半分の、土地の税と、兵や宮廷への糧の供給と、道と橋の修理と、裁きの上訴を預かる。
マギステル・オフィキオルム。国境で国書を受け取った白髪の男の、上役。痩せた、目の鋭い男。宮廷の官房と、外国の使節と、通訳と、駅伝と、監察の者と、武器の工房を預かる。
クァエストル・サクリ・パラティイ。四十代の、物静かな男。皇帝の法令を起草し、民や官から上がってくる願いと訴えを、法の文書に整える。
コメス・サクラルム・ラルギティオヌム。金と銀と、貨幣の鋳造と、関の税と、鉱山と、国の工房を預かる。
コメス・レルム・プリウァタルム。皇帝の持つ土地と、没収した財産を預かる。
そして、マギステル・ミリトゥム。五十代の、がっしりとした体つきの男。東方の野戦軍を率いる将。名を、ステファノス・ヴァリダスといった。
崔景伯は、六人の名と肩書きを、対照表に書き入れ終えると、顔を上げた。
「一つ、伺ってよろしいか」
通訳が、訳した。
六人が、頷いた。
「皆様は、我が国で申せば、六部の尚書のような、同じ格の大臣として、並んでおられるのか」
六人が、顔を見合わせた。
答えたのは、クァエストル・サクリ・パラティイだった。
「——我らは、並んではおります。皇帝陛下の評議の場——コンシストリウム、と申しますが——に、皆、列する。だが、同じではありませぬ。我らは、それぞれ、別の道を預かっておる」
クァエストルは、指で、卓の上に見えない線を何本か引いた。
「プラエフェクトゥス・プラエトリオの道は、帝国の東半分の、すべての属州と、すべての町へ通じる。その道を通って、税が上がり、糧が下りる。マギステル・ミリトゥムの道は、すべての軍団へ通じる。その道を通って、命令が下り、報せが上がる。マギステル・オフィキオルムの道は、駅伝と、使節と、工房へ通じる。——それぞれの道は、皇帝陛下のところで、一つに束ねられる。だが、途中では、交わらぬ」
崔景伯は、対照表の余白に、それを書き留めた。
「交わらぬ、とは」
「マギステル・ミリトゥムは、兵を動かしますが、税は取りませぬ」
ステファノス・ヴァリダスが、口を開いた。低い、よく通る声だった。
「私が、兵を東へ動かせ、と命じても、その兵に食わせる麦と、馬に食わせる秣と、荷を運ぶ車は、プラエフェクトゥス・プラエトリオの道を通ってこなければ、届きませぬ。私は、兵を動かす。だが、兵を食わせるのは、私ではない」
プラエフェクトゥス・プラエトリオが、苦笑した。
「そして、私は、麦と秣と車を握っておりますが、兵に一歩も動けとは命じられませぬ」
崔景伯は、二人を見比べた。
軍は、兵を動かすが、税を取らない。民政は、補給を握るが、兵を動かさない。
国境の門で、狄承武が言っていたことだった。この国の軍人は、兵を持っていても、税も裁きも、勝手にはできぬ。
「では、武器は、誰が作る」
董元礼が、問うた。
マギステル・オフィキオルムが、口の端を上げた。
「私でございます」
董元礼が、目を瞬かせた。
「官房の長が、武器を」
「古くからの決まりでございます。武器の工房は、軍の手元に置かぬ。軍が、自分で武器を作り、自分で兵を養い、自分で税を取れば、軍は、帝国の中のもう一つの帝国になる。——それを、我が国は、千年かけて、何度も見てまいりました。だから、分けておるのです」
◇
話は、元老院に及んだ。
崔景伯が、この国には元老院という集まりがあると聞いたが、それは皇帝と並んで法を定める場なのか、と問うた。
プラエフェクトゥス・プラエトリオが、少し考えてから答えた。
「元老院は、法を定めませぬ。法を定めるのは、皇帝陛下です。元老院は——そうですな、この国の、古い家と、高い官職を経た者と、都の有力者が、集まる場でございます。皇帝陛下が大きなことを決められるとき、元老院の声を、無視はなさらぬ。だが、元老院が、陛下と並んで、国を治めるわけではない」
「では、何のために」
「重みのためでございます」
プラエフェクトゥス・プラエトリオは、言った。
「元老院の者たちが、揃って、それはならぬ、と言えば、陛下も、よくよくお考えになる。元老院が、揃って、それでよい、と言えば、陛下のお決めになったことに、重みが増す。——法の力ではなく、重みの力でございます」
崔景伯は、対照表に、それを書き留めた。
それから、顔を上げると、今度は、向こう側から問いが来た。
「大宋の国は、どう治められておる」
問うたのは、マギステル・オフィキオルムだった。
「我らは、そなたたちの国書を読んだ。皇帝がおり、その下に、宰相がおる、と書いてあった。宰相というのは、我が国のプラエフェクトゥス・プラエトリオのようなものか。それとも、皇帝の代わりに、全てを治める者か」
崔景伯は、少し笑った。
昨日から、自分がこの国に問い続けてきたことを、今度は問われる番だった。
「どちらでもありませぬ」
崔景伯は、言った。
「我が国には、宰相が複数おります。左丞相と右丞相と、それを助ける参知政事。それらが集まる場を、都堂と申します。都堂は、国の政を議します。けれど、兵のことは、都堂では決めませぬ」
「では、誰が」
「枢密院と申す、別の府がございます。その長を枢密使と申し、皇帝の直属。都堂の宰相たちとは別に、兵の動きと、兵の糧と、兵の報せを預かります。——そして、その枢密使は、兵を率いる将ではなく、文の官でございます」
ステファノス・ヴァリダスが、眉を上げた。
「文の官が、兵の頂に立つのか」
「兵を動かす命は、枢密院から出ます。だが、実際に兵を率いて戦うのは、将でございます。将は、枢密院の命に従う。そして、枢密院は、皇帝の裁可に従う」
崔景伯は、続けた。
「それに、御史台という府があり、宰相も、枢密使も、その行いを見張られております。地方には、路という大きな区切りがあり、その一つの路に、転運司、提刑司、安撫司などが重なって置かれ、財と、裁きと、兵を、別々に預かりつつ、互いを見張っております」
六人が、顔を見合わせた。
「官は、どうやって選ぶ」
クァエストルが、問うた。
「試験で選びます」
崔景伯は、言った。
「科挙と申します。国中の、身分を問わぬ者が、経書と史書と文章と政の論で競う。州で試し、都で試し、最後に皇帝が試す。それを通った者が、官になる。私も、それを通って官になりました」
六人が、今度は、しばらく黙った。
やがて、クァエストルが、ゆっくりと言った。
「試験だけで、官を選ぶのか。家柄も、推挙も、なしに」
「家柄は、問いませぬ。ただ、長い学問に耐えられる家の者が、有利なのは、確かです。それに、試験を通った後の出世には、上役の推挙も効きます。——試験だけ、とは申せませぬ」
クァエストルは、崔景伯の顔をじっと見た。
「……我が国は、そうではない」
クァエストルは、言った。
「我が国の官は、皇帝陛下の信任と、家柄と、推挙と、それまでの官歴と、それに、それぞれの官房の中での長い年季とで、選ばれる。試験は、ない」
崔景伯は、頷いた。
「どちらも、一枚の図には描けぬ国のようですな」
通訳がそれを訳すと、六人の中に、初めて、小さな笑いが起きた。
◇
話が、国の成り立ちに及んだのは、夕刻近くだった。
崔景伯が、この国の古い歴史について問うたのがきっかけだった。千年近く前に造られた水道を、今も使っている、と聞いた。この国は、どれほど古いのか。
プラエフェクトゥス・プラエトリオが、答えた。
はるか昔、この国は、今よりもずっと大きかった。東の海から、西の大洋まで。あまりに大きかったため、帝国は、その統治を二つに分けた。東の大きな行政の区切りを、セラディアと呼び、西の大きな行政の区切りを、ヴァレシアと呼んだ。
やがて、西のヴァレシアは、北から来た諸族に侵され、失われた。
東のセラディアは、残った。
崔景伯は、それを聞きながら、頭の中で整理した。
「つまり、貴国は、古のロマニエ帝国の、後を継いだ国なのですな」
崔景伯は、そう言った。
大宋の歴史で言えば、漢が滅び、その後に別の国が起こり、やがて唐が、さらに宋が、天下を継いだ。王朝は替わる。けれど、天下は続く。この国も、そういうことなのだろう、と崔景伯は思った。
広間が、静かになった。
六人の大官が、互いに顔を見合わせた。
それから、プラエフェクトゥス・プラエトリオが、穏やかに、首を振った。
「使節殿。それは、少し違います」
通訳が、慎重に訳した。
「我らは、帝国を継いだのではありませぬ」
プラエフェクトゥス・プラエトリオは、卓の上に、両手を置いた。
「帝国には、二つの大きな行政の区切りがありました。セラディアと、ヴァレシア。我らは、そのうちのセラディアを、昔から、ずっと治めてきました。ヴァレシアは、失いました。だが、帝国そのものは、失っておりませぬ。皇帝は、途切れずに、ここにおられた。法も、官職も、税も、軍も、途切れずに、ここにあった」
プラエフェクトゥス・プラエトリオは、静かに言った。
「我らは、セラディアを治め、ヴァレシアを失っただけです。——帝国が東に残ったのであって、東に新しい帝国が生まれたのではありませぬ」
崔景伯は、しばらく、何も言えなかった。
それから、ゆっくりと、頭を下げた。
「……失礼を申しました」
「いえ」
プラエフェクトゥス・プラエトリオは、微笑んだ。
「遠い国の方が、そう考えられるのは、当然のこと。我らの国の中でさえ、若い者の中には、そう言う者がおりますからな」
崔景伯は、対照表とは別の紙に、その言葉を書き留めた。
帝国を継いだのではない。帝国が、ここに残った。
書き留めながら、崔景伯は思った。
これを、我が国の王朝の交替の理に当てはめて、読んではならない。この国の人々が、自分たちの国をどう考えているのか。それを、そのまま、記録せねばならない。
◇
「一つ、伺いたいことがございます」
崔景伯は、顔を上げた。
「西の国々は、貴国を、何と呼んでおりますか」
六人の顔が、わずかに曇った。
しばらくして、マギステル・オフィキオルムが、答えた。
「……西の国々の中には、我らを、ロマニエと呼ばぬ者がおります」
「何と、呼ぶのです」
「カレシアの帝国、と」
マギステル・オフィキオルムの声は、平らだった。
「我が国の中で、多くの者が話す言葉と、その文化を持つ者たちを、カレシア人と申します。それ自体は、恥ずべき名ではありませぬ。私も、カレシア人です。だが、西の者たちが、我らの帝国を、カレシアの帝国、と呼ぶとき、それは、我らを、カレシア人だけの、一つの民の国に縮めて呼んでおるのです。多くの民、多くの地を治める帝国を」
「もう一つ、ございます」
クァエストルが、言葉を継いだ。
「西の学者の中には、我らを、ミュラシオンの帝国、と呼ぶ者もおります。ミュラシオンというのは、この都がコンスタンティアと名づけられる前の、古い町の名です。その名で我らを呼ぶとき、西の学者たちは、こう言っておるのです。古のロマニエ帝国は、一度、滅んだ。その後に、ミュラシオンを中心とする、別の帝国が生まれた、と」
クァエストルは、静かに言った。
「我らの千年を、そこで、断ち切っておるのです」
広間が、静まり返った。
崔景伯は、膝の上の対照表を見下ろした。
この国の人々は、国の名を、何よりも重く考えている。国の名が、国の千年の続きそのものなのだ。
崔景伯は、顔を上げた。
「我が国は、正式に国書を交わすに至るまでは、貴国の国号も、貴国の君主の称号も、最終的には定めることができませぬ。それは、開封の朝廷が、決めることです」
六人が、頷いた。
「ですが、使節として、今この場で、決められることがございます」
崔景伯は、言った。
「私が、これから開封へ送る報告と、貴国との間で交わす仮の文書には、貴国の名を、ロマニエ、と、貴国の言葉の音のまま記します。カレシアでも、ミュラシオンでもなく。そして、貴国の君主の称号も、我が国の言葉に置き換えず、バシレウス、と、音のまま記します」
通訳が、それを訳した。
訳し終わっても、しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、マギステル・オフィキオルムが、ゆっくりと、言った。
「……我らを、ロマニエと、記してくれるのか」
その声は、先ほどまでの平らな声とは、違っていた。
「はい」
崔景伯は、頷いた。
「それが、貴国の名だと伺いましたので」
マギステル・オフィキオルムは、しばらく崔景伯の顔を見ていた。
それから、他の五人の方を向き、何か短く言った。
五人が、一斉に、崔景伯に向かって、頭を下げた。
崔景伯は、驚いて、身を引いた。
通訳が、戸惑いながら、マギステル・オフィキオルムの言葉を訳した。
「——西の国々とは、数百年、国書を交わしてまいりました。その国書で、我らの国の名を、我らの名のまま記してくれた国は、数えるほどしかない。——東の果てから来た、初めて会う国が、今日、それをしてくれた。そのことを、陛下にお伝えする、と申しております」
崔景伯は、しばらく、言葉が出なかった。
大宋には、この国の正統を論じるつもりはない。この国が古の帝国の続きなのか、後継なのか、それとも別の国なのか。それを裁く立場にも、ない。
ただ、相手が自分で名乗った名を、そのまま記した。
それだけのことが、この国の人々にとっては、それほどに重かったのだ。
◇
その夜、宿舎で、崔景伯は、開封への最初の報告を書いた。
この国の名は、ロマニエ。国の人々は、自らを古の帝国の後継ではなく、古の帝国そのものの続きと考えておる。西の国々が用いるカレシア、ミュラシオンの呼称は、この国の人々にとっては、国の続きを断つ侮りである。——使節は、仮の文書において、この国の名を、ロマニエと音のまま記した。君主の称号も、バシレウスと音のまま記した。最終の扱いは、朝廷のご判断を仰ぐ。
この国の官職は、我が国の官職の名に置き換えてはならぬ。別紙の対照表の通り、それぞれが、別の権限の道を預かり、皇帝のところで束ねられる。軍は兵を動かすが税を取らず、民政は糧を握るが兵を動かさず、官房は武器を作る。
書き終えて、崔景伯は、筆を置いた。
窓の外で、また、夜の祈りの鐘が鳴っていた。
明日から、話は、ヴォルガルのことになる。共に戦うのか、戦わないのか。
崔景伯は、窓の外の鐘の音を、しばらく聞いていた。




