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第二巻 新法 第十四回 量的緩和

 問いを持ってきたのは、戸部の員外郎だった。


 修平が戸部の詰所で最初に取り付けの話をしたとき、「ならば倉庫や船を売らせればよい」と言った、あの男である。名を、孟季常といった。三十代の後半で、戸部の中では、帳簿の読みの確かさで知られていた。


「林詳定。先日の、中央銀行が国の証文を買う話を、戸部の中で説いて回りましたところ、どうしても腑に落ちぬと言う者が多うございまして」


 孟季常は、詰所の椅子に腰を下ろすなり言った。


「私も、実のところ、腑に落ちておりませぬ」


「どこが、でしょう」


「中央銀行が、銀行から国の証文を百貫買う。代わりに、銀行の準備に百貫を書き込む。——その百貫は、どこから出てくるのです」


 孟季常は、指で卓を叩いた。


「戸部なら、百貫の物を買うには、まず税で百貫を集めておかねばなりませぬ。国庫に百貫がなければ、百貫の物は買えませぬ。中央銀行は、どこで百貫を集めたのです。集めずに書き込むのなら、それは、帳簿の上で銭を撒くのと、何が違うのです」


 修平は、少し間を置いた。


 良い問いだった。そして、根の深い問いだった。


「韋算学を、呼んでもらえますか」


 修平は、戸口の吏員に言った。


「それから、鄭同知院にも。帳簿を、三つ並べて見ていただきたいので」


  ◇


 半刻後、詰所の卓の上には、三枚の紙が並べられていた。


 一枚目は、中央銀行の帳簿。二枚目は、ある銀行の帳簿。三枚目は、その銀行と取引のある商人の帳簿。


 どれも、真ん中に縦の線が引かれ、左に持ち物、右に負い目。右の下に、元手。


「孟員外郎の問いに、まず、そのまま答えます」


 修平は、一枚目の紙を指した。


「中央銀行は、国の証文を買う前に、百貫を集めておく必要はありません」


 孟季常の眉が、跳ね上がった。


「では、やはり——」


「待ってください。まだ、半分です」


 修平は、一枚目の紙の左の欄に、「国の証文 百貫」と書いた。


 右の欄に、「銀行の準備の預り 百貫」と書いた。


「中央銀行が百貫の証文を買うと、中央銀行の帳簿の左に、国の証文が百貫入ります。同時に、右に、銀行の準備の預りが百貫立ちます。——中央銀行は、自分の負い目を、新しく作ったのです。準備の預りというのは、中央銀行が銀行に対して負っている負い目です。銀行が引き出したいと言えば、紙幣で渡さねばならないもの」


「負い目を作って、それで払った」


「はい。戸部は、自分の負い目で物を買うことはできません。戸部の書いた証文は、商人に受け取ってもらわねば、物の代わりになりません。けれど、中央銀行の準備の預りは、銀行同士の支払いにそのまま使えます。ですから、中央銀行は、自分の負い目を作ることで、その場で払える」


 孟季常は、紙をじっと見ていた。


「……では、中央銀行は、無から百貫を作ったのではありませぬか」


「そこが、半分目です」


 修平は、一枚目の紙の左の欄の「国の証文 百貫」を、指で叩いた。


「中央銀行は、百貫の負い目を作りました。けれど、同時に、百貫の国の証文を手に入れています。持ち物が百貫増え、負い目が百貫増えた。差し引けば、中央銀行の元手は、一文も増えていません」


 修平は、孟季常を見た。


「中央銀行は、買う前に百貫を集めておく必要はありません。ですが、それは百貫の富を無から作れるという意味ではありません」


  ◇


 鄭仲謙が、腕を組んだ。


「銀行の方は、どうなる」


「二枚目です」


 修平は、銀行の帳簿を指した。


「銀行は、持ち物の側で、国の証文が百貫減り、中央銀行に置いた準備が百貫増えます。負い目の側は、何も変わりません。元手も、変わりません」


 修平は、左の欄の二つの行を、指で交互に示した。


「銀行の持ち物の合計は、変わっていない。ただ、持ち物の形が変わりました。国の証文という、何年も先に満期が来て、その間に値が上がったり下がったりするかもしれない持ち物が、中央銀行に置いた準備という、今日そのまま支払いに使える持ち物に、入れ替わったのです」


 韋明遠が、算木を置いて、紙を覗き込んだ。


「長い持ち物を、短い持ち物に、換えた」


「はい」


 孟季常が、首を傾げた。


「それは、倉庫のような、長く持つ物を、銭に換えたということですかな。固い持ち物を、流れる持ち物に」


「感じとしては近いです」


 修平は、頷いてから、言葉を選んだ。


「ただ、国の証文は、倉庫とは違います。倉庫は、物です。国の証文は、国が先に利を払い、元を返すという約束です。どちらも持ち物ですが、倉庫は、帳簿の上でも、長く使うための物として別に扱います。国の証文は、売ろうと思えば市で売れる。ただ、今日そのまま支払いには使えない。——ですから、倉庫を銭に換えた、と言うより、先の約束という持ち物を、今日使える約束という持ち物に換えた、と言う方が正しいと思います」


「では、銭は、持ち物ではないのですか」


 孟季常が、重ねて問うた。


「銭も、持ち物です」


 修平は、言った。


「紙幣も、預りも、中央銀行に置いた準備も、国の証文も、倉庫の貸付も、みんな持ち物です。違うのは、今日そのまま支払いに使えるか。いつ満期が来るか。値が上がり下がりするか。相手が潰れて返ってこない心配があるか。利が動いたときに値が変わるか」


 修平は、紙の余白に書いた。


「銭も持ち物です。国の証文も持ち物です。違うのは、今日そのまま支払いに使えるか、値や満期の危うさを誰が負うかです」


 鄭仲謙が、ふっと息を吐いた。


「永豊の話と、同じところに戻ってきたな」


「はい。持ち物があることと、今日払えることは、同じではない。中央銀行が国の証文を買うというのは、銀行から、今日払えない持ち物を引き取り、今日払える持ち物を渡すことです」


  ◇


「三枚目は、何です」


 孟季常が、商人の帳簿を指した。


「中央銀行が、銀行ではなく、商人から国の証文を買う場合です」


 修平は、三枚目の紙に書き込んだ。


「商人は、国の証文を百貫持っています。中央銀行が、それを買う。中央銀行は、商人に直接、準備の預りを渡すことはできません。商人は、中央銀行に口を持っていないのですから。そこで、商人が口を持っている銀行を通じて払います。商人の銀行の預りが、百貫増える。その銀行の、中央銀行に置いた準備も、百貫増える」


 修平は、三枚の紙を並べた。


「商人の帳簿では、国の証文が百貫減り、銀行の預りが百貫増えました。商人の元手は、増えていません。商人は、百貫の国の証文を、百貫の預りに換えただけです。ただで百貫をもらったわけではない」


 孟季常は、三枚の紙を、一枚ずつ、ゆっくりと見比べた。


 しばらくして、低い声で言った。


「……どの帳簿でも、元手は、増えておりませぬな」


「はい」


「中央銀行の元手も、銀行の元手も、商人の元手も。持ち物の形が変わっただけで、誰も、ただで富を得てはおらぬ」


「そうです」


 修平は、一枚目の、中央銀行の帳簿を指した。


「持ち物の側には国の証文が入り、負い目の側には準備の預りが生まれます。帳簿の片側だけを見るから、銭を撒いたように見えるのです」


  ◇


「では、何を買うかは、どうでもよいのか」


 鄭仲謙が、問うた。


「国の証文でも、商人の手形でも、倉庫の貸付の証文でも。どれを買っても、持ち物の形が変わるだけなら」


「そこが、大きく違います」


 修平は、首を振った。


「国の証文を買うとき、中央銀行が引き取るのは、主に、満期が長いことと、利が動いたときに値が変わることの危うさです。国の証文は、国が潰れない限り、返ってきます」


「商人の手形や、倉庫の貸付の証文を買うときは」


「それに加えて、その商人が潰れるかもしれない、その倉庫の商いが傾くかもしれない、という危うさも、中央銀行が引き取ることになります。買った手形が返ってこなければ、中央銀行が損をかぶります」


 修平は、少し間を置いた。


「それだけではありません。中央銀行が、どの商人の手形を買うか、どの商いの証文を買うかを選べば、その商人や商いは、有利になります。中央銀行に買ってもらえる手形なら、銀行も喜んで割り引くでしょう。買ってもらえない手形は、割引の利が高くなる。——中央銀行が、国中の商いの中で、誰に銭を回すかを、選ぶことになってしまうのです」


 鄭仲謙の顔が、引き締まった。


「それは、委員会の手に余るな」


「余ります。ですから、中央銀行が買えるものを、あらかじめ決めておくべきです。国の証文。それに、決まった基準を満たした手形。基準は、委員会が勝手に変えられないよう、定めとして書いておく。損が出たときに、誰がどれだけかぶるかも、前もって決めておく」


  ◇


「もう一つ、聞きたい」


 孟季常が、言った。


「中央銀行が、国の証文をたくさん買って、銀行の準備が百貫増えた。銀行は、その百貫を元に、商人に百貫、いや、それ以上を貸すのですな」


「貸すかもしれません。貸さないかもしれません」


 修平の答えに、孟季常は、目を瞬かせた。


「準備が増えたからといって、銀行が貸すとは限りません」


 修平は、言った。


「銀行が貸すには、借りたいという商人がいなければなりません。しかも、返してくれそうな商人が。商いの見込みが暗く、倉庫を建てても儲かりそうにない時には、商人は借りに来ません。借りに来ても、銀行が、この商人は返せないかもしれないと思えば、貸しません。準備が百貫増えても、それは中央銀行に眠ったまま、ということもあります」


「では、中央銀行が国の証文を買っても、何も効かぬことがあると」


「効き目の道は、別にあります」


 修平は、紙に書いた。


「中央銀行が、国の証文をたくさん買えば、国の証文を欲しがる者が増えるので、国の証文の値が上がり、その利が下がります。とくに、満期の長い証文の利が。長い利が下がれば、倉庫や堤のように、長く使う物を作るための借り入れが、楽になります」


 修平は、もう一行書いた。


「国の証文を中央銀行に売った者は、手元に預りが増えます。その者は、預りのまま寝かせておくより、何か別の持ち物に換えたくなるかもしれない。別の商人の手形を買う。倉庫の商いに出資する。そうやって、銭が別の持ち物へ流れていきます」


 さらに、一行。


「そして、中央銀行が、これだけ国の証文を買っている、これからもしばらく買い続けるつもりだ、と皆が知れば、しばらくは利が低いままだろう、と皆が見込みます。見込みが変われば、今日の商いの判断が変わります」


 修平は、三行を指した。


「長い利。持ち物の入れ替え。見込み。——銀行の準備が増えた分だけ、機械的に貸付が増える、という道ではなく、この三つの道を通って、少しずつ、商いに効いていく」


  ◇


「林詳定」


 鄭仲謙が、紙を見下ろしながら言った。


「今日の話と、先日、本院で話した、国の証文の売り買いとは、何が違う。どちらも、中央銀行が国の証文を買う話だ」


「同じものです」


 修平は、答えた。


「違うのは、量と、長さと、何を買うかです。先日の話は、銀行同士の短い利を整えるために、日々、少しずつ国の証文を売り買いする話でした。今日の話は、それを、ずっと大きな量で、長く続け、長い満期の証文や、ときには手形まで買う話です」


 修平は、少し考えてから、言葉を継いだ。


「利を下げに下げて、もうこれ以上は下げられない、というところまで来てしまったとき。それでも、商いを支えねばならないとき。そういう時に、短い利ではなく、長い利や、持ち物の入れ替えや、見込みに働きかけるために、買う量を増やし、長い証文を買う。私の国では、それを、量を緩める、と呼んでいました。特別な技ではありません。いつもの舵を、いつもより深く切るだけです」


 孟季常が、紙の三枚目を、もう一度見た。


「最後に、もう一つだけ」


「どうぞ」


「今日の話では、中央銀行が何を買っても、誰の元手も増えぬ、と伺いました。持ち物の形が変わるだけだと」


「はい」


「では、中央銀行は、民に、ただで銭を配ることはできぬのですか。凶作の年に、国が救荒の粥を配るように」


 修平は、少しの間、黙った。


 そして、紙の上の三枚の帳簿を、順に指した。


「今日お話しした、国の証文を買うやり方では、できません。国の証文を差し出した者に、預りを渡すのです。何も差し出さない者に、預りを渡すわけではない」


「では、何も差し出さぬ者に配るには」


「それは、今日の話とは、別の話です」


 修平は、言った。


「量を緩めるというのは、まず持ち物の形を変える政です。稼ぎをただで配る政とは、別のものです」


 孟季常は、しばらく修平の顔を見ていた。


「別の話、とは」


「国が、何かを買う。国が、誰かに配る。——その時、その銭がどこから来るのか、です」


 修平は、紙を揃えた。


「それを、次に、葉尚書もお呼びして、お話ししたいと思います。戸部にとって、いちばん危うい話になりますから」


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