第二巻 新法 第二十回 物価の目
夏のはじめ、江南西路と荊湖南路に、日照りが来た。
田植えを終えたばかりの田に、ひと月、雨が降らなかった。川の水が細り、水路の水が止まり、植えたばかりの苗が、田の中で黄色く枯れ始めた。
統計房に、その報せが届いたのは、日照りが始まって二十日目のことだった。
修平は、報せを読んで、しばらく動けなかった。
江南西路。
吉州の泰和県は、その中にある。石塘村は、その中にある。
呉守田の田は、どうなっているのか。
修平は、報せの紙を握りしめた。任官した年の秋に、最初の俸給の一部を、呉守田と徐文礼に送った。借りた銭の、返済の初めだった。呉守田からは、村の字の書ける者に代筆させたらしい短い返事が来ていた。受け取った。無理をするな。呉順が嫁をもらった。
その呉順の田も、今、枯れかけているのかもしれない。
「林詳定」
韋明遠の声で、修平は我に返った。
「杭州の東支院から、今月の籠が届いております」
韋明遠は、表を修平の前に置いた。
籠の値が、跳ね上がっていた。
杭州だけではなかった。江陵も。広州も。開封も。七つの市のうち、六つで、籠の値が、先月より大きく上がっていた。
修平は、表の中身を見た。
米の値が、どの市でも、二割、三割と上がっていた。
◇
その月の会合は、重い空気の中で始まった。
「籠の値が、この一月で、どの市でも大きく上がった」
程伯言が、表を卓の上に置いた。
「年に直せば、二分や三分どころではない上がり方だ。——このまま放っておけば、民は、物の値が上がり続けると見込み始める。先の春に決めた理由に照らせば、中央銀行は、利を上げて、これを抑えねばならぬのではないか」
鄭仲謙が、頷いた。
「民の間では、もう、米の買い溜めが始まっておると聞く」
呂端甫は、首を傾げていた。
「だが、この上がりは、日照りのせいだ。利を上げても、雨は降らぬ」
「雨は降らぬが、買い溜めは止められるかもしれぬ」
鄭仲謙が、言い返した。
程伯言が、壁際の方を見た。
「林詳定。前の会合で、蘇委員が問うたことだ。同じ上がりでも、凶作の上がりと、商いの上がりとでは、すべきことが違うのではないか、と。——今が、まさにそれだ。どう見る」
修平は、立ち上がった。
表を見た。それから、韋明遠の方を見た。
「韋算学。前の会合の後に作っていただいた、籠を分けた表を、出していただけますか」
◇
韋明遠は、卓の上に、三枚の表を並べた。
「籠の値を、三つに分けて作り直しました」
韋明遠は、一枚目を指した。
「一つ目は、籠の全部です。米、麦、塩、油、醤、酒、茶、布、薪、炭、紙、鉄の鍋、家の借り賃。民が実際に買う物の値の、全部の動き。これまで見てきた数と同じでございます」
二枚目を指した。
「二つ目は、籠から、米と麦と、青物や魚など、天気や季節で大きく揺れる物を除いたものです。籠の重みの半ば近くを除くことになりますので、残った品の重みを、割り振り直してございます」
三枚目を指した。
「三つ目は、二つ目から、さらに、薪と炭と油を除いたものです。薪炭は、山の不作や、運ぶ川の水が枯れると、すぐに揺れますので」
修平は、三枚の表を並べて、委員たちの前に置いた。
「この一月の動きを、三枚で比べてください」
委員たちが、身を乗り出した。
一枚目、籠の全部の値は、大きく跳ね上がっていた。
二枚目、米と麦と青物を除いた値は、わずかに上がっていた。
三枚目、さらに薪炭と油を除いた値は、先月と、ほとんど変わっていなかった。
部屋の中が、しばらく静かだった。
「……跳ねておるのは、米と、麦と、薪炭だけか」
程伯言が、低く言った。
「はい。二つ目の表が少し上がっているのは、日照りで川の水が減り、舟の運び賃が上がって、それが他の物の値にも少し乗っているからだと思います。三つ目は、動いていません」
修平は、三枚目の表を指した。
「布も、紙も、鉄の鍋も、家の借り賃も、先月と変わりません。国中の商いの買う力が強くなって、何もかもが売れて、何もかもの値が上がっている、という上がり方ではありません。日照りで、米と薪炭が足りなくなって、その値だけが跳ねている」
◇
「では、利は、動かさぬのか」
鄭仲謙が、問うた。
「民は、籠の全部の値を見て暮らしておる。米が三割上がれば、民の暮らしは苦しくなる。それを、三つ目の表が動いておらぬから、と放っておくのか」
「放っておくのではありません」
修平は、首を振った。
「民が苦しいのは、その通りです。けれど、それを和らげるのは、中央銀行の利ではありません」
修平は、一枚目の表の、米の欄を指した。
「日照りで米が足りない。その足りなさを埋めるのは、雨と、常平倉の籾と、他の路から米を運ぶことです。それは、戸部と転運司と、常平倉の務めです。——中央銀行が利を上げれば、どうなるか。米は、一粒も増えません。代わりに、国中の商いが冷えます。布屋も、紙屋も、鍛冶屋も、倉庫を建てようとしていた商人も、みな、借りにくくなる。日照りで苦しい民の上に、商いの冷えまで重ねることになります」
呂端甫が、頷いた。
「凶作に、利で応ずるのは、筋違いだ」
「物の値の上がりを、二つに分けて考えます」
修平は、紙に書いた。
「一つは、買う力が強すぎて、物がみな売れて、値が上がる上がり方。国中の商いが熱を持って、何もかもの値が引っ張り上げられる。私の国では、需要が引く上がり、と呼んでいました」
「もう一つは、作る側、運ぶ側の事情で、物が足りなくなって、値が上がる上がり方。日照り、凶作、川の水枯れ、山の不作、遠方からの品が止まる。値が、後ろから押し上げられる。これを、費用が押す上がり、と呼んでいました」
修平は、二つを並べた。
「中央銀行が目当てにするのは、そのどちらか一方だけではありません。何年かにわたって、ならして見た物の値の上がり方です。ただ、目当てへ向かう道筋として望ましいのは、商いが良くなり、職が増え、賃金が上がり、その中で、物の値が少しずつ上がっていくこと。日照りで米が跳ねて、その分、籠の値が目当てに近づいたからといって、それを喜ぶべきではありません」
程伯言が、ふっと息を吐いた。
「それを見分けるための、三枚か」
「はい」
修平は、三枚の表を並べ直した。
「一枚目だけが跳ねて、二枚目と三枚目が落ち着いているなら、日照りや凶作のような、押す上がりを疑います。三枚がそろって、ゆっくり上がっていて、しかも職のない人が減り、賃金が上がり、銀行の貸付が増えているなら、商いの買う力が引いている上がりだと見る。——三枚の表の、ずれそのものが、診立ての手がかりになるのです」
◇
「一つ、気になることがある」
馮守謙が、言った。
「日照りの上がりだと分かって、利を動かさずにいたとする。だが、民が、これからも物の値が上がり続けると思い込んだら、どうなる。米が上がったから、布も上がるだろう、賃金も上げてもらわねば困る、と皆が言い出したら。——はじめは日照りのせいでも、それが民の見込みに染みついてしまえば、本当に、何もかもが上がり始めるのではないか」
修平は、馮守謙を見た。
鋭い問いだった。
「その通りです」
修平は、言った。
「ですから、一月の数だけで決めてはなりません。日照りの上がりなら、雨が降り、次の刈り入れが来れば、米の値は戻るはずです。戻らずに、二枚目、三枚目の表まで、少しずつ上がり始めたら。それは、日照りの上がりが、民の見込みに染みつき始めた印です。その時には、中央銀行は、動かねばなりません」
「どれくらい待つ」
「一月では、分かりません。三月、半年。ならして見ます。そして、民が、これからの物の値をどう見込んでいるのかを、別に見なければなりません」
修平は、少し間を置いた。
「民が、先の値をどう見込むか。それは、とても大事な話です。次の会合で、改めて申し上げたいと思います」
◇
程伯言は、しばらく三枚の表を見つめていた。
それから、委員たちを見回した。
「利は、動かさぬ」
鄭仲謙が、何か言いかけて、口を閉じた。
「日照りの上がりには、利では応じぬ。戸部と転運司と常平倉に、救荒を急ぐよう、中央銀行としても申し入れる。——そして、三月の間、三枚の表を、毎月、注意して見る。二枚目と三枚目が動き始めたら、その時に、改めて議す」
程伯言は、筆を取った。
「それから、目当ての数を、決める」
委員たちが、顔を上げた。
「先の春から、ずっと考えておった。二分前後。一年ごとの数ではなく、何年かをならして。一月、二月の上がり下がりで、一喜一憂はせぬ。——三枚の表を見て、中身を読んで、その上で、ならして二分前後を目指す。それを、中央銀行の目当てとする」
程伯言は、壁際の修平を見た。
「林詳定の国の数を、そのまま借りたのではない。この国の籠の調べ方にも、ずれがある。韋算学に聞いたら、籠の品の良し悪しが年ごとに変わる分を、まだうまく取り除けておらぬと言う。それも考えて、二分前後だ。——異論はあるか」
四人の委員が、順に、首を振った。
程伯言は、決定の文書に、名を記した。
◇
会合が終わったあと、修平は、統計房に戻り、一人で、江南西路からの報せを読み返した。
吉州。泰和県。日照り。
修平は、筆を取り、紙を広げた。
呉守田に、手紙を書こうと思った。
書きかけて、手を止めた。
何を書けばいいのか、分からなかった。
中央銀行は、利を動かさないと決めた。それは、正しい判断だったと思う。利を上げても、呉守田の田に雨は降らない。むしろ、町の鍛冶屋が借りにくくなり、呉家の農具の修理が遠のくかもしれない。
けれど、それを呉守田に書いたところで、何になるのか。
日照りで苦しい民を、中央銀行は、救えない。救うのは、雨と、常平倉と、隣の路から運ばれる米だった。それは、戸部と転運司の務めで、修平の詳定の外の話だった。
修平は、書きかけの紙を脇に置き、別の紙を出した。
戸部の孟季常に宛てて、短い書状を書いた。
江南西路と荊湖南路の常平倉の籾の残り。隣の路から米を回す算段。それを、急いでいただきたい。中央銀行としても、そう申し入れることになった。詳定官としても、お願いしたい。
書き終えて、修平は、もう一度、呉守田への紙を手に取った。
短く書いた。
日照りのこと、聞きました。常平倉の籾が、そちらへ回るよう、戸部に頼みました。借りた銭の残りは、今年の秋に、もう少し多めにお送りします。無理はしないでください。呉順と、お嫁さんに、よろしく。
書き終えて、読み返して、修平は筆を置いた。
自分にできることは、それだけだった。
窓の外では、開封の夏の陽が、白く照りつけていた。雨の気配は、どこにもなかった。




