第二巻 新法 第十九回 インフレ目標
年が明け、春が来た。
中央銀行が開いて、半年が経っていた。
統計房の表の上で、物の値の籠は、ようやく、下げ止まっていた。七つの市のうち、五つで、籠の値が、去年の同じ月をわずかに上回った。残る二つも、ほとんど動かなくなった。
銀行の貸付は、少しずつ、増えていた。
その春の会合で、程伯言は、利の話をする前に、別の議題を持ち出した。
「中央銀行の務めは、物の値を安定させることだと、法に書いてある」
程伯言は、卓の上の、法の写しを指した。
「だが、安定とは何だ。物の値が、まったく動かぬことか。それとも、少しずつ上がることを許すのか。——それを、決めておかねばならぬ。決めておかねば、我らは、物の値が上がるたびに、下がるたびに、その場の気分で、利を動かすことになる」
程伯言は、委員たちを見回した。
「今日は、その話をしたい。林詳定と、戸部の孟員外郎にも来てもらった」
壁際の椅子に、修平と、孟季常が座っていた。孟季常は、戸部の中で、中央銀行との連絡役を任されるようになっていた。
◇
最初に口を開いたのは、蘇懐玉だった。
「私は、物の値は、まったく動かぬのがよいと思う」
成都の訛りのある声で、蘇懐玉は言った。
「民は、紙幣を受け取る。受け取った紙幣を、蔵にしまっておく。来年、その紙幣で、今年と同じだけの米が買えるなら、民は安心して紙幣を持てる。来年、少しでも少なくしか買えぬなら、民は、紙幣を持つことを恐れる。——紙幣の値打ちを守ることが、中央銀行の務めではないのか。少しずつ上がるのを許すというのは、紙幣の値打ちを、少しずつ削ることを許すということだ」
孟季常が、頷いた。
「戸部の中でも、そう申す者が多うございます。民の財を、朝廷が、わざと削ってよいのか、と」
呂端甫が、腕を組んだまま言った。
「私も、はじめはそう思っておった。だが、林詳定の、賃金は下がりにくい、という話を聞いてから、分からなくなった」
程伯言が、修平の方を見た。
「林詳定。そなたの国では、どうしておった」
修平は、立ち上がった。
「私の国では、物の値を、毎年、少しずつ、決まった割合で上がるように導く、という仕組みを取っておりました。年に、二分ほど」
部屋の中が、ざわめいた。
「二分」
「はい。ただ、先に申し上げておかねばならないことがあります」
修平は、少し間を置いた。
「これは、かなり新しい仕組みです。世の中で広く使われるようになってから、まだ数十年ほどしか経っていません。私の国で、年に二分と、はっきり目当てを掲げるようになったのも、私があちらにいた頃から見て、十数年前のことです」
蘇懐玉が、眉を上げた。
「十数年。それで、うまくいったのか」
「うまくいったところも、うまくいかなかったところもあります。目当てを掲げても、なかなかそこへ届かなかった年が、長く続きました。——ですから、私の国でそうしていたから、この国でもそうすべきだ、とは申しません。この国の物の値の調べ方と、この国の銀行と、この国の賃金の決まり方に照らして、合うかどうかを、考えていただきたいのです」
◇
「では、なぜ、零ではなく、二分なのだ」
程伯言が、問うた。
「理由は、いくつかあります。一つずつ申し上げます」
修平は、卓の端に、紙を広げた。
「一つ目は、賃金です」
修平は、紙に書いた。
「以前、申し上げました。賃金は、下がりにくい。商いが冷えて物が売れなくなったとき、雇い主は、十人全員の賃金を下げるより、二人を辞めさせる方を選ぶことが多い」
呂端甫が、頷いた。
修平は、続けた。
「物の値がまったく動かない国で、ある商いが冷えたとします。その商いの雇い主は、人を減らすか、賃金を下げるかしかありません。賃金を下げるのは難しい。だから、人を減らす」
修平は、紙に、もう一行書いた。
「物の値が、年に二分ずつ上がっている国なら、どうか。雇い主は、賃金を下げなくても、一年、賃金を据え置くだけで、物の値に比べた賃金の重さを、二分軽くできます。二年据え置けば、四分。人を辞めさせずに、少しずつ、釣り合いを取り直せる」
蘇懐玉が、眉を寄せた。
「働く者の賃金を、こっそり削るということか」
「据え置いた賃金で買える物は、少しずつ減ります。それは、その通りです」
修平は、正直に言った。
「けれど、二人が職を失うのと、十人の賃金が物の値に比べて少し軽くなるのと。どちらが、民にとって重いか。私は、職を失う方が重いと思います。職を失った二人の家は、その日から、何も買えなくなるのですから」
修平は、紙に書いた。
「物の値を下げればすべてが均衡する、というほど、現実の賃金は柔らかくありません。賃金を下げられない商いは、人を減らします」
◇
「二つ目は、利です」
修平は、紙の次の行を指した。
「以前、実の利の話をしました。借りる者が本当に気にするのは、利から、物の値の上がり方を引いたものだ、と」
「覚えておる」
「物の値が、零で動かない国を考えてください。商いが冷えて、中央銀行が利を下げて商いを支えたいとき、利を零まで下げても、実の利は、零です。それ以上は、下げられません。利を負にすることは、ほとんどできませんから。預けた銭が、年ごとに減っていくのなら、民は、銭を預けずに、蔵にしまうでしょう」
馮守謙が、低く唸った。
修平は、紙の次の行を指した。
「物の値が、年に二分ずつ上がっている国なら。利を零まで下げれば、実の利は、負の二分です。零の国より、二分、深く下げられる。——平時に、物の値が少しずつ上がると皆が見込んでいれば、冷えたときに、中央銀行が使える舵の幅が、それだけ広くなるのです」
程伯言が、紙を見つめていた。
「舵の遊びを、残しておく、ということか」
「はい」
◇
「三つ目は、人が銭を抱え込むことです」
修平は、次の行に書いた。
「以前、先のことが分からない時、人は銭を手元に置きたがる、という話をしました。永豊櫃坊の取り付けの時の、あの気持ちです」
「先の見えぬ時は、誰でもそうする」
蘇懐玉が、言った。
修平は、頷いた。
「一人ひとりにとっては、正しいことです。先が分からないのに、倉庫を建てたり、遠方の商いに銭を出したりするのは、危うい。手元に銭を置いておけば、少なくとも、失うことはない」
修平は、紙の上に、小さな円を描いた。
「けれど、国中の者が、同時に、同じことをしたらどうなるか。誰も倉庫を建てない。誰も遠方の商いに銭を出さない。誰も物を買わない。銭は、蔵の中で眠り、市を回らない。物が売れなくなり、商いが冷え、職を失う者が出る。職を失った者は、ますます銭を抱え込む」
「一人ひとりは正しくても、皆でやれば、皆が困る」
「はい」
修平は、円の横に書いた。
「物の値が、まったく動かず、紙幣の値打ちが永遠に変わらないなら、紙幣を蔵にしまっておくことに、何の損もありません。いくらでも抱え込める。——物の値が、少しずつ上がると皆が見込んでいれば、紙幣を蔵に眠らせておくと、その分、少しずつ値打ちが軽くなる。だから、眠らせておくより、何かに使おう、どこかに預けよう、誰かに貸そう、と考える者が増えます」
修平は、紙から顔を上げた。
「貨幣は価値を保存する器ですが、同時に経済を巡る血でもあります。誰もが抱え込めば、一人ひとりは安心しても、天下の商いは止まります」
◇
「では、そのために、民の紙幣の値打ちを削るのか」
蘇懐玉が、鋭く言った。
「民に銭を使わせるために、わざと値打ちを下げる。それは、民を操ることではないのか」
「それだけのためではありません」
修平は、首を振った。
「それだけのためなら、私も、賛成しません。賃金のこと。利の舵の遊びのこと。物の値が下がり続ける不況を避けること。人が銭を抱え込みすぎるのを和らげること。そして、四つ目——物の値の上がり方を、民が安心して見込めるようにすること」
「見込めるように」
「物の値が、ある年は五分上がり、次の年は三分下がり、その次は八分上がる。そういう国では、商人は、来年の値を見込めません。借りる者も、貸す者も、先の値打ちが分からない。——年に二分と、中央銀行が決めて、それを守り続ければ、皆が、来年も二分くらいだろうと見込める。見込めれば、貸し借りも、賃金の取り決めも、倉庫を建てる算段も、しやすくなります」
修平は、紙に書いた四つの理由を、指でなぞった。
「一つの理由で決めるのではありません。これらを、合わせて、はじめて、零ではなく、少し上を目当てにする理由になるのだと思います」
「なぜ、二分なのだ」
程伯言が、問うた。
「一分では、なぜいかぬ。三分では」
「二分が正しい、という理屈は、ありません」
修平は、はっきりと言った。
「二分は、天から降ってきた真理ではありません。物の値の下がり続ける不況を避け、紙幣への信頼を守り、職を支え、なお利を動かす余地を残すための、実務の上での目安です。私の国や、よその国の多くの中央銀行が、同じような目当てを使っていました。それが、目安としてはほどよいと考えられていた、というだけです」
修平は、少し間を置いた。
「この国の数で、この国の事情で、考え直していただくべきことです。物の値の調べ方には、ずれがあります。調べた数が、実際より少し高く出る癖があるかもしれない。それを考えて、目当てを決めていただきたい」
◇
「もう一つ、申し上げておかねばならないことがあります」
修平は、紙の最後に、別の見出しを書いた。
「物の値が上がることには、税の顔もあります」
孟季常が、顔を上げた。
「物の値が上がれば、同じ額の紙幣で買える物が減ります。紙幣を多く持っている者、利のつかない預りを多く持っている者ほど、その分、目減りする。——誰にも、何も言わずに、誰からも、少しずつ、取っているのと同じことです」
「税の顔、か」
「はい。私の国では、それを、物の値の上がりによる税、と呼んでいました」
孟季常が、身を乗り出した。
「では、国は、それで、得をするのですか。税を集めずに」
「全部が、国の得になるわけではありません」
修平は、首を振った。
「凶作で米の値が上がれば、民の紙幣で買える米は減ります。けれど、その減った分が、国の懐に入るわけではない。米が足りないから、値が上がっただけです。国が得をするのは、国が新しく紙幣を刷って、それで物を買うときです。刷った紙幣で米を買えば、国は、税を集めずに米を手に入れる。その分、民の手元の紙幣が、少しずつ目減りする」
修平は、紙に書いた。
「紙幣を刷る者が得る益と、紙幣を持つ者が負う目減りと。国が刷って物を買うときには、二つは、多くの場合、表と裏をなします。——けれど、この目減りは、普通の税より、ずっと見えにくい。誰が、どれだけ負ったのかが、分からない。紙幣を多く持つ貧しい者ほど、重く負うこともある。賃金が物の値に追いつかない者も、重く負う」
修平は、孟季常の方を見た。
「物の値の上がりには、税の顔もあります。銭を持つ者の買う力を、気づかれにくい形で少しずつ削る。だからこそ、税の入りが欲しいから物の値を上げる、という使い方はしてはなりません」
孟季常は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……戸部の者には、それを、よく言い聞かせねばなりませぬな。便利な隠れ税を、使いたくなる者は、必ず出ます」
「中央銀行の法にも、そう書いておくべきだと思います」
◇
会合は、夕刻まで続いた。
最後に、程伯言が、委員たちを見回した。
「今日は、目当ての数そのものは、決めぬ」
委員たちが、頷いた。
「だが、なぜ、零ではなく、少し上を目当てにするのか。その理由については、五人の見立てが揃った。——賃金のため、利の舵の遊びのため、銭が眠りすぎるのを防ぐため、民が先を見込めるようにするため。紙幣の値打ちを削って国が得をするためではない。それを、会合の記録に残す」
蘇懐玉が、口を開いた。
「私は、まだ、少し、腑に落ちぬところがある」
「どこだ」
「物の値が上がったとき、それが、林詳定の言う、よい上がり方なのか、悪い上がり方なのか。どう見分けるのだ。凶作で米が上がったのも、商いが良くなって物が売れて上がったのも、籠の値の上では、同じ上がりだ。——同じ二分の上がりでも、凶作の二分と、商いの二分とでは、中央銀行のすべきことは、まるで違うのではないか」
程伯言は、修平の方を見た。
修平は、頷いた。
「その通りです。それを見分ける目を、次に作らねばなりません」
「目、か」
「籠の値を、一つの数で見ているうちは、見分けられません。籠の中身を、分けて見る必要があります」
程伯言は、立ち上がった。
「次の会合は、それだ。韋算学に、籠の中身を分けた表を作らせよ」




