第二巻 新法 第二十二回 新法の実り
冬の夜の中央銀行本院は、灯りが消えなかった。
年の終わりが近づくと、本院と四つの支院の帳簿を締め、一年分の数をまとめ、戸部の国の帳簿と突き合わせる仕事が、一度に押し寄せる。統計房の卓の上には、紙の山がいくつもできていた。吏員たちは、交代で仮眠を取りながら、夜通し、算盤を弾き、十進の数字で答えを書き、隣の者がそれを検めた。
修平は、その夜、統計房の奥の小部屋で、葉正言と向かい合っていた。
卓の上には、一年分の表が並んでいた。
物の値の三枚の表。春に下げ止まり、夏に日照りで一枚目だけが跳ね、秋に戻った。二枚目と三枚目は、一年を通して、ゆっくりと、わずかに上がっていた。ならせば、年に一分半ほど。
銀行の貸付の額。去年の秋、中央銀行が開いたときから、一年で、二割あまり増えていた。
手形の割引の利。開封では、年に一割あまりから、七分ほどに下がっていた。
本院と支院の間の付け替えの件数。開業の月の、二十倍を超えていた。
戸部の国の帳簿の試し。税の入りが、去年より、わずかに増えていた。
「急に良くなったわけではないな」
葉正言が、表を見ながら言った。
「はい」
修平は、頷いた。
「春には、まだ、何も変わっていないように見えました。夏には、日照りで、何もかも駄目になるかと思いました。秋になって、振り返ってみて、ようやく、変わっていたことが分かる」
修平は、表の上の、銀行の貸付の線を、指でなぞった。
「まず、杭州と開封の間の支払いが、滞らなくなりました。それから、銀行が、少しずつ、貸すようになりました。商人が、手形を割り引いてもらいやすくなりました。倉庫を建て始めた商人が、出てきました。——順番に、少しずつ」
「一度の利下げで、治ったのではない」
「治ってもいません。まだ、途中です」
◇
葉正言は、表を卓に置き、茶碗を手に取った。
夜半を過ぎていた。窓の外は、真っ暗だった。統計房の広間の方から、算盤を弾く音が、途切れ途切れに聞こえてきた。
「林詳定」
葉正言は、茶碗を持ったまま言った。
「そなたに、一度、聞いてみたいと思っておったことがある」
「何でしょう」
「そなたは、なぜ、この学問を学んだのだ。銭と、利と、物の値の学問を」
修平は、少し驚いて、葉正言の顔を見た。
この二年半、葉正言とは、毎日のように顔を合わせてきた。帳簿の話、制度の話、法の話。けれど、自分のことを聞かれたのは、初めてだった。
「……大した理由では、ありません」
修平は、茶碗を手に取った。
「子どもの頃に、世の中の銭が、どうやって人の暮らしに届くのかを知りたいと思ったのです。私の育った国では、長い間、物の値が下がり続けて、商いが冷えたままでした。父の勤めていた商家も、何度か、人を減らしました。父は辞めさせられずに済みましたが、同じ職場の人が辞めていくのを、見ていたそうです。——なぜ、そうなるのかを、知りたかった」
葉正言は、黙って聞いていた。
「それから、宋という国の、制度の歴史が好きでした」
修平は、少し照れたように笑った。
「この国の制度です。いえ、この国とよく似た、私の国の歴史の中にあった宋という国の。科挙で官を選び、文官が国を治め、紙幣を使い、官の職を細かく分けて、互いに見張らせる。英雄の話ではなく、制度の話が、面白かった。——それで、暇な時には、科挙の官僚になって出世していく遊びを、紙の上でやっておりました」
「遊び」
「寄禄の官階を上げながら、差遣で地方を回るのです。御史に弾劾されて、遠くの州へ飛ばされたりもしました」
葉正言が、ふっと笑った。
修平が、葉正言の笑った顔を見たのは、初めてだった。
「そして、ある朝、勤めに出る途中で、道で車——大きな車に、突っ込まれそうになって、目を閉じて、開けたら、江南西路の田の中にいました」
修平は、茶碗を卓に置いた。
「なぜなのかは、今も分かりません。帰れるのかも、分かりません。——ただ、あの時、道で目を閉じる前に、自分が学んだことを、錆びさせない程度には使いたい、と思っておりました。それが、こういう形で使うことになるとは、思いませんでしたが」
◇
葉正言は、しばらく、茶碗の中を見つめていた。
「私の家は、三代、戸部の官を出しておる」
やがて、ぽつりと言った。
「祖父は、会子の暴落の年、戸部の郎中だった。会子務に、刷れと命じた側の一人だ」
修平は、息を呑んだ。
「祖父は、刷りたくて刷らせたのではない。北の兵が飢えておった。上から、刷らせよと命じられた。祖父は、それを下へ伝えた。——後始末の二十年、祖父は、それを一度も口にしなかった。父が、祖父の死後に、祖父の日記を読んで、知った」
葉正言は、茶碗を置いた。
「父も、戸部の官だった。父は、会子の発行を絞った側だった。絞りすぎて、銭荒を招いた側の一人だ。——私は、子どもの頃から、会子の話を、家の中で聞いて育った。刷りすぎた祖父と、絞りすぎた父の話を」
修平は、何も言えなかった。
「だから、殿試の答案を読んだとき、腹が立った」
葉正言は、修平の顔を見た。
「紙幣を新たに発明する必要はない、朝廷はすでに紙幣を持っている。——その通りだ。我らは、紙幣を持っておる。持っておるから、祖父も、父も、苦しんだ。そこへ、どこから来たのかも分からぬ若い進士が、帳簿の話を二、三書いて、銀行を束ねる銀行を置けば治る、と言う。私の家が三代かけて苦しんできたことを、紙の上の理屈で、片付けられてたまるか、と思った」
葉正言は、少し間を置いた。
「李丞相から、そなたの出自を内々に聞かされたときは、なおさらだった。後の世の学問を持ってきた男が、この国の苦しみを知らずに、この国を作り変えようとしておる。——そう思った」
修平は、黙って、葉正言の言葉を受け止めていた。
「だが、そなたは、最初の廷議で、帳簿を見せてくれと言った」
葉正言の声が、少しだけ柔らかくなった。
「答案の構想を述べる前に、この国が何をしてきたかを、正しく知りたい、と。——私は、会子務の古い記録を、そなたに渡した。読め、と言った。そなたは、十日かけて、全部読んだ。蔣守拙から、会子の実務を半月かけて教わった。永豊の記録を読み、高元亨の話を聞いた」
葉正言は、表の山を見た。
「そなたは、この国の苦しみを知らずに作り変えようとしたのではなかった。知ってから、作り変えようとした。——それが分かったのは、ずいぶん後になってからだがな」
◇
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
統計房の広間の方から、吏員の誰かが、数が合ったと声を上げるのが聞こえた。拍手のような音が、ぱらぱらと続いた。
「林詳定」
葉正言が、言った。
「私は、もう、そなたを、後の世から来た男だとは思っておらぬ」
修平は、顔を上げた。
「この二年半、そなたは、戸部の帳簿を読み、両替商の話を聞き、韋算学と数を突き合わせ、中央銀行の委員たちに問われるたびに答え、答えられぬことは答えられぬと言った。日照りの報せを見て、戸部の孟に書状を書いた。——それは、後の世から来た男のやることではない。この国の官の、やることだ」
葉正言は、茶碗を手に取り、残りの茶を飲み干した。
「そなたは、この国の官だ。私と同じく」
修平は、しばらく、言葉が出なかった。
「……ありがとうございます」
ようやく、それだけ言った。
葉正言は、首を振った。
「礼を言われることではない。事実を言っただけだ」
◇
夜明け近く、修平は、統計房の広間に出た。
吏員たちは、まだ、卓に向かっていた。何人かは、卓に突っ伏して眠っていた。韋明遠は、表の山の前で、算木を並べていた。蔣守拙は、若い吏員に、会子の古い界の帳簿の読み方を教えていた。
広間の壁には、この一年の会合の文書の写しが、日付順に貼られていた。
秋の会合の後、程伯言が決めた通り、中央銀行は、会合のたびに、何を見て、どう判じ、なぜそうしたかを書いた文書を、世に配るようになっていた。
修平は、一番新しい文書の写しを読んだ。
物の値の三枚の表。職のない人の数を推した試しの表——杭州と開封で、両替商の組合と職人の組合に頼んで、始めたばかりのものだった。賃金の動き。銀行の貸付。手形の利。銀行の安定の表。
その下に、委員会の判断が書かれていた。
日照りによる米と薪炭の上がりは、秋の刈り入れとともに収まりつつある。二枚目、三枚目の表は、ならして年に一分半ほどの上がりに留まっている。目当ての二分前後には、なお届かない。商いの隙間は、縮みつつあるが、なお残る。銀行の貸付は伸びているが、北支院の管内の一部の銀行で、元手が薄くなっている。これは利ではなく、検めで対処する。——以上により、利は、据え置く。来春の会合で、改めて議す。
修平は、その文書を、何度か読み返した。
文書の中に、自分の名は、どこにもなかった。
委員会が、自分たちで表を読み、自分たちで判じ、自分たちの言葉で書いていた。二年半前、修平が戸部の物置の詰所で、一つずつ説いてきた言葉が、ここでは、誰も説明を加えずに、当たり前の言葉として使われていた。実の利。隙間。二枚目、三枚目の表。錨。
この一年、修平は、会合に呼ばれるたびに、問われたことに答えてきた。けれど、ここ三月ほどは、呼ばれても、ほとんど何も問われなくなっていた。委員たちは、表を読み、議し、決めた。修平は、壁際の椅子で、それを聞いているだけだった。
修平は、文書の写しの前に立ったまま、しばらく動かなかった。
未来の理論を、持ってきたつもりだった。
けれど、実際に国を動かしているのは、理論ではなかった。それを毎日扱う人たちだった。蔣守拙が、若い吏員に帳簿の読み方を教えている。韋明遠が、夜明けまで算木を並べている。程伯言が、会子の年を思い出しながら、利を据え置くと書いている。葉正言が、祖父と父の話を、自分にしてくれた。
「林詳定」
後ろから、韋明遠の声がした。
「数が、合いました。一年分の、本院と四支院の帳簿と、戸部の国の帳簿。全部、同じ物差しで、合いました」
韋明遠の細い目が、疲れの中で、光っていた。
修平は、振り返った。
「……ありがとうございます」
韋明遠は、首を傾げた。
「私に礼を言われることではございませぬ。私の仕事でございます」
修平は、笑った。
「制度は、作った瞬間に完成するものではないのですね」
修平は、壁の文書の写しを見た。
「毎月の数を見て、間違えば直して、それでも使い続けることで、初めて、国家のものになる」
◇
同じ冬、はるか西。
狄承武は、砂の上に膝をつき、目の前の男の顔を見ていた。
男は、縛られていた。浅黒い顔に、濃い髭。頭には布を巻き、額には、灰で描いた印があった。目は、狄承武を睨みつけていた。
開封を発って、一年が経っていた。
甘州で韓奇捷と合流し、河西回廊を抜け、西域藩王府の都を過ぎ、極西藩王府の最後の宿駅を出てから、さらに二月。砂漠を越え、雪を被った山を越え、ようやく、商人たちの言う、パルシアという大きな国の、東の端へ入ったところだった。
この国の王道——国の中を東西に貫く大きな街道——に入って、三日目の夜だった。
宿営地が、襲われた。
夜明け前、四十人ほどの男たちが、手に手に剣と棍棒を持ち、叫びながら天幕の列へ突っ込んできた。彼らの叫びの中に、何度も同じ言葉があった。通訳の商人が、青い顔で狄承武に告げた。
火を汚す者たちを、この地から追い払え、と。
宿営地の兵たちは、夜番のおかげで、すぐに備えた。歩人甲士が盾を並べ、神臂弓兵がその後ろで弩を構えた。
狄承武は、射るな、と命じた。
盾の列で押し返せ。囲め。武器を落とさせろ。逃げる者は、追うな。
半刻で、片がついた。襲ってきた者たちのうち、十五人が捕らえられ、残りは、闇の中へ逃げた。こちらの兵は、七人が傷を負った。死者は、どちらにも出なかった。
夜が明けて、捕らえた男たちの前に、狄承武は膝をついていた。
「この者たちは、何者だ」
狄承武は、通訳に聞いた。
通訳は、捕らえた男たちの一人と、しばらく言葉を交わした。
「この先の谷の、火殿の祭司に従う者たちだと申しております。この国の教え——アタール教というそうです——の中でも、とりわけ、異国の者を嫌う一派だと。異国の者が火殿の近くを通れば、聖なる火が汚れる、と信じておるそうです」
「この国の王が、我らを襲えと命じたのか」
通訳は、また男と言葉を交わした。
男は、何か激しく言い返した。
「……王のことなど知らぬ、と。諸王の王も、大祭司も、火を汚す異国の者を通すような腑抜けだ、と申しております」
狄承武は、立ち上がった。
「韓副指揮使」
「はい」
「捕らえた者の傷を、医官に診させろ。水と食い物を与えろ。縛るのは、手だけでいい」
韓奇捷が、眉を寄せた。
「指揮使。こいつらは、我らを殺しに来たのです」
「殺しに来て、殺せなかった。そして、今は捕虜だ」
狄承武は、宿営地の兵たちを見渡した。
「それから、全員に伝えろ。この先の谷の火殿には、決して近づくな。火殿に報いることも、谷の村から物を奪うことも、許さぬ。一人でもやった者は、俺が軍法で裁く。——陛下が、開遠門の前で言われたことを忘れるな。通る国の民を、我ら自身の手から守れ、と」
◇
その日の昼過ぎ、宿営地に、騎馬の一団がやってきた。
先頭の男は、見事な鎧を着ていた。その後ろに、書記らしい男たちと、長衣を着た年配の男が一人いた。さらに、帳簿を抱えた男が二人、少し離れて従っていた。王道の通行と税の記録を扱う、アーマールガルという官の書記だと、後で聞いた。
通訳が、慌てて狄承武に告げた。
「この地方の辺境を預かる、マルズバーンという官だそうです。それから、あの長衣の方は、ダードワル——この国の裁きの官だと」
マルズバーンは、馬から下りると、捕らえられた男たちを一瞥し、それから、狄承武の前に立った。
しばらく、狄承武の顔を見ていた。
それから、何か言った。
通訳が、言葉を選ぶように、訳した。
「——異国の軍が、我が国の民を捕らえたと聞き、来た。だが、捕らえられた者たちは、縛られてはおるが、傷の手当てを受け、水を与えられておる。そなたたちの兵が、火殿へ報いに行ったとも、村から物を奪ったとも、聞かぬ。——これは、どういうことか、と」
遠征の使節の正使も、天幕から出てきて、狄承武の隣に立った。
狄承武は、通訳を通じて答えた。
「我らは、この国を通らせていただいておる身だ。この国の民を、我らが裁くことはできぬ。捕らえた者たちは、この国の法で裁いていただきたい。我らは、昨夜、何が起きたかを、書き記しておいた。捕らえた者の名と、数と、我らの兵の傷と。それを、お渡しする」
狄承武は、韓奇捷に命じて、一枚の紙を持ってこさせた。
昨夜のうちに、軍の書記に書かせた記録だった。何刻に、何人に襲われ、どう防ぎ、何人を捕らえ、何人が逃げ、こちらの何人が傷を負ったか。捕らえた者の一人ひとりの、身なりと、年の頃と、名乗った名。
マルズバーンは、それを受け取り、後ろの書記に渡した。書記が、通訳を介して、一行ずつ読み、自分の紙に写していった。
ダードワルが、捕らえられた男たちの前に進み出て、一人ずつ、何かを問うた。男たちの一人が激しく言い返すと、ダードワルは、それを書記に書き留めさせた。
日が傾く頃、マルズバーンの書記が、一枚の紙を持ってきた。
狄承武の渡した記録を、この国の言葉に写したものだった。その末尾に、マルズバーンの名と、ダードワルの名が記され、その横に、乾いた粘土の小さな塊に、印が押されていた。封泥だった。
通訳が、言った。
「受け取りの証文だそうです。大宋の軍から、これこれの者を受け取った、これこれの記録を受け取った、と。マルズバーンの官の印と、ダードワルの官の印が押してございます。——この国では、誰が命じたかだけでなく、どの官の印で命じたかが大事なのだ、と申しております」
狄承武は、その紙を受け取り、しばらく眺めていた。
粘土に押された印。二つの官の、別々の印。
この国では、辺境の軍を預かる官と、裁きをする官が、別々の印を持っている。そして、その二つが揃って、はじめて、一つの事が片付く。
「……この国も、一人の総督が何もかもを決める国ではないのだな」
狄承武は、呟いた。
マルズバーンは、通訳を通じて、最後に一言だけ言った。
「——この先の王道の通行は、我が名において許す。この先の宿駅に、そう伝えておく。この国の書記に、そなたたちの名を記させた。火殿のことは、我らが片付ける。それは、この国の秩序の問題であって、そなたたちの問題ではない」
マルズバーンは、馬に跨がり、去っていった。
捕らえられた十五人の男たちは、ダードワルの従者に引かれて、谷の方へ連れて行かれた。
その夕刻、谷の向こうの大きな火殿から、白い衣の祭司が一人、従者を連れて宿営地を訪ねてきた。この地方の火殿を預かる祭司だと名乗った。祭司は、昨夜の者たちは、神官団の教えを勝手に曲げた者たちであり、この地方の火殿の意ではない、と通訳を通じて告げた。それから、捕らえた者たちの傷の手当てに、礼を言って帰っていった。
韓奇捷が、狄承武の隣に立った。
「指揮使。あの男、はじめは、こちらを睨んでおりましたな。帰る時には、違う顔をしておりました」
「そうか」
「捕虜の手当てのことを、何度も書記に書かせておりました」
狄承武は、手の中の、封泥の印の押された紙を見た。
「西域藩王府と極西藩王府から、補給の荷が、この先の宿駅に届いているはずだ」
狄承武は、紙を懐にしまった。
「明日、発つ。まだ、先は長い」
夕陽が、砂の上に、長い影を落としていた。
西の空の下に、まだ見たことのない国が、どこまでも続いていた。




