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第二巻 新法 第十七回 金利の舵

 中央銀行本院の開業の式は、秋の初めの、よく晴れた朝に行われた。


 会子務の古い庁舎の隣に、新しい棟が建ち上がっていた。瓦はまだ新しく、朝日を受けて青黒く光っている。門の上には、「中央銀行」の四字の額が掲げられていた。字は、翰林の書家が書いたものだった。


 門前の広場には、官と、商人と、見物の民が集まっていた。


 修平は、式の列の後ろの方に立っていた。詳定官の席は、中央銀行の委員たちの後ろ、戸部の郎中たちの横に設けられていた。


 式の上座には、誰も座っていなかった。


 黄色の布をかけた椅子が一つ、空のまま置かれていた。皇帝の座だった。その座の前に、戸部尚書・葉正言が立っていた。


 民の間から、ささやきが聞こえた。


 陛下は、来られぬのか。


 病か。


 いや、わざと来られぬのだと聞いたぞ。


 なぜ。


 修平は、そのささやきを、黙って聞いていた。


 葉正言が、勅書を読み上げた。


 中央銀行を置くこと。本院を開封に、支院を四つ置くこと。知院事、同知院事、委員の名。会子務と銭引務の実務を、段を追って中央銀行へ移すこと。


 それから、葉正言は、勅書を巻き、一枚の紙を取り出した。


 勅書の前文の写しだった。


「中央銀行とは、無限の財布にあらず」


 葉正言の声が、広場に響いた。


「国家が貨幣を発する力を、帳簿と制度の内に閉じ込めんがための府なり。ゆえに、朕はこれを置き、朕もまた、その日々の務めに手を触れず」


 広場が、静かになった。


 葉正言は、紙を巻いた。


「陛下は、本日、この式に臨まれぬ。それは、陛下ご自身が、この府の日々の務めに手を触れぬことを、天下に示されるためである」


 修平は、民の顔を見た。


 分かった顔をしている者は、多くなかった。首を傾げる者。隣の者と顔を見合わせる者。


 けれど、商人たちの列の中で、高元亨が、深く頭を下げていた。


  ◇


 式の後、葉正言は、会子務の古い庁舎から、紐で束ねた帳簿の山を運び出させた。


 会子の、現に流通している界の、発行と回収と残りの帳簿。それを、戸部の吏員が、一冊ずつ、中央銀行の吏員に手渡していった。


 蔣守拙が、その列の中にいた。


 老吏は、自分がつけてきた帳簿を、一冊ずつ、若い吏員に手渡した。手渡すたびに、何か一言、言い添えていた。この界の、この頁の数字は、二度改めてある。この頁の偽造の摘発は、まだ片がついていない。


 若い吏員は、それを一言ずつ、帳面に書き留めていた。


 蔣守拙は、中央銀行へ移ることになっていた。会子務の帳簿を読める者は、蔣守拙と、その下で育った吏員しかいないのだから。


 最後の一冊を手渡したとき、蔣守拙は、修平の方を振り返った。


 何も言わなかった。


 ただ、深く、腰が折れるほどに、頭を下げた。


  ◇


 本院の中は、式の華やかさとは打って変わって、昼過ぎには、戦場のようになっていた。


 本院の奥の広間に、長い卓が何列も並べられ、吏員たちが帳簿に向かっていた。卓の上には、韋明遠が作った新しい書式の帳簿が、山と積まれていた。十進の位取りの数字で、左に持ち物、右に負い目。


 その日、本院に、はじめて、銀行の準備の口が開かれた。


 開封の、官の認めを受けた銀行が、十一。それぞれが、自分の蔵の銭の一部を、本院に預け入れに来た。本院の吏員が、それを数え、帳簿に記し、その銀行の準備の口に、同じ額を書き込む。


 その作業だけで、午後が半分終わった。


「林詳定」


 鄭仲謙が、額に汗を浮かべて、修平を呼んだ。


「本院の帳簿と、銀行が持ってきた帳簿とで、数が合わぬ。三十貫、ずれておる」


 修平は、卓に近づき、二つの帳簿を見比べた。


 しばらく見て、分かった。


「この銀行は、会子を、額面で数えています。本院の帳簿は、会子を、今日の相場で銅銭に換算して数えています。その差です」


「どちらが正しい」


「どちらも、間違ってはいません。ただ、決めておかなかったのです。会子を、準備の口に、どう数えるか」


 鄭仲謙は、額の汗を拭った。


「……決めておくべきことが、まだ山ほどあるな」


「山ほどあります」


 その日のうちに、決めねばならないことが、次々に出てきた。


 会子と銅銭を、準備の口にどう数えるか。銀行が準備を引き出しに来たとき、何で渡すか。一日の終わりに、帳簿を締める刻限をいつにするか。締めた後に来た預け入れは、今日の分か、明日の分か。二つの銀行の間の支払いの差額を、いつ、どう付け替えるか。付け替えた記録を、誰が、いつ、確かめるか。


 どれも、地味な話だった。


 けれど、どれか一つでも決めておかなければ、帳簿は合わなくなる。帳簿が合わなければ、銀行は本院を信じなくなる。


 修平がその日本院を出たのは、夜半を過ぎてからだった。


  ◇


 開業から十日目。


 杭州の東支院から、最初の報せが、急ぎの駅便で届いた。


 東支院の開業の日。両浙路と福建路の、官の認めを受けた銀行が、二十三。準備の口を開いた額。初日の、銀行同士の支払いの付け替えの件数と額。


 修平は、その報せを読みながら、手が震えるのを抑えられなかった。


 杭州のある銀行が、開封のある銀行へ、百二十貫を送っていた。


 杭州の商人が、開封の商人から絹を買い、その代金を、自分の銀行を通じて払ったのだった。


 これまでなら、その百二十貫は、銅銭か会子で、杭州から開封まで、舟で運ばれていた。何十日もかけて。途中で盗まれる危険を冒して。運び賃を払って。


 今は、杭州の東支院の帳簿で、杭州の銀行の準備が百二十貫減り、開封の本院の帳簿で、開封の銀行の準備が百二十貫増えた。東支院と本院の間の差額は、月末にまとめて付け替えられる。


 銅銭は、一枚も動いていない。


 修平は、報せの紙を、鄭仲謙に渡した。


 鄭仲謙は、それを読み、しばらく黙っていた。


「……会子務に、十年いた」


 やがて、そう言った。


「杭州から開封へ銭を送るのに、商人たちがどれだけ苦労してきたか、見てきた。会子で送れば、開封の相場で割り引かれる。銅銭で送れば、舟で一月かかる。——それが、今日は、帳簿の上で、報せの書状一枚が届く日数で済んだ」


 鄭仲謙は、紙を卓に置いた。


「国が、一つになったような気がする」


  ◇


 成都の西支院、広州の南支院、大名府の北支院からも、相次いで報せが届いた。


 報せには、準備の口と、付け替えの件数のほかに、もう一つのものが添えられていた。


 それぞれの支院の周りの市の、物の値の籠。銀行の貸付の額と、預りの額。手形の割引の利。銀行同士の短い貸し借りの利。


 韋明遠が、それを受け取り、本院の広間の一角に設けられた、新しい部屋へ運んだ。


 部屋の戸口には、「統計房」と書かれた札が掛けられていた。


 韋明遠は、司天監から中央銀行へ移っていた。本人が願い出たのだという。司天監の上役は渋ったが、李徳彰が口を利いた、と後で聞いた。


 統計房の卓の上に、四つの支院と本院の数が、並べられた。


 七つの市の、一年近く分の物の値の籠。四つの支院の周りの、銀行の貸付と預り。手形の割引の利。銀行同士の利。戸部から回ってきた、国の帳簿の試しの数。


 国中の銭の流れが、はじめて、一つの部屋に集まっていた。


 修平は、統計房の戸口に立って、その卓を見ていた。


 一年前、自分は、戸部の物置の詰所で、会子務の古い帳簿を読んでいた。何もかもが、ばらばらの帳簿で、ばらばらの物差しで書かれていた。


 今、この部屋には、国中の数が、同じ物差しで、同じ書式で、並んでいる。


「林詳定」


 韋明遠が、振り返った。


「これで、ようやく、隙間を推せます」


 韋明遠の細い目が、灯りの下で光っていた。


「一年前は、推すための数がありませんでした。今は、数がございます。——まだ、足りませぬが」


「足りないところは、どこですか」


「職のない人の数。工房の動き。これは、まだ、どこからも取れておりませぬ」


 修平は、頷いた。


「それは、次の課題ですね」


  ◇


 開業から、二十日目。


 中央銀行委員会の、はじめての政策の会合が招集された。


 本院の奥の、小さな部屋だった。窓は一つ。卓は一つ。その周りに、椅子が五つ。


 程伯言、鄭仲謙、蘇懐玉、呂端甫、馮守謙。五人の委員が、座った。


 壁際に、椅子がもう二つ置かれていた。説明のために呼ばれた、韋明遠と、修平の席だった。決める者ではない。問われたことに答える者の席だった。


 卓の上には、韋明遠が統計房で作った表が、五組、並べられていた。


 一枚目は、物の値。七つの市の籠の、一年近くの動き。


 二枚目は、商いの大きさ。国の帳簿の試しの数から推した、無理なく作れる量と、実際の量の隙間。幅を持たせて。


 三枚目は、銭と信用。銀行の貸付と預り。手形の割引の利。


 四枚目は、利。銀行同士の短い利。国の証文の利。


 五枚目は、銀行の安定。銀行ごとの元手と、蔵の銭と、時間のずれ。


 程伯言は、五枚の表を、一枚ずつ、時間をかけて読んだ。


 他の四人も、同じように読んだ。


 部屋の中には、紙をめくる音だけがしていた。


 やがて、程伯言が、表から顔を上げた。


「林詳定」


「はい」


「今日は、利を決めぬ」


 修平は、少し驚いた。


「決めぬ、とは」


「今日は、何を決めねばならぬのかを、決める」


 程伯言は、五枚の表を、卓の上に並べ直した。


「物の値は、わずかに下がっておる。商いには、隙間がある。貸付は、細っておる。銀行同士の利は、八分。——これを見れば、利を下げるべきだと、誰でも思う。私も、そう思う」


 程伯言は、表を指で叩いた。


「だが、この表は、一年に満たぬ数で作ったものだ。職のない人の数は、まだない。工房の動きも、まだない。隙間の推しには、幅がある。——この数で、どこまで言えるのか。何が分かっていて、何が分かっておらぬのか。それを、五人で、今日、確かめる」


 程伯言は、他の四人を見回した。


「利を動かすのは、それを確かめてからだ。次の会合で」


 蘇懐玉が、頷いた。呂端甫も、馮守謙も、頷いた。


 鄭仲謙だけが、少し不満そうな顔をした。早く動きたい、という顔だった。


 程伯言は、それを見て、わずかに笑った。


「鄭同知院。会子の年、私は、三度、戸部に逆らった。三度とも、急いで刷れ、と言われたからだ。——急いで決めて、間違えるのは、刷るのも、利を動かすのも、同じだ」


 鄭仲謙は、頭を掻いた。


「……承知いたしました」


 程伯言は、壁際の修平の方を向いた。


「林詳定。一つ目の問いだ」


 修平は、姿勢を正した。


「この表の、物の値がわずかに下がっておるのは、商いの買う力が弱いからか。それとも、何か別のわけがあるのか。——そなたは、どう見る」


 修平は、表を見た。


 しばらく考えてから、口を開いた。


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