第二巻 新法 第二十一回 期待の錨
雨は、日照りが始まって四十日目に、ようやく降った。
遅い雨だった。枯れた苗は戻らなかった。それでも、植え直しの利いた田では、秋に、例年の六割ほどの刈り入れがあった。常平倉の籾が回され、隣の路から米が運ばれ、江南西路と荊湖南路では、飢えて死ぬ者は、ほとんど出なかった。
呉守田からは、秋の終わりに、短い返事が来た。
籾が来た。助かった。田は半分やられた。何家の田はもっとやられた。うちの籾を少し回した。心配するな。
修平は、その手紙を、机の引き出しにしまった。
統計房の表の上で、米の値は、秋の刈り入れとともに、下がり始めていた。一枚目の表、籠の全部の値は、夏の跳ね上がりから、少しずつ戻ってきていた。
二枚目と三枚目は、この三月、ほとんど動かなかった。
程伯言の判断は、正しかった。
けれど、秋の会合で、統計房の表とは別に、一枚の紙が委員たちの前に置かれた。
◇
「これは、高元亨から届いたものだ」
程伯言が、紙を卓の上に広げた。
「開封の両替商の組合で、商人たちに、一つのことを聞いて回ってもらった。——来年、物の値は、どれくらい上がると思うか、と」
修平は、紙を覗き込んだ。
百人ほどの商人の答えが、書き連ねられていた。一分、二分、三分。五分と書いた者もいた。一割と書いた者も、何人かいた。
「夏の日照りのあと、米の値が跳ねたのを、皆、覚えておる」
程伯言は、言った。
「米は、もう下がり始めておる。だが、商人たちの見込みは、下がっておらぬ。一割と書いた者の多くは、米を扱う商人ではない。布屋だ。紙屋だ。——米が上がったのだから、来年は何もかもが上がるだろう、と思っておる」
鄭仲謙が、腕を組んだ。
「夏に、馮委員が心配しておったことだな。日照りの上がりが、民の見込みに染みつく、と」
「林詳定」
程伯言は、壁際を見た。
「夏の会合で、そなたは、民が先の値をどう見込むかは大事な話だ、と言った。——それを、聞かせよ」
◇
修平は、立ち上がり、高元亨の紙を手に取った。
「人が、来年の物の値をどう見込むか。私の国では、いくつかの考え方がありました」
修平は、卓の端に、紙を広げた。
「一つ目。人は、去年や今年の物の値の動きを見て、来年もそうなるだろうと見込む、という考え方です」
修平は、高元亨の紙の、一割と書いた布屋の名を指した。
「この布屋は、この夏、米が三割上がったのを見た。だから、来年も、物の値は大きく上がるだろうと見込んでいる。過ぎたことを、先へ延ばして見込む。私の国では、これを、過去に合わせる見込み、と呼んでいました」
「二つ目。人は、過ぎたことだけでなく、今、手に入るあらゆることを使って、先を見込む、という考え方です。この夏の米の上がりが日照りのせいで、秋には米が下がることも。中央銀行が、ならして二分前後を目当てにしていることも。中央銀行が、目当てを外れたら、利を動かすつもりであることも。——全部を知っていれば、来年の物の値は、二分前後だろう、と見込むはずだ。これを、筋道の通った見込み、と呼んでいました」
呂端甫が、首を傾げた。
「だが、この布屋は、そうは見込んでおらぬ」
「はい。この布屋は、中央銀行が目当てを掲げていることを、知らないのかもしれません。知っていても、信じていないのかもしれません」
修平は、紙に、三つ目を書いた。
「三つ目。中央銀行が目当てを掲げ、何年もそれを守り続ければ、人々は、一時の上がり下がりがあっても、何年か先の物の値は目当ての近くに戻るだろう、と見込むようになる。目当てが、人々の見込みを、つなぎ止める。——船が、流れの中で錨を下ろしているように」
「錨」
「はい。私の国では、見込みが錨につながれている、と言いました。錨につながれた見込みは、夏の日照りで米が跳ねても、揺れはするが、流されない。来年も一割上がる、とは思わない。何年か先は、また二分前後に戻るだろう、と思う」
修平は、高元亨の紙を指した。
「今、この国の商人の見込みには、まだ、錨がついていないのです。中央銀行は、この夏に目当てを決めたばかりです。まだ、誰も、中央銀行が本当にそれを守るのかを、見たことがないのですから」
◇
「錨がついておらぬと、どうなる」
馮守謙が、問うた。
「布屋が、来年は一割上がると見込めば、何をするか」
修平は、紙に書いた。
「布屋は、来年の仕入れの値が一割上がると思えば、今のうちに、布の値を上げておこうとします。雇っている職人たちも、来年は物の値が一割上がると思えば、賃金を一割上げてくれと言うでしょう。布屋は、それを呑めば、ますます布の値を上げねばならない。銀行も、来年一割物の値が上がると見込めば、貸す利を上げます」
「見込みが、そのまま、値を引き上げる」
「はい。はじめは日照りのせいだった上がりが、人々の見込みを通じて、日照りと関わりのない布や紙や賃金の上がりに、移っていくのです。そうなってしまったら、中央銀行は、利を大きく上げて、商いを冷やしてでも、見込みを引き戻さねばならなくなります。錨が外れた見込みを引き戻すのは、錨がついているうちに守るより、何倍も苦しい」
程伯言が、低く言った。
「錨が外れる前に、どうする」
「中央銀行が、何を見て、何を考え、何をするつもりなのかを、世に語ることです」
修平は、言った。
委員たちが、顔を見合わせた。
「語る、とは」
「今、中央銀行は、会合で何を決めたかを、銀行に報せています。利を、いくらからいくらへ動かした、と。それだけです。なぜ動かしたのか、なぜ動かさなかったのか、これから何を見て、どうするつもりなのかは、報せていません」
修平は、高元亨の紙を掲げた。
「この夏、中央銀行は、日照りの上がりだと見て、利を動かさなかった。それは、正しい判断でした。けれど、商人たちは、なぜ中央銀行が動かなかったのかを知りません。知らないから、中央銀行は物の値の上がりを放っておくつもりなのかもしれない、と思った。だから、来年も上がると見込んだ」
修平は、紙を卓に置いた。
「もし、夏の会合の後に、中央銀行が、こう語っていたら。——この上がりは、日照りによる米と薪炭の上がりである。布や紙や家の借り賃は動いていない。雨が降り、刈り入れが来れば、米は戻るだろう。中央銀行は、ならして二分前後を目当てにしている。米以外の物の値が上がり始めたら、利を動かす。——そう語っていたら、布屋は、来年一割と見込んだでしょうか」
部屋の中が、静かになった。
やがて、程伯言が、口を開いた。
「利を動かすことだけが、中央銀行の舵ではない、ということか」
「語ることも、舵です」
修平は、頷いた。
「中央銀行が、何を見て、どう判断し、この先どう動くつもりかを、前もって分かるようにしておく。そうすれば、人々は、中央銀行の動きを見込んで、自分の値のつけ方や、賃金の求め方や、貸す利を決められる。中央銀行が語ることそのものが、人々の見込みを錨につなぎとめるのです」
◇
「一つ、聞きたい」
蘇懐玉が、言った。
「物の値が上がり続けるのを恐れる話は、分かった。では、下がり続けるのは、どうだ。この春まで、物の値は、わずかに下がっておった。そなたは、それを恐れた。だが、物の値が下がるのは、民にとって、悪いことばかりではあるまい。同じ銭で、多くの物が買える」
「悪いことばかりではありません」
修平は、首を振った。
「物の値が下がるのにも、二つあります」
修平は、紙に書いた。
「一つは、作る技が上がって、下がる場合です。工房が新しい道具を使って、同じ布を半分の手間で織れるようになる。舟が大きくなって、運び賃が安くなる。——そういう時は、物の値が下がっても、作る量は増え、売れる量も増え、職人の稼ぎも減らない。民は、同じ稼ぎで、多くの物が買える。これは、よい下がりです」
「もう一つは」
「買う力が落ちて、下がる場合です」
修平は、もう一行書いた。
「銀行が貸すのをやめ、商人が借りた銭を返すのに追われ、職を失う者が増え、誰も物を買わなくなる。売れないから、値が下がる。値が下がるから、商人の稼ぎが減る。稼ぎが減るから、雇う人を減らす。職を失った者は、ますます物を買わない」
修平は、紙の余白に、下向きの円を描いた。
「そして、前もって決めた額で借りている者は、物の値が下がるほど、返す銭が重くなる。稼ぎは減るのに、返す額は変わらない。返せなくなる者が増え、銀行が損をかぶり、銀行が貸すのをさらに控える」
「悪い下がり、か」
「はい。よい下がりでは、物の値が下がっても、作る量と、稼ぎと、職は増えます。悪い下がりでは、物の値と一緒に、稼ぎも、職も、信用も、みな縮む。物の値が下がっている、という数だけでは、どちらなのか分からない」
修平は、先の春の会合を思い出していた。
「賃金は、下がりにくい、と申し上げました。悪い下がりのときには、物の値は下がるのに、賃金は同じ速さでは下がらない。雇い主にとっては、物の値に比べた賃金の重さが、どんどん増していく。すると、賃金を下げられない雇い主は、人を減らす。悪い下がりが、職を奪うのは、そのためです」
蘇懐玉は、しばらく紙を見ていた。
「……では、中央銀行の目当ては、物の値を上げることではないのだな」
「はい」
修平は、頷いた。
「物の値を上げるための目当てではありません。人々の見込みを、錨につなぎとめる。悪い下がりに落ちるのを防ぐ。その上で、何年かをならして、物の値を安定させる。——目当ては、そのための、錨の鎖の長さのようなものです」
◇
会合の終わりに、程伯言は、一つのことを決めた。
「これから、会合のたびに、一枚の文書を出す」
程伯言は、委員たちを見回した。
「何を見たか。どう判じたか。なぜ利を動かした、あるいは、動かさなかったか。この先、何を見て、どうするつもりか。——それを、書いて、銀行と、両替商の組合と、戸部と、都堂に配る。杭州と成都と広州と大名府の支院からも、それぞれの土地の商人に配らせる」
鄭仲謙が、目を丸くした。
「中央銀行の考えを、手の内を、全部見せるのですか」
「全部ではない。だが、人々が中央銀行の動きを見込めるだけは、見せる」
程伯言は、高元亨の紙を手に取った。
「一割と書いた布屋が、来年、二分と書くようになるまで、何年かかるか分からぬ。だが、語らねば、いつまでも一割と書くだろう。——それに」
程伯言は、少し間を置いた。
「会子の年、戸部は、何も語らずに刷った。民は、何が起きているのか分からぬまま、紙幣の値が崩れるのを見た。語らぬ官は、信じられぬ」
程伯言は、筆を取った。
「最初の文書は、この会合の分からだ。韋算学。三枚の表を、文書に添えられる形にしておけ」
「承りました」
韋明遠が、深く頭を下げた。
修平は、壁際の椅子で、程伯言の横顔を見ていた。
会子の年、この男は、三度、戸部に逆らい、三度とも退けられた。何も語られぬまま、紙幣の値が崩れていくのを、若い監官として、見ていたのだ。
その男が、今、中央銀行の考えを、世に語ると決めた。




