第二巻 新法 第十六回 中央銀行という堤
開業をひと月後に控えた日、御前で、最後の廷議が開かれた。
議題は、一つだった。
交子以来、戸部の系統で扱ってきた紙幣の実務を、なぜ、戸部の財政から切り離し、中央銀行という別の帳簿、別の手続きへ移すのか。その理を、法の前文として、どう書くか。
法そのものは、初夏に下っていた。残っているのは、開業の日に読み上げる勅書の、頭に置く一文だった。何のために、この府を置くのか。
「前文は、後の世の者が、この府の務めに迷ったとき、立ち返る場所だ」
李徳彰は、議題を読み上げたあと、そう付け加えた。
「文言の細部は、起草の官に任せる。だが、その理は、ここにいる者が、同じ言葉で語れねばならぬ」
殿の中には、宰執と、葉正言と、中央銀行知院事に任じられた程伯言と、刑部尚書の馬子明、工部尚書の沈維新が列していた。
修平は、説明員の位置に立っていた。
「林詳定。述べよ」
◇
修平は、一歩前に出た。
「この一年、戸部と、中央銀行の委員の方々と、帳簿を何枚も並べて話してまいりました。その話を、一つにまとめて申し上げます」
修平は、手元の紙を開いた。
「中央銀行を置く、いちばん大きな理由は、国が銭を出すことと、国が何かを買い、誰かに払うこととを、じかに結びつけないことです」
殿の中が、静かになった。
「戸部が堤を築くと決める。兵を雇うと決める。救荒の粥を配ると決める。——その決めごとがあったからといって、そのまま、新しい銭が生まれる仕組みには、しない。戸部の決めごとは、税と、市で売る国の証文と、予算を通って、はじめて銭になる。中央銀行が出す銭は、それとは別の道を通って、出てくる」
「別の道とは」
張文謹が、問うた。
「中央銀行が銭を出すときは、必ず、何かと引き換えに出します」
修平は、紙に、中央銀行の帳簿の形を描いた。
「国の証文を買えば、持ち物の側に国の証文が入り、負い目の側に準備の預りが立つ。銀行に今日の銭を貸せば、持ち物の側に貸付が入る。手形を担保に取って貸せば、担保の手形と、貸付が入る。——中央銀行が百貫を出せば、帳簿には必ず、その百貫と引き換えに何を得たのかが残ります」
修平は、紙を掲げた。
「中央銀行が百貫を出せば、帳簿には必ずその百貫の理由が残ります。国の証文なのか、貸付なのか、担保なのか。何もなければ、それ自体が異常だと分かる」
◇
「では」
沈維新が、口を開いた。
工部尚書は、四十七歳。この廷議の列の中では、最も若い尚書だった。銭の話には、これまでほとんど口を挟んだことがなかった。
「素人の問いで、恐縮だが」
沈維新は、少し照れたように言った。
「中央銀行を置く理由は、銭をたくさん作れるからではないのか。工部の者たちは、そう聞いて喜んでおった。中央銀行ができれば、堤も、運河も、道も、銭の心配なく造れるようになる、と」
殿の中に、微かな笑いが起きた。
修平は、笑わなかった。
「逆です」
修平は、沈維新の方を向いて、拝礼した。
「作れるからこそ、直接使わせないために、制度で囲うのです」
沈維新が、目を瞬かせた。
「中央銀行は、自分の負い目を作れば、いくらでも払えます。先日、戸部で、そうお話ししました。ですから、何もしなければ、中央銀行は、国の中で最も危うい財布になります。戸部が、工部が、兵部が、それぞれの正しい理由で、中央銀行の財布に手を伸ばす。一つひとつは正しくても、全部を合わせれば、会子の年と同じことになる」
修平は、紙の上の帳簿の形を指した。
「中央銀行を、その財布に手を伸ばせない形で囲う。それが、この法の目的です。銭を作れる器を、作れるままに、使えない形で置いておく。——工部の皆様には、申し訳ないことですが」
沈維新は、しばらく黙っていた。
それから、苦笑した。
「いや。分かった。工部の者たちには、堤は、戸部に頭を下げて予算を取れ、と言っておく」
◇
「一つ、腑に落ちぬ」
刑部尚書の馬子明が、言った。
「林詳定は、帳簿に必ず理由が残る、と言った。それは分かる。だが、帳簿に残るからといって、それで安全になるのか。帳簿に、国の証文百貫、と書いてあっても、その証文が紙屑同然なら、何の意味もあるまい」
修平は、頷いた。
「仰る通りです」
「帳簿は、嘘もつくし、ごまかしもする。刑部は、それを毎日見ておる」
「帳簿が安全を作るのではありません」
修平は、言った。
「帳簿は、危険を、隠せなくするのです」
馬子明が、眉を上げた。
「中央銀行が、値打ちのない手形を、高値で買ったとします。帳簿には、手形百貫、と書かれる。けれど、その手形が返ってこなければ、いずれ、その百貫は損として帳簿に載らねばなりません。載せなければ、帳簿は嘘をついていることになる。——その嘘を見抜くために、検めの官を置きます。御史台の監察を置きます」
修平は、指を折った。
「中央銀行が買ってよい物を、あらかじめ定めておく。担保に取る手形の値の見方を、厳しく定めておく。貸す相手を、よく審べる。損が出そうな持ち物は、前もって損として見積もっておく。元手を持たせておく。外から帳簿を検める。委員の会の決め方を、定めておく。決めたことを、世に報せる」
修平は、折った指を開いた。
「帳簿だけでは、足りません。これら全部を、組み合わせるのです」
馬子明は、しばらく修平を見ていた。
「……刑部の出番も、ありそうだな」
「あります。どうか、お力をお貸しください」
◇
「では、中央銀行は、民に一切、銭を出さぬのか」
陳世昌が、言った。
「銀行にだけ貸し、国の証文だけを買う。民は、中央銀行から、何も受け取れぬのか」
「受け取ります」
修平は、答えた。
「中央銀行は、紙幣を出します。民は、それを、銀行の預りと引き換えに受け取ります。中央銀行は、銀行に準備を貸し、銀行はそれを元に民に貸します。中央銀行は、国の証文を買い、それを売った民は預りを得ます。——中央銀行の銭は、そうやって、民の手に渡っていきます」
「ただで、ではない」
「ただではありません。何かと引き換えにです。預りと、手形と、国の証文と。——もし、国が、民に、何も引き換えにせず、ただで銭を配りたいのなら」
修平は、陳世昌の方を見た。
「それは、財政です。誰に、なぜ、どれだけ配るのか。それを、都堂と戸部が予算に載せ、陛下が裁可なさる。中央銀行の五人の委員が、自分たちの判断で、民に銭を配ることはさせません。もしそれを許せば、中央銀行の委員が、税をどう集め、何に使うかを決める力まで持つことになります」
「国が誰に銭を配るかを決め、中央銀行が利と銭の具合を決める」
修平は、紙に書いた。
「その二つを、同じ手に持たせないことが、安全装置になります」
◇
「だが、それでは、非常の時に困る」
王懐遠が、言った。
「国の存亡が懸かった戦。国中の銀行が一斉に潰れかける恐慌。そういう時にも、中央銀行と都堂は、別々に動くのか。手を組まずに」
「手を組みます」
修平は、頷いた。
「非常の時には、中央銀行と都堂は、同じ方を向いて動かねばなりません。都堂が支出を増やし、中央銀行が利を下げる。中央銀行が銀行に今日の銭を貸し、都堂が潰れた銀行の後始末を引き受ける。——けれど、手を組むことと、一方が他方に従うことは、違います」
修平は、紙に二つの言葉を並べた。
協調。従属。
「協調のときは、都堂は、財政として何をするかを、自分で決める。中央銀行は、金融として何をするかを、自分で決める。同じ方を向いて、それぞれが、それぞれの持ち場で決める。従属のときは、一方が決めたことに、他方が、ただ従う。——中央銀行が都堂に従えば、会子の年になります。都堂が中央銀行に従えば、五人の委員が国の財を決めることになる。どちらも、あってはならない」
◇
「最後に、一つだけ、申し上げておかねばならないことがあります」
修平は、程伯言の方を見た。
「中央銀行は、損を出すことがあります」
程伯言が、白い眉を上げた。
「銀行が一斉に取り付けにあったとき、中央銀行は、健全な銀行に今日の銭を貸します。担保を取り、利を高くして。けれど、見立てを誤れば、健全だと思った銀行が潰れ、担保の手形の値が下がり、中央銀行が損をかぶることがあります」
「それは、避けられぬのか」
李徳彰が、問うた。
「避けようとすれば、中央銀行は、何もしないのが最も安全です。けれど、それでは、取り付けを止められない。永豊櫃坊のようなことを、国中で起こすことになります」
修平は、紙に書いた。
「ですから、中央銀行の安全を、損を一文も出さないことだとは考えません。どんな危うさを、なぜ、どれだけ引き受けたのか。それを帳簿に残す。損が出たら、それを誰がかぶるのか、どうやって穴を埋めるのか、どこで手を引くのかを、前もって決めておく。——それが、中央銀行の安全です」
修平は、紙を掲げ、殿の中を見渡した。
「まとめます。中央銀行の安全は、三重の堤で守ります」
「一つ目の堤は、帳簿です。中央銀行が銭を出すときは、必ず、何かと引き換えに出す。その引き換えを、必ず帳簿に記す」
「二つ目の堤は、検めと定めです。何を買ってよいか、何を担保に取るか。損の見積もり、元手、外からの検め、御史台の監察」
「三つ目の堤は、持ち場の分け方です。国が何にいくら使うかは都堂と戸部が、国中の銭と利の具合は中央銀行が決める。その境を、法で定める」
修平は、紙を下ろした。
「中央銀行とは、無限の財布ではありません。国家が貨幣を発行する力を、帳簿と制度の中へ閉じ込めるための機関です」
◇
殿の中は、しばらく静かだった。
やがて、正面の座から、声がした。
「李丞相」
趙祺だった。
「今の言葉を、前文に入れよ。文言は、起草の官に整えさせよ。だが、趣旨は、変えるな」
「承りました」
趙祺は、程伯言の方を見た。
「程知院。ひと月後、そなたの本院が開く」
「はい」
「朕は、その開業の式には、出ぬ」
殿の中が、ざわめいた。
程伯言も、顔を上げた。
「中央銀行は、朕の勅許で置く。委員は、朕が任じた。だが、日々の利と紙幣のことは、朕も、都堂も、口を出さぬ。そう定めた。——ならば、朕が開業の式の上座に座るのは、その定めに反する姿を、天下に見せることになる」
趙祺は、葉正言の方を向いた。
「葉尚書。朕の代わりに、式を取り仕切れ。戸部が、紙幣の実務を中央銀行へ渡す。その引き渡しの式として」
葉正言は、深く頭を下げた。
「謹んで、承ります」
修平は、説明員の位置で、正面の座を見上げた。
趙祺は、もう修平を見てはいなかった。李徳彰と、次の議題の話をしていた。
それでも、修平は、しばらく、その横顔から目を離せなかった。
この国の皇帝は、自分の手を、自分で縛ってみせた。
天下に、見えるように。




