第三巻 敗北 第一回 国境の国書
石の壁が、見えた。
春の終わり、パルシアの王道を西の果てまで辿り、アルメニオンという山の王国の峠を越え、さらに西へ十日ほど進んだところだった。
狄承武は、馬を止め、目の前の谷の向こうを見上げた。
谷を挟んだ丘の上に、灰色の石を積み上げた城壁が、尾根に沿って連なっていた。城壁の上には、角ばった塔が等間隔に立ち、その塔の上に、見たことのない旗が翻っていた。紫の地に、金色の何かの紋が描かれている。
城壁の下、谷の底を通る街道の上に、石造りの門があった。門の前には、木の柵と、小屋がいくつか。小屋の前には、荷車と、驢馬と、商人らしき者たちの列ができていた。
「あれが、ロマニエか」
隣で、韓奇捷が呟いた。
開封を発って、一年半が経っていた。
この春、パルシアの王道の宿駅で、開封の枢密院からの文書が、ようやく一行に追いついた。狄承武を統制に、韓奇捷を指揮使に上げる、という文書だった。遠征の護衛の部隊を、名実ともに狄承武に統べさせるための昇進だった。狄承武は、それ以来、遠征の護衛の部隊——禁軍の歩人甲士、神臂弓兵、火槍兵、斬馬刀隊、玄甲の騎兵、あわせて三千——を統べていた。
「使節殿を呼べ」
狄承武は、振り返らずに言った。
「それから、全隊、ここで止まれ。武器は収めさせろ。旗は巻け。ここから先は、あちらの国だ。——陛下の言葉を、忘れるな」
◇
門の前で最初に出てきたのは、鎧を着た男だった。
四十代だろうか。短く刈った髪に、日に焼けた顔。胸当ての上に、紫の布を斜めに掛けていた。その後ろに、槍を持った兵が二十人ほど、隊列を組んでいた。
男は、大宋の一行を、上から下まで眺めた。三千の兵が谷の入口で止まっているのを、城壁の上から見ていたのだろう。その目には、警戒と、それ以上の好奇心があった。
通訳を介して、男は名乗った。
この国境の守りを預かる、ドゥクス・レオンティオス・カラメス。
狄承武の横に、遠征の正使、礼部侍郎の崔景伯が進み出た。五十代の、痩せた、物腰の柔らかい男だった。この一年半、パルシアの宮廷でも、アルメニオンの王の前でも、この男が大宋の顔として言葉を交わしてきた。
崔景伯は、胸の前に捧げ持っていた箱を開け、中から、黄色の絹に包まれた巻物を取り出した。
大宋皇帝の国書だった。
「大宋国より、ロマニエ帝国の君主へ、国書を奉る」
崔景伯の言葉を、通訳が訳した。
レオンティオスは、国書を受け取らなかった。
代わりに、両手を後ろに組み、首を小さく横に振った。
通訳が、困惑した顔で、レオンティオスの言葉を訳した。
「——私は、それを受け取れない、と。国書は、皇帝陛下に宛てたものであろう。私は、国境の軍を預かる者にすぎない。軍の者が、皇帝陛下への国書を受け取る権限は、私にはない、と」
崔景伯は、眉一つ動かさなかった。
「では、どなたが、受け取られる」
レオンティオスは、門の脇の、石造りの建物の方を指した。
「——あちらに、別の官がいる、と申しております」
◇
門の脇の建物には、三つの部屋があった。
一つ目の部屋では、長衣を着た男が、商人たちの荷を改めていた。荷の中身を帳面に記し、何かの数を書き込み、商人から銀貨を受け取っていた。
通訳によれば、この男は、関の税を扱う役人だった。金と銀と貨幣と関の税を預かる、財務の大官の系統の者だという。軍の者ではない。レオンティオスの部下でもない。
二つ目の部屋では、別の長衣の男が、大宋の一行の人数と、馬の数と、荷車の数を、細かく聞き取っては書き留めていた。属州知事の官署から来た、滞在の許しを扱う役人だという。
三つ目の部屋に、国書を受け取る者がいた。
背の高い、白髪交じりの男だった。着ているものは、他の二人の役人とも、レオンティオスとも違った。濃い青の長衣に、銀の留め具。
通訳が、男の肩書きを、苦労しながら訳した。
「……マギステル・オフィキオルムという大官の系統に属する者だそうです。国の駅伝と、外国の使節と、通訳を扱う、と。この者が、国書を都へ送る手はずを整える、と申しております」
男は、崔景伯から国書を受け取ると、その場で封の状態を改め、自分の印を押した紙を添えて、箱に収めた。
それから、通訳を介して、淡々と言った。
国書は、国家の駅伝によって、急ぎ帝都コンスタンティアへ送る。帝都までは、駅伝の急使で七日。陛下のご判断が下るまでは、使節の一行は、この先へは進めない。
「兵は」
崔景伯が、問うた。
男は、首を振った。
兵のことは、自分の管轄ではない。ドゥクスに聞いてほしい。
◇
日が傾く頃、狄承武と崔景伯と副使の董元礼は、門の脇の建物の一室で、四人の男と向かい合っていた。
ドゥクス・レオンティオス。関の税の役人。滞在の許しの役人。国書を受け取った駅伝の官。
四人は、互いに、ほとんど目を合わせなかった。それぞれが、自分の帳面を持ち、自分の筆記係を連れていた。
狄承武は、それを、しばらく黙って見ていた。
四人とも、同じ門の中にいる。同じ国の、同じ国境を預かっている。けれど、四人は、それぞれ、別の上役に仕えていた。
レオンティオスは、軍の系統。その上は、方面の軍を率いるマギステル・ミリトゥムという将に繋がる。
関の税の役人は、財の系統。その上は、帝都の財務の大官に繋がる。
滞在の許しの役人は、民政の系統。その上は、属州知事、さらにその上の、プラエフェクトゥス・プラエトリオという、最高の民政長官に繋がる。
駅伝の官は、また別の系統。宮廷の官房を預かる大官に繋がる。
「共通の敵がおりましょう」
董元礼が、口を開いた。枢密院から送られてきた、軍事の調査の官だった。
「ヴォルガル帝国と、貴国は長く戦っておられると聞く。我が国も、同じ敵と戦っておる。——手を組めるのではないか」
レオンティオスは、首を振った。
「——それは、私の決めることではない、と申しております」
通訳が、訳した。
「共通の敵がいることは、分かった。だが、手を組むかどうかは、皇帝陛下と、陛下の大官たちが決めることだ。私は、陛下のご判断が下るまで、貴国の兵が、この国境の民を脅かさず、この国の法に従うことを確かめねばならない。それだけだ、と」
狄承武は、少し考えてから、口を開いた。
「では、陛下のご判断が下るまでのことを、決めておきたい」
レオンティオスが、狄承武の方を見た。
「我らの兵を、どこに置くか。兵の糧を、どこで、どう買うか。我らの兵が、万一、この国の民と揉めたとき、誰が裁くか。我らの兵が、この国の法を破ったとき、誰が罰するか。——それを、今、決めておきたい」
通訳が、それを訳した。
四人が、初めて、互いに顔を見合わせた。
◇
話し合いは、夜更けまで続いた。
狄承武は、この夜のことを、後々まで忘れなかった。
兵の宿営の場所は、レオンティオスが決めた。国境の城壁から半日の距離にある、川沿いの空き地。城壁の兵が見張れる場所であり、同時に、村からは十分に離れている場所。
けれど、その空き地で兵が薪を集めてよいか、川の水を使ってよいかは、レオンティオスには決められなかった。滞在の許しの役人が、属州知事の名で決めた。薪は、定められた林から、定められた量だけ。川の水は、村の取水口より下流で。
兵の糧を買うことは、関の税の役人が扱った。糧を買うのは構わない。ただし、この地方の市で、この地方の値で。買った量は、帳面に記し、関の税を払う。大宋の兵が持っている銀は、この国の銀貨に換えねばならない。その両替の場所と、その割合も、役人が決めた。
兵がこの国の民と揉めたときの裁きは、最も揉めた。
レオンティオスは、大宋の兵が揉めたなら、それは大宋の兵を率いる者が裁けばよい、と言った。滞在の許しの役人は、この国の民が関わる以上、この国の属州知事の裁きに服すべきだ、と言った。
狄承武は、しばらく二人のやり取りを聞いていた。
それから、提案した。
大宋の兵同士の揉め事は、大宋の軍法で、自分が裁く。この国の民が関わる揉め事は、属州知事の官署と、大宋の軍の者が立ち会って、共に調べる。そして、大宋の兵がこの国の民を害したことが明らかになれば、自分が、大宋の軍法で、この国の官の目の前で、罰する。その罰の記録を、この国の官にも渡す。
滞在の許しの役人は、しばらく考えてから、頷いた。
レオンティオスも、頷いた。
そして、四人の役人が、それぞれ、自分の帳面に、その取り決めを書き留めた。書き留め終わると、四人は、それぞれの印を、一枚の紙に押した。
軍の印。関の税の印。滞在の許しの印。駅伝の印。
四つの印が、一枚の紙に、並んでいた。
崔景伯と董元礼も、大宋の使節の印を押した。狄承武も、統制の印を押した。
◇
夜更け、宿営地に戻る道で、崔景伯が狄承武の隣に馬を寄せた。
「狄統制。今夜のことを、どう見られた」
狄承武は、しばらく黙って馬を進めた。
「一つの門に、四人の役人がおりました」
狄承武は、言った。
「それぞれ、別の上役に仕え、別の帳面をつけ、別の印を持っている。軍の者は、税を取らぬ。税の者は、兵を動かさぬ。駅伝の者は、国書を運ぶが、兵のことは知らぬ。——四人が揃わねば、我らの兵を一晩泊めることすら、決まらなかった」
「煩わしいと思われたか」
「はじめは」
狄承武は、正直に言った。
「だが、途中から、別のことを思いました」
崔景伯が、狄承武の横顔を見た。
「あのドゥクスは、自分の兵を二十人連れておりました。城壁の上には、もっといたでしょう。あの男がその気になれば、我らの兵の糧に、好きな値をつけられた。好きな税を取れた。我らの兵と民が揉めれば、好きに裁けた。——あの男は、そのどれもしなかった。できなかったのです。それは、あの男の持ち場ではないから」
狄承武は、夜空を見上げた。
「この国の軍人は、兵を持っていても、税も裁きも、勝手にはできぬ。そういう国なのだと思いました」
崔景伯は、しばらく黙っていた。
「我が国の路にも、転運司と提刑司と安撫司が重なっておりますな」
「そうです。似ておる。だが、違う」
狄承武は、首を傾げた。
「我が国の路の官は、互いに見張り合っております。この国の役人は、見張り合っているというより、——それぞれが、自分の持ち場の外には、手を出さぬ。そういう感じを受けました」
「その違いを、書き留めておきましょう」
崔景伯は、言った。
「開封に報告せねばならぬ。この国は、一人の総督と話せば済む国ではない、と」
◇
それから十八日の間、使節の一行と三千の兵は、川沿いの宿営地で待った。
兵たちは、定められた林で、定められた量の薪を集めた。定められた取水口より下流で、川の水を汲んだ。定められた市で、定められた値で、糧を買い、関の税を払った。
四日目に、一件、揉め事があった。
大宋の兵の一人が、村の娘に声をかけ、娘の父親と口論になった。手は出していなかった。狄承武は、属州知事の官署の役人を呼び、共に娘の父親と兵の話を聞き、兵に、軍法による罰——三日間の夜番と、娘の家への詫びの品——を言い渡した。役人は、それを帳面に書き留め、印を押した。
娘の父親は、はじめは納得しない顔をしていた。けれど、詫びの品——大宋から持ってきた絹の端切れ——を受け取ると、しばらくそれを眺め、黙って頭を下げた。
その翌日から、村の子どもたちが、宿営地の柵の外に、遠巻きに集まるようになった。
十八日目の夕刻、帝都からの急使が着いた。
急使は、駅伝の官に、封をした文書を渡した。駅伝の官は、それを開き、読み、それから、崔景伯のところへ来た。
通訳が、訳した。
「——皇帝陛下は、大宋の使節を、帝都にお迎えになる。使節と、その随員の少数のみ、国家の駅伝の護送のもとで、帝都へ向かうこと。兵は、この宿営地に留まること。兵の糧と宿営のことは、属州知事の官署が、引き続き扱う」
崔景伯は、頷いた。
それから、狄承武の方を向いた。
「狄統制。兵を、お頼みします」
「お任せください」
狄承武は、拝礼した。
「使節殿が戻られるまで、この国の法の内で、兵を保ちます」
翌朝、崔景伯と董元礼と、書記と通訳と護衛の数人が、駅伝の官が用意した馬車に乗り込んだ。馬車の前後を、駅伝の騎兵が固めた。
馬車が、西へ延びる石の道を遠ざかっていくのを、狄承武は、宿営地の柵の前で見送った。
韓奇捷が、隣に立った。
「統制。我らは、置いていかれましたな」
「置いていかれたのではない」
狄承武は、石の道の先を見ていた。
「この国では、兵は、国書を運ばぬのだ」
◇
同じ頃、開封。
都堂の卓の上には、数か月遅れで届いた遠征の報告が広げられていた。パルシアの王道に入ったという報せだった。
東ロマニエの国境に着いたという報せは、まだ届いていなかった。それが届くのは、さらに数か月後のことになる。
けれど、崔景伯がパルシアから送ってきた報告の中に、東ロマニエについて、商人たちから聞き取った話が、いくつか書かれていた。
その国の君主は、自らを「バシレウス」と称する。
礼部の官たちは、その言葉をどう訳すべきかで、三日議論した。
皇帝と訳すべきか。王と訳すべきか。
都堂は、礼部に命じた。訳すな。まずは、その言葉が、その国で何を意味するのかを、調べよ。その国の法の上で、歴史の上で、どういう位なのかを。——使節が帰るまで、音のまま記せ。
そしてもう一つ、崔景伯の報告の末尾に、こう書かれていた。
この国の文書には、軍の長の印と、民政の長の印と、財の長の印と、宮廷の官房の印とが、別々に現れると聞く。この国の「全権」を、一つの官職の名だけで判じてはならぬと存ずる。
礼部の官は、その一文に、朱で線を引いた。
同じ日、枢密院と都堂は、もう一つのことを定めた。遠征の軍が、国境で相手の軍と結ぶ宿営や通行や糧の取り決めは、軍の上の暫定のものとして、統制と使節の印で結んでよい。だが、国と国との正式の約定は、別のものとして扱い、朝廷の裁可を経るまで結ばぬ。——軍の取り決めと、国の外交とを、混ぜぬために。




