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第三巻 敗北 第二回 皇都コンスタンティア

 駅伝の馬車は、一日に、驚くほど遠くまで走った。


 崔景伯は、揺れる車の中で、窓の外を流れていく景色を眺めながら、それを数えていた。


 夜明けに宿駅を出る。昼過ぎに、次の宿駅で馬を替える。夕刻に、その次の宿駅で、また馬を替える。夜には、さらに次の宿駅で泊まる。一日に、宿駅を三つ、四つ。馬は、宿駅ごとに新しい馬に替わる。疲れた馬は、そこで休み、別の日に別の車を引いて、来た道を戻っていく。


 宿駅は、どこも、同じ造りだった。石の塀に囲まれた中庭。厩。水場。旅人を泊める棟。そして、帳場。


 帳場には、必ず、書記が一人か二人いた。馬車が着くと、書記が出てきて、駅伝の官の差し出す文書を改め、何頭の馬を、どこからどこまで貸したかを帳面に記す。馬車が出るときには、次の宿駅への書状を、駅伝の官に手渡す。


「我が国の駅と、似ておりますな」


 向かいに座った董元礼が、言った。


「似ておる」


 崔景伯は、頷いた。


「だが、この国の駅伝は、使節と官と皇帝の命を運ぶためだけのものだそうだ。商人は使えぬ。——それに、この駅伝を預かっておるのは、兵部でも、戸部でもない。宮廷の官房の長だという」


「国境で国書を受け取った、あの白髪の男の上役ですな」


「マギステル・オフィキオルム」


 崔景伯は、その音を、口の中で確かめるように言った。


「宮廷の官房と、外国の使節と、通訳と、国の駅伝と、監察の者と、——それに、武器を作る工房まで、預かっておるそうだ」


 董元礼が、目を丸くした。


「武器の工房を、官房が」


「兵を率いる将ではなく、な」


 崔景伯は、窓の外に目を戻した。


「この国の官職の名を、我が国の官職の名に置き換えて考えてはならぬ。そう、肝に銘じておかねばならぬようだ」


  ◇


 帝都へ向かう道中、使節の一行は、いくつかの町を通った。


 どの町にも、崔景伯は、同じものを見た。


 町の中心の広場に、大きな石の建物が、二つか三つ、向かい合っている。一つは、属州知事の官署。そこで、税が査定され、訴えが裁かれ、道や橋の修理が命じられる。


 もう一つは、都市参事会の議場。町の有力者たちが集まり、国から割り当てられた税を、町の中でどう分けるかを決め、実際に集める。集めきれなければ、参事会の者たちが自分の財で埋め合わせねばならない、と通訳が教えてくれた。


 町によっては、三つ目の建物があった。軍の要塞司令部だった。そこには、町の周りの砦と、街道の見張りを預かる将がいる。将は、属州知事の命を受けない。属州知事も、将に命を出さない。


「一つの町に、三つの国がある」


 ある晩、宿駅の部屋で、董元礼が、半ば呆れたように言った。


「いや、三つの国ではない」


 崔景伯は、首を振った。


「一つの国が、三つの顔で、同じ町に重なっておるのだ。民政の顔。町の顔。軍の顔。それぞれが、別々の上役に繋がり、帝都で、また一つに束ねられる」


 崔景伯は、帳面を開き、この日見たことを書き留めた。


 この国は、上から下へ一本の線で治められておるのではない。何本もの線が、並んで走り、町ごとに重なり、帝都で束ねられる。——我が国の路の官が、転運司、提刑司、安撫司と重なるのと、似て非なり。我が国の路の官は、互いを見張るために重なる。この国の官は、互いの持ち場を侵さぬために、分かれておる。


 書き留めてから、崔景伯は、筆を止め、しばらく考えた。


 それから、もう一行、書き足した。


 どちらが優れておるかは、分からぬ。


  ◇


 帝都コンスタンティアが見えたのは、国境を発って十一日目の昼だった。


 崔景伯は、はじめ、それを都だと思わなかった。


 海だと思った。


 馬車が丘の上に出たとき、目の前に、青い水が広がっていた。その水の向こう岸に、白と灰色と赤褐色の建物が、丘の斜面を埋め尽くすように、どこまでも積み重なっていた。水の上には、帆を張った船が、何十、何百と浮かんでいた。


 水は、海ではなかった。海峡だった。二つの陸を隔てる、細長い水の道。その両岸に、都が広がっていた。


挿絵(By みてみん)


「開封より、大きいのではないか」


 董元礼が、窓から身を乗り出して言った。


「分からぬ」


 崔景伯は、正直に言った。


「広さでは、分からぬ。だが、形が違う」


 開封は、平らな大地の上に、四角い城壁で囲まれた都だった。汴河が、都の中を通り、江南の米を運んでくる。


 この都は、水の上に張り出した岬の上にあった。三方を水に囲まれ、陸に面した一方だけを、三重の城壁が塞いでいた。都の中へ入るものは、陸の門からか、水の上の港からか、どちらかしかない。


 馬車は、丘を下り、渡し場で舟に乗り換え、海峡を渡った。


  ◇


 都に入ってから、崔景伯が最初に目にしたのは、宮殿ではなかった。


 港だった。


 舟が着いた岸には、石の埠頭が長く延び、その上に、倉庫が隙間なく並んでいた。埠頭の上を、荷を担いだ人足が行き交い、荷車が行き交い、帳面を手にした役人が行き交っていた。


 通訳が、倉庫の一つを指した。


「あれは、穀物の倉庫だそうです。南の大河の国——メルサナという地方から、毎年、船で運ばれてくる麦を、ここに納める。その麦で、この都の百万に近い民の、何割かを食べさせる、と」


「国が、民を食べさせるのか」


「全部ではないそうです。だが、決まった数の麦の餅を、決まった者に、国が配る、と。昔からの決まりだそうで」


 崔景伯は、倉庫の列を見上げた。


 この都は、自分の周りの田だけでは、食べていけない。海の向こうの穀倉から、毎年、船で麦を運んでこなければならない。その船が一年止まれば、この都は飢える。


 開封が、汴河から江南の米を運ばなければ食べていけないのと、同じだった。


 埠頭の別の一角では、別の役人たちが、船の荷を改めていた。通訳に聞くと、関の税を取る役人だという。国境の門で見た関の税の役人と同じ系統の者かと崔景伯が問うと、通訳は、頷いた。


「同じでございます。国境の関も、この都の港の関も、属州の官ではなく、一人の大官の系統だそうです。金と銀と、貨幣の鋳造と、関の税と、鉱山と、国の工房を扱う大官。コメス・サクラルム・ラルギティオヌム、と申します」


 崔景伯は、その長い名を、通訳に三度繰り返させて、ようやく帳面に書き留めた。


「では、この国の財を扱う官は、一人ではないのか」


「一人ではないそうです」


 通訳は、困った顔で言った。


「土地の税と、兵や宮廷への糧の供給は、プラエフェクトゥス・プラエトリオの系統。金銀と貨幣と関の税と鉱山と工房は、今のコメス・サクラルム・ラルギティオヌムの系統。皇帝の持っている土地や、罪人から取り上げた財産は、また別の、コメス・レルム・プリウァタルムの系統。——三つ、あるそうです」


 董元礼が、額を押さえた。


「国庫が、三つか」


 崔景伯は、帳面を見下ろした。


 大宋の使節として、この国と、いずれ、財の話をすることになるかもしれない。遠征の兵の糧を、この国から買う話。あるいは、共にヴォルガルと戦うなら、その費えをどう分けるかの話。


 そのときに、「財務の官」とだけ言っても、話は通じない。どの財の、どの官なのか。土地の税の官か。貨幣の官か。皇帝の財の官か。


 崔景伯は、帳面の余白に、書き留めた。


 この国で「財務の官」と言うてはならぬ。何の財の官かを、必ず問え。


  ◇


 都の中を、使節の一行は、駅伝の官に導かれて、宿舎へ向かった。


 道は、石で舗装されていた。道の両側に、列柱の並ぶ回廊が続き、その下に、店が並んでいた。回廊の上には、水を運ぶ石の水道が、高い石の弓なりの上に架かっていた。


「あの水道は、この都の北の山から、水を引いてきておるそうです」


 通訳が、言った。


「この都には、川がございません。水は、全部、あの水道と、地下の貯水槽から。水道を修理するのも、貯水槽を管理するのも、——都の長官の仕事だそうです」


「都の長官」


「プラエフェクトゥス・ウルビ。この都だけを預かる長官です。地方の属州知事の系統とは別に、この都の裁きと、秩序と、市場と、穀物の配給と、水と、職人の組合を、預かっておる、と」


 崔景伯は、頷いた。


 開封にも、開封府がある。都を預かる役所が、地方の州とは別に置かれている。そこは、似ていた。


 けれど、この都の長官が預かるものの中に、穀物の配給と、水道と、職人の組合までが含まれていることに、崔景伯は目を留めた。この都の暮らしを、丸ごと預かっている。


 水道の石の弓なりの下を、馬車が通り抜けた。


 弓なりの石には、何かの文字が刻まれていた。古い文字だった。通訳にも読めない文字だった。


「何百年も前の、修理の記録だそうです」


 通訳が、宿の者から聞いてきた話を伝えた。


「この水道は、千年近く前に造られ、それから何度も壊れ、何度も直されてきた。直すたびに、誰がいつ直したかを、石に刻む。——古い遺跡ではなく、今も使っている水道だ、と」


 崔景伯は、窓から、遠ざかっていく石の弓なりを振り返った。


 千年近く前に造られ、今も使っている。


 古いものを、壊さずに、直しながら使い続ける国。


  ◇


 宿舎に着いたのは、日が暮れてからだった。


 駅伝の官が、明朝、宮殿で皇帝への謁見が行われると告げて、去っていった。


 崔景伯は、董元礼と書記と通訳を、自分の部屋に集めた。


「明日、我らは、この国の皇帝に会う」


 崔景伯は、卓の上に、紙を広げた。


「そして、その皇帝の周りには、今日我らが聞いたような大官たちが、並んでおるはずだ。——その者たちを、我らは、何と呼べばよい」


 通訳が、首を傾げた。


「何と、とは」


「我が国の言葉で、何と記せばよい、ということだ」


 崔景伯は、筆を取った。


「この国の君主の称号。バシレウス。これを、皇帝と記すか、王と記すか。都堂は、使節が帰るまで決めるな、と言っておる。それはよい。だが、明日から、我らは、この国の大官たちと話をする。報告も書かねばならぬ。そのたびに、あの長い名を、音のまま書くのか。それとも、我が国の官職の名に置き換えるのか」


 董元礼が、腕を組んだ。


「置き換えれば、分かりやすい。プラエフェクトゥス・プラエトリオは、宰相か。マギステル・ミリトゥムは、枢密使か。コメス・サクラルム・ラルギティオヌムは、戸部尚書か」


「今日、我らは、それが違うことを見た」


 崔景伯は、静かに言った。


「プラエフェクトゥス・プラエトリオは、土地の税と糧の供給と裁きと道の修理を預かるが、兵は動かさぬ。宰相とは違う。マギステル・ミリトゥムは、兵を動かすが、税は取らぬ。枢密使とも違う。コメス・サクラルム・ラルギティオヌムは、財を扱うが、国の財の全部ではない。戸部尚書とも違う」


 崔景伯は、紙の上に、表の枠を描いた。


 左の列に、この国の官職の名を、音のまま書く。


 中の列に、その官が何を預かり、何を預からないかを書く。


 右の列に、我が国で近い官職を書く。ただし、「近い」とだけ書き、「同じ」とは書かない。


「訳語の対照表を作る」


 崔景伯は、筆を走らせ始めた。


「バシレウス。プラエフェクトゥス・プラエトリオ。マギステル・オフィキオルム。クァエストル・サクリ・パラティイ。コメス・サクラルム・ラルギティオヌム。コメス・レルム・プリウァタルム。マギステル・ミリトゥム。プラエフェクトゥス・ウルビ。コンシストリウム。——明日、また増えるだろう。増えるたびに、書き足していく」


 董元礼が、紙を覗き込んだ。


「クァエストル・サクリ・パラティイ、というのは、何を預かる官ですかな」


「まだ、分からぬ」


 崔景伯は、その欄の中の列を、空けたままにした。


「分からぬところは、空けておく。分かったふりをして、我が国の官職の名で埋めてはならぬ。——それが、この国と話をするときの、第一の心得だと思う」


 窓の外で、港の方から、鐘の音が聞こえてきた。


 夜の祈りの鐘だと、通訳が言った。


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