第二巻 新法 第十五回 金融と財政の境
葉正言は、孟季常から話を聞いて、翌日には詰所へ来た。
ただし、一人ではなかった。戸部の侍郎と、郎中を二人連れていた。いずれも、戸部の中で予算を組む役の者たちだった。
「孟員外郎から、昨日の話は聞いた」
葉正言は、椅子に座るなり言った。
「中央銀行は、国の証文を買う前に、百貫を集めておく必要がない。自分の負い目を作って払える。——そう聞いた」
「はい」
「それで、ここにいる者たちが、昨夜、戸部で、ある話をしておった」
葉正言は、隣の侍郎の方を見た。
侍郎は、五十がらみの、頬の痩せた男だった。一瞬ためらってから、口を開いた。
「林詳定。お叱りを覚悟で申し上げます」
侍郎は、卓の上に両手を置いた。
「中央銀行が、事前に銭を集めずに国の証文を買えるのなら、戸部が国の証文を出し、それを、市を通さず、そのまま中央銀行に引き受けさせればよいのではございませぬか。中央銀行は、自分の負い目を作って、戸部に払う。戸部は、その銭で、堤を築き、兵を養い、民に粥を配る。——そうすれば、租税に頼らずに、いくらでも国の支出ができる。そう言う者がおりました」
侍郎は、目を伏せた。
「正直に申せば、私も、昨夜は、それが名案に思えました」
詰所の中が、静かになった。
修平は、侍郎の顔を見た。
責める気には、なれなかった。昨日の話を聞けば、誰でもそこへ行き着く。戸部で予算を組む者なら、なおさらだった。毎年、足りない銭を、どこかから捻り出さねばならない人たちなのだ。
「その問いこそ、今日、お話ししたかったことです」
修平は、言った。
「量を緩めることと、国の支出を中央銀行に賄わせること。その境が、ここにあります」
◇
修平は、卓の上に、昨日と同じ三枚の帳簿を並べた。中央銀行、銀行、商人。
それから、もう一枚、紙を加えた。
戸部の帳簿だった。
「侍郎の仰ったやり方を、帳簿に書いてみます」
修平は、四枚目の、戸部の帳簿に書き込んだ。
「戸部が、国の証文を百貫出して、中央銀行に引き受けさせます。戸部の負い目の側に、国の証文百貫。持ち物の側に、中央銀行に置いた戸部の預り百貫」
一枚目の、中央銀行の帳簿に書き込んだ。
「中央銀行の持ち物の側に、国の証文百貫。負い目の側に、戸部の預り百貫」
「ここまでは、昨日の話と似ています。中央銀行の持ち物と負い目が、同じだけ増えた」
修平は、四枚目に戻った。
「戸部は、その百貫で、堤を築く人足に、賃金を払います。戸部の持ち物の預りが百貫減り——」
三枚目の、商人の帳簿を、人足の帳簿として使った。
「人足の持ち物の側に、銀行の預りが百貫増えます」
修平は、筆を置いた。
「人足の帳簿を見てください。人足は、何を差し出しましたか」
侍郎が、紙を見た。
「……働いた」
「働きました。堤を築きました。けれど、持ち物としては、何も差し出していません。国の証文も、手形も。人足は、何かの持ち物を預りに換えたのではない。何もないところに、預りが百貫、新しく生まれたのです」
修平は、昨日の商人の帳簿を、隣に置いた。
「昨日の話では、商人は、国の証文百貫を差し出して、預り百貫を受け取りました。商人の持ち物の合計は、変わらなかった。今日の話では、人足は、何も差し出さずに、預り百貫を受け取りました。人足の持ち物の合計は、百貫増えた」
侍郎が、息を呑んだ。
修平は、人足の帳簿の百貫を、丸で囲んだ。
「民の側に、新しい百貫の持ち物が、そのまま入った。私の国では、これを、真水、と呼んでいました。混ぜ物のない、まっさらな水が、民の側に注がれる、という意味です」
◇
「それは、悪いことなのか」
郎中の一人が、問うた。
「人足は、働いて稼いだ。堤は、築かれた。それで何が悪い。国が税で集めた銭で払っても、人足の持ち物は、同じく百貫増えるではないか」
「その通りです」
修平は、頷いた。
「税で払っても、国の証文を市で売って得た銭で払っても、人足の手元には、百貫が入ります。国が何かを買えば、それを売った者には、いつも稼ぎが入る。それ自体は、何も悪くありません」
「では、何が違う」
「税で払うときは、その百貫は、別の誰かから税として取った百貫です。国の証文を市で売って払うときは、その百貫は、国の証文を買った誰かが差し出した百貫です。——どちらも、国の中のどこかから、百貫が移ってきている」
修平は、中央銀行の帳簿を指した。
「中央銀行に引き受けさせて払うときは、その百貫は、国の中の誰からも移ってきていません。中央銀行が、自分の負い目を作って、戸部に渡した百貫です。国の中の銭の総量が、そのまま百貫増えた」
修平は、人足の帳簿の丸を、もう一度指した。
「人足の側に真水が入るのは、国が何かに銭を払うとき、いつものことです。違うのは、その真水の出どころです。税や、市で売る証文なら、国の中のどこかの持ち物が、国を通って人足へ移っただけ。中央銀行に引き受けさせれば、国全体の銭そのものが増え、しかも、その額を決めるのが戸部になる」
郎中は、黙った。
「同じ国の証文を買うのに、なぜ片方は中央銀行の務めで、片方は戸部の財政なのです」
侍郎が、ゆっくりと言った。問いというより、自分に言い聞かせるような声だった。
「誰が、何のために、額を決めているかが違うからです」
修平は、答えた。
「量を緩めるときは、中央銀行が、物の値と商いの様子を見て、利や長い利を動かすために、市にすでにある国の証文を買います。買う額は、中央銀行の委員会が決めます。国が何を支出するかとは、関わりがない」
「国の支出を中央銀行に賄わせるときは、戸部が、堤を築くため、兵を養うために、中央銀行に銭を作らせます。額は、戸部が要るだけ。中央銀行は、それに従う」
修平は、二つを並べて紙に書いた。
「量を緩めるときは、中央銀行が、利と銭の具合を動かすために、持ち物を買います。国の支出を賄わせるときは、国が使うために、中央銀行に銭を作らせます」
◇
「では、中央銀行は、いくらでも作れるのか」
葉正言が、初めて口を開いた。
「今の話では、中央銀行は、自分の負い目を作れば、いくらでも払える。戸部の証文を引き受けても、証文という持ち物が入るから、帳簿は釣り合う。——ならば、中央銀行は、潰れることなく、いくらでも戸部に銭を渡せる、ということになる」
「帳簿の上では、釣り合います」
修平は、言った。
「けれど、中央銀行は、銭を作れても、富は作れません」
修平は、紙の余白に書いた。
「中央銀行は銭を作れます。しかし、富を作れるわけではありません」
葉正言が、その一行を見つめた。
「戸部が、中央銀行に作らせた百貫で、堤を築く。堤は、国の富です。けれど、堤を築くのに要る石と材木と人足の手は、国の中に、限りがあります。戸部が百貫で石を買えば、その石は、他の誰かが買うはずだった石です。人足を雇えば、その人足は、他の誰かに雇われるはずだった人足かもしれない」
「先日の、財政の話と同じだな」
「はい。国の中に使われていない石や人足があるうちは、戸部が中央銀行に作らせた銭で買っても、国の中の作る量が増えます。けれど、石や人足が足りなくなれば、戸部が銭を積むほど、石と人足の値が上がる。中央銀行が作った銭は、富を作るのではなく、値を押し上げるだけになる」
修平は、少し間を置いた。
「深い不況の時なら、戸部が中央銀行に作らせた銭で堤を築いても、すぐに物の値が上がるとは限りません。遊んでいる人足が大勢いるのですから。まず、作る量と雇われる人が増える。——けれど、それが続けば、いずれ、遊んでいる人足はいなくなる。そこから先は、同じだけ銭を作っても、値が上がる方へ回っていきます」
「では、中央銀行が、何も受け取らずに、民に百貫を配ったら」
葉正言は、重ねて問うた。
「国の証文も、手形も受け取らずに。ただ、百貫を」
「中央銀行の持ち物は増えず、負い目だけが百貫増えます。元手が、百貫減る」
「潰れるのか」
「商人の店のようには、潰れません」
修平は、言った。
「中央銀行の負い目は、中央銀行自身が出す紙幣や準備の預りです。商人の店なら、負い目が持ち物を上回り、預けた者が一斉に返せと言えば、潰れます。けれど、中央銀行の負い目を返せと言われても、中央銀行は、自分の紙幣で返せばよい。帳簿の上で元手が負になっても、その日のうちに潰れるわけではありません」
「では、問題はないのか」
「あります」
修平は、首を振った。
「元手が負になった中央銀行は、それを埋めるために、先の何年かの儲け——紙幣を出すことで得られる益——を当てにするか、国に元手を補ってもらうしかありません。国に補ってもらえば、それは結局、税で払うのと同じです。それに、何も受け取らずに配ることを重ねる中央銀行を、民は信じなくなります。この中央銀行の紙幣は、いつまで値打ちを保つのか、と」
修平は、紙に書いた。
「ですから、何も受け取らずに誰かに百貫を配ることは、中央銀行の仕事にしてはなりません。誰に、どれだけ、なぜ配るか。それは、税を誰から取り、何に使うかを決めるのと同じく、都堂と戸部が予算として決め、陛下が裁可なさることです。中央銀行の五人の委員が決めてよいことではありません」
◇
「分かった」
葉正言は、低く言った。
「だが、林詳定。本当に危ういのは、そこではあるまい」
修平は、葉正言を見た。
「中央銀行が、一度、二度、国の証文を引き受けたところで、国は潰れぬ。値が崩れるほどには刷らぬだろう。本当に危ういのは——」
「引き受けることが、当たり前になることです」
修平は、葉正言の言葉を引き取った。
「一度目は、堤が切れたから。二度目は、凶作が来たから。三度目は、北で戦があったから。一つひとつは、みな、正しい理由です。けれど、それが重なれば、戸部は、足りない銭は中央銀行に作らせればよい、と考えるようになる。都堂も、税を上げる苦しい議論をせずに済む。国の証文を市で売れば、利が高いと文句を言われるが、中央銀行に引き受けさせれば、利は好きに決められる」
侍郎が、目を伏せた。
「そうなると、中央銀行の帳簿は、物の値や商いではなく、戸部の予算で決まるようになります。戸部が足りなければ、中央銀行が作る。戸部が要るだけ、作る」
修平は、紙に書いた。
「そして、いつか、物の値が上がりすぎて、中央銀行が利を上げねばならない時が来ます。けれど、利を上げれば、国の証文の利も上がる。戸部の利払いが重くなる。国の証文の値が下がる。戸部が困る。——都堂は、中央銀行に、利を上げるな、と言うでしょう。中央銀行は、止めるべき時に、止められなくなる」
修平は、紙から顔を上げた。
「私の国では、それを、財政が金融を支配する、と呼んでいました」
葉正言は、長いこと黙っていた。
「会子の年と、同じだ」
やがて、そう言った。
「刷れと言われて、刷るしかなかった。止めるべき時に、止められなかった」
「はい」
修平は、頷いた。
「そして一番危ういのは、国の証文を買うことそのものではありません。国の足りない分を埋めることが、中央銀行の仕事になってしまうことです」
修平は、少し間を置いてから、付け加えた。
「中央銀行の舵が、戸部の財政を助けることはあります。深い不況のときに、中央銀行が利を下げ、国の証文を買って長い利を下げれば、戸部が証文を出しやすくなる。それは、中央銀行が、自分の務めとして、物の値と商いのために決めたことです。——ですが、戸部の財政が中央銀行の舵を握り始めれば、止めるべき時に止められなくなります」
◇
「では、非常の時は、どうする」
侍郎が、顔を上げて問うた。
「北で、国の存亡に関わる戦が起きたら。税も、市で売る国の証文も、追いつかなかったら。それでも、中央銀行に引き受けさせてはならぬのか」
「この春、廷議で決めたことを、ここで、もう少し細かくいたします」
修平は、新しい紙を出した。
「平時に、戸部の支出を、中央銀行が引き受けて賄うことは、禁じます。どんな理由があっても」
「非常の時に限り、やむを得ず引き受けるなら——」
修平は、一行ずつ書いた。
「中央銀行の委員の全員が、やむを得ないと認めること。都堂が正式に議して、その責任を引き受けること。陛下が裁可なさること。それに加えて——」
修平は、筆を止め、侍郎を見た。
「引き受ける額の上限。何に使うか。いつまで続けるか。どうなったらやめるか。この四つを、はじめに、法の文言として書いておくこと」
「やめる時を、はじめに書く」
「はい。始める時には、誰もが、これは一時のことだと言います。けれど、始めてから、やめる時を決めようとすると、必ず、もう少し、もう少し、となる。ですから、はじめに書いておく。この額に達したら、この日が来たら、この戦が終わったら、やめる、と」
侍郎は、紙の上の四つの項目を、指でなぞった。
「……戸部としては、窮屈な仕組みでございますな」
「窮屈に作っております」
修平は、言った。
「戸部を苦しめるためではありません。戸部が、いつか、刷れと言わずに済むためです。蔣守拙の父上が、簪を質に入れずに済むように」
侍郎は、はっとしたように顔を上げた。
その話は、戸部の中では、知られていたのだろう。
◇
話が終わりかけたとき、葉正言が、椅子から立ち上がった。
「林詳定。一つ、確かめておきたい」
「はい」
「そなたの言う、中央銀行が戸部から離れておる、というのは、中央銀行が戸部の敵になる、ということではないな」
「敵ではありません」
修平は、首を振った。
「戸部は、国が何にいくら使うかを、財政として決める。中央銀行は、国中の銭と利の具合を、金融として決める。その境を守る。——それが、中央銀行が戸部から離れている、ということの意味です。敵対するためではなく、互いの持ち場を、互いに侵さないために」
「非常の時には、手を組むこともある」
「あります。深い不況なら、戸部が支出を増やし、中央銀行が利を下げる。同じ方を向いて、手を組む。けれど、手を組むことと、一方が他方に従うことは、違います」
葉正言は、しばらく修平を見ていた。
それから、侍郎と郎中たちの方を向いた。
「聞いたな。戸部は、中央銀行に、刷れとは言わぬ。言わずに済むように、戸部は、税と、国の証文と、予算で、国の財を組む。それが、我らの持ち場だ」
侍郎が、深く頭を下げた。
「……昨夜の名案は、胸にしまっておきます」
「しまわずともよい」
葉正言は、言った。
「その名案を思いつく者は、この先、何百人と現れる。戸部の中にも、都堂の中にも。そのたびに、今日の話を思い出させねばならぬ。——そなたが、それをやれ」
侍郎は、目を見開いた。
それから、もう一度、深く頭を下げた。




